「なぜ怖がるのか」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第65編6-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第4章35-41節
・ 讃美歌 ; 17、456、81(聖餐式)
たとえから奇跡へ
マルコによる福音書の第4章は、主イエスの神の国についてのたとえ話がまとめられている箇所です。本日お読みした箇所は、たとえ話ではありません。内容的には、どちらかと言うと5章に記されていることであると言って良いでしょう。本日の箇所から5章にかけては主イエスのなさった奇跡についての記事が記されているのです。マルコによる福音書は、主イエスが語られた4つのたとえが記された後、主イエスがなさった4つの奇跡が記されているのです。主イエスは言葉をもって神の国を語られた後、業によってご自身の権威を示されることによって、神の国の到来をはっきりと示そうとされたのです。主イエスが神の国のたとえを語るに際して、繰り返し言われていたことは「聞く耳のあるものは聞きなさい」ということでした。神の国のたとえは、「御言葉を聞く耳」、「信仰」を持ってしなければ理解することが出来ないことなのです。たとえ話が、語られる時に、大切なのは信仰を持って受け止めるということです。そして、このことは、これから語られていく奇跡物語においても同じです。本日の箇所で、主イエスは嵐を静められた後、「まだ信じないのか」と言われています。奇跡においても、信仰が求められているのです。私たちが、主イエスの奇跡に触れる時、大切なのは、科学的に説明しようとすることでも、迷信的に信じることでもありません。私たちに及んでいる、神様の御支配を信仰を持って聞くということが求められているのです。主イエスのたとえに聞いた時と同じように、信仰が与えられることをも求めつつ、主イエスの奇跡に触れてみたいと思います。
主イエスと漕ぎ出す弟子達
「その日の夕方になって、イエスは『向こう岸に渡ろう』と言われた」とあります。主イエスはこの時、舟の上で語られていたのです。4章の書き出しの部分、1節には次のようにあります。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこでイエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆湖畔にいた」。主イエスの周りには、主イエスを求めてやってくるおびただしい群衆がいました。病気で苦しむ人や悪霊に取り付かれた人々が主イエスのことを聞きつけてやってきたのです。群衆に主イエスは押しつぶされそうになるほどでした。主イエスは、周りを取囲む大勢の群衆と距離を取るために、舟に乗って、そこから岸にいる群集に向かって語られたのです。ただ押しつぶされる危険を避けられたというだけではありません。自分の願望をかなえてもらえるだろうという思いから周りに集まってくる人々に対して一線を引かれたのです。人々は、主イエスが語られた神の国、真の神様の支配を理解しませんでした。そして、自分の思い描く救い主を求めて主イエスの周りに押し寄せてきたのです。「主イエスを押しつぶすほどの群衆」というのは、そのような人々の思いを表しているのです。
舟に乗って、神の国のたとえを語られた主イエスは、再び、岸に戻ろうとはされませんでした。群衆のいる岸にではなく、向こう岸に渡ろうとされるのです。ここで、主イエスは弟子達だけを連れて、向こう岸に渡られるのです。ここには、群衆とは異なる、主イエスの弟子たちの姿が記されています。群衆は主イエスが語られる神の国のたとえを聞いた後、主イエスと歩みを共にはしません。それぞれの生活へと戻っていくのです。しかし、主イエスの弟子達は異なります。「向こう岸に渡ろう」という主イエスのお言葉に従って湖に漕ぎ出すのです。
現代においても多くの人々が主イエスの言葉を聞き、イエス・キリストの周囲に集まります。「イエス・キリスト」は私たちの歴史の中を歩まれた方であり、聖書はそのことを記しています。信仰を持たなくても、聖書を読むことが出来、イエス・キリストについての知識を得ることが出来るのです。それぞれの思いに従って聖書が読まれ、様々なイエス像が描かれています。しかし、そのように、イエス・キリストに触れ合う全ての人が、信仰を持ち教会に加えられてキリスト者となっているわけではありません。そこで、キリストに捕らえられることなく、再び自らの歩みへと帰って行くのです。
キリスト者とは、どのような人かと問いに対して、今日の聖書に従って、一つの答えを出すとするならば、「主イエスの乗っておられる舟に乗せていただいて、共に向こう岸に漕ぎ出す人々」であると言っていいでしょう。主イエスに弟子として召しだされ、主イエスに従いつつ共に歩むということです。主イエスのなさる救いの業の後に従って歩んでいく。向こう岸を目指している主イエスの後についていくのです。しかし、向こう岸に行くというのは、世の歩みを捨て去ってしまうことを意味しません。主イエスと共に、世へと出て行くのです。
嵐の中の舟
主イエスの言われた通りに弟子達は湖に漕ぎ出します。主イエスの弟子達の何人かは漁師でした。少なくとも、シモン、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの4人は、ガリラヤ湖で漁をしていた人々なのです。この湖で何年も舟を漕いできた人々です。舟を漕ぐことも、ガリラヤ湖の気候も、誰よりも良く知っていたはずです。ここぞとばかりに張り切って舟を漕いだに違いありません。主イエスに「先生、ここは私たちがやりますから。お休みになっていて下さい」というようなことを言ったかもしれません。しかし、この舟を嵐が襲うのです。主イエスと一緒に漕ぎ出したからといって、その歩みが順風満帆なものになるわけではありません。キリスト者として世に漕ぎ出して行く、主イエスと共に、御言葉に押し出されて、新たに漕ぎ出すのです。しかし、それは、何の苦労もない歩みなのではありません。嵐と言わざるを得ないことを経験するのです。世に出て行く中で、様々な苦しみと出会うのです。
この時、主イエスと弟子たちが乗った舟について、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されています。弟子達は必死になって対応したことでしょう。しかし、嵐による風は一向に収まる気配はなく、高い波が、舟の上からか押し寄せ、何度すくいだしても、後から後から水が舟に入ってくるのです。漁師であった弟子達は、幾度となく嵐を経験していたことでしょう。湖のことなら、主イエスよりもはるかに詳しかったと思います。その知識、経験を生かして舟を漕いだのです。しかし、主と共に漕ぎ出した時に、彼らが、対応しきれないほどの嵐が襲ったのです。それまで経験したことが無かったような嵐だったのでしょう。ここで、激しい突風とは、主イエスの弟子になった故に遭遇する嵐と言えます。主イエスに従って、主イエスと共に船出をしなければ、この嵐には遭遇することはなかったのです。主イエスと共に漕ぎ出す時に経験する嵐というものがあるのです。
弟子達の恐れ
この時の嵐にあった弟子達は、それを怖がりました。これは、主イエスと共に歩んでいながら、主イエスを信じていなかったことによるものです。もっと正確に言うのであれば、主イエスが共にいて下さることによって自分達に及んでいる神のご支配を信じることが出来なかったのです。
主イエスご自身は、この嵐を全く恐れてはいません。主イエスにとっては恐れるようなことではなかったのです。「黙れ」と叱りつければ静められるほどのものなのです。ですから、主イエスはこの時、慌てることもなく、艫の方で枕をして眠っておられたのです。主イエスが、たとえを語られて疲れられていたとか、人一倍鈍感だったというのではありません。恐れるに値しないほどの出来事だったのです。ですからもし弟子達が、主イエスを信じていたなら、自分達の舟に乗っていて下さる主イエスに信頼して、全く恐れることはなかったのです。しかし、そのことを恐れてしまうのです。それは、弟子達は主イエスが共にいてくださることに信頼していなかったということです。私たちは、主イエスと共に漕ぎ出す歩みの中で様々な出来事と直面します。そこで、自らの知恵や経験を頼って、それに対応しようとします。しかし、その中で、主イエスに信頼することをしなくなってしまうということがあります。そのような時に、この世の荒波に対して、私たちの不信仰によって恐れが生じるのです。 嵐によって荒れていたのは風や湖でした。しかし、この嵐と直面して何より荒れていたのは弟子達の心の中であったと言っても良いでしょう。今まで経験したことのない困難を前にして恐れおののく弟子達の心は、まるで嵐のように、荒れていたのです。主に従って、主と共に舟を出したにも関わらず、いつの間にか、主のご支配に信頼できなくなってしまうのです。自分の知恵と経験を生かして必死になって舟を漕ぐあまり、この業は自分一人でなしている業であるかのように思ってしまうのです。そこで、人間の目から見た、激しい困難にぶつかる中で、主が共にいることを忘れてしまうのです。
おぼれてもかまわないのですか
弟子達は、主イエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言います。「私たちを助けて下さい」と言うのでもなく「舟が沈みそうなので手伝って下さい」と言ったのでもありません。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言うのです。ここには、弟子達の主イエスを非難する思いが現れています。「嵐にあって沈みそうなのにも関わらず、あなたは私たちが苦労しながらおぼれていくままにしておくのですか」と言うのです。「あなたが漕ぎ出せといったから漕ぎ出したのではないですか」という思いもあったかもしれません。これは、主に仕える時に、私たちも又、発することがある言葉ではないかと思います。「私は、あなたに従って来たのに何で何もしてくださらないのか」と言うのです。主イエスは、自分達の苦労は何も分かっていない。直面している苦難に何の手も差し伸べてくれないという思いです。自分が必死になっているにも関わらず、その苦難が取り除かれず、何の手も差し出してくださらない主イエスに不満をぶつけるのです。
なぜ怖がるのか
主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われます。風と、荒れた湖に向かって言われたのです。そうすると、風はやみ、嵐はおさまるのです。主イエスは、ここで、嵐を神の子としての権威によって静められるのです。全てを治められている神の権威を示すことによって、神様のご支配の到来を示しているのです。
ここで言われている「黙れ、静まれ」という言葉は、荒れている風や湖に言われている言葉です。しかし、同時に、嵐に直面して、心が荒れ狂い、風が吹き荒ぶ弟子達にも言われているとも考えられます。この言葉は、主が共にいて下さることを忘れて、日々の生活の中で、心配事に支配され、様々なものを恐れている信仰者の荒れ狂う心に向かって語られているのです。主イエスは、嵐を静められ、続けて、弟子達に向かって「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」と言われます。弟子達の恐怖とは、主を信じないことから来る恐怖です。主を信じていれば恐れる必要の無いものを恐れていたのです。もちろん、主イエスを信じるとは、神のご支配の到来を信じるということですが、そのご支配を信じることが出来ないのです。そのような中で、安心することが出来ず、怖がっているのです。そのような者に対して、主イエスは、私が共に舟に乗っているのに、何故恐れるのかと問われる。ご自身のことを理解しない弟子たちを悲しまれながら、私を信じて歩んでほしいと願われるのです。
この方はどなたなのだろう
弟子達は非常に恐れて「いったい、この方はどなたなのだろう。風や、湖さえも従うではないか。」と互いに言い合ったとあります。これは、奇妙なことです。主イエスが寝ているのを起こして文句を言った弟子達です。しかし、いざ主イエスが嵐を静められると、そのことを恐れて、「この方はどなたなのだろう」と話し合うのです。確かに、主イエスに助けを求めた。けれども、誰も、嵐を静められるとは考えていなかったのではないでしょうか。せいぜい、水を汲みだすのを手伝って下さるくらいだろうと思っていたのかもしれません。しかし、思いもよらず、風や湖を従わせたのです。襲いかかる、嵐に立ち向かうというよりも、その困難を根本的に退けられるのです。
ここで「非常に恐れた」とあります。主イエスの権威を前にして生じた恐れです。風や嵐に対する恐れとは異なります。神の権威に触れた時の人間の恐れです。詩編65編の詩人は歌います。「大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べのたつところには喜びの歌が響きます」。ここで言われている、神の権威を示すしるしを見た時の畏れを弟子たちは経験したのです。この方は、自分達の思いをはるかに超えた方だということを経験して畏れるのです。そして、この方はどなたなのかという問いが起こるのです。私が考えていたこととは全く異なる仕方で、私たちを救ってくださるこの方はいったいどなたなのだろうと問うのです。
弟子達の歩み
この後の主イエスと共に歩んでいく弟子達の歩みは、この問いをいつも抱き続ける歩みでした。自分の思いによって理解しようとする、捉えようとする度に、自分の思いとは異なる、主イエスの姿に直面したのです。主イエスの、神様の御心に従って歩む歩みが進めば進む程、弟子達の無理解も深くなって行きます。主イエスは、ご自身が受けるべき十字架を前にして、必死になって祈られました。この苦しみが過ぎ去ることを祈ると共に、御心が行われるようにと祈られるのです。しかし、この時、祈りの間目を覚ましているようにと弟子たちに命じておいたにも関わらず、弟子達は目を覚ましていることは出来ませんでした。自らの苦しみにもだえ、それでもなお神の国のために歩もうとされる主イエスが必死に祈る間にも弟子達は眠りこけてしまっていたのです。まさに、神のご支配の実現のために、主イエスが苦しみと向かい合われている間に、主イエスと共に祈ることすら出来なかったのです。この方はお一人で十字架に向かわれ、私たちの罪と戦い、復活によって罪と死の力に勝利された方でした。私たちに降りかかる最大の困難は、神に逆らって歩んでいるという自らの罪による死の力です。しかし、主イエスによってその苦しみが担われているのです。私たちの本当の嵐というべきものと向き合われているのは主イエスなのです。
主イエスと共に歩む中で、ずっと主イエスのことを理解しなかった弟子たちは、主イエスの十字架と復活を知らされることによって、本当の意味で「この方はどなたなのか」を理解しました。この方こそ、神の子である。自らが裏切ってしまい、あるいは見捨ててしまう中で、一人十字架に赴かれた、主イエスの業の中にこそ、真の神の支配が現されている。復活の主との出会いの中で、はっきりと知らされたのです。
主イエスが誰であるか、ということを本当に知ることが出来るのは、この方の十字架と復活を示される時です。そこにおいて、自分の罪と戦って下さり、父なる神との関係を回復して下さるこという形で、神様の御心をなしてくださっているのです。私たちは様々な困難、苦しみと直面します。しかし、どのような時にも安心していることが出来る。主イエスによって神様に赦されたものとなっているからです。
向こう岸を見つめる歩み
主イエスの歩みは、いつも「向こう岸」を指し示す歩みでした。人々と歩みを共にしつつも、神様のご支配の実現に向けて歩まれた方です。人々の思いや願望に留まることなく、いつも漕ぎ出したのです。弟子たちの無理解を嘆きながらも、苦難への道を歩み続けたのです。最終的には、神様の御心のためにお一人で十字架に赴かれたのです。
この聖書の箇所における、舟は教会であると読まれてきました。私たちは教会に連なりつつ、世へと出て行きます。それは、人間の罪の世にある嵐に見舞われることがある歩みです。自分自身の罪によって、主を見失うという嵐も経験するでしょう。しかし、私たちの根本的な苦難は主イエスが既に取り除いてくださっているのです。ですから私たちは、安心して、漕ぎ出すことが出来るのです。私たちこの礼拝の場から世へと出て行きます。それは、主と共に、「向こう岸」に向かって行く歩みです。私たちが働くそれぞれの場にあって、神の国の到来を知らされた者として、嵐の中にあっても主の救いに信頼しつつ歩むのです。そのような歩みによって、神様のご支配を証しするものでありたいと思います。