夕礼拝

神の子たちよ

「神の子たちよ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書: 詩編 第131編1-3節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章28-第3章3節  
・ 讃美歌:68,509,78

わたしたちは、神様に愛されています。「神の子どもたち」と呼ばれる程に、わたしたちは神様から愛されている。 それがどれほどすごいことなのか。ヨハネは手紙では、多くの事を語りません。ただどれほど愛されているかよく考えてみなさいとわたしたちに薦めます。だから今日わたしたちは、どれほど神様に愛されているかを、神様の御言葉を通して聴き、考えてみたいと思います。 今日与えられました御言葉は、ヨハネの手紙一2章28節から、3章3節までです。今日の御言葉では、3章1節と2節に重要な事柄が集中しています。ですので、3章の1節と2節からお読み致します。 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 1節で「神の子と呼ばれるほど」わたしたちは、父なる神様に愛されているとヨハネは語ります。 「神の子」と書かれると、わたしたちが必ず思い起こすのは、イエス様のことです。イエス様こそが、真に神の子である方です。わたしたちは、その方と同じ「神の子」という称号を神様から頂いた。だから愛されている。というわけではありません。ここで「神の子」と書かれています言葉を、元の言語でみてみると、この「子」という言葉は複数形で書かれています。ですから、ここで「神の子」と書かれていますが、実際は「神の子どもたち」というふうに書かれています。「神の子どもたち」という言葉は、イエス様の本質を示す「神の子」という言葉とは、違いがあります。そのように言葉が異なっているように、イエス様とわたしたちは完全に異なっています。イエス様は神の子であり、そして神である方です。わたしたちは、神の子どもたちと言われても、決して神にはなりません。従って、まずわたしたちが「神の子」と呼ばれるほど愛されているということは、わたしたちが神様によって「神化される」ほどに愛されているという意味ではないということがわかります。  では「神の子どもたち」とはいったいどんな存在なのかということがわたしたちは気になります。2節でヨハネは、少ない言葉でその疑問に対して答えようとしています。「わたしたちは今既に神の子どもたちですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」とヨハネは語ります。ここでヨハネは、現在の事柄と未来の事柄を分けて考えています。今、現在わたしたちは神の子どもたちとされているが、今はその神の子どもたちということが、具体的に自分たちにどのような変化をもたらすのか、どのように自分は変えられていくのかはわからない。そのような未来の自分に起こることは、示されていませんとヨハネは言っています。今既にわたしたちは「神の子どもたち」であるが、将来においてしか、どのようになるかはわからないと語っているのです。ここで語られている将来という時間は、1時間後、1日後、一年後という先にある、あやふやなどこかの時間の事ではありません。ここでの将来とは、終わりの時、終末の一点のことを指しています。それがわかるのは、二節の「御子が現れる時」という言葉です。御子であるイエス様がこの世に再び来られる時、その時を聖書は終末と呼びます。その御子が再び現れる終末の時に、わたしたちは、イエス様に似た者となるそうです。そのようにヨハネは語っています。どうやってイエス様と似たものになるのか。ヨハネによれば、「なぜなら、終わりの時に御子をありのままに見るから」だそうです。しかしわたしたちはヨハネに尋ねたいことがあります。ただイエス様を見るだけで、わたしたちはイエス様と似たものとなることができるのかということです。ヨハネは多くを語っていませんので、わたしたちは、ヨハネがわたしたちに考えなさいと言ったように、ここで考えてみたいと思います。  わたしたちは、果たして見ただけ、見た対象のものに似た存在になることができるのか。わたしたちの経験にそって考えれば、「そんなことははできない」という答えがでてくると思います。わたしは、サッカーが好きです。サッカー日本代表の試合も欠かさず見ます。特に、同じ年に生まれた、本田圭佑、長友佑都が気になりますですからわたしは、彼らがプレーしている試合などをチェックします。わたしは時々、サッカーをしたりします。しかし、上手ではありません。わたしは、本田圭佑のように、プレーしたいと考えて彼の映像を見ても、同じようなことはできません。真似出来ません。彼の映像を見て、実際に似たようなボールを蹴ろうとしても、まったく同じにはならない。このように、人は何度真似したい対象を見ても、見るということだけで、似たものとなるということは経験的にできないことを知っています。では、ヨハネはこの手紙で嘘を語っているのでしょうか。決してヨハネは嘘をついたりしていません。真実を語っています。  実は、そもそも人は、対象をありのままに見ることはできません。「ありのままに」という言葉を言い換えるならば、「すべて」ということです。わたしたちは、対象のすべてを見ることはできません。本田圭佑が、どのようなことを考えてトレーニングしているのかは、わかりません。心の内まで見ることはできません。プライベートな姿も、すべて見ることが出来るわけではありません。そもそも人は神様をありのままに見ることができないものであると旧約聖書は語っています。神様はモーセに対して「おまえはわたしの顔を見ることはできない。なぜならば、人はわたしを見て、生きたままでいることはできないからである。・・・だれもわたしの顔を見ることはできない」とこのように言っています。また旧約聖書にでてくる預言者イザヤが神殿の中で神様と出会うときに、「自分は汚れた罪深いものだから、わたしは滅ぼされる」といっています。人は、神様の栄光の姿を直視できません。なぜならそれは、イザヤが語るように人は罪深いものだからです。神様の前で、罪と悪は存在することはできなくて、滅ぼされます。だから、神様は愛するモーセを、殺さないためにご自分の姿を見せませんでした。 でも今わたしたちは、神様を見ることができるようになりました。それはイエス様が、人となってこの世に来てくださったからです。人と同じ姿になってくださりこの世に来てくださったので、聖書に出てくる弟子たちは神様が生きておられるということ、どのようなことを考えておられるかということを、イエス様を通して見ることができるようになりました。わたしたちは、今、直接イエス様を見ていませんが、聖書を通してイエス様と出会っています。またこの礼拝を通して、イエス様がわたしたちに対して、してくださったこと、考えておられることを見ることができます。 ですが、わたしたちは、罪がまだ自分に残っているので、はっきりとイエス様のことをありのままに見ることはできません。パウロは現在のわたしたちの神様の見え方について、コリントの信徒への手紙一13章12節で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と例えています。鏡でしか、神様を見ることができないのは、わたしたちに未だに、罪が有り神様を直接見ることができないからです。直接見ると死んでしまいます。だから実体ではなく、鏡に映る像を見ます。でもその像は、はっきりみえないで、おぼろにしか見えません。なぜならばそれは、わたしたちの視力が低いからです。罪によって神様を見る視力が低下していたので、おぼろにみえています。 そのように、わたしたちは今イエス様の存在を知っているけれども、はっきりとみえないでいます。ですから、見ることができないので、今わたしたちはイエス様に似たものとはなっていません。落ちた視力で鏡の中に映る神様の真似をわたしたちがしても同じようなことはできません。 じつはわたしたちは、ここで大きな勘違いに気づきます。わたしたちは神様の真似をすれば神様に似たものとなると考えていますが、じつはそうではありません。わたしたちがいくら神様の真似をしようとも、神様と同じようなことはできません。むしろ、旧約聖書の創世記でアダムとエバは神様と同じようになりたくて、善悪を知る木の実を食べてしまいました。その行為は、まさに罪です。神様のように自分がなろうとする行為を神様は望んでおられません。ですからアダムとエバは厳しい罰を与えられました。 では、わたしたちは神様に似たものとなるということは、一体どういうことなのか。創世記では、わたしたち人間はそもそも神様に似たものとして創造されたと書いています。言葉をかえて言えば、神様にせて造られた模造品です。模造品というと、パクリ、贋作、安い、脆いというような悪いイメージがあるとおもいますが、その模造品であるわたしたちを、神様は、極めて良いものだ、宝だといってくださいました。でのすので、わたしたちは、最高級の模造品です。ですからわたしたちは、そもそもは神様に似せられて創造された「良い」ものであった。しかし、わたしたちは、アダムとエバがこの世に招いた罪、それはわたしたちにもある神様になろうとする罪によって、その似たものであった形を失ってしまいました。もっとわかりやすいイメージで例えたいと思います。ですので、最高級の模造品の陶器の器があると想像してみましょう。その器が、ありえないことなのですが、自ら力で、テーブルの上から落ちてしまった。そして、その器は、割れて、バラバラになって、もともとの形を失ってしまった。このようなことが、アダムとエバを通してわたしたちに起こっています。バラバラになった陶器の器は、器として価値も無ければ、それは、もはや捨てられるゴミです。神様としての似せて造られた形はもはやなく、むしろゴミ、塵のようなものなってしまいました。そのようなものはだれも欲しがりません。ですが、しかし、その価値の無い、捨てられて同然の器を買い取ってくださった方がいます。それが、父なる神様です。どうやって、その割れた器を買い取ってくださったかというと、愛する独り子の血と命を、その代償として、代金として支払って、買い取ってくださいました。そこでその器は、神様のものとなりました。わたしたちは、その器です。器が神様のものとなったように、わたしたちは同じように御子の犠牲により神様に買い取られ神様のものとなりました。いや神様はただの物、物体としてでなくて、わたしたちを人として、「神の子どもたち」と呼んで、そのように見てくださいます。そう呼びかけてくださって神様の家族に入れてくださっています。これがヨハネの言う「神様のこどもたち」呼ばれるほどの、計り知れない神様の愛なのです。どれほど、わたしたちを愛しておられるか。それは愛する独り子の命を捧げてくださったほどなのです。それほど、わたしたちを愛してくださっています。ボロボロのわたしたちを「神の子どもたち」と呼んでくださるほどわたしたちを愛してくださっています。  最後にもう一度残されたままの疑問、神様に似たものになるということを考えたいと思います。わたしたちは、先程も、言いましたように神様の真似をしようとしてもできないし、また真似をしようとすること事態が罪であるということを知りました。では似たものになるということはどうやってできるのか。そのヒントは、夫婦にあると思います。似たもの夫婦という言葉があるように、夫婦はお互いに時を過ごしていくと、その言動であったり、性格であったりが似てくることがあります。時々街では、風貌、顔つき、顔の形までもが似ている夫婦を見かけたりします。わたしも、妻がおりますが、最近私のしゃべることばなどが、真似しているつもりはないのですが、妻がよく使う言葉を使ってしまうことがあります。妻はもともと、緊張しがちの性格なのですが、最近わたしに似て少し物怖じしなくなってきたといっています。そのように、夫婦はなぜか似てきます。このようにして、夫婦が似てくるのは、私が本田圭佑のようになりたいと思うように真似して似ようとすることとは、異なっているとおもいます。夫婦が似てくることには、似ようと努力することも練習することもありません。ではなぜ似てくるのかと考えると、その原因、それは、夫婦は互いに誰よりも近くで生きているからだと思います。誰よりも近くで交わりを持っているからだと思います。わたしたちは、とても近い距離で交わりを持つと、そのもの相手と似てくるということがあります。イエス様と似たものになるということは、そこにイエス様との近い距離での交わりがあるからだと思います。わたしたちは、今は、花婿を待ち焦がれる花嫁のように、イエス様を待っています。わたしたちとイエス様は婚約関係にある人たちのようです。その関係の人たちは夫婦のように近い距離での交わりでありません。ですから、似たものとはなれません。しかし、終わりの時に、わたしたちは花婿のイエス様のほうに近づき、夫婦のようになります。イエス様と夫婦のような距離で交わる時。人はイエス様と似たものとなります。それが私たちの終わりの希望です。私たちは今、イエス様と婚約関係にあるので、イエス様と夫婦になるという希望をもつものです。この希望は3節で「望み」と言われていることです。この希望を持っている人は、「御子が清いように、自分を清めます」とあります。婚約関係にあるカップルは、婚約相手がいるのに他の交際相手を見つけること、関係を持つことは、私たちのこの世での経験でもわかるように、ダメなことです。そのような他の人に、思いを寄せたり、関係を持ってしまったりするのは清くありません。清くあるということは、ただイエス様の方を向いて、イエス様との結婚を待つということです。ですから、イエス様と夫婦になるほどの関係になるという事に希望を持っている人は、自ら清くするのです。従って、2章28節でヨハネは、「御子の内にいつもとどまっていなさい」と私たちに呼びかけます。御子の内にとどまるということは、わたしたちの主であるイエス様を私たちが愛していますという告白に、そのなかにいるということです。28節で「御子の現れるとき、確信を持つことができ」るといっています。この「確信」という言葉は「自信」とも訳すことができます。わたしたちがいつもイエス様を愛していますと告白していている。そしてイエス様が礼拝を通して、いつも私たちを愛していますと告白してくださっている。そのような、関係を過ごしていれば、御子が現れときわたしたちは、怯えたりすることはなく、自信をもって、待ち焦がれた花婿イエス様に出会えます。さらに、そのような関係であれば「御子が来られるとき、御子の前で恥じ入ることが」ありません。そのように終わりの時に、わたしたちはイエス様と結ばれたときに、真に「神様の子」となります。終わりの日が来る前の、今の時に、教会は、洗礼をさずけ、わたしはイエス様を信じて愛していますということと、イエス様がわたしを愛していくださっていることを目に見える形にして、示してくださることです。言い換えると婚約関係に入るということです。ですからこの時代を生きるわたしたちは、洗礼を受けるのです。 父なる神様は、わたしたちを、わたしの子どもたちと呼んでくださいます。そこにはイエス様の大きな犠牲がありました。ボロボロのわたしたちを愛して、神様の子どもにしてくださいました。そのわたしたちを今度は、イエス様と似たものなるように、イエス様との交わりを与えてくださいます。夫婦のような近い関係を与えてくださろうとしています。そして、父なる神様は花婿イエス様を終わりの日に与えてくださいます。ですからわたしたちは、信じて愛していますと告白して待つのです。わたしたちは花婿が来られる日を、喜びと希望持って待つのです。

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