主日礼拝

捜しに来る神

「捜しに来る神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; エゼキエル書 第34章11-16節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第15章1-7節
・ 讃美歌 ; 17、200、459

 
幸せを捜し求めて
 私たちは皆、幸せを捜し求めながらこの人生を旅しているのではないでしょうか。幸せを手に入れるために、いろいろなことに挑戦してみたり、いろいろな所に行ってみたり、いろいろなことを学んだりすることが盛んです。食べていくため、生活していくためにあくせく働くという時代は過ぎ去りました。今多くの人々が求めているのは、いかにして幸せを得るか、より充実した、喜びの多い人生を送るか、ということです。それを提供してくれそうな様々なものがあります。カルチャーセンターであったり、趣味を極めるための教室であったり、スポーツジムであったり、ボランティアセンターであったり…。それらの様々なものによって幸せを追求するために、私たちは大変忙しい毎日を送っているのではないでしょうか。教会の礼拝に出席することもその一環になっているかもしれません。世間一般の幸せとは少し次元の違う、より高尚かどうかは知りませんが、ある種の幸せを得るために、教会の礼拝に集うということもあるでしょう。そういうことも含めて、私たちはいろいろなレベル、いろいろな場面で、幸せを捜し求めてあくせくしていると言うことができるでしょう。

青い鳥
 メーテルリンクという人が書いた「青い鳥」というお話があります。多くの方が読んだことがあるか、なくてもだいたいどんなお話かは知っていると思います。チルチルとミチルというきょうだいが、幸せをもたらす青い鳥を捜して、妖精に導かれてあちこちを旅するというお話です。いろいろなところを巡ります。その中には「幸せの園」さえもあるのですが、しかし青い鳥はどこにも見つかりません。ついにあきらめて家に帰る…、とそれはすべて夢の中のことで、翌朝目を覚ましてみると、自分たちが家で飼っていた鳥が青い鳥だったのです。幸せの青い鳥は実はすぐ身近な所にいる、私たちは幸せを求めてあちこち捜し回り、あくせく苦労するけれども、幸せは手元にあるのだ、それに気付かないだけなのだ、目をちゃんと開いて見れば、幸せがそこにあることが分かるのだ、ということをこのお話は語っている、とよく言われるし、私たちは「青い鳥」のお話をだいたいそのように理解しているのではないでしょうか。
 ところが、メーテルリンクの書いた「青い鳥」は戯曲なのですが、その結末は実はこうなっています。チルチルとミチルが青い鳥を捜しに出たのは、お隣にすむ病気の女の子のためでした。旅から帰ってみて、自宅で飼っていた鳥が青い鳥だったことに気付いた彼らは、その鳥を女の子にあげます。しかし、彼女に、その鳥に餌を与えるやり方を教えるために籠の扉を開けたところ、鳥は逃げてしまうのです。ですから彼らは結局青い鳥を失ってしまいます。チルチルが、観客に向かって、「誰か、あの鳥を見つけた人は僕たちに帰してください。僕たちにはあの鳥が必要なんです」と訴える台詞でこの戯曲は終わるのです。ですから、メーテルリンクが「青い鳥」によって語ろうとしているのは、幸せは身近な所にある、気付かないだけだ、という単純なことではないようです。身近な所に幸せがあったと気付き、やっとそれを手に入れたと思ったとたんに、それは私たちの手からするりと逃げ去ってしまう、だから私たちの人生は、いつも、幸せの青い鳥を捜し求めて歩く旅なのだ、その旅には終わりがないのだ、ということを語っているようなのです。メーテルリンクは人間の人生の現実を深く見つめていると思います。幸せは、確かに、遠くのどこかを捜すことによって得られると言うよりも、案外身近な所にあるものでしょう。普段のなにげない平凡な生活の中にこそ実は幸せがあるのに、私たちはなかなかその幸せに気付かない、それを幸せだと思えずに不平不満ばかりを感じてしまうのです。しかしその平凡な日常の有り難さに気付くなら、幸せを見いだすことができる。それは人生の一つの真理です。しかしそれだけでは、まことに平板な、浅薄な真理でしかありません。言い換えれば、そんなことで人は本当に幸せになることなどできないのです。何事もない平穏な日常の中でならそういうことを言っていられるでしょうが、ひとたび大きな苦しみが、いわゆる不条理が襲いかかってくるなら、そのような教えには何の力もないのです。むしろメーテルリンクがこの結末で描いているように、幸せは、手に入れたと思ったとたんに手の中からするりと抜け落ちてしまうことが多い。あるいは、そういう不安が私たちにはいつもつきまとっているのです。今は幸せだと感じていても、その幸せがいつ失われてしまうか分からない、それを失ったらどうしよう、という不安が、幸せであればある程募ってきます。だから、その幸せを守ろうと必死になる。あくせく苦労して幸せを得ても、その幸せを守るためにさらにあくせく苦労し続けなければならない、それが私たちの人生の深い真理なのではないでしょうか。

迷子
 幸せを捜し求めながら歩む私たちの人生は、苦労に満ちています。幸せを求めれば求めるほど、苦労が増し加わってくる、そんな矛盾の中を私たちは生きているのです。その苦労の中で私たちは道を見失い、迷ってしまいます。幸せを得るためにどこへ行ったらよいのか、どちらの方向に進んでいったらよいのかが分からなくなってしまい、迷子になってしまうのです。私は、中島みゆきの歌が好きなのですが、彼女の曲の中に「僕は青い鳥」というのがあります。この曲は、青い鳥とは実は自分自身なのに、それを捜して追いかけている人間の悲しい姿を歌っているのですが、その中にこういう歌詞があります。「幸せを追いかけて人は変わってゆく。幸せを追いかけて狩人に変わってゆく。青い鳥、青い鳥、今夜も迷子」。自分自身が実は幸せの青い鳥なのに、幸せを追いかける狩人に変わっていってしまう人間。そのようにして、人は迷子になってしまうのです。

迷える羊
 この礼拝で皆さんとご一緒に味わいたい聖書の言葉は、イエス・キリストが語られた一つのたとえ話です。群れから迷い出て迷子になってしまった、いわゆる迷える羊の話です。百匹の羊を飼っていた羊飼いのもとから、一匹が迷い出てしまい、見失われてしまったのです。羊というのは、群れをなして、しかも羊飼いに導いてもらわなければ生きることのできない動物です。自分では水や草を捜すことも、敵から身を守ることもできないのです。ですから、群れから迷い出た羊は、そのままではもう死ぬしかありません。一匹狼というのはあるけれども、一匹羊というのはあり得ないのです。この迷子になった羊の話を歌った讃美歌200番を先ほどご一緒に歌いました。これはもともとは子供の讃美歌集に入れられていた曲ですが、讃美歌21に入ったことで大人の礼拝においても歌うことができるようになったことを私は大変喜んでいます。この曲の第1節は、主イエスのたとえ話には語られていない、この羊が迷子になった様子を想像して歌っています。「小さいひつじがいえをはなれ、ある日とおくへあそびにいき、花さく野はらのおもしろさに、かえるみちさえわすれました」。一人で遠くへ遊びに出て、花咲く野原で遊んでいるうちに帰る道がわからなくなってしまった。それは、私たちが、幸せを求めてあちこちさまよい歩き、結局迷子になってしまう姿と同じだと言えるでしょう。あそこに幸せがありそうだ、こちらに喜びがあるのではないか、とあれこれ求めていく中で、どちらへ行ったらよいのか、どこに本当に幸せへの道があるのかがわからなくなり、途方にくれてしまう、幸せを捜して歩き回るのに疲れて座り込んでしまう、そういう私たちの姿がこの迷子の羊と重なるのです。

魂の故郷を求めて
 この曲の第2節には、「けれどもやがてよるになると、あたりはくらく、さびしくなり、うちがこいしくひつじはいま、声もかなしくないています」とあります。子供の頃、迷子になってこういう思いをしたことのある人は多いでしょう。うちに帰りたいのに帰る道が分からない、その寂しさ、不安、悲しみは強烈です。そしてその悲しみは、大人になるにつれてさらに深まっていきます。本当に自分を暖かく迎え、育み、癒し、支えてくれる「うち」、心の拠り所、精神的な故郷を失う悲しみは、大人こそが知っているのです。私たちが幸せを捜し求めるのは、その故郷を探し求めているのだと言ってもよいでしょう。本当に安心して憩える所、慰められ、疲れを癒され、新たな力を与えられて送り出してもらえる所、そういう魂の故郷にこそ本当の幸せがあります。その故郷を失ってさまよっている私たちは、幸せを求めて右往左往しているのです。
 魂の故郷を失って迷っている私たちは、時として教会に行ってみようかという思いを持ったりもします。教会へ行って、聖書の話でも聞いたら、そこに幸せが、魂の故郷が見つかるかもしれない、そういう思いを持ってこの特別伝道礼拝に来られた方もおられるかもしれません。あるいは、ここまで私の話を聞いてきて、教会こそ私たちの魂の故郷であり、捜し求めている幸せを得ることができる所です、という結論になるのだろうと当たりをつけた方もおられるかもしれません。けれどもそれはハズレです。教会は、私たちの魂の故郷ではありません。教会に行けば幸せの青い鳥が見つかるわけではありません。教会の牧師がそう言っているのですからこれは確かです。教会で教えられること、つまり聖書が語っていることは何かというと、迷子になった私たちは魂の故郷に帰ることはできない、ということです。言い換えれば、私たちはどこを捜しても幸せの青い鳥を手に入れることはできない、ということです。何故ならば、私たちには罪があるからです。罪というのは、いわゆる犯罪のことではありません。神様に背き、逆らう思いのことです。私たちが魂の故郷を失い、幸せを捜し求めつつ迷子になってしまっているのは、実は神様に背き逆らい、神様のもとを飛び出してしまったからなのです。あの羊が、ある日遠くへ遊びに行ったのは、いつもの牧草地がつまらないと思ったからです。羊飼いの下に管理され、いつもその指示に従って歩み、群れの中でばかり暮らしているのが窮屈に思えたのです。一人で、自由になって、思いっきり羽根を延ばし、行きたい所に行ってみたかったのです。自分を養い、守り、生きることができるように導いてくれている羊飼いのことを、自分の自由を奪い、がんじがらめに縛り付けている憎らしい存在であるかのように思ってしまったのです。私たちも、神様のことを、自分の自由を奪おうとする存在のように、神様を信じて生きること、つまり信仰を、窮屈で自由のない、自分らしく生きることができない生活であるかのように思ってはいないでしょうか。そんな束縛からは自由になって、自分の思い通りに歩みたい、神様に支配されるのは嫌だ、と思う。聖書は、そういう私たちの思いのことを罪と呼び、その罪によって人間は神様のもとを飛び出し、自由を追い求めてこの世をさまよい、迷子になっているのだと語っているのです。神様のもとこそが私たちの魂の故郷です。神様こそ、私たちを養い、守り、導いて下さる方なのです。先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第34章にはそのことが語られていました。その14、15節にこうありました。「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる」。けれども私たちは、この神様に背き逆らい、魂の故郷である神様の牧場を飛び出してきてしまったのです。だから私たちは、帰るべき故郷を失っているのです。帰る道が見つからないのではなくて、罪のために帰ることができないのです。だから私たちはいつまでもさまよい続けるのです。どこかへ行けば故郷が見つかり、幸せの青い鳥を手に入れることができるのではないのです。迷子になった羊が死を待つしかないように、私たちも、迷子のまま、人生が終わるまで、この世をさまよい続けるしかないのです。教会において、聖書を通して教えられているのはそのことなのです。

捜しに来る神
 しかし勿論聖書が教えているのはそのことだけではありません。この迷える羊の話が語っているのは、一匹の羊を見失った羊飼いが、残りの九十九匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る、ということです。迷子の羊は自分で戻ることができないのです。神様に背き、自由を求めて飛び出してしまった私たちは、戻るべき故郷を捨ててしまったのですから、自分でそこに帰ることができないのです。しかし羊飼いが、迷子の羊を捜しに来る。「なさけのふかいひつじかいは、このこひつじのあとをたずね、とおくのやまやまたにそこまで、まいごのひつじをさがしました」。羊飼いが、捜しに来てくれる、迷子の羊を、見つけ出すまで捜し回ってくれる、それが、聖書が教え、教会が信じている神様なのです。私たちは神様に背き逆らっている罪人です。自分の思い通りに生きるんだと言って神様のもとを飛び出し、幸せを自分で得ようと捜し回りつつ迷子になり、行き詰まり、帰るべき故郷を失っている者です。言ってみれば、親の顔につばを吐きかけて家を飛び出してきた子供のようなものです。そのような私たちを、神様が、捜しに来て下さるのです。そして私たちを見つけ出して、「うち」へと、魂の故郷へと連れ帰って下さるのです。そのために神様がして下さったことがあります。主イエス・キリストを遣わして下さったことです。イエス・キリストは神様の独り子です。まことの神であられる方です。そのまことの神が、私たちと同じ人間になってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って、身代わりになって十字架にかかり、死んで下さったのです。十字架は死刑の道具です。主イエスは死刑になったのです。自分が罪を犯したからではありません。私たちの罪を引き受け、背負って下さったのです。その主イエスの死によって、私たちは罪を赦されて、安心して憩える所、慰められ、疲れを癒され、新たな力を与えられる魂の故郷に立ち帰ることができるのです。自分で帰るのではありません。自分では帰ることができない私たちを、主イエスがご自身の命をささげて捜し出し、連れ帰って下さるのです。このたとえ話はそのことを告げています。迷子になった私たちは魂の故郷に帰ることができない、と聖書は教えていると先ほど申しました。私たちが自分であちこち捜し回って道を見出し、故郷を発見してそこへ帰るということはできないのです。しかし、神様が、その独り子イエス・キリストによって、私たちを捜し出して下さり、魂の故郷へと連れ帰って下さるのです。そのことを聖書は語っているのです。教会は魂の故郷ではありません。教会に来れば幸せになれる、というものではありません。しかし教会は、この礼拝は、独り子の命をも与えて、さまよっている私たちを捜し出し、見つけ出して魂の故郷へと連れ帰って下さる、その神様と出会うことができる場です。幸せの青い鳥を捜しに教会に来ても見つかりません。私たちの人生は、メーテルリンクが描いているように、幸せを捜し求めつつさまよい、それを得たと思ってもすぐに見失ってしまうことの連続です。しかしそのように幸せを捜し求めて死ぬまでこの世をさまよい続ける私たちが、ここで、教会において、礼拝において、自分のことを捜しに来て下さる神様と出会うのです。その神様に自分が見出されていることを知らされるのです。神様が捜し出し、見出して下さったがゆえに、私たちはもう迷子ではないのです。本当に自分を暖かく迎え、育み、癒し、支えてくれる魂の故郷に生きることができるのです。先ほどの旧約聖書の箇所、エゼキエル書34章も、そのことを語っていました。先ほど読んだ所の前の11~13節を読んでみます。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う」。また16節にはこうあります。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。神様はご自分の羊を捜し出し、集め、失われたものを尋ね求め、連れ戻し、傷ついたものを包み、弱っているものを強くして下さる、そういう方なのだということは、旧約聖書と新約聖書を貫いて語られている、聖書の教えの中心なのです。

非常識
 ここで、このたとえ話を読む時に必ず起ってくる疑問について考えておきたいと思います。それは、この羊飼いは、迷い出た一匹の羊を捜しに行くのはいいが、その間に他の九十九匹に何かあったらどうするのか、という疑問です。まず九十九匹を安全な囲いに戻してから一匹を捜しに行くべきではないか、と私たちは思うのです。それが、世の中の常識であり、社会的な責任を果たすということであり、理に適ったことです。例えば百人の生徒を預かっている先生は、一人が行方不明になった時に、九十九人をほったらかしてその一人を捜しに行ってはいけないのです。そういう意味では主イエスのこのたとえ話は全く非常識なことです。つまりこの話は、自分がこの羊飼いだったらどうするか、というふうに読んではいけないのです。この話は、あの迷い出た羊こそが自分なのだ、ということを見つめる時にのみ、本当の意味が分かるのです。私たちは、この話の中の羊飼いではありません。残りの九十九匹の羊でもありません。あの迷い出た一匹の羊なのです。その私たちを救うために、神様は、あらゆることを、なりふりかまわず、非常識なことをすらも、して下さるのです。神様の独り子が十字架の死刑になるなどというのは、全く考えられない非常識なことです。そこまでして、神様は、さまよっている私たちを捜し出し、救って下さるのです。神様の私たちへの愛はそのように、人間の常識をはるかに超えて大きいのです。

天の大きな喜び
 讃美歌200番の4節は、「とうとうやさしいひつじかいは、まいごのひつじをみつけました。だかれてかえるこのひつじは、よろこばしさにおどりました」となっています。神様が、迷える羊である私たちを捜しに来て下さり、見つけ出して、魂の故郷へと連れ帰って下さる、それは私たちにとってどれほど大きな喜びでしょうか。しかし、この讃美歌が歌っていることは、主イエスがお語りになった話とは違っています。抱かれて帰る羊が喜んだとはどこにも書かれていません。5~7節「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。喜んでいるのは羊飼いなのです。大きな喜びが天にある、それは天の父なる神様の喜びです。神様のもとから背き去り、幸せを求めて飛び出して、結局迷子になり、魂の故郷を失ってさまよっている私たちを、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに養い、育み、守って下さる、その救いのみ業を、神様ご自身が心から喜んでおられるのです。喜ばしさに踊っているのは、抱かれて帰る私たちではなくて、抱いて帰って下さる主イエスご自身なのです。教会の礼拝において私たちは、私たちを捜しに来て下さる神様と出会います。そして私たちを見つけ出して心から喜んで下さる神様の喜びを知らされるのです。この神様の喜び、天の喜びの中で生きることこそが、教会の信仰なのです。

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