夕礼拝

祈りなさい

「祈りなさい」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: レビ記第19章18節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書第5章43-48節
・ 讃美歌 : 394、288

隣人を愛しなさい
 主イエスは山上の説教の中で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5章17節)と言われました。そして、自分に従う弟子たちに対して「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(20節)と教えられました。そしてモーセの律法の中から特徴的な6つの掟を取り上げて、その一つ一つに対してそれをはるかに上回る「新しい義」を示されました。本日は6番目の「新しい義」です。先ほどお読みした旧約聖書のレビ記19章18節にはこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」自分の隣り人を愛しなさいということです。この教えは分かりやすく、すばらしい教えであります。けれども、この教えの範囲というのは限定されて理解されてきた戒めでもありました。それはユダヤの人たちはこの隣人というのを「同胞の民」ということに限定して考えておりました。このレビ記第19章の33節から35節にはこうあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」とあります。つまり、ここで言われている隣人には、同胞の民の中にいる「寄留者の外国人」も含まれているのです。しかし、この部分はいつしか顧みられなくなり、隣人とはあくまでも「同胞の民」のことである、自分と友好の関係にある者だというように理解されていきました。

敵を愛しなさい
 このような考えに対して主イエスは言われました。46、47節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」私たちは自分を愛してくれる人を愛します。愛のよき業を行ないます。愛の心を持って、その人のためによいことを行うのは、それはその人が「自分によくしてくれるから」であります。自分を愛してくれるから、自分によくしてくれるという理由や根拠をもって、私たちも愛し、よくするのです。自分の兄弟、家族、親しい友人、仲間には喜んで挨拶をします。自分と良好の関係にある人であれば、進んで挨拶をし、愛の業を行なうのです。けれども、私たちは自分と良好関係にない人に対して挨拶をできるでしょうか。進んで愛の業を出来るでしょうか。私たちは自分と良好な関係にない人に対しては心を閉じます。自分の親しい仲間には挨拶をする、自分によくしてくれる人には愛の業を行うことを言います。私たちが笑顔を振りまき、愛の業を行うのは、自分にとってその人たちが大切であり必要だからです。そうではない場合は心を閉ざします。心を開く必要はないとさえ思ってしまいます。私たちは自分にとって利害関係のない人には無関心になります。増して、敵対関係にある人には対してはこちらも防御姿勢をとります。必要があれば攻撃をしたりします。何故なら、そのような人たちは、私の隣人ではないと思っているからです。自分を攻撃し、この自分を迫害してくるわけですから敵です。敵であれば憎むのが当然です。これは人間の自然の感情であると思います。しかし、主イエスは言われます。驚くべきことを言われるのです。44節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」敵対する関係における者同士の感情は敵意と憎しみであります。このような感情を乗り越えるということは大変困難なことです。他人同士の揉め事においては許し合いなさい、と言うでしょう。しかし、自分には出来るでしょうか。敵意や憎しみという感情を乗り越えるということは果たしてできるのでしょうか。

自分と敵対する者
 詩編第109編1-5節にこうあります。人間の素直な、そして絶望に陥ったときの大変な感情が記されています。敵対する者との関係の中で人間の心に思っていることが、隠されずに描かれています。「わたしの賛美する神よ どうか、黙していないでください。神に逆らう者の口が 欺いて語る口が、わたしに向かって開き 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。憎しみの言葉はわたしを取り囲み 理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげても その善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます。」この詩編の作者は大変厳しい状況に置かれています。悲痛な思いを抱いて、自分に敵対する者の裁きを神に求めています。8節から10節では「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい。子らは放浪して物乞いをするがよい。廃虚となったその家を離れ 助けを求め歩くがよい。」とあります。ここでの、「神に逆らう者」とは自分に敵意を向けてくる者です。神に対して敵になっている者のことです。この祈りは、人間の素直な感情、心に中にある思いが描かれています。この激しい言葉に私たちは戸惑いを覚えます。けれども、神の前に、人の前に謙遜な自分を装いつつ、立派な人間としての自分を装い、心の中では自分に敵対するものを憎むというのが私たちの姿ではないでしょうか。しかし、主イエスの教えは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」です。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者、自分を憎む者ために祈りなさい」と言われました。自分に敵対し、自分を迫害する者のために祈る。この、祈りという行動を実践しなさいと言われます。その祈りは、敵が死に絶えるように祈るのではなく、敵の中にある悪意が死に絶えるようにと祈るのです。それと同じように、私たち自身の中にある、敵意や憎しみが死に絶えるようにと祈るのです。この自分の中にある敵対する心、復讐心がなくなるようにと祈るのです。

天の父なる神の子とされ
 そこに平和が訪れます。この祈りを祈るならば、私たちは「神の子」とされるのです。少し前の5章9節ではこうあります。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」平和を実現する者が神の子と呼ばれるのです。神の子どもとなるのです。私たちが天の父なる神の子とさせられるということです。天の父は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(45節)と主イエスは述べておられます。神様は私たちが悔い改め、神様のもとへと立ち返ることを待っていて下さいます。それまでは、誰に対しても、悪人にも、正しくない者にも制限や条件を設けず太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるのです。この大きな愛の中に置いてくださるのです。太陽を昇らせ、雨を降らせるというのは、まさに創造者なる神の恵みです。
 主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じられました。それは他の誰でもない主イエスが語られたのです。敵を愛するということを実践された主イエスが命じられました。主イエスが愛された敵とは私たち罪ある人間です。主イエスを迫害したのも人間であります。ローマの信徒への手紙第5章8-10節にこうあります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」主イエスが十字架において死んで下さったことによって愛を示されました。その愛によって私たちは愛されているのです。私たちを、神様が愛して下さり、赦して下さり、子としてくだされたのです。敵である私たちを愛し、受け入れて下さった天の父なる神様のもとで、私たちはその方の子どもとして生きるのです。主イエス・キリストが十字架においてその命をささげて下さったことは、神様はご自分の敵である者をも愛して下さったということなのです。私たち人間のために身代わりとなって十字架にかかったイエス・キリストによる罪の赦し、執り成しによって隣人のために、自分を迫害する敵のために祈ることができるのです。自分と良好な関係になく敵対関係にある者、自分を迫害する者のために祈ることができるのです。天の父のように完全になられたのはただお独り主イエス・キリストだけです。このキリストこそが敵を誰よりも愛し、迫害するもののために祈られました。私たちはこの主イエスによって、赦された者として、赦しの愛に生きることが許されるのです。赦しの愛を受けて初めて赦す者としていただくことを心に留め、このキリストと共に歩み、敵を愛し、迫害する者のために祈る者とされていただきましょう。

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