「天に宝をつむ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第65章 11節-25節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 20節-26節
1 わたしたちはどんな人生を送りたいと願っているでしょうか。わたしたちが願う、幸せな人生とはいったいどんな人生でしょうか。この日、主イエスの周りに集まってきた弟子たちも、幸せな人生を求めて来ていたはずです。主の周りには、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、たくさんの弟子たちや民衆が集まってきていました。大勢の弟子たちは、自分たちは主イエスに従う者となった、これからは主の弟子として歩んでいくのだ、そういう決意を心の内に抱いていたことでしょう。権威ある教えを説き、病気を癒し、悪霊を追い出す、この力あるお方こそ、イスラエルをローマの支配から解放し、自分たちを幸せにしてくださるお方に違いない。このお方に懸けてみよう。そんな思いで満たされていたのではないでしょうか。主イエスはそのような思いで熱くなっている弟子たちに向かって、ここで静かに、彼らを見つめながら語りかけられたのです。
「貧しい人々は幸いである、 神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。 あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。 あなたがたは笑うようになる。」
元の言葉では、「幸いである」という言葉を始めに持ってきて、強調して語っています。
「ああ幸いだ、『貧しい人たち』、神の国はあなた達のものなのだから。
ああ幸いだ、今飢えている人たち、かの日に満腹させられるのはあなた達だから。
ああ幸いだ、今泣いている人たち、かの日に笑うのはあなた達だから。」
弟子たちの多くは、長年病気に悩まされたり、汚れた霊に苦しめられたりしてきた人々です。長年医者にかかってきたでしょうから、お金も使い果たしていたことでしょう。医者にかかることのできるお金さえ持ち合わせていない人々だったかもしれません。毎日の食事にも事欠く場合もあったでしょう。その家庭には、長い間、心の底から喜び楽しむ笑いが絶えて久しかったかもしれません。この人々はみんな思っていたのではないでしょうか。およそ不幸な人々と呼ばれる人々がいるとしたら、それはわたしたちのことに違いない、と。何も得をしない人生、損ばかりしている人生、悩みと苦しみの尽きない人生、その人生からの脱出を求めて、弟子たちは主の下に集ってきたのです。
彼らは貧しい人達でした。経済的に豊かではなかったのです。むしろその日その日をいかに生き延びるかが大問題であった人達でした。それゆえに彼らはその日食べるものにも事欠く生活をしていました。お腹を空かせていたのです。飢えていたのです。満たされる必要があったのです。この弟子たちの日々の生活の中には、重く、暗い雰囲気が漂っていました。先行きが見えない人生、というよりは、先が見え過ぎている人生、どこまでいっても今のみすぼらしい状態が続いていくとしか思えない、そういう人生です。今の嘆きと悲しみが、いつまでも続いていくとしか思えない人生です。この世界のありのままを、人の世の現実を認めるならば、力を失い、打ちひしがれてしまうしかない、そういう人生です。
その彼らが、今幸いなのだ、主イエスはそうおっしゃいました。「イエス様は何とわけの分からないことを言うのだろう。なんと不思議なことをおっしゃるのだろう。今のわたしの、いったいどこが幸せだというのだ!」弟子達はそう思ったに違いありません。
そればかりではありません。人々に憎まれるとき、追い出されるとき、ののしられるとき、汚名を着せられて、ひどい言葉を浴びせられるとき、そのときは自らの幸いを知って、喜び躍るべきときなのだ、と主はおっしゃるのです。弟子達は唖然としたのではないでしょうか。この先生はいったい何をおっしゃっているのだろう。なぜ苦しみと嘆きの中に置かれることが喜びになるのか、実に理解し難いことです。もしこの場に、わたしたちも弟子になるつもりで集まり、この話を聞いていたら、どんな思いに満たされるでしょうか。喜び勇んで主の弟子になろうと思って来たかもしれません。そうすれば苦しみや悩みから解き放たれて、幸せになれると思って来たかもしれません。それなのに、主に従って歩む者は、そのことのゆえに、貧しさを経験するかもしれないし、飢えに苦しむかもしれないし、涙を流すことになるかもしれないというのです。人々に憎まれ、交わりの中から追い出され、ののしられたり、ひどい物言いをされたりするだろうというのです。主に従う歩みとは、自分が夢に描いていた歩みとは全然違うではないか、そんな苦しい人生を、自分はわざわざ選び取ろうとしているのか、やめた方がいいのではないか、そんなふうに考えるのではないでしょうか。
2 眉をしかめて、腕組みをして考えこみ始める私たちの前で、主は不幸な人々についても語り出します。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けてしまっている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
ここでも元の言葉は災いの宣言から始まっています。
「ああ、禍だ、富んでいるあなた達、もう慰めを受けたのだから。
ああ、禍だ、今食べあきているあなた達、かの日に飢えるのだから。
ああ、禍だ、今笑っている人たち、かの日に泣き悲しむのはあなた達だから。」
私たちが普通求める幸福とは、お金があり、いつもおいしいものをたらふく食べることができ、毎日笑顔で、愉快に暮らすことができる、そういう生活であるはずです。さらに26節にあるように、すべての人々に受け入れられ、自分たちのことをよく言ってもらえる、ほめてもらえる、そんな生活ではないでしょうか。しかし主の目から見れば、そういう人生は不幸な人生だ、というのです。私たちにとって幸せに見える人生は主イエスの目から見た時、不幸な人生であり、私たちの目には不幸と見える人生が、主イエスから見れば幸いな人生になるのです。主イエスに従うためには、どうもこの正反対の価値観、実に不思議なものの考え方を受け入れなければならないようです。
3 主イエスがここで問うておられるのは、私たちが自分の人生のど真ん中に、神様をお迎えする場所を持っているかどうか、ということです。神様に向かって、私たちの魂が開け放たれているかどうか、心が神様に向かって高く挙げられているかどうかが見つめられているのです。私たちがもしお金が有り余るほどあれば、そこでもう慰めを受け、自分に足りないものがあること、いや、決定的に大切なものをまだ得ていないことに気づきにくくなります。満腹していると、もうそれ以上のものを欲しようとしなくなります。動きがにぶくなり、まぶたも閉じてきます。目を覚ましていることができなくなるのです。笑っているとき、自分が神の救いを必要としている、悲惨な状態にあることを忘れることができます。あまりいつも人にほめられていると、わたしたちはそのうち、自分もひとかどの人物なのではないか、重んじられて当然の人間なのではないかと、だんだん思えてくるのです。その時、私たちの人生の中に、魂の中に、神様をお迎えする場所がどんどん小さくなっていきます。かつて偽預言者たちはイスラエルの民が神に叛き、誤った道を歩んでいるにも関わらず、「平和、平和」と唱え、災いがこの国を襲うことはない、と言って人々を悔い改めから遠ざけたのです。耳に心地よいことだけを聞いて、自分が変わることを拒み、間違った形で満ち足りてしまう誘惑が、私たちの中にもあるのです。
それに対して、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は、自分が足りない者であること、欠けを持っている者であることを深く知っています。持っている大金やどれを食べればよいか悩むくらいの食べ物、気持ちを逸らせてくれるたくさんの娯楽、独りよがりへと導く人々のほめ言葉、そういったものからは自由です。
この世で自分を高く上げて人生を歩む者は低められ、深い悩みの淵を歩んでいた者は、神の憐れみによって高められる、そういう山と谷の逆転現象が、来るべき神の国では起こるのだ、主イエスはそのことをおしゃろうとしているのです。このことは、バビロン捕囚に苦しんだユダヤの民にも預言されていました。イザヤ書65章の11節以下です、「お前たち、主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ 禍福の神に食卓を調え 運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。わたしたちはお前たちを剣に渡す。お前たちは皆、倒され屠られる。呼んでも答えず、語りかけても聞かず わたしの目に悪とされることを行い わたしの喜ばないことを選んだからである。 それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしの僕らは糧を得るが お前たちは飢える。 見よ、わたしの僕らは飲むことができるが お前たちは渇く。 見よ、わたしの僕らは喜び祝うが お前たちは恥を受ける。 見よ、わたしの僕らは心の喜びに声をあげるが お前たちは心の痛みに叫びをあげ 魂を砕かれて泣き叫ぶ」(11-14節)。さらに17節から19節、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」。
4 キリスト者は毎日の生活の浮き沈みに完全にとらわれてしまうことがありません。この世にありながら、同時にこの世を越えるものを見つめつつ歩んでいるのです。主イエスに従って歩む時、そこでたとえ試みや悲しみを味わうことになっても、キリストの弟子たちは、最後までそれに支配されることはないと知っています。この世の富、この世での満腹、この世での楽しみを自分にとっての隠れた神にしてしまう、そんな私たちのために、主イエス・キリストは十字架の上に死なれました。そして復活され、高く挙げられ、神の右に座しておられ、御国を来らせ、救いを完成してくださるのです。キリスト者はこの希望に生きるゆえ、この世の悩みや苦しみにとらわれて、絶望しきってしまうということがありません。キリストの御名のゆえに、苦しみを味わう時、私たちは天に宝をつみ、輝く御国において「大きな報い」に与かれることを期待してよいのです。
キリスト者はそのように「上を向いて歩く」人生を知っています。この世にありながら、神の国を知らされ、神様のご支配の中を、この世にあるうちから、「今」既に歩み始めているのです。そこに、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8)、主イエスの死と命に与かる人生の強みがあるのです。私たちはこういう生き方があるのを知らされた時、これこそが本当の「幸いな人生」だったのだ、と心の目を開かされるのです。
祈り 父なる神様、わたしたちが目に見える豊かさ、満腹感、楽しみ、人々からのいい気持ちにさせる言葉のゆえに、あなたの前に立たされた時の自分の悲惨さから、目を背け、これを忘れてしまうことがありませんように。まことの人生の喜びと幸いを見つめることができますように。疲れの只中にあっても、病気の最中にあっても、絶望しかかる時にあっても、あなたの御名のしるしがつけられているこの人生が、決して無駄に終わることはないことに望みを置くことができますように。天に宝をつみ、「大きな報い」を望むことができる、主のものとされた人生を歩ませてください。主イエスを主とする人生ゆえに、苦しみや困難に出会うとき、どうかその時こそ、その只中にあなたがおられ、あなたのご支配が近づきつつあることを信じさせてください。どうか御国の希望に支えられて、悩みと苦しみに打ち勝つ信仰を、今私たちにお与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。