主日礼拝

一つになって

「一つになって」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; エゼキエル書、第37章 15節-28節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第2章 43節-47節

 
伝道し、成長する教会
 弟子たちに聖霊が降って力強い伝道が始まったペンテコステの日に、ペトロが使徒たちを代表して語った説教を聞いた多くの人々が、大いに心を打たれ、ペトロの勧めを受け入れて洗礼を受け、教会の仲間に加わったことが、使徒言行録第2章41節に語られています。その数は三千人ほどだったとあります。当時の洗礼は、全身を水に浸す仕方で行われていたわけで、三千人の人々が一遍に洗礼を受けるというのは、どういうふうにしたのだろうか、と思います。それはエルサレムのどこでなされたのか、同じ場所でみんなが受けたのか、使徒たちが手分けしてあちこちの池や泉でしたのか、などといろいろなことを考えてしまいます。そう考えていくと、三千人という数には誇張があるようにも思います。しかし先週も申しましたように、ここで大事なのは、実際に何人の人が洗礼を受けたのか、ということではなく、このペンテコステの日に誕生した教会が、その誕生と同時に、使徒たちの宣べ伝える福音を信じ受け入れて新しく仲間に加わる者たちを迎え入れていく、そのように成長、拡大していく共同体として歩み出した、ということです。ペンテコステの出来事を語る使徒言行録第2章には二つのポイントがあるのです。第一は、聖霊が降って教会が誕生したことです。そして第二は、その教会の伝道によって、新たな人々がそこに加わり始めた、ということです。この二つのことは切り離すことができません。教会が誕生するとは、伝道が始まることであり、それによって教会に新たな人々が加わり始めることです。この二つのことが共に起ったのが、ペンテコステの出来事だったのです。第2章の最後、47節の言葉が、そのことをはっきりと語っています。その後半に、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。救われる人々が日々新たに起こされ、教会の仲間に加えられていく、ペンテコステの出来事を語ってきた第2章の、これがまさに結論なのです。聖霊の力によって誕生した教会の姿とはこういうものです。教会が教会として歩んでいる、言い換えれば生きているとは、このように、伝道がなされ、新たな人々が仲間に加えられていく、ということなのです。それは勿論、人間の業や力によることではありません。初代の教会の人々はそれほどに頑張ったのだ、という話ではないのです。「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」、とあるように、それは主なる神様のお働きによることです。聖霊の力によること、と言い替えてもよいでしょう。主が、聖霊のお働きによって、救われる人々を新たに起こし、教会が証しし伝える主イエス・キリストの福音を信じさせ、洗礼を受けて罪の赦しの恵みにあずかり、教会に加えられるようにして下さったのです。

生きた教会の姿
 けれども、使徒言行録はそのような主のお働きを語るのに際して、先に洗礼を受けて教会に加えられた信仰者たちが、何をしていたか、どのように生活していたか、をこの第2章の後半において描いています。それが本日ご一緒に読むところであり、そこに本日の箇所の大切さがあるのです。救われる人々が日々仲間に加えられていった、その教会とは、どのような共同体だったのか、そこで何がなされていたのかが本日の箇所に語られているのです。そしてそれは言い替えれば、教会がこのような共同体であり、そこに集う人々がこのように歩んでいたから、そういう教会に、日々新たな仲間が加えられていった、ということでもあります。教会に新たな人々が加えられていったのは主のみ業、聖霊のお働きによることですが、しかしそれは、信仰者たちが何もせずに寝ている間に起ったことではないのです。先に洗礼を受けて教会に加えられた者たちが、ここに語られているような共同体を形成していった、そこに聖霊が働いて、新たな人々が次々に仲間に加えられていったのです。教会がこのような群れだったからこそ、新たな人々が加わってきたのです。ですからここには、生まれたばかりの初代の教会の姿が語られていて興味深いと同時に、日々新しい仲間が加えられていく、そのように生き生きと生きている、伝道が力強くなされている、聖霊のみ業に溢れている、そういう教会のあり方が教えられているのです。そのことを私たちは本日この箇所から読み取っていきたいのです。またそれこそ、使徒言行録の著者が、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」、と語ったことの意図だと思うのです。

一つになって
 最初の教会はどのような共同体だったのか、そこで何が行われていたのか、それを具体的に見ていきたいのですが、しかしその前に、本日の箇所に繰り返し語られており、ここを読む上で大事な鍵となるであろう言葉を確認しておきたいと思います。それは、本日の説教の題にも掲げた、「一つになって」ということです。44節に、「信者たちは皆一つになって」とあります。46節にも、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあります。そして最後の47節にも、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。44節と47節は原文において全く同じ言葉です。46節も内容的に同じことを言っていると言えるでしょう。ここでは、最初の教会の人々が、「一つになって」歩んでいたこと、心を一つにして生きていたことが強調されているのです。聖霊によって生き生きと歩む教会において、そこに連なる人々は、一つになるのです。心を一つにするのです。そういう共同体であってこそ、そこに、日々新たに人々が加えられてくるのだと言うことができるでしょう。初代の教会によって力強く伝道がなされていった、その秘密はこの「一つになって」ということにあります。私たちが、この初代の教会のような力強い伝道ができていない、日々新たな人々を迎え入れていくような生き生きとした歩みになっていない、それは、私たちが本当に「一つになって」いないところに原因があると言わなければならないでしょう。同じ一人の主を信じ、同じ救いの恵みにあずかっているのに、なかなか一つになれずに、いろいろとすったもんだしてしまうのが私たちの現実です。そういうことでは、救われる人々が日々仲間に加えられていくことは望めないでしょう。私たちはこの初代の教会の人々の共同体のあり方から、まず何よりもこの「一つになって」ということを学びたいのです。そしてそのためには、彼らが何によって一つになっていたのかをしっかり見つめなければなりません。一つになることは、ただ仲良くしようと思っているだけで実現するものではないのです。何を共にしていくか、が問題です。最初の教会の人々は、本日の箇所に語られているいくつかのことを共にしていったのです。そのことにおいて彼らは一つとなったのだし、それらのことをしていったからこそ一つになれたのです。つまりここに語られている最初の教会の姿は、私たちに、教会は何によってこそ本当に一つになれるのかを教えてくれているのです。教会という共同体が本当に一つになって、聖霊のお働きの下に力強い伝道をしていくためには何をしなければならないのか、どうすればよいのか、それを本日の箇所から学び取っていきたいのです。

使徒の教え、相互の交わり
 本日の聖書の箇所は43節からになっています。新共同訳の段落の区切り方に従ってそうしたのですが、しかし最初の教会の人々の姿を語っているのは42節からです。42節から新しい段落にする、という区切り方もあります。本日は42節を含めて読んでいきたいと思います。ペトロの言葉を受け入れて洗礼を受けた人々が、どのように歩んでいたかが、先ずここに語られているのです。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。最初の教会の人々が熱心にしていたことが四つ、ここに掲げられています。第一は「使徒の教え」です。使徒たちの教え、その語る福音、即ち主イエスの十字架と復活の証言を聞くこと、それが教会の人々が熱心にしていた第一のことです。神様のみ言葉を聞くことと言ってもよいでしょう。私たちが一つになり、力強く伝道をし、新たな人々を加えられていくために第一に必要なのはこのことなのです。そして第二は、「相互の交わり」です。教会に連なっている信仰者どうしの交わり、相互の関係のことが、教会の姿を語る第二の重用な事柄としてとりあげられているのです。このことは私たちがしっかりと受け止めていかなければならない大事な点です。教会は、使徒の教え、即ちみ言葉を聞くだけで成り立つものではないのです。み言葉を聞き、救いにあずかる私たちは、そのみ言葉によって兄弟姉妹との交わりへと押し出されるのです。あるいは、み言葉によって本当に生きる者とされると言ってもよいでしょう。み言葉によって本当に生きる場が、兄弟姉妹との交わりの場なのです。ですから、み言葉は聞くが、交わりに生きることはしない、というのでは、本当にみ言葉を聞いていることにはならないし、み言葉によって生きていることにはなりません。そもそも、神様は聖霊を注ぎ、教会を誕生させて下さったのです。それは私たちを、兄弟姉妹との交わりに生きる者としようとするみ心の現れです。洗礼を受け、教会に加えられるとは、その交わりに生きる者とされることなのです。そしてそこでこそ、先程の「一つになって」ということが意味を持ってきます。相互の交わりにおいて、いかに「一つになって」歩むことができるか、が私たちの大きな課題なのです。

分かち合い
 「相互の交わり」と訳されている言葉は原文においては一つの単語であり、その意味は「分かち合い」です。そこに、「交わり」の本質が見つめられています。「交わり」とは、「分かち合い」なのです。そこから問われてくることは、私たちはお互いどうしの間で、何を分かち合っているか、ということです。どんな交わりにおいても、そこで何かが分かち合われています。お互いの好きなこと、趣味を分かち合っている場合もあります。何かの目的を分かち合い、それに向かって共に努力している、という交わりもあります。あるいは井戸端会議のような交わりにおいては、人の噂話、さらには悪口が分ち合われている、ということもあるでしょう。そのように、誰かに対する悪意や敵意を分かち合い、それで成り立つ交わりもあります。あるいは、お互いが相手に対する憎しみや嫌悪を分かち合っている交わりことを喧嘩と言う、と言うこともできます。交わりのない所には喧嘩も起こらないのです。そのように、何を分かち合っているかによって、その交わりの質が違ってきます。良いものが分かち合われ、喜びが共有されているならば、それは人を生かし支える良い交わりであり、悪いもの、憎しみや敵意が分かち合われてしまうならば、それは罪を生み出す悪い交わりになっていくのです。ですから私たちは、教会における兄弟姉妹との交わりにおいて、それがどのような交わりになっているか、何を分かち合っているかを振り返って見なければなりません。単に親しく仲の良い人がいればそれでここに語られている「相互の交わり」に生きているとは言えないのです。単なる親しさによる交わりは、親しくない人との間に壁を作り、場合によっては対立を生むようなこともあります。そういう交わりは、教会において本当に分かち合われるべきものを分かち合う交わりにはなっていないのです。それゆえに、そのような交わりは「一つになる」ことをもたらさず、かえって対立や分裂の原因になるのです。ですから私たちは、「相互の交わり」を、人間的な親しさと勘違いしてはなりません。ここに語られているのは、み言葉を聞くことも大事だが、お互い親しくなって仲良くなることも同じぐらい大事だ、ということではないのです。

パンを裂くこと、祈ること
 教会の交わりにおいて、私たちが本当に分かち合うべきものは何か。それが、次の第三と第四のこと、「パンを裂くこと、祈ること」です。「パンを裂く」とは、食事を共にすることですが、それは単なる会食ではなく、主イエスが弟子たちとの最後の晩餐において、パンを裂き、弟子たちに渡して、「これはわたしの体である」と言われ、「わたしを記念するためこのように行いなさい」と言われた、そのパンを裂いて共に食べることです。つまりこれは、本日の礼拝において私たちがあずかろうとしている聖餐のことを言っているのです。聖餐のパンと杯、それこそ、私たちが教会において分かち合うべきものです。聖餐に共にあずかっている、そこに、私たちの交わりの中心があり、本質があるのです。それゆえに、教会ではメンバーのことを「陪餐会員」と呼ぶのです。聖餐に共にあずかっている会員、という意味です。聖餐に共にあずかり、パンと杯を分かち合っている、そこに私たちを本当に一つとする交わりの絆があるのです。
 聖餐のパンと杯を分かち合う、それはそれらが指し示している主イエス・キリストを分かち合うということです。分かち合うと言うよりも、主イエスの恵みに共にあずかる、主イエスと共に生きる、と言った方がよいでしょう。主イエスとの交わりが、兄弟姉妹との交わりの中心に据えられるのです。主イエスとの交わりの中で、兄弟姉妹と共に生きるのです。そこには祈りが不可欠です。聖餐において主イエスの十字架の恵みを味わい、その御体と御血にあずかる私たちは、祈りにおいて、主イエスとの交わりに生きるのです。その祈りをも、兄弟姉妹と分かち合っていくのです。教会は、祈りを分かち合う場でもあります。「パンを裂き、祈る」ことを共になしていくところに、教会における私たちの交わりの中心があるのです。そこにおいてこそ、私たちは一つになることができるのです。

財産の分かち合い
 42節にはこのように、最初の教会の人々の信仰の生活の姿、特にその交わりの基本的なあり方が語られています。そして43節以下には、このような交わりがさらにどのように展開されていったかが語られていくのです。44、45節にはこうあります。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。「すべての物を共有にし」の「共有に」という言葉は、先程の「相互の交わり」、即ち「分かち合い」と基本的には同じ言葉です。つまりここには、「相互の交わり」の具体的な姿が語られているのです。ここで分かち合われているのは、財産や持ち物です。自分の持っている財産や持ち物を売ってお金にして、それを教会に捧げ、それが「おのおのの必要に応じて」分配されたのです。共産主義というのはもともとこういうことを目指していたものです。「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」というのが共産主義だと昔習いました。共産主義、社会主義はその理想を実現することができなかったわけですが、ここには、教会においてそれが実行されていたことが語られています。財産のある豊かな者がそれを捧げ、それによって貧しい者が支えられ、両者が共に一つとなって共に生きていく、そういう交わりが生まれたのです。このことは全く自発的になされたことです。つまり、洗礼を受けたらば自分の財産を皆売り払って教会に寄付しなければならない、という決まりや掟があったわけではないのです。どれだけ教会に献げるかは、各自の自由でした。しかし多くの者がそのようにして互いの支え合い、分かち合いに生きていたのです。そしてこれは後からのことですが、このような教会における分かち合い、愛の業を整え、分配するために立てられていったのが、執事と呼ばれる奉仕者です。このような具体的な分かち合いがなされ、弱い者、貧しい者、いろいろな意味で援助を必要としている者が支えられていくことは、成立の当初から教会の大事な、また本質的な働きだったのです。教会は、余裕ができたら、弱い者、貧しい者への支えの業にも手を伸ばしていったのではありません。このような分かち合いは、教会における兄弟姉妹の、主にある交わりの、本来的な、欠かすことのできない内容なのです。

み言葉の分かち合いと物の分ち合い
 このことと、先程42節で見た「相互の交わり」との関係はどうなるでしょうか。先程は、教会における交わり、即ち分かち合いは、パンを裂くこと、祈ることにおいてなされると申しました。単なる人間的な親しさによる交わりではなく、主イエス・キリストによる救いの恵みに共にあずかり、主イエスの体と血を表す聖餐を分かち合い、祈りを共にすることが教会における私たちの交わり、分かち合いの中心なのです。そのことと、44、45節にある財産や持ち物の分かち合いは、別のことではありません。使徒の教え、即ちみ言葉を共に聞き、パンを裂く、つまり聖餐にあずかり、祈りを共にすることによって、主イエス・キリストとの交わりに生き、その恵みを分かち合う教会は、その分かち合いに支えられ、導かれて、お互いの弱さや貧しさを担い合い、助けを必要としている人を支え合い、仕え合う具体的な関係へと押し出されていくのです。み言葉の恵みの分かち合いは、財産や持ち物の分かち合いをも生むのです。み言葉の恵みは分かち合うけれども、物やお金は分かち合わない、弱く貧しく助けを必要としている者がいても手を差し伸べない、というのでは、み言葉の恵みをも本当に分かち合っていないと言わなければならないでしょう。それは先程の、み言葉は聞くが交わりに生きることはしない、というのでは、本当にみ言葉を聞いていることにはならない、というのと同じです。み言葉は私たちを、交わりへと押し出すのです。それは、物質的なものも含めて、いろいろなものを分かち合い、互いに支え合って生きる生活へと押し出すということなのです。
 またこのことは逆に言うとこういうことにもなります。44節にあるような具体的な分かち合い、支え合いが、単なる人間の親しさに基づく、個人的な好意によることになってしまうなら、それは教会を本当に一つにするものにはなりません。そこでは、富んでいる者が、自分の意に沿う仲間あるいは子分だけを集めて彼らを援助する、というようなことにもなってしまうのです。そういう不平等、えこひいきが起こり、分かち合いがかえってもめ事の種になってしまうのです。実際そのようなことが起こったことが使徒言行録のもう少し先のところに語られています。そういう問題を解決し、分かち合いが本当に適切になされていくために、後に執事と呼ばれるようになった務めが立てられていったのですが、それはともかくとして、分かち合いが、人間の好き嫌いや親しさに基づくものでなく、本当に教会としての、信仰に基づくものとなるためには、そこに先ず、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りを共にするという分かち合い、主イエス・キリストとの交わりに生き、その恵みに共にあずかる関係が必要なのです。そういう根本的な分かち合いがあるなら、人間的に親しいかどうか、相手のことをよく知っているかどうか、好きか嫌いか、ということに左右されずに、必要なところに必要な援助、助けを注いでいく真実の分かち合い、支え合いが可能になるのです。そしてそこにおいてこそ、教会は人間の好き嫌いから解放されて、主にあって本当に一つになって歩むことができるのです。

畏敬と好意
 このように、最初の教会の人々は、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りつつ、分かち合いに生きていました。それらはどれも、形は違っても、今日の私たちにおいても十分実現可能なことです。聖霊のお働きを受けて、私たちも、このような信仰の共同体を作り上げていきたいのです。それを妨げているものがあるとすれば、それは私たちの、変わろうとしない心、変えられようとしない頑なな思い、聖霊を拒む罪なのです。43節には、このような教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた」とあります。「すべての人」とは、教会の周りにいる、信仰者ではない一般の人々です。彼らが心に恐れを抱いた、それは恐怖ではありません。ここには自分たちの間にはない何かがある、という畏敬の念のようなものです。それは「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」からだとありますが、今日、教会が、このような生き生きとした信仰の共同体として一つになり、真実の分かち合いに生きていくならば、そのこと自体が現代の人々にとっては、驚くべきしるし、奇跡となるでしょう。また47節には、教会が「民衆全体から好意を寄せられた」ともあります。私たちが、使徒の教えをしっかり聞き、聖餐にあずかることを大切にし、主イエス・キリストの恵みを分かち合い、それゆえにお互いの間での分かち合い、支え合いに真実に生きていくなら、教会は周囲の人々から、畏敬と好意を寄せられるようになるのです。そして、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。聖霊なる神はそのような群れに豊かに働き、仲間を増し加えて下さるでしょう。今月私たちは特別伝道礼拝を行います。主が新たに加えて下さる仲間を見出し、迎え入れるために、祈りを合わせ、互いに良いものを分かち合いつつ歩んでいきたいと思います。

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