夕礼拝

神のまことの恵み

「神のまことの恵み」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第5章12-14節
・ 讃美歌 : 491、169

シルワノによって
 ペトロがこの手紙をどのような人たちに対して書き送ったかと言うことについては、この手紙の最初の第1章の1節にあります。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」へ書き送りました。何らかの事情で離散して、ある場所で仮住まいをしているこれらの地域の諸教会へ手紙を書きました。試練の中、信仰の戦いの中にいる諸教会に対して、試練の向こうにある救いの喜びを覚えつつ、励ましの手紙を書き送りました。そして最後に挨拶をしております。そこには、この手紙が「シルワノ」という人によって書かれたことがあります。ペトロはこう言います。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」ペトロは自分が忠実な兄弟と認めているシルワノがこの手紙を書き、勧めをし、これこそ「神のまことの恵み」であることを証ししたのです。ペトロは、シルワノによって書かれたことが実に、本当にこれこそ「神のまことの恵み」であるということを証したのです。ペトロは、この手紙がシルワノの手によって書いたと言っております。シルワノという人がこの手紙の代筆者であったということを意味しています。それではこのシルワノという人はどのような人物であったのでしょうか。

忠実な兄弟
 この手紙は、ペトロが個人的に書き送っているのではなく、ペトロを通して主なる神様ご自身が、教会に連なる人たちを励まし、救いの希望をお語りくださっている神様の御言葉そのものです。ペトロを通して主なる神様が生きて働かれ、苦しみの中にある者を励まし力づけて下さる、神様の愛をこの手紙は書き記しています。そして、この手紙が、シルワノという人の手によって書かれた、とあります。当時は代理の者が手紙を書き記すことはあったのであり、最後の一文はペトロの筆記者であるシルワノに対する感謝の意味の言葉が込められています。使徒言行録によれば、このシルワノという人は、シラスと呼ばれておりました。使徒言行録第15章に記されているエルサレム教会の指導者でした。エルサレム会議では、ユダヤ人以外の異邦人キリスト者が割礼を受けなければならないかが議論されておりました。結果として割礼を受けなくても構わないことが決議され、異邦人伝道に歩み始めました。この会議で決定されたことには非常に大きな意味がありました。この会議の決定事項を、シルワノはパウロやバルナバと共に、アンティオキアに報告する重要な任務を担いました。つまりシルワノはこの当時の教会にとってとても重要な働きをしていた人物であったのです。教会の人々から非常に信頼されていた指導者でもありました。そして、シルワノはペトロのためにこの手紙を一字一字書き記し、力強い言葉で勧めをしたのです。本来なら、このシルワノという人の業績をもっと評価しても良いかと思います。シルワノは神様の御言葉が語られるために見えないところで奉仕をしたのです。シルワノのエルサレム教会での働きも、その後の伝道旅行においてもパウロの右腕としての働きをしたのです。聖書においては、パウロやペトロの陰に隠れてしまうようなことであっても、それで充分だったのでしょう。シルワノにとって、手紙の最後において名前が少し出るだけであったとしても、ペトロの筆記者として充分だったのです。それにも関わらず、ペトロが信頼を置いた忠実な兄弟として、歴史に名前が記されているのです。

短い手紙
 ペトロはシルワノに手紙を書かせました。ペトロは手紙という形式を用いて、主イエス・キリストのことを書きました。聖書には多くの手紙があります。聖書はひたすら主イエス・キリストのことを伝えようとしています。ペトロは「あなたがたにこのように短く手紙を書き」としています。この手紙を「短い手紙」と言っています。少しばかり書いた手紙ということです。主イエス・キリストの福音は限りのないことであるから、福音を伝えるにはこのペトロの手紙は分量として短い手紙であるということでしょうか。主イエス・キリストのなさったことは、実に多く、福音には限りがありません。ヨハネによる福音書21章25節にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」主イエスのなさったこと、福音とは、内容が大変豊かなものなのです。そのようなところから見るとこの手紙は大変短いとペトロは言っております。この手紙は分量的には短く、少ないものかもしれません。けれども、語られている福音の内容は大変豊かなものであるのです。その内容とは何でしょうか。

勧告
 二つのことが書かれております。一つは「勧告」です。それはいわゆる「勧め」をこのペトロの手紙はしてきたと言うことです。「召し使いたちへの勧め」「妻たち」「夫たち」などへ勧めをしました。聖書での「勧め」とは、「こうしなさい」「ああしなさい」と勧めるのでしょうか。聖書での「勧め」とは「慰め」という意味があります。ただ、生活上のことについて教えるのではなく、主イエス・キリストの福音による慰めを伝えて、それによってキリストによる生活をするように勧めるのです。ここでの「勧告」とは、ペトロが主イエス・キリストの福音による慰めと勧めとして書いたことです。そして続けて「これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」とあります。勧めが単なる勧めではなく、これこそ「神のまことの恵みである」ことを特に証ししたのです。「神のまことの恵み」にはペトロの思いが込められております。神の「まことの恵み」とはどういうことでしょうか。神の「まことの恵み」とは私たちの手で獲得できる恵みではないでしょう。また、人から与えられるものでもありません。神様が与えて下さる、神の「まことの恵み」です。本当の恵みとは、受ける人の条件で決めるものではありません。本来は、受け取る資格がないにも与えられるからこそ恵みなのであります。人間の条件によらない、誰でも受けられる恵みなのです。

まことの恵み
 神が与えて下さる「まことの恵み」とは神の御子であるイエス・キリストが、この世に人として来られ、十字架の苦しみを担われたことです。神様の前において罪人である私たちが、イエス・キリストの十字架において罪が贖われました。主イエス・キリストの十字架の出来事において、私たちは罪を赦されました。聖書とはこのように罪人である人間の罪がイエス・キリストによって贖われた出来事である「まことの恵み」を証しする書物です。「まことの恵み」を証し、勧告をするのです。イエス・キリストの十字架を受け入れ、信仰の道に入った信仰者は地上の歩みにおいて、信仰の故に、様々な試練、迫害に出会います。信仰者は地上の生涯が一時のことであり、主によって与えられる永遠の神の御国における祝福が与えられる喜びを覚えつつ、この地上の生涯をも送ることができるのです。だからこそペトロは「この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい」と語ります。「しっかりと踏みとどまる」と言うのは「しっかりと固く立つ」ということです。主イエス・キリストの信仰に生きる者は、この恵みにかたく立つと言うことです。ただ、恵みに立つというのはなく、恵みの中に入って立つ」ということです。恵みの中に入って、その中にとどまる、と言うことです。まことの恵みの中に入ることも、恵みの中で踏みとどまることも自分の力ではありません。そのような力を神様が与えて下さるのです。私たちの力ではなく、私たちの好みでもでもなく、神様がそうされるのです。だからこそ恵みなのです。恵みは自分の中から、人間の中から出てくるものではないのです。現実には、この恵みに踏みとどまること、「固く立つ」「まこと恵みの中へ入る」ことは大変厳しいものであります。
 ペトロはこの手紙において語って来ました。信仰生活を通して、神様の「まことの恵みにしっかり踏みとどまる」を語ります。時に神様の恵みに「しっかり踏みとどまる」ことが難しいこともあります。主イエス・キリストを信じるが故に試練を避けることができないということです。実際に試練の中にいる時、私たちはその試練から早く逃れたいと思います。手紙を書き送った教会もキリストの十字架を信じているが故に、迫害され、試練の中にありました。試練から逃れるために信じることを止めることも一つの手段と考えてしまったかもしれません。ですから、「この恵みにしっかり踏みとどまる」ことが求められます。私たちの罪に対して「神のまことの恵みである」キリストの十字架による救いがはっきりと示されたのです。弱き者として歩む私たちに神の独り子イエス・キリストの十字架によって福音が示されました。この福音を信じることこそ、「まことの恵みにしっかり踏みとどまる」ことでしょう。
 この書物は手紙でありますから、最後に挨拶があります。この手紙は教会から教会へと宛てられた手紙です。教会から教会への挨拶とは単なる挨拶ではなく、神の「まことの恵み」を語る、福音を語る交わり、挨拶へとなるのです。ここでは「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」とあります。「バビロンの人々」とはどういうことでしょうか。
 ペトロは今自分が置かれている自分の状況も、手紙を書き送る教会の一人一人もキリストに選ばれたものであることを知っておりました。主イエス・キリストによって選ばれている事実をペトロは語ります。誇りはそこにあり、交わりもそこにあるのです。キリストが選んで下さった者たちが集まるところが教会なのです。「共に選ばれてバビロンにいる人々」とあります。ここは「バビロンにある教会」の人々ということです。このバビロンと言うのも、ローマの教会のことを指し示しているのでしょう。ヨハネの黙示録(14:8)でもそう呼ばれております。ローマがなぜ「バビロン」と呼ばれたのかはっきりとはしないのです。同じようにキリストの教会を攻め滅ぼそうとしているローマの権力が狙っているということです。ローマの権力、バビロンの権力と言うことだけではないでしょう。この権力とは、主イエス・キリストの福音から私達を引き離そうとする力そのものです。そのような力が働いている中にあったのです。そのような状況の中にいる「共に選ばれてバビロンにいる人々」からのメッセージをペトロは伝えようとしたのです。

平和があるように
 教会の挨拶の中には教会の個人の名前が出てきました。ここでもわたしの子「マルコが」とあります。ペトロにとって「マルコ」は大事な人であったのです。古代のある歴史家は「マルコ」はペトロの通訳であった、と言っております。マルコはまたパウロとも親しく、バルナバのいとこでありました。(コロサイ4:10)始めの頃の教会の伝道ではパウロと共に行動し、バルナバとパウロとの争いの原因にもなったこともあります。(使徒言行録15章37,38節)ペトロが手紙を書き送った教会についても、このマルコの伝道との関係があったようです。ペトロはこのローマの教会とマルコという人からの「よろしく」との言葉を入れております。
 教会の挨拶の最後は少し思いがけない言葉となっております。その教会の中の生活を考えていたのです。「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」と言うのは、その教会での生活の様子を示しております。この愛の口づけとはキリスト者同士、聖徒の交わりです。歓迎と敬意の挨拶を意味しておりました。同じ信仰の戦い、同じ救いの目標を持っている者として、互いに愛し合い、苦しみを分かち合う交わりです。「口づけ」は、愛と善意の表現であって、神の家族としての一体感を強く表している表現とされていたのです。信仰による試練を分かち合いつつ、神の子とされ、神の国の住民として、一つのゴールに向かって歩む者としての兄弟姉妹として、聖徒としての交わりを深めることが、キリストの教会に求められています。教会の中の愛の生活のことであります。神様に愛されていることを確信している者のことであります。そしてペトロは最後に「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」と語ります。「キリストと結ばれている」者の生活が、どんな平安と平和に満ちたものでありましょうか。そして「平和があるように」と結んでおります。もとの言葉の意味は「シャローム」「あなたに平安があるように」という言葉です。ユダヤ人が日常生活において挨拶として用いている言葉です。その日常の言葉が信仰の言葉となり、手紙の挨拶の言葉となったのです。どこから来る平和で、どのような平和なのでしょうか。それは、主イエス・キリストから賜る平安ということになります。主イエス・キリストの十字架と復活を通して与えられた平安は、私たちに神の「まことの恵みを」を与えるものなのです。主なる神様の御業によって神のまことの恵み、イエス・キリストの十字架による救いが与えられた者は、既に与えられている救いの喜びを与えられました。そのような喜びの中を歩んでまいりましょう。

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