夕礼拝

その星を見て喜びにあふれた

「その星を見て喜びにあふれた」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ミカ書 第4章1-3節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章1-12節  
・ 讃美歌:248、107、259、265、261

クリスマスと言えばプレゼント
 皆さん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。ご一緒にクリスマスをお祝いすることができて嬉しいです。クリスマスと言えばプレゼント。今年のクリスマス、皆さんは誰から、どんなプレゼントをもらうのでしょうか。誰にどんなプレゼントをあげるのでしょうか。サンタさんが来るのは24日の夜、今晩です。明日の朝目が覚めたらどんなプレゼントが枕元に置かれているか、楽しみです。でも、サンタさんがプレゼントをくれるのは良い子だから、良い子でない自分にはプレゼントはないと早々にあきらめて、代りに自分で自分にもうプレゼントをした、という人もいるかもしれません。あるいは、今晩日付が代って25日になったら渡そうと思って、今バッグの中に、愛する人へのプレゼントを潜ませている人もいるかもしれません。それを渡してプロポーズをする、というドラマのようなことだって起らないとは限らない。このクリスマスを期に結婚を決意する方々がいたら、心から祝福し、応援したいと思います。なにせ今、日本では、結婚する人が減っており、生れてくる子供も減っています。人口はこれからどんどん減っていこうとしているのです。だからできるだけ多くの人に結婚してもらって、子供を生んでもらいたいと思います。じゃあこの教会で結婚式をしてくれますか、という人がいるならば、わかりました、できるだけその思いに応えていきましょう。ただし、教会は、単なるセレモニーではない、本物の結婚式をします。教会の結婚式は、この讃美夕礼拝と同じように神様への礼拝としてなされるものです。神様が自分たちを結び合わせて夫婦として下さり、これからも導いて下さることを信じ、また祈り願う時ですから、神様を信じて、神様と末永くおつきあいをしていくことが前提となります。ですから、日曜日の礼拝に継続して出席しながら準備をしていき、また結婚後も夫婦で共に礼拝に集って神様と共に歩んでいく、ということなしには教会での結婚式は本物になりません。そういう本物の結婚式を希望する方は、ぜひ日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

プレゼントの予算
 クリスマスプレゼントの話をしていたのでした。皆さんが今年贈るプレゼントの予算はいくらぐらいでしょうか。大手企業のこの冬のボーナスはかなり上がったとニュースで言っていました。去年よりプレゼントの予算を増やすことができる、という人もいるのでしょう。しかしアベノミクスの効果など自分には感じられない、という人も沢山います。アベノミクスはしばしばシャンパンタワーに例えられます。タワーのてっぺんにシャンパンが注がれ、上のグラスが一杯になるとそこから溢れたシャンパンが下のグラスにも落ちていく、そのようにしてだんだんに下のグラスも満たされていくというのです。これを「スプリットダウン」と言うのだそうです。今はまだ上の方のグラスが満ちてきている段階で、これからだんだんにみなさんのグラスにも効果が現れていきますからもう少しお待ちください、この道しかありません、と安倍総理は言っていました。しかし一説によると、このシャンパンタワーは、上にいくほどグラスの容量が大きくなっているようです。ですから上の方のグラスはなかなか一杯にならない、従って下の方のグラスにはいつまでたってもスプリットダウンしてこない、そのうちシャンパンも底をついてしまって、結局上のグラスが豊かになるだけではないか、多くの者はそんなふうに感じているのではないでしょうか。今世界でベストセラーになっている経済書があると先日ニュースで言っていました。資本主義の進展によって、資本家と労働者、豊かな者と貧しい者の格差は次第に小さくなっていき、貧しい者も次第に豊かになっていくことができる、という従来の定説は間違いで、格差はますます大きくなっていく、ということをデータに基づいて実証している本だそうです。それは確かに庶民の実感なわけで、先ほどの、結婚する人が少なくなり、子供が減っていることも、若い人たちの生活が苦しくて、結婚して子供を生み育てられる状況にない人が多い、またこの先生活を維持していけるのか不安がある、という経済問題が大きな要因でしょう。クリスマスプレゼントの予算も、これからますます格差が広がっていくのかもしれない、と暗い気持ちになります。

賢者の贈りもの
 そんな私たちの心に光を灯してくれる文学作品があります。二十世紀初頭のアメリカの短編小説の大家、O・ヘンリーの「賢者の贈りもの」という作品です。最近新しい翻訳が新潮文庫から出ました。とてもよくこなれた良い訳になっています。ジムとデラという貧しい夫婦がいて、お互いに相手にクリスマスプレゼントをしたいと思っているけれどお金がない。彼らはそれぞれたった一つ宝物を持っていました。ジムの金時計と、デラの、膝下まで伸びる美しい髪の毛です。デラは、その髪の毛をばっさり切って鬘屋に売ってジムの金時計につける鎖を買いました。ジムは金時計を売って、デラの髪を飾る櫛を買いました。というわけでお互いのプレゼントはすれ違って役に立たなかったわけですが、作者は最後にこう語っています。「およそ贈りものをする人間の中で、この二人こそが賢かった。贈りものを取り交わすなら、こうする者が賢いのだ。どこの土地でも、こういう者が賢い。これをもって賢者という」。これが「賢者(賢い者)の贈りもの」という話です。その賢者というのは、先ほど朗読された新約聖書、マタイによる福音書第2章に出て来る、イエス・キリストの誕生を知ってはるばる東の国から贈りものを携えてやって来た学者たちのことです。今の訳では「占星術の学者」となっていますが、決していわゆる星占い師ではなくて、当時の天文学者であり、最高の知識と教養を備えた賢い人々でした。その東の国の賢者たちが、生まれたばかりの幼な子イエスを拝むためにはるばる旅をしてきたのです。そして彼らは、黄金、乳香、没薬を贈りものとして献げました。この賢者たちこそ、世界で最初にクリスマスプレゼントを贈った人たちだったのです。O・ヘンリーは、ジムとデラがお互いに贈ったものは結局役に立たなかったけれども、彼らはこの賢者たちのように、最も賢い人々だったと言っています。この短編には、本当に賢い贈りものはお金で買うことはできない、というメッセージが込められています。最近新しい訳を出したのは実は私の大学時代からの友人の翻訳家なのですが、彼がこの作品についてこういうことを教えてくれました。冒頭に、デラが自分の財布の中のお金を数える場面があって、1ドル87セントしかない、これではジムに何も買えないと嘆くのですが、そこに、1セント玉の数は60個だと書かれているのです。私もなにげなく読み過していたのですが、翻訳したその友人が、これはおかしなことだと指摘してくれました。全部で1ドル87セントなら、1セント玉の数の一の位は7個でなければおかしいわけです。作者は意図的にこういうおかしな数字を語っているのであって、このあり得ない設定によって冒頭から、通常の金勘定では説明できない、お金の問題としては語れない世界を描き出そうとしているのではないか、と彼は言うのです。本当に賢い贈りものができるかどうかはお金の問題ではない、プレゼントの予算は、本当に賢いプレゼントをすることとは何の関係もない。それは私たちの心に暖かい光を灯してくれる話です。

本当に賢い贈りもの
 それでは本当に賢い贈りものとはどのようなものなのか、それはまさにジムとデラがしたように、自分の宝、自分にとって一番大切なものを相手のために手放し、犠牲にするということです。それこそが相手を本当に愛することであり、その愛することこそが、本当に賢いプレゼントとなるのです。ジムとデラがお互いに贈ったものは役に立たなかったけれども、相手のために自分の宝を手放した愛が、お互いにとって最もすばらしい贈りものとなったのであって、それはどんなに高価なプレゼントよりも尊いものだったのです。
 あの東の国の学者たち、賢者たちが主イエスにささげたプレゼントも、実はそういうものでした。彼らが持って来た黄金、乳香、没薬はそれぞれ大変に高価なものだったでしょうが、彼らは、ただお金をかけて高価なプレゼントをしたのではなくて、自分の最も大切な宝を手放して主イエスに献げたのです。それは自分自身を献げたということと同じです。黄金も乳香も没薬も、彼らが占星術を行うための大切な道具だったとも言われます。彼らはそれを手放してイエス・キリストに献げたのです。それは、これまで人生をかけて学んできた占星術を放棄して、今からはイエス・キリストによる導きを受けて生きる者となる、ということです。あるいは、この学者たちは東の国の王様たちだったのだという言い伝えもあります。王である彼らが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」である主イエスの前にひれ伏して拝んだ。それは、自分が王として支配することをやめて、今からは主イエスに従っていく、ということです。つまり彼らは、自分の最も大切な宝を手放して献げることによって、自分自身を主イエスに献げ、まことの王、救い主としてこの世に来て下さった主イエスをこそ愛し、従っていくことを表明したのです。それと対照的なのが、ここに出てくるユダヤの王ヘロデの姿です。彼はユダヤ人の王の誕生を聞いて不安になり、その幼子を今のうちに殺してしまおうとしたのです。つまり主イエスを、自分の王位を奪う者として憎み、自分が王であり続けるために、主イエスを抹殺しようとしたのです。ヘロデと東の国の学者たちとの対照的な姿がここに描かれています。東の国の学者たちが賢者であり、本当に賢い贈りものをしたというのは、彼らが贈ったものの値段や価値の問題ではなくて、彼らが主イエスを愛し、礼拝し、自分自身を主イエスに献げ、主イエスこそ自分の王であると認めたということなのです。本当に賢い贈りものは、自分自身をささげて相手を愛することなのであって、そうすることによってこそ私たちは本当に賢い者、賢者となることができるのです。逆に、自分をささげることをせず、犠牲を払うことをせず、愛するよりも支配することを望み、自分が王であり続けようとしていくなら、私たちはヘロデと同じように救い主イエスを殺そうとする愚かな者となってしまうのです。

神からの贈りもの
 そして実はこの自分自身をささげて相手を愛するということを、神ご自身が、クリスマスの出来事において、私たちのためにして下さったのです。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったのは、神がその独り子を私たちの救いのために与えて下さったということです。そしてクリスマスにこの世に生まれ、人間となって下さった主イエスは、そのご生涯を通して私たち人間の苦しみや悲しみ、そして罪を背負って下さり、その罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さいました。つまり神は私たちのためにご自分の最も大切な独り子を手放し、その命をも与えて私たちを真実に愛して下さったのです。神ご自身が私たちに、本当に賢い贈りものを下さったのです。クリスマスはそのことを記念する時です。私たちがクリスマスにプレゼントを贈り合うのは、神からいただいた本当に賢いプレゼントに感謝し、その喜びを分かち合うためです。ジムとデラがお互いに贈ったプレゼントも、神が私たちに最も大切な独り子主イエスを与えて下さった、その贈りものと重なり合うものであるがゆえに、「賢者の贈りもの」なのです。

その星を見て喜びにあふれた
 東の国の学者たちは、救い主の誕生を告げる星を見てはるばる旅をしてきました。彼らが母マリアと共にいる幼子主イエスを探し当てることができたのも、その星が先立って進み、場所を示してくれたことによってでした。星がついに幼子主イエスのいる場所の上に止まった時、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。自分の一番大切な宝を献げてそのみ前にひれ伏して拝み、自分自身を献げることができる、そういう相手を見出した時、私たちは喜びにあふれます。主イエス・キリストとの出会いは、私たちにそういう喜びを与えてくれるのです。何故なら主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方だからです。神が最も大切な独り子を十字架にかけて下さるほどに私たちを愛して下さっていることを、私たちは主イエスとの出会いによって示されるのです。その神の愛に応えて私たちも主イエスを愛し、そのみ前にひれ伏して拝み、自分自身を献げて従い仕えていく、それが教会の信仰です。その信仰によって私たちも喜びにあふれることができるのです。
 学者たちが不思議な星に導かれて幼な子主イエスと出会ったように、私たちも今宵、星に導かれてこの讃美夕礼拝に集いました。神は様々な出会いを通して、不思議な導きによって私たちをここに集めて下さったのです。そのようにして神は私たち一人一人をもこの喜びへと招いておられます。救い主イエス・キリストと出会い、キリストを王としてお迎えし、み前にひれ伏して拝み、自分自身を献げていくなら、そこには、あの学者たちが味わったのと同じ大きな喜びがあふれます。独り子をすら与えて下さった神に自分自身をささげ、従い、仕えていく喜びです。

平和を築くための本当に賢い道
 その喜びの中で私たちも、自分の大切なものを相手のために手放し、犠牲にして相手を愛する者へと変えられていきます。本当に賢い贈りものをすることができるようになっていくのです。自分をささげて愛することこそ、私たちが人に贈ることができる最も賢いプレゼントです。そのプレゼントをお互いに贈り合うことによって、人との間に本当に良い関係を築いていくことができるのです。そしてそれは、この世界に平和を築いていくための最も賢い道でもあるでしょう。難しい国際情勢の中でどうやって国を守っていくのか、ということが今この国の大きな問題となっています。国を守るためには、攻撃された時に守る力を持たなければならないし、そのためには同盟国が受けた攻撃に一緒に反撃できるようにしなければならない、そういうことばかりが今声高に語られています。しかし国を守るために一番大切なことはそのようなことではないでしょう。戦争をすることを考える前に先ず、諸国民の間に良い関係を築いて行くことをこそ考えるべきです。それこそが、国を守るための本当に賢い道です。その本当に賢い道を歩むためにも私たちは、本当に賢い贈りものをすることの喜びに生きる者となりたいのです。それは、神がその独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、その命をも与えて私たちを愛して下さったように、私たちも自分自身をささげて神と人とを愛していくことです。そのことによってこそ、憎しみが憎しみを、報復が報復を呼ぶような道ではなく、隣人と良い関係を築き、平和を造り出していくような道を歩むことができるのです。それこそ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という日本国憲法前文の精神でもあります。私たちが本当に歩むべき道はこの道しかないのではないでしょうか。この後ご一緒に、毎年しておりますが、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を祈りたいと思います。「主よ、わたしをあなたの平和の器とならせてください」と始まるこの祈りは、神がその独り子イエス・キリストをこの世に与えて下さったクリスマスを喜び祝い、独り子をすら手放し犠牲にして下さった神に自分自身をささげ、従い、仕えていく、その喜びに生きる者の祈りです。平和を築いていくために私たちが歩むべき、本当に賢い道がこの祈りに示されているのです。

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