主日礼拝

信仰者は愚か者

「信仰者は愚か者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第4章6-13節
・ 讃美歌 ; 12、165、529

 
信仰者は愚か者
 本日の説教の題を「信仰者は愚か者」としました。いささか奇を衒った題だと思われるかもしれません。びっくりするような題をつけて興味を引こうとしているのだろう、と思った方もいるでしょう。そういう意図がないわけではありません。しかし、決してそれだけではないのです。本日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙一の第4章6~13節で、使徒パウロが語っているのはまさにこういうことなのだと思うのです。その10節に、「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが」とあります。キリストのために愚か者となっている、それがパウロを始めとする信仰者たちの姿なのだ、と言っているのです。信仰とは、キリストのために愚か者となることなのです。パウロがこのように語るのは、このことが分かっていない人々が多いからです。今読んだ10節の最初の文章全体はこうなっています。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」。「あなたがた」とは、この手紙が書き送られたコリントの教会の人々のことです。コリント教会の人々は、キリストを信じることによって「賢い者」になっているのです。パウロたちがキリストのために愚か者になっているのとは正反対です。そしてこれは決して、「キリストを信じて賢い者になれてよかったね」ということではありません。これまで読んできたところから分かりますように、パウロはここで、コリント教会の人々の信仰における間違いを指摘し、正しい信仰に立ち戻らせようとしているのです。つまりキリストを信じて賢い者となっている彼らの姿は、信仰者として不適切な、間違ったあり方なのです。キリストのために愚か者となることこそが、正しい信仰のあり方なのです。ですから、「信仰者は愚か者」という題は、奇を衒っているのでも何でもない、パウロがここで主張していることそのままなのです。そのことを、本日の箇所から読み取っていきたいと思います。そして「キリストのために愚か者となる」とはどういうことなのかをご一緒に考えていきたいのです。 高ぶり
 コリント教会の人々が陥っている信仰的な間違いを、パウロは7節の後半でこのように言い表しています。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。あなたがたは高ぶりに陥っている。それは、いただいたものを、いただかなかったような顔をしていることだ、とパウロは言っています。この「いただく」というのは、人から何かをもらう話ではありません。神様からいただくのです。自分たちの信仰も、その信仰によって主イエス・キリストの救いにあずかり、神様の恵みの下に生きている生活も、全ては神様が恵みによって与えて下さったものなのです。ところが、それをいただかなかったように、つまり自分がもともと持っている、あるいは自分の力で獲得したものであるかのように思ってしまう、コリント教会の人々はそういう高ぶりに陥っていたのです。そのような高ぶりは、自分が得た信仰を誇る思いを生みます。その誇りの拠り所として、「自分は何々先生の教えを受けている」ということが語られるのです。そのようにしてある指導者に結びつく党派が生まれ、それらが対立し合うようになっていたのです。パウロもある人々から、自分たちのグループの頭として担がれていました。「わたしはパウロにつく」と言っていた人たちがいたのです。その他に、「わたしはアポロに」と言っている人も、「わたしはケファ、つまりペトロに」という人も、さらには「わたしはキリストにつく」と言っている人たちもいたと1章12節に語られています。パウロはこの手紙で、そういう党派争いがいかに無意味な、主イエス・キリストを信じる信仰と相容れないものか、ということを語っています。そして、党派争いが生まれる根本的な原因に、神様から与えられた賜物を、自分の力で得た自分の所有物であるかのように思う高ぶりがある、と言っているのです。

キリストを信じて賢い者となる?
 この高ぶりに陥っている人々の姿が、8節ではこのように表現されています。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」。「満足し、大金持ちになり、王様になっている」。つまりコリント教会の人々は、信仰者になったことで、自分たちが非常に豊かになり、偉くなったように思っているのです。それは勿論金銭的に豊かになったとか、社会的に高い地位についたということではありません。信仰によって精神的に豊かになり、人間として立派になったということです。それが10節のあの「キリストを信じて賢い者となっている」ということです。そしてそういう自分に満足し、誇っている、それがコリント教会の人々の高ぶりの姿だったのです。翻って私たちはどうでしょうか。私たちは、信仰者になったからといって、自分が豊かになったり、偉くなったり、賢くなったなどとは思っていないかもしれません。けれども、信仰を持って生きるというのは、ある清さ、正しさ、立派さ、優れた知恵を身につけて生きることだ、あるいは、それを目指して歩むことだ、という思いは私たちにもあるのではないでしょうか。信仰者、クリスチャンは本来、精神的に豊かで、立派で、清く正しい、賢い者であるはずだ、自分はまだそういう境地には達していないから、誇ったり、自分に満足したりはとてもできないけれども、少なくともそうなることを目指しているのだ、という感覚は、私たちの中にもかなり根深くあるのではないかと思うのです。そうだとすれば、私たちも基本的にはこのコリント教会の人々と同じように、信仰者として生きることは、精神的に豊かな者、力ある者、賢い者となることだ、と考えていることになります。コリントの人々は、自分たちはそれができている、とある意味で無邪気に考えていたが、私たちは、そこまでは行っていないと思っている、それだけが、彼らと私たちの違いだということになるのです。そして、自分がまだ本当に豊かな者、力ある者、賢い者になれていないことを知っている分だけ私たちの方が謙遜でよろしい、ということになるかもしれません。そして私たちはひょっとすると、そのような謙遜な思いを持って努力している自分に満足し、自分の謙遜さを誇っているのかもしれません。

世の終わりには
 ところで、パウロはここで、信仰者が、豊かな者、王のような力ある者になるなどと考えてはならない、と言っているのではありません。8節の後半には「いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と言われています。この言葉の意味は少し分かりにくいですが、要するに、彼らが本当に王様になっていたらよかったのに、ということです。本当はそうなっていないのに、既にそうなったかのように思い込んでいるところに彼らの高ぶりがあるわけですが、しかしそれは、王様になると考えること自体が間違っているのではないのです。確かに、私たち信仰者には、王様のように力ある者、本当に豊かな者となる希望が与えられているのです。それは、主イエス・キリストの王としてのご支配が完成し、確立する時に、私たちもその栄光のご支配にあずかる者とされる、ということです。それは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる時に与えられる恵みです。つまり私たちはこの世の終わりには、確かに王様になることが約束されているのです。そのことを待ち望みつつ生きているのがキリスト信者なのです。ですから「彼らが本当に王様になっていたらよかったのに」というのは、もう既に主イエスがもう一度来られ、この世の終わりが来ていたらよかったのに、ということです。そうであれば、「わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはず」なのです。キリストの再臨の時には、信仰者たちが皆、キリストの栄光とご支配にあずかる者とされるはずだからです。この言葉はそう読めばわかるし、そうでなければ意味をなさないでしょう。パウロは、自分自身も、世の終わりには主イエスの王としてのご支配に連なる者とされる希望をもって歩んでいます。しかしそれは、世の終わりまでは実現しないことなのです。ところがコリントの人々は、それがもう実現してしまっているかのように、満足し、自分たちは豊かな者、強い者となったと思っている。まだ世の終わりが来ていないのに、世の終わりの救いの完成を先取りしたつもりになってしまっているのです。そこに彼らのとんでもない高ぶりがあるのです。

わたしたちとあなたがた
 パウロはそのような彼らの高ぶりを指摘するために、彼らが「私たちを抜きにして勝手に」王様になっている、と言っています。このように訳すと、「俺たちを差しおいて自分たちだけ王様になるなんてずるいぞ」と文句を言っているように感じられますが、ここの原文には「勝手に」という言葉はありません。「私たちを抜きにして」というのも、単純に「私たちなしに」という言葉です。「あなたがたは、私たちなしに王になっている」と言っているのです。それは、ずるいぞ、ということではなくて、私たちはあなたがたのように王になってはいない、ということです。つまりパウロはここで、王になっている、と思っているコリント教会の人々と、自分たち、パウロを始めとする使徒たち、伝道者たちの違いを強調しているのです。あなたがたは、信仰者になって、豊かな、力ある、立派な、賢い者になったように思い、王様になったように満足している、しかし、そのあなたがたに福音を宣べ伝えた私たちはそのようになってはいない、と言っているのです。それではパウロたちはどのようになっているのか。それが9節です。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」。私たちは見せ物にされている、とパウロは言っています。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えている私たちは、見せ物のように人々に見られている。それは決して尊敬されて、好意的に見られているということではありません。死刑囚のように最後に引き出される者とされている、ともあります。当時のローマ帝国には、各地に劇場が建てられ、そこで人々のための見せ物、ショーが行われていました。その中で、奴隷や死刑囚を猛獣と戦わせるようなことが行われていたのです。後の迫害の時代になると、キリスト教徒を猛獣に食い殺させることも行われました。そういう、私たちにすれば見るに耐えない残酷な見せ物が行われ、それが、為政者に対する民衆の不満を解消させるはけ口となっていたのです。使徒たち、伝道者たちは、そのような残酷な、蔑みの目で見られつつ、多くの苦しみを背負って歩んでいるのです。その具体的な姿が11節以下に語られています。「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。これは、豊かになり、王様のようになり、賢い者になったと自分に満足している人々とは正反対の姿です。その、あなたがたと私たちとの対比を鮮明に語っているのが10節なのです。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」。パウロたちは、愚か者、弱い者、侮辱される者となっている、しかしあなたがたは賢い者、強い者、尊敬される者となっている。この違いはどうしたことか、いったいどちらが、信仰者としての本当の姿なのか、とパウロは言っているのです。

キリストのために愚か者となる
 信仰とは、賢い者、強い者、人々から尊敬される者となることではありません。そういうことのために努力していくことでもありません。信仰とは、愚か者となることです。弱い者、侮辱される者となることです。それは、世間の人々が愚かだと思うことをわざとするとか、人から軽蔑されることを平気でする、ということではありません。「キリストのために愚か者となっている」とあるように、これは主イエス・キリストを信じ、キリストと結びつくことによるのです。キリストを信じる者となる時、私たちは、賢い者になるのではなくて、愚か者になるのです。それはどういうことでしょうか。コリントの人々のことを考えてみれば分かります。彼らは、信仰によって自分たちは立派になった、知恵ある者となった、と思っています。多少なりとも立派になったことがあるとしたら、それは全て神様が与えて下さった恵みであるのに、それを自分の持っている立派さや知恵であるように思って誇っています。それが、キリストを信じて賢い者となったということです。つまり、賢い者とは、自分の知恵や力によって生きている者、ということなのです。しかし、主イエス・キリストを信じるとは、自分の知恵や力にではなく、ひたすら主イエス・キリストに依り頼んでいくことです。自分の賢さを拠り所とすることをやめて、むしろ愚か者となることです。愚か者は自分の中に生きる支えを何も持っていません。だからひたすら主イエス・キリストに支えを求めていくのです。そのようにひたすら主イエス・キリストにすがって生きる者の姿は、決して格好のよい、見栄えのよいものではありません。弱い者、軽蔑すべき者と見られるのです。それに対して自分の知恵と力によって生きていくことは、格好のよいことです。賢い、強い、尊敬すべき者に見えるのです。私たちはどちらの生き方を求めているのでしょうか。信仰によって知恵ある賢い者となり、強い、立派な、尊敬される者となろうとしていたのがコリント教会の人々でした。しかしパウロによればそれは、全て神様からいただいたものである知恵や力を、いただかなかったような顔をして、つまり自分の力で得た自分のものであるように思って、キリストにではなくその自分が持っている知恵や力を拠り所として生きているという高ぶりなのです。言い換えれば彼らは、キリストというアクセサリーを身につけて颯爽と生きているのです。信仰という素敵な飾りを身につけて、自分はこんなにきれいになった、立派になった、賢くなったと思っているのです。パウロは、キリストを信じるとはそういうことではない、と言っています。キリストを信じるとは、自分の立派さ、美しさ、賢さ、あるいは自分には何が出来るかという思いを捨てて、キリストにつながることです。キリストの腰巾着になり、どんなに格好が悪くても、キリストに依り頼んで生きることです。自分の中には拠り所となるどのような立派さも、美しさも、賢さもない、愚か者であることを認めて、キリストによりすがることです。11節以下のパウロたちの、侮辱され、迫害され、ののしられ、世の屑、すべてのものの滓とされている姿は、そのようにひたすら主イエス・キリストにつながって生きている者の姿なのです。
 主イエス・キリストは、私たちの人生のアクセサリーとして、私たちをより美しくし、知恵をつけ、力を増し加えるためにこの世に来られたのではありません。そのようなことのためなら、十字架にかかって死ぬ必要はなかったのです。主イエスが十字架にかかって下さったのは、自分の知恵や力ではとうてい正しく生きることのできない、罪と汚れに満ちた、愚か者でしかない私たちの罪を全て背負って、私たちに代って死んで下さることによって私たちを赦して下さるためです。罪や汚れや弱さ、苦しみ悲しみを負っている私たちを丸ごと背負い、救って下さるためです。この主イエス・キリストにつながることによって私たちは、自分の知恵や力によって生きる賢い者であろうとする高ぶりから解放されて、キリストによって支えられて生きる愚か者となることができるのです。

確かな希望
 この愚か者には確かな希望が与えられています。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスは、復活して天に昇り、今父なる神様の右に座しておられます。そして世の終わりにそこからもう一度来られ、ご支配を完成して下さるのです。その時、私たちもその栄光にあずかり、キリストと共に王となるのです。それは、私たちが誰かを支配する者になるということではなくて、主イエス・キリストによって打ち立てられている神様の栄光とご支配にあずかる者とされる、ということです。つまりあくまでも私たちの栄光や支配ではなく、神様の栄光とご支配が完成するのです。そこに私たちの希望があります。キリストにつながって生きる愚か者は、この希望を与えられているのです。  本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章には、神様がイスラエルの救いを完成して下さることへの希望が語られています。荒れ野、砂漠に水が湧きいで、川が流れ、野ばらの花が一面に咲く。見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口のきけなかった人が喜び歌う。主に贖われた人、罪を赦された人のための道が整えられ、主ご自身が先頭に立ってその民を導いて下さる。そういう、救いの完成の様が描かれているのです。その中に、「愚か者がそこに迷い入ることはない」とあります。それは、愚か者は救われないということではなくて、救いの完成の時には、私たちの愚かさが克服され、本当の賢さが与えられるということです。しかしそれは、世の終わりにおけることです。それ以前の、この世を歩む私たちは、教会は、むしろあの愚かさ、弱さ、侮辱の中を歩むのです。今のこの時代においては、荒れ野はやはり荒れ野であり、砂漠に水が湧くことはなく、見えない人は見えない、聞こえない人は聞こえない、歩けない人は歩けない、そういう苦しみの中を私たちは、愚かな、弱い、侮辱される者として生きていくのです。信仰に生きるというのは、今のこの時において、豊かな、賢い、力ある者となり、満足してしまうことではありません。むしろキリストを信じることによって私たちは、この世においては自分がどこまでも愚か者であることを受け入れることができるようになるのです。しかしそれは絶望に至らせる認識ではありません。主イエス・キリストとつながっている愚か者は、自分の知恵や力に依り頼んでいる賢い者には決して得られない、大いなる喜びと希望が与えられているのです。

主イエスと共に
 キリストのために愚か者となったパウロたちは、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もな」い中で、「苦労して自分の手で稼いで」生きています。そしてその中で、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返して」いるのです。そのようにして、主イエス・キリストに従い、仕えているのです。しかしこれは全て、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったことです。主イエスは「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」しつつ、十字架の死への道を歩んで下さったのです。主イエスがこのようにして下さったことによって、私たちは救いにあずかり、神の子とされたのです。この主イエスとつながって歩むときに、私たちも、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」す者とされていくのです。そのようなことは、キリストを信じて賢い者となろうとしているところには生まれてきません。キリストのために愚か者となり、キリストの腰巾着となるところにこそ、このような新しい生き方が生まれるのです。キリストにつながっている愚か者は、自分の知恵や力によって生きている賢い者が決して歩むことができない道を、主イエス・キリストと共に、喜びと希望をもって歩んでいくのです。

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