夕礼拝

具体的な神

「具体的な神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章8-10節
・ 新約聖書:コロサイの信徒への手紙第1章9-20節 
・ 讃美歌:136、457

具体的とは?
 本日の説教の題は「具体的な神」です。具体的な神様、というお話しをしようというのですが、「具体的」とはどういうことでしょうか。具体的の反対は抽象的です。具体的と抽象的とはどう違うのでしょうか。広辞苑で「具体」という言葉を引いてみますと「個体が特殊な形態・性質を具有すること」とあり、「具体的」については「一般的という意味での抽象的に対し、実体的・個別的なさま。直接に経験できるさま」という難しい説明がなされていました。要するに、個別的なある形や性質を持っていて、それゆえに直接に体験できるのが具体的ということでしょう。具体的の具は「そなえる」という字です。体、形をそなえている、それが具体的であるということです。それに対して抽象的という言葉の「抽」は「抽出」などという時の「抽」で、抜き出すという意味です。抽象的を英語ではアブストラクトと言いますが、これも「抜き出す」という意味です。具体的なものからある性質などを抜き出して認識することが抽象化です。抽象化することによって、個別的ないろいろな違いがあるものの間の共通性を認識することができるのです。英語を出したのでついでに「具体的」も英語で言ってみりと、コンクリートです。建築に使うコンクリートと同じ言葉です。この言葉はもともとは「形のある」という意味で、建築のコンクリートは、型枠を作って流し込めば思い通りの形に固まる、ということからコンクリートと呼ばれるようになったのでしょう。具体的であるとは、コンクリートである、ある特定の形がある、ということなのです。

神は具体的であることを拒んでいるのか?
 「具体的な神」ということは、ある特定の形がある神、ということになります。しかし本日の聖書の箇所は、旧約聖書申命記第5章8節以下の、十戒の第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。この戒めは、神様の像を造ってそれを拝むこと、いわゆる偶像礼拝を禁じています。つまり、形ある何かを神様にしてはならないし、神様を形あるものとして造ってはならない、ということです。この戒めと、「具体的な神」、ある特定の形を持っている神、ということは矛盾する、と誰もが感じるのではないでしょうか。偶像を造るというのは、まさに神様を形ある方として具体的に表すことです。具体的な、ある特定の形を持っている神が即ち偶像です。聖書はそれを厳しく禁じています。だとすれば聖書の神は、具体的であることを拒んでおられ、ある特定の形を持つことを厳しく拒絶しておられるように思われます。そうすると本日の説教の題は、「具体的な神」があってはならない、という否定的な意味なのだろうか、ということになるわけですが、実はそうではありません。この説教において私は、神様は具体的な方なのだ、ということをお話ししようと思っています。そこが本日の説教のポイントなのです。

具体的だと分かりやすい
 さて、偶像は神を具体的な形あるものとして示すものだと申しました。そういう偶像が生まれてくるのは、形のある像があれば、神様のことが具体的に示されて分かりやすい、とみんなが思うからです。具体的な方が分かりやすい、それが私たちの常識です。先程は、広辞苑のかなり難しい説明を紹介しましたが、もう一つの国語辞典の説明をも紹介したいと思います。それは三省堂の「新明解国語辞典」です。この辞典は、現代最も普通に使われている日本語において、その言葉がどういう意味を持っているかを示す、という方針で編纂されている、特色のある辞典ですが、その第四版において、「具体」という言葉はこう説明されています。「その人の頭の中で考えられている事の内容が、ほかの人にも同じ形で理解出来るようになっていること」。これは広辞苑の説明と比べると全然格調が高くないですが、とても分かりやすい、それこそ具体的な説明です。ついでに、この辞典で「抽象的」がどう説明されているかというと、「物事の実際を離れ、言っている事の内容がはっきり分からない様子」となっています。興味深いことは、これらの説明においては、具体的、抽象的は、形があるかどうかということではなくて、相手に伝わるかどうか、ということとして捉えられていることです。ちゃんと伝わり、相手も同じことを理解できるなら、それは具体的である。伝わらないで、こちらだけが分かっている、あるいは全然違うものとして伝わってしまうとすれば、それは抽象的だということになるのです。つまり具体的、抽象的ということが、「分かる、分からない」ということに置き換えられて説明されています。これは言葉の本来の意味からは離れてしまっていますが、現代の日本語においてはこのような意味で使われているということであり、だから私たちにも分かりやすいのです。そしてこの説明は、目に見える像があれば神様のことがより具体的になって分かりやすい、という私たちの感覚とも一致しています。「その人の頭の中で考えられている事」を「神様」に置き換えて、「神様が、ほかの人にも同じ形で理解出来るようになっていること」、それが具体的な神であり、偶像はまさにそういう役割を果たしているわけです。神様とはどういう方なのか、何を信じているのか、それはなかなかはっきりと伝わりません。私の信じている神と、あなたの信じている神は同じなのか、不安になります。そんな時に「これが神です」と示すことができる像があれば安心できます。同じ像の前に手を合わせることで、同じ信仰に生きていることを確認し、仲間意識を高めることもできます。そのようなことによって、信仰はより分かりやすいものとなる、と誰もが考えるのです。偶像はそのような思いから生まれるのです。

改革派の伝統
 キリスト教会の歴史においても、そのような考えによって神様の像や絵、キリストの像や絵が用いられてきました。カトリック教会やハリストス正教会、いわゆるギリシャ正教では今でもそういうものを用いています。しかし私たちプロテスタント教会、中でもこの教会が受け継いでいる改革派教会は、十戒の第二の戒めを大変重んじてきました。そのために、神様を像や絵に表すことを厳格に退けてきました。求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」はこの改革派の伝統の中で生まれたものですが、第二の戒めについてこのように語られています。問98に、「しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。」という問いがあります。当時はまだ今日のように聖書を皆が買って持てるような時代ではありません。人々は、教会で朗読される聖書を聞くしかなかったのです。そういう状況の下で、画像が、見える聖書として信仰の教育の役目を果たすのではないか、つまり目に見えない神様を分かりやすく示し、信仰の助けとなるために絵や像を用いてもよいのではないか、という問いです。しかしこれに対する答えは、「いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。」となっています。信仰の教育のためであっても、画像を用いることは禁じられている、と言うのです。神様のことを分かりやすくするため、信仰が相手に通じるものとなるために、という理由によってですら、神様を絵や像に表すことを認めない、それほどに第二の戒めを真剣に受け止め、これに従おうとしてきたのが、私たちが受け継いでいる改革派教会の伝統です。私たちは、この第二の戒めを特に大切にする伝統を受け継いでいるのです。

神が本当に具体的となるために
 しかし私たちの先達たちは何故それほど厳格に、神を像に表すことを避けようとしたのでしょうか。それは神様が具体的であってはならない、ということでしょうか。だとすると、神様のことは分かりにくくてよい、むしろ分かりにくい方がよい、ということなのでしょうか。そうではないのです。結論から先に申しますが、むしろ神様が私たちにとって本当に具体的な方であられるためにこそ、また私たちが神様のことを本当に分かるためにこそ、目に見える像を造ることを避ける、それが私たちの受け継いでいる伝統なのです。ここに、本日の説教題のポイントがあります。本当に具体的な神の下で生きるために、私たちは偶像を退け、神の像を造ることを避けるのです。第二の戒めはそのために与えられています。この戒めは、神様が具体的であってはならないと言っているのではなくて、神様が人間にとって本当に具体的になるためにむしろ必要なことを教えているのです。

偶像は人を救わない
 目に見える像があった方が神様は具体的で分かりやすいという感覚が私たちにはある、と申しましたが、そういう像によって本当に神様のことが分かるのでしょうか。目に見える偶像の神が、私たちを本当に具体的に支え、生かし、守ってくれるのでしょうか。旧約聖書が生まれた古代の中近東世界において、イスラエルの民は、偶像を持たないただ一つの、まことに特異な国でした。周囲の諸民族、国家は全て、様々な偶像の神々を守護神として祭り、礼拝していたのです。しかしそれらの諸民族、国々、諸宗教の中で、今日まで存続し、生き続けているのは、偶像を持たなかったイスラエルの民のみです。偶像を拝んでいた国々、諸民族は一つのこらず跡形もなく失われ、その神々も今では考古学的遺物として博物館に展示されているのみです。目に見える具体的な偶像の神々が人々を具体的に守り支えることはなかったことを、歴史が証明しているのです。イザヤ書第46章が皮肉を込めて語っているように、偶像は人を担い支えるものではなくて、逆に人に担われて持ち運ばれなければならないものなのです。そしていざという時、戦いに負けて敗走していくような危機の時にはそれは人の重荷となり、結局道端に投げ捨てられてしまうのです。そのようなものが「具体的な神」であるとは言えません。目に見える像や絵があれば神が具体的になるなどということはないのです。

偶像の本質
 しかしこのことは、偶像を拝むことは愚かだ、偶像など人の重荷となるだけだ、と皮肉を言っていればすむことではありません。そういうことは誰でも感じているのです。それにもかかわらずなぜ偶像が生まれるのか。それは私たちが、自分の思いに添う神を求めているからです。偶像が分かりやすいというのは、実は、姿形が分かってよいということではなくて、偶像は、ある所に安置すれば、いつでも自分の好きな時に、必要だと思う時にそこへ行ってお参りし、願いごとをすることができる、そのように、神様を自分の生活の中で便利に利用することができる、ということなのです。目に見える偶像が分かりやすいというのは実はそういうことです。つまり自分の思い通りに利用することができる人生の手段としての神は、とても分かりやすいのです。その分かりやすい神において起っていることは、自分の必要な時にだけ登場してもらい、そうでない時には引っ込んでいてもらう、ということです。偶像の本質は、このように人間の都合によって利用できることであり、決して人間に口出ししない、邪魔をしないということです。ということはこれは、具体的なある像や絵を拝んでいるかどうかというだけのことではありません。問題は私たちが神様に対してどのような姿勢でいるかです。たとえ目に見える像や絵を拝んでいなくても、神様を自分の都合のよいように利用しようとしており、自分が用事のある時だけ、願い事がある時だけ思い出し、用が済めば忘れてしまうような関わり方をしているならば、そこで私たちが礼拝している神は、たとえそれが聖書の神であったとしても、私たちはその神を偶像にしてしまっているのです。そしてそのように神を偶像として、自分の思いに添うものとして利用しようとすることによって私たちは、本当に具体的な神を見失うのです。私たちを本当に生かし、守り、支えて下さる方を失うのです。本当に必要な時、危機の時に、具体的な守りや支えを与えて下さるのは、人間に利用される偶像ではあり得ません。人間が利用できる偶像は、肝心な時に人を裏切ります。なぜなら、偶像は人間が造り出したもの、つまり人間の力によって生まれたものだからです。人間の力によって生まれたものは、人間の力が尽きる時には共に滅びるのです。人間の力が限界となり、もうこれ以上戦うことができない、持ちこたえることができないという最後の土壇場においては、目に見える偶像の神は少しも具体的ではありません。少しも分かりやすくはありません。むしろ全く抽象的な、目に見える現実の中で何の役にも立たないものでしかないのです。そしてそこにおいて私たちは、自分が用のある時にだけ神様を思い出し、自分の都合のよい祈り願いをしてきた、そのような営みの全てが、虚しい独り言に過ぎなかったこと、自分にとって神は全く具体的ではない、むしろ抽象的な存在でしかないこと、つまり自分はそもそも神を全く知らないのだということを思い知らされるのです。

御言葉の生きた説教によって
 具体的な神とは、人間の力が尽き果て、もはや持ちこたえることができないという限界において、具体的に支えて下さり、守って下さる神です。神様のことが本当に分かるというのは、そういう神様と出会い、交わりを持つことなのです。神を自分の思いに添うものとして利用しようとしている間は、そのような交わりを持つことはできません。つまり本当に神様のことが分かるようにはなりません。神様のことが本当に具体的に分かり、その支えや守りを受けるためには、私たちは、自分の思いや都合に添う神を求めることをやめて、神様ご自身が私たちに語りかけておられるみ言葉を聞かなければならないのです。先程の「ハイデルベルク信仰問答」問98の答えに「この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです」とありました。偶像は物を言いません。語りかけて来ません。私たちがいろいろ勝手な願いを一方的に述べるだけです。私たちが、たとえ聖書の神様を礼拝していたとしても、その神様に自分の勝手な願いを一方的に述べているだけで、み言葉を本当に聞こうとしていないならば、それは「物言わぬ偶像」を拝んでいるのと同じです。本当に具体的な神は、私たちに語りかけて来られるのです。御言葉の生きた説教によって私たちを教えようとなさるのです。神様は聖書と、その説き明かしである主の日の礼拝における説教を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはそれを聞くことによってこそ、本当に具体的な神と出会うことができるのです。
 聖書の説き明かしである説教において語られるのは、良いことをしましょう、という道徳的教訓ではありません。こうすれば神様の祝福を得ることができ、お金が儲かり、病気が治りますよという、後利益獲得のノウハウでもありません。御言葉の生きた説教が語るのは、常に主イエス・キリストのことです。主イエスが、神の独り子、まことの神であられ、私たちのために人間となってこの世に来て下さった救い主であられること、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その主イエスを父なる神様が復活させて下さったこと、この主イエスを信じる信仰によって、神様は私たちの罪を赦し、復活して今も生きておられるキリストと共に歩む新しい命を与えて下さり、世の終わりには私たちにも復活と永遠の命を与えると約束して下さっていること、それらのことが御言葉の生きた説教によって語られています。このみ言葉を毎週聞きつつ主イエスと共に生きていく者は、人生における様々な苦しみや悲しみの中でも、主イエスによって具体的に守られ支えられて歩むことができるのです。

主イエスこそ、見えない神の姿
 本日共に読まれる新約聖書の箇所として、コロサイの信徒への手紙第1章9節以下を選びました。その15節にこうあります。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」。目に見えない方であられる神が、私たち人間のもとにそのお姿を表して下さったのが御子イエス・キリストです。神様は、主イエス・キリストにおいてこそ、具体的な、コンクリートな方となって下さったのです。私たちはこの御子を見つめることによってのみ、見えない神様のお姿を見ることができるのです。具体的な神と出会うことができるのです。そしてそこにおいてこそ、神が私たちに対して本当に恵み深い方であられることが分かるのです。17節には「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」とあります。神様が私たちの全てを、どんな時にも支えて下さっているという恵みは、決して抽象的な、言葉だけのことや単なる願望ではなくて、御子イエス・キリストにおいて実現している具体的な恵みなのです。この具体的な恵みにあずかるために私たちに必要なのは、自分の思いや願いや都合に奉仕する偶像を求めるのではなく、生きて語りかけておられる神様のみ言葉をしっかりと聞くことです。「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めは、私たちの思いを、神様のみ言葉に集中させようとしているのです。み言葉に集中することを妨げ、私たちの思いを他の方向に逸らしてしまうものを断固として避け、退けることを命じているのです。この戒めを大切にし、聖書を通して語られている神様のみ言葉に集中していくことによって、私たちは本当に具体的な神の下で生きることができるのです。

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