夕礼拝

具体的な神

「具体的な神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章4-6節
・ 新約聖書: ヘブライの信徒への手紙 第1章1-4節
・ 讃美歌 : 51、392

第二の戒めを第二の戒めとして
 本日ご一緒に読みます箇所は、主なる神様がイスラエルの民にお与えになった十戒の第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。「いかなる像も造ってはならない」と言ってもそれは、美術作品としての像や絵をいけないと言っているのではなくて、神様の像を造り、それを拝むという、いわゆる偶像礼拝を禁じる戒めです。
 教会の歴史において、この第二の戒めが、第一の戒めの中に含められ、一つとして読まれていた時代がありました。第一の戒めは、先月読みました3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。主なる神様以外のものを神として拝んではならないという戒めです。偶像礼拝を禁じる第二の戒めがこの第一の戒めに吸収されて読まれて来たことには理由がないわけではありません。イスラエルの民は、主なる神様とは違う他の神々を拝む諸民族に囲まれていました。それらの民族の神々はことごとく、偶像の神々です。4節に「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」とありますが、周辺諸民族の聖所や神殿には、天体や動物や人間や海の怪物などの様々な像が置かれ、それらが神として礼拝されていたのです。そういう状況の中では、偶像礼拝を禁じるこの戒めは、それらの異教の神々を拝んではならない、ということと一つでした。そのためにこの戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めと同じ意味に受け止められたのです。私たちにとっても事情は似ています。私たちの日々の生活において、偶像礼拝を禁じるこの戒めが関わってくるのは、例えば仏壇に手を合わせてよいのかとか、仏教の葬式に参列する時に焼香をしてよいのかとか、神棚に手を合わせたり、神主のお祓いを受けることはどうなのか、というような場面、つまり他の宗教、他の神や仏との関わりにおいてです。日本におけるキリスト信者はいつもそういう戦いの中にいるわけですが、そういう問題は結局、主なる神様以外の神々を拝んではならないという第一の戒めに帰着するわけです。そういう意味では、第二の戒めは第一の戒めの補足のようなものだ、ということにもなります。そのような理解から、第二の戒めが第一の戒めに含められて読まれてきた、いや、もっと正確に言えば、第一の戒めだけで足りると考えられ、第二の戒めが無視されてきた、という歴史があるのです。カトリック教会において受け継がれてきた十戒には、第二の戒めがありません。それをそのまま踏襲したルター派教会においてもそうです。そこにおいては、第二の戒めは次の「主の名をみだりに唱えてはならない」になっています。そうすると以下は順番が一つずつ繰り上がるわけで、第九で終わってしまいます。それでは「十戒」にならないので、数を合わせるために、第九の戒めを二つに分割して、「隣人の家を欲してはならない」を第九、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十としているのです。それに対して、私たちがその伝統を受け継いでいる改革派教会においては、十戒を聖書に語られている通りに受け継いでおり、つまり第二の戒めを第二の戒めとしてしっかり掲げているのです。つまり改革派教会の伝統の特色の一つとして、この第二の戒めを独立した戒めとして大事にする、ということがあげられるのです。

神を崇める正しい形式
 第二の戒めを、第一の補足としてではなく、独立した戒めとして大事にするということは、これを単に、他の神々を拝むことの禁止への補足としてではなく、神様を目に見える像として表すことを禁じる戒めとして受け止めるということです。そしてこのことこそが、第二の戒めが本来語っていることなのです。つまりこの戒めは、周囲の民が拝んでいる偶像の神々を拝むな、ということのみを教えているのではなくて、イスラエルの神である主を、目に見える像に刻んではならないということをむしろ中心的な内容としているのです。宗教改革者カルヴァンは『ジュネーヴ教会信仰問答』の問149で、第二の戒めの目指していることについてこのように語っています。「先の所では(これが第一の戒めのことです)御自身が拝まれ崇められるべき唯一の御方であると示されたように」(これが第一の戒めの内容です)、今度は(ここからが第二の戒めのことです)何が神を崇める正しい形式であるかが示され、これによって私たちは一切の迷信及び他のよこしまで肉的な作り事から呼び返されるのです」。つまり、第二の戒めが語っているのは、「神を崇める正しい形式」、主なる神様をどのように礼拝したらよいか、ということであり、そこにおいて迷信や人間の勝手な作り事に陥らないように、ということなのです。

自分のための神
 第二の戒めがこのように主なる神様を正しく礼拝する仕方を教えているとしたら、私たちは、「偶像」についての認識を新たにしなければなりません。つまり偶像とは、仏壇や仏像、あるいは神社のご神体のような他の神々のことではないのです。勿論それらのものを拝むことは偶像礼拝として退けられなければなりませんが、私たちが本当に警戒しなければならない偶像はもっと別のところにあるのです。その偶像とはどのようなものか。それを知るための手がかりとなる言葉が、4節の原文にはあるのですが、新共同訳においては残念ながらそれが訳されていません。そこで口語訳聖書における4節を紹介したいと思います。こうなっていました。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」。お気付きのようにここには、「自分のために」という言葉があるのです。原文にはあって新共同訳にはないこの言葉が、実は偶像というものの本質を知るために大事なのです。偶像とは、私たちが、「自分のために」造り出す神です。私たちが自分のための神様を思い描く時、それが偶像なのです。ですから偶像というのは、木や石や金属で造られるものとは限りません。そういう目に見える形に刻まれていなくても、私たちが自分の心の中で、自分のために、自分の思いや願いや都合に合わせて神様を思い描き、イメージし、その神様を信じ、拝もうとするなら、それこそが偶像、偶像礼拝なのです。ですから私たちは、自分は仏像に手を合わせることをしないし、家には仏壇も神棚もない、だから偶像礼拝とは無縁だ、とは言えないのです。目に見えない神様を信じていても、実はその神が偶像だったりすることもあるのです。

想定内の神
 しかし、4節には、「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も」とあります。それはやはり具体的な目に見える形を持った像のことを言っているのであって、心の中の、目に見えない偶像などというものはここでは考えられていない、という反論があるかもしれません。それは確かにそうです。私たちが自分のための神を思い描く時に、そのヒントないし材料となるのは、多くの場合天にある太陽や月や星だったり、地上の人間や動物や大木や大きな岩だったり、海の中に住む何かだったりします。そういう目に見える具体的なものを題材にして神を思い描くことによって偶像は生まれるのです。しかしこのことをもっと掘り下げて考えるならば、こういうことが言えます。つまり私たちは、この世界の中の何か、私たちが知っている何かを材料としなければ、自分のための神を思い描くことはできないのです。なぜなら自分のための神とは、自分の思いの中で、想定の範囲内で、自分の論理の中で動き、それをはみ出さない神だからです。そういう神は、私たちが知っており、感じており、考えていることを材料とすることによってのみ造り上げられるのです。その私たちが知っており、感じており、考えていることの中には、私たちの経験、思想、感覚、知識、良心といった目に見えないものも含まれます。天や地や水の中にいるものの像を造る、というのはそういうことを全て含んだ言葉だと考えてよいでしょう。要するに私たちが、この世の中の、私たちが知っている事柄の延長上に思い描く神、それが偶像です。そういう神々は、人間が造り出したがゆえに、人間の思い、知識、感覚を一歩も出ることがないのです。

「分かる」ことの落とし穴
 私たちは、神様を知ろう、分かろうとする時に、しばしばこのような偶像を造ってしまいます。「分かる」ということはともすれば、自分の経験や知識や感覚によって相手を捉え、自分の知っている世界の中に相手を引き込み、そこに位置づけてしまうことである場合があります。言い換えれば、相手を自分の心の中の引き出しにうまく整理してしまい込み、必要な時にその引き出しを開けて中身を用いることができるようにするのです。知識であれば「分かる」とは確かにそういうことでしょう。しかし私たちは神様のことも同じように、自分の心の中の引き出しにうまく収めてしまって、必要な時にだけその引き出しを開けて利用できるようになろうとする、そのように「分かろう」としてしまうのです。それはまさに、自分の経験や知識や感覚の範囲内に収まる、自分のための神を造り出していることに他なりません。つまり私たちが神様のことを「分かった」と思う時に、実は偶像を造り出している、ということがあるのです。
 一つ具体的な例をあげましょう。聖書には「神は愛である」という言葉があります。神様のことを言い表す最も簡単で分かりやすい言葉がこの「愛」です。しかし問題は、その「愛」という言葉で私たちが何を思い描くかです。私たちはいろいろな愛を知っており、体験しています。その自分が知っている愛をここに読み込んで、それで神様のことを分かったつもりになってしまうと、とんでもないことになります。ある人は、神とは世界の人類を普遍的に愛する存在である、と言い、他の人は、いや、自らの民族、同胞を愛する心、愛国心の中にこそ神がおられるのだ、と言う。いやいや、自分の親や兄弟、身内を愛することの中にこそ神はおられるのだ、という人もいる。さらには、男女の愛、性的な愛の喜びの中にこそ神がいる、などという人も現れ、あげくの果てに、どうしてその愛は男女でなければならないのか、同性愛だって愛だ、同性愛の中にも神がおられるのだ、ということにもなるのです。これらはどれも、自分が知っており、体験していることによって神様を分かろうとすることから生じる問題であって、このようにして造り出される神様こそが、「自分のための神」、つまり偶像なのです。第二の戒めは、そういうことを戒めているのです。

神ご自身の啓示によって
 それでは、このように自分のための神を造ってしまうのでなく、神様を正しく知り、礼拝するためには何が必要なのでしょうか。それは、自分が知っていること、感じていること、考えていることによって神様のことを知ろうとするのをやめることです。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にあるもの、つまりこの世界の中の事柄から神を思い描き、知ることができるという考えを捨てることです。神様のことは、神様がご自身を示して下さることによってしか知ることはできません。それを難しい言葉では「啓示」と言います。啓示とは、神様が、ご自身のことを私たちに表し示して下さることです。自分の知識や感覚によってではなく、神ご自身の啓示によって神を知る、それこそが、神様を正しく知り、礼拝するための道なのです。なぜならそうすることによってのみ、神様を自分の知識や感覚の中に当てはめてしまうことがなくなるからです。啓示によって神を知るためには、その啓示を信じて受け入れなければなりません。そこでは、神様を自分の知識や感覚の中にはめ込むのではなく、自分の知識や感覚を啓示に合わせていくことが求められるのです。神様のことが本当に分かってくるのはそういうことによってです。そうでない限り、神様は結局私たちの知識、感覚、論理の範囲を一歩も出ない、常に私たちの想定内の存在でしかないのです。それは、私たちが自分のために造り出した偶像の神です。生けるまことの神様は、私たちの知識や感覚や論理の枠を打ち破る、想定外の救いのみ業をなさる方なのです。

み言葉によって
 神様がご自身を私たちに啓示して下さる、その啓示は何によってなされるのでしょうか。それは、「み言葉」によってです。神様は、旧約聖書においても新約聖書においても、言葉をもって人間に語りかけ、交わりを持とうとなさる方なのです。出エジプト記の文脈の中で、今のこの20章は、主なる神様によってエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神の山シナイに導かれ、神様がここで彼らと契約を結ぼうとしておられる、という場面です。「契約」こそが、主なる神様とイスラエルの民との関係の軸となるものです。聖書は、神様とその民との契約の歴史を語っています。旧約聖書とは古い契約の書であり、新約聖書とは新しい契約の書ということです。そしてこの契約というものは、言葉によって交わされるものです。契約こそが神様とその民との関係の軸であるというのは、言い換えれば、その関係は言葉によって成り立つ関係だ、ということなのです。そしてこの契約が結ばれると共に、十戒が与えられています。この十戒は神様がイスラエルの民に与えた「十の言葉」である、ということを前に申しました。十戒が与えられたことは、神様がみ言葉によってご自身を示し、イスラエルの民と契約による関係を築こうとしておられることの印なのです。神様の民であるイスラエルは、十戒を中心とするみ言葉によって、神様を知り、そのみ心を知り、神様との交わりに生きていくのです。「いかなる像も造ってはならない」という戒めは、イスラエルの民と主なる神様との間に、このみ言葉による交わりを確立させようとしています。目に見える神の像を造り、それを拝むようになることによって、み言葉を聞き、それによって神様を知り、従っていく、という関係が損なわれるのです。そしてその代りに、自分の思い、知識、感覚に合わせた、自分のための神を思い描き、その神を自分に従わせようとすることが起っていくのです。

ねたむ神
 5節の後半には、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」とあります。この「熱情の神」という所は、以前の口語訳聖書では「ねたむ神」となっていました。主なる神様はねたむ神である、と言われていたのです。しかし「ねたみ」「嫉妬」の思いというのは、私たちはしばしば抱くけれども、神様が抱く思いとしては相応しくないのではないか、ということから、新共同訳では「熱情の神」としたのでしょう。しかしもともとの言葉をそのまま訳せばやはり「ねたむ神」です。そしてその言葉を恐れる必要はないと思います。「ねたむ」という言葉は、神様の愛が、抽象的観念的な「人類愛」のようなものではなくて、具体的現実的な、また真剣な愛であることを表しています。創世記から出エジプト記にかけて、私たちは、神様がイスラエルの民を選び、その数を増やし、飢饉から救うためにエジプトに逃れさせ、そしてそのエジプトで奴隷とされてしまった彼らを解放し、荒れ野の旅路において養い、守り、乳と蜜の流れる約束の地へと導いていって下さる、その具体的な愛を見てきました。それらは全て、主なる神様の恵みのみ心によってなされたのです。そのイスラエルの民が、み言葉をもって語りかけておられる神様との交わりをないがしろにして、偶像を造り、自分のための、自分の思いや都合に合う神を拝もうとするなら、主なる神様はねたみと怒りの思いを抱かれるのです。それは、神様がこの民を本当に真剣に愛しておられるからです。私はあなたがたの神、あなたがたは私の民、という特別な関係を、契約において結んで下さるこの神様の愛は、イスラエルの民との間に、夫婦となる契約を結んで下さることになぞられられます。夫婦の関係において、相手が他の人に心を向け、関係を持とうとするなら、そこにはなたみと怒りが生じるのです。ねたみも怒りも起らず、「どうぞご勝手に」となるとしたら、それはもはや夫婦の愛がそこにはないということです。「ねたむ神」という言葉は、神様のイスラエルへの愛が本当に真剣なものであり、またイスラエルを本当に愛し、守り、導き、救うのはこの私のみなのだ、という主の強い意志を示している言葉だと言うことができるのです。

神の怒りと慈しみ
 「ねたむ神」は、イスラエルの裏切りに対してお怒りになる神であることが5節の終わりに語られています。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが」。真剣に愛していて下さる神様を裏切り、ないがしろにし、自分のための神を造り上げるようなことをするならば、その罪に対して神様はお怒りになり、罰を下される、しかもそれは本人にのみでなく、子孫にまで、三代、四代後にまで及ぶと言うのです。ここには神様の怒りの恐ろしさが語られています。神様を怒らせてしまうと、三代四代後の子孫にまでバチが当たってしまう、だったら、そういう神様とは関わらない方がいい、「触らぬ神に祟りなし」だ、と私たちは思ってしまいます。しかしそれは違うということが6節に示されています。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。5節に三代四代までの怒りが語られていたのは、この6節との対比のためです。「わたしの戒めを守る」つまりここでは、み言葉によって語りかけ、関係を築いて下さる神様との交わりを大切にして、自分のための神ではなくて、み言葉によって示されている神様とその恵みを受けて生きるならば、神様は幾千代にも及ぶ慈しみを与えて下さるのです。罪に対する怒りは三代四代だが、慈しみは幾千代にも及ぶのだ、つまり、神様の慈しみのみ心は、罪に対する怒りとは比べ物にならないくらい大きいのだ、ということをここは語っているのです。私たちは、この慈しみのみ心に信頼して、主なる神様との交わりに生きるのです。「触らぬ神に祟りなし」は、聖書において、み言葉によって私たちにご自身を啓示して下さっている神様に関しては、当たっていません。本気で、真剣に私たちを愛して下さっている神様に、私たちの方も本気で、真剣に関わっていく、そこにこそ、神様の慈しみを豊かに受ける幸いな歩みが与えられていくのです。

御子によって語られた
 第二の戒めは、自分のための神を、自分の思い、感覚、知識によって造り出してしまうことを戒め、み言葉によってご自身を啓示して下さっている神様をそのみ言葉に従って信じ、礼拝することを教えています。旧約聖書の時代から、神様はみ言葉によってご自身を示し、啓示して来られました。そしてそのみ言葉による啓示の完成としてこの世に来られたのが、御子イエス・キリストです。本日共に朗読した新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第1章の冒頭に、そのことが語られています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。今や神様は、御子イエス・キリストによって私たちにご自身を啓示して下さっているのです。主イエス・キリストこそ、神様のみ言葉が肉となり、この世に来られた方です。そして3節後半にあるように、「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きに」なった方です。この主イエス・キリストによって、私たちは、私たちの罪を赦し、清め、神の子として下さり、キリストを頭とする神様の民に加えて下さり、そして死の力に勝利する永遠の命を与えて下さるという神様の本気の愛、真剣な、具体的な愛を示されているのです。このキリストにおける啓示を信じ、受け入れ、イエス・キリストの父である神様を礼拝することによって、私たちの思いや知識や感覚をはるかに超えた、想定外の、神様の救いのみ業を受けることができるのです。

具体的な神
 神様を目に見える像に描いてはならないという戒めによって、神様のお姿を具体的に思い描くことができなくなり、神様が抽象的観念的になってしまうように思われるかもしれません。けれどもそうではないのです。聖書のみ言葉によって、そしてそこに証しされている主イエス・キリストによって神様を知らされることによってこそ、神様の私たちに対する愛が、救いの恵みが、慈しみが、独り子が十字架にかかって死んで下さるほどに本当に具体的な、現実的な、そして真剣なものであることが示されるのです。

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