主日礼拝

キリストの名によって

「キリストの名によって」」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第9篇 1節-11節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第3章 1節-10節

 
伝道による衝突
 礼拝において使徒言行録を読み進めておりまして、本日から第3章に入ります。ここには、使徒ペトロとヨハネが、エルサレム神殿の門前で、生まれながら足の不自由だった一人の男を癒したという奇跡が語られています。この癒しの奇跡は、本日の箇所のみで終るのではなく、このことをきっかけにして、ペトロがエルサレム神殿の境内で説教をすることになり、そのために二人は逮捕されて投獄され、ユダヤ人の議会の取り調べを受ける、そのように教会に対する最初の迫害へとつながっていったことが、4章にかけて語られていきます。それは言い換えれば、教会が、この世の社会に対してみ言葉を宣べ伝え、伝道をしていった、それによって社会との間に摩擦、軋轢が生じた、ということです。教会の伝道によって起った、この世の社会との最初の出会い、そして衝突がここに語られていくのです。その発端となったのが、本日の箇所に語られている癒しの奇跡なのです。

教会の日常の中で
 この癒しの奇跡は、ペトロとヨハネという二人の使徒たちによってなされました。しかしそれは、この特別に力を持った二人の指導者が個人の業としてしたことではありません。そのことは、この話とその前のところ、2章の終わりのところとのつながりから分かります。2章の終わりには、先週の礼拝において見たように、ペンテコステに誕生したばかりの教会の姿、そこにおける信仰者たちの生活、交わりの様子が語られています。その46節以下に、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とありました。最初の教会の人々の信仰生活の中心は、42節にもあったように、使徒たちの教えを聞き、パンを裂くこと、つまり今日の聖餐に共にあずかることでした。その「パンを裂く」ことが、「家ごとに集まって」、つまり信者たちの家で行われていたと46節は語っているのです。最初から立派な教会堂があるわけはありませんから、最初の教会は、このように信者の家に集まって礼拝、集会をしていったのです。そしてそれと並んでここには、「神殿に参り」とあります。教会が誕生したのはエルサレムにおいてです。そこには当時、ユダヤ人たちの立派な神殿がありました。最初の教会の人々もそこに詣でて、神様を礼拝し、祈っていたのです。このことは、教会がその誕生の当初、ユダヤ人たちの信仰、今日のユダヤ教の中に身を置く群れだったことを示しています。教会が信じる主イエス・キリストの父なる神様は、旧約聖書が語っている、天地を創り、イスラエルの民を選んでご自分の民とし、その民を通して全ての民に祝福を与えて下さる主なる神様です。教会は神の民イスラエルの歴史を引き継ぐ新しいイスラエルとして誕生したのです。ユダヤ人で主イエスを信じた人々は、これまでと違う神様に鞍替えをしたのではなく、これまでも信じ、礼拝していた神様が、その独り子主イエスを救い主として遣わして下さったことを信じたのです。それゆえに最初の教会の人々は当初、エルサレムの神殿での礼拝に、他のユダヤ人たちと共に連なっていたのです。しかし次第に、ユダヤ人たちの多くが、主イエスをメシア、即ち救い主として受け入れず、教会を迫害するようになったために、ユダヤ教とは袂を分かつようになっていきました。また、ただ一度、ご自身の十字架の死によって罪の贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストを通して神様を礼拝する、という信仰においては、神殿での犠牲や祭儀はもういらないものだったのです。それゆえに各地に生まれていった教会は、エルサレム神殿に行かなくても、その場所で、十分な礼拝を捧げることができたのです。そのようにして教会はユダヤ教と、またエルサレム神殿と訣別していったのですが、それはともかく、最初の教会の人々が神殿に詣でて祈りをしていたことが2章の終わりには記されていたのです。ですから本日の3章1節で、ペトロとヨハネが「午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」のも、そういう教会の人々の普通の信仰生活の一環です。教会の日常的な信仰の営みの中で、この奇跡は行われたのです。このことをしっかりと頭に置いて、本日のみ言葉を味わっていきたいと思います。これは、特別な使徒たちの、特別な奇跡の物語ではないのです。聖霊の力によって歩んでいる教会の、伝道の姿がここに描かれているのです。つまり、私たちと無関係な、別の世界の話ではなくて、私たちの教会の歩みに関わる、私たちがここから大いに学ぶべき話なのです。

施しを乞う男
 「生まれながら足の不自由な男」が、「神殿の境内に入る人に施しを乞うため」に、「美しい門」と呼ばれていた神殿の門の傍らに運ばれて来て、毎日そこに置かれていました。4章22節には、この人が「四十歳を過ぎていた」とあります。「生まれながらに」というのですから、彼は、四十年を越える人生において、一度も、自分の足で立ち、歩いたことがなかったのです。当時、このような障害を持った人は自立して生活することができませんでした。物乞いとなり、神殿にお参りに来る信心深い人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。またそういう人に施しをすることが、信仰における立派な行為として賞賛されていました。ですから神殿に礼拝に来た人々は、喜んで彼に施しをしていたことでしょう。そういう相互扶助の精神が生きている社会でもあったのです。来週は特別伝道礼拝を行いますが、そこでの説教のテキストとした箇所も、同じような人の癒しの話です。当時そういう人たちが沢山いたのだろうし、またそのような立場にある人が施しを乞うのは当然のことだという共通意識が人々の間にあったのだと思います。そういうわけで彼は、神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを見て、施しを乞うたのです。

見る
 ここに、この癒しの物語の大事な鍵となる言葉があります。それは「見る」という言葉です。3節には、「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた」とあります。4節には「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」、5節には「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とあります。この3節に、「見る」という言葉が4回出てくるのです。その4つは原文においてはどれも違う言葉です。四つの、「見る」という意味の言葉が次々に語られているのです。この、「見る」という言葉から、この物語に込められたメッセージが豊かに浮かび上がって来ると思います。特に注目したいのは、4節の「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」というところです。この「じっと見る」には、「焦点を合わせる」というような意味があります。ただ漫然と見るのではなく、相手に焦点を合わせてしっかり見つめるのです。ペトロたちがこの足の不自由な人をそのようにじっと見つめたところから、この癒しの奇跡は始まります。そして先程申しましたように、そこから豊かな伝道が始まっていくのです。このことは、伝道がどのように始まるのかを教えています。伝道は、相手のことをじっと見ることから始まるのです。

他者を見つめる目
 じっと見る、それは今も申しましたように、相手に焦点を合わせて見ることです。相手がどのような人で、今どのような状態にあるのか、何を求め、何を必要としているのか、そういうことをしっかりと見つめるのです。それは、相手に関心を持つ、と言い替えてもよいでしょう。神殿には多くの人が集まって来ているのです。その人ごみの中で、ただ漫然と眺めていたのでは、施しを求めて自分を見つめている人のことが見えてきません。意識されません。その人に気づくことなしに前を通り過ぎてしまうことだってしばしばあるのです。目には入っているが全く見えていない、ということです。ペトロたちもひょっとしたら、既にこれまでにも何度も、この足の不自由な人の前を、全く気にとめることなく通り過ぎてきたのかもしれません。しかし今、彼らはこの人をじっと見るようになったのです。自分の目の焦点をこの人に合わせるようになったのです。何が彼らをそうさせたのでしょうか。それが、ペンテコステの出来事、即ち聖霊による教会の誕生であり、教会における日々の信仰の生活であり、教会の兄弟姉妹との、み言葉と聖餐と祈りを分かち合う交わりだったのです。教会に連なって生きる者となるとは、み言葉と聖餐と祈りにおいて、つまり礼拝において、主イエス・キリストをじっと見つめ、主イエス・キリストに焦点を合わせて生きる者となることです。それ以前は、私たちは誰でも、自分自身を見つめ、自分のことにのみ焦点を合わせて生きています。それが人間の罪です。その自分のことから目を離して、主イエス・キリストをじっと見つめる者となること、それが信仰です。そして主イエスに焦点を合わせていく時に、私たちは同時に、他の人、自分の周囲にいる人々にも焦点を合わせ、じっと見つめることができる者へと変えられるのです。それを妨げているのは、自分のことしか見つめようとしない私たちの罪なのです。ペトロたちも、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、教会に連なる者となり、その信仰に生きる者となったことによって、自分たちを見つめているこの足の不自由な人の視線に気づき、彼をじっと見つめる者とされたのです。そのように彼らが変えられたことによって、大いなる癒しの奇跡が起り、力強い伝道が始まったのです。聖霊のお働きによって教会に連なる信仰者として生きる私たちは、この、他者に焦点を合わせ、見つめる目、他者に関心を抱く心を祈り求めていきたいのです。私たちがそのように変えられていくこと、それが伝道の第一歩なのです。

私たちを見なさい
 彼をじっと見たペトロたちは、「わたしたちを見なさい」と言いました。既に彼らを見て施しを乞うたこの人です。そういう意味ではもう彼らのことを見ているのです。しかしペトロらは、それとは違う意味で、自分たちのことを「見る」ことを求めたのです。彼らがこの人のことをじっと見た、それと同じように、この人も彼らのことを、しっかりと見つめ、彼らとこの人との間に、互いに相手をしっかりと見つめる、人格的な関係が生まれることを求めたのです。ここに、伝道における第二の重要なポイントがあります。伝道は相手をじっと見ることから始まると申しました。しかしじっと見ているだけでは伝道にはならないのです。相手に、「わたしたちを見なさい」と語りかけていくことが必要です。「わたしたち」つまり自分のこと、自分と共に生きる教会の人々のこと、教会のことを、しっかり見てもらうのです。私たちは、伝道において、このことをきちんと語っていこうとしないところがあるのではないでしょうか。自分のこと、教会のことを、あまりしっかり見つめられたら困る、自分にも、教会にも、いろいろと欠けがあり、問題だらけだ、そういうところをあまり見られたら、伝道ができない、と思ってしまうことが多いのではないでしょうか。だから、「自分のことなどは見ずに、イエス・キリストを見つめてください」などと言うこともあります。けれどもそれは言い訳です。伝道するというのは、「私たちを見なさい」と言うことです。自分がじっと見られることから逃げていたら、伝道はできないのです。

何かもらえると思って
 「わたしたちを見なさい」と言われたこの男は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」と5節にあります。このことも、伝道を考える上で大事なポイントとなります。彼は、何か施しをもらえると思ってペトロたちを見つめたのです。つまり彼らを見つめているこの男が求めているのは、教会が宣べ伝え、与えようとしているものとは違うのです。「私たちを見なさい」と私たちが、教会が語る時に、それを聞いた人々が私たちに、教会に期待して求めてくるものは、教会が語り伝え、与えようとしているものではないことの方が多いのです。ここにはそういう現実が見つめられています。そしてこの話は、それでもよいのだ、ということを私たちに教えているのです。人々が、教会に、私たちに求めてくるもの、期待してくるもの、それは様々です。神様のみ言葉を、キリストの福音による救いを最初から求めてくる人などいません。誰でも、それぞれ自分が欲しいと思っているもの、自分にはこれが必要だと思っているものを求め、期待して来るのです。教会に行けば温かい交わりが得られると思って来る人もいるでしょう。宗教的教養や情操が深められると思っている人もいるでしょう。教会の音楽に引かれて、讃美歌を歌うために、あるいはパイプオルガンを聞くために来る、という人もいるでしょう。教会での結婚式にあこがれて来るとか、恋人とクリスマスの雰囲気に浸るために来る、ということもあるでしょう。そのような様々な思いを持って教会を見つめ、期待して来る人々に対して、私たちは、「そんなのは動機が不純だ」などと言ってはならないのです。ペトロたちがもしも彼のことをそんなふうに言って退けてしまったら、この話はここでおしまいです。伝道の実りはないのです。「私たちを見なさい」という教会の呼び掛けに応えて、「何かもらえると思って」私たちを、教会を見つめる人々を、私たちは決して退けてはなりません。大事なことは、そういう求めをもって来る人々にきちんと向き合い、そしてペトロと共に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語っていくことなのです。

持っているもの
 「わたしには金や銀はない」、つまり、彼が、施しがもらえるだろうと思っている期待に、私たちは、教会は応えることはできないのです。教会は、人々の様々な期待、ニーズに応えるよろず屋ではありません。様々な期待を持って来る人々を退けてはならないし、きちんと向き合わなければなりませんが、それはその期待に応えようと必死になることではありません。私たちは、教会はそこで、「持っているもの」をこそ示し、与えなければならないのです。それは「ナザレの人イエス・キリストの名」です。教会が持っているものとはこれであり、これのみなのです。

イエス・キリストの名
 「イエス・キリストの名」。名前というのは聖書において、その人の存在そのもの、その全体を代表するものです。ですから「イエス・キリストの名」を与えるとは、イエス・キリストという方を、その方によって成し遂げられた救いの恵みを、そしてその方との交わりを与える、ということです。このイエス・キリストのみ名こそが、生まれつき足が不自由で、立ったことも歩いたこともない彼の足を強め、立ち上がらせ、歩けるようにする力を持っているのです。彼は、自分はもう立ち上がったり歩いたりすることはできないと思っています。その絶望の上で、生きて行くのに必要な施しを求め、期待しています。それ以上のことは求めていない、求めることすらできない、希望の持てない生活の中にどっぷり浸っているのです。しかし教会は、私たちは、彼が期待している以上の救いを、喜びを、希望を持っています。それは「イエス・キリストのみ名」によって与えられる救い、喜び、希望です。あなたが期待しているものは私たちにはないけれども、それ以上の、本当にあなたに必要なもの、本当にあなたを生かすもの、本当の希望を与えるものがここにあります、そう語っていくことが伝道なのです。

与えられたもの
 「持っているもの」という言い方は、何か私たちが、教会が、イエス・キリストの名を自分の所有物にしてしまっているようで、気になるかもしれません。ペトロは彼をイエス・キリストの名によって癒したわけですが、イエス様に祈ってみ心を問わなくてよかったのだろうか、こんなふうに勝手にイエス様のみ名を使うことは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒にも違反するのではないか、と思うかもしれません。しかしそれは余計な心配です。ペトロはここで主イエスを自分のために利用しているのではありません。むしろ主イエスのみ心を行っているのです。この癒しが主イエスのみ心であることは、彼には明らかです。何故なら、このような体の障害は当時、罪の力、神様に敵対する力の支配によって起こると考えられていたからです。そこからの癒しは、罪の力、悪魔の力に対する神様の恵みの勝利を意味します。主イエスの十字架と復活において、まさにそのことが実現したのです。そしてペトロ自身、罪の力、神様に敵対する力の虜になり、支配されてしまっていたところから、主イエスの十字架の死と復活によって救われ、罪の赦しを与えられ、今このように神様を信じ、礼拝をささげ、祈り、み言葉を宣べ伝える者とされているのです。自分に与えられたのと同じ恵み、救いを、今神様が、主イエスが、この人にも与えようとしておられる、そのことをペトロははっきりと確信していたのです。つまり「私たちが持っているもの」とは、私たちも、神様の、主イエスの恵みによって与えられたものです。主イエス・キリストのみ名を与えられ、それによって新たに生かされ、喜びと希望を与えられているがゆえに、それを「持っているもの」として人に与えることができるのです。
 先程、伝道とは、「私たちを見なさい」と言うことだと申しました。そのことから逃げていては伝道はできない、とも申しました。それはしかし、人に見られても恥ずかしくない立派なクリスチャンにならなければならない、ということではありません。「私たちを見なさい」と言うその「私たち」とは、自分の力で神様に従って立派に生きている私たちではないのです。むしろそれができずに、罪と汚れにまみれ、自分の力ではどうしようもない罪人である私たちです。その私たちが、主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、復活によって新しい命の約束を与えられ、聖霊の力によって教会に加えられ、主イエスと共に歩むことを許されている、主イエス・キリストのみ名によって、苦しみや悲しみや絶望の中から立ち上がり、歩くことができるようにされている、その私たちです。その私たちをしっかりと見てもらうことが、伝道なのです。

教会に連なる者へと
 この人は、教会の伝道によって、救われました。ペトロが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りかけ、手を取って立ち上がらせたところ、彼は踊り上がって立ち、歩きだしたのです。それまで考えてもみなかった、期待すらしていなかった癒しが実現したのです。立ち上がり、歩き出した彼は何をしたのでしょうか。「そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」のです。神様を賛美し、礼拝するようになった、それが、彼が真実に救われたことの現れです。神様による救いは、人を、神様を賛美し、礼拝する者へと新しくするのです。さらに、ペトロたちと共に彼が神殿の境内に入って行ったのは、神様に感謝の祈りを捧げるためでもありますが、むしろ大事なことは彼がペトロたちの後について行ったこと、つまり使徒たちの教えに聞き従う者となったということです。彼は教会に連なる信仰者の一人になったのです。4章22節に彼の年齢が記されていることがそれを暗示していると言えるでしょう。2章の終わりの47節に、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とありましたが、彼も、「救われる人々」の一人として、「仲間に加え一つにされ」たのです。教会の伝道はこのようにして進展していきます。それは今も少しも変わることがありません。私たちは来週、特別伝道礼拝を行います。聖霊のお働きによって、そこでも、これと同じことが起こるのです。そのことを祈り求めながら、そして本日この話において、特に「見る」という言葉を通して示された伝道のいくつかのポイントをかみしめながら、来週に向かって歩んでいきたいと思います。

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