夕礼拝

良い実を結び

「良い実を結び」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第103編1-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章15-20節
・ 讃美歌 : 305、79

狭い門、細い道
 私どもは、主イエスの語られた山上の説教を共に聞いております。本日は共にマタイによる福音書第7章15-20節の御言葉に聞きたいと思います。山上の説教が終わりに近づいています。本日の箇所の前のところでは、主イエスの「狭い門から入りなさい」という教えが語られました。「狭い門から入りなさい。」という主イエスの教えは、命に通じる門は狭く、その道は細い、その、狭い門から入り、細い道を歩みなさい、ということです。この主イエスの教えに続いて本日の「偽預言者を警戒しなさい」という御言葉が始まります。なぜ、ここでこのようなことを語り始められたのでしょうか。一つの理由は、狭い門、細い道についてのみ教えのうちにあると思うのです。この命に至る門、細い道は、誰もがすぐに見つけることができるのでしょうか。また、この門はあまりに狭くて入りにくく、あまりに細くて歩きにくいというようなものではないのです。それがどこにあるか見つけることが難しいのです。どうして見つけにくくなるのでしょうか。私たちは思い起こすと、自分は本当に狭い門から入り、細い道を歩むことができてといると言い切るができないということです。むしろ自分の歩んでいる道は広い道なのではないだろうかという不安を覚えることはないでしょうか。私たちは狭い門と広い門、細い道と広い道の区別というのが、自分にはわかっていると思ってしまいがちです。自分が狭い門、細い道を歩んでいると思うこともあれば、広い門、広い道を歩んでいると思うこともありますが、私たち何が狭い門で、どこが細い道で、何が広い門、広い道であるかということを自分の判断で決めてしまっていないではないでしょうか。私たちは自分の中で分かったつもりになってしまっているのでしょうか。私たちの人生は常に、狭い門と広い門、細い道と広い道の分かれ道に立たされているようなものです。どちらを選ぶかという選択を迫られるのです。どの門が狭い門であり、どの門が広い門であるかは、そう簡単には分かりません。狭い門から入ったつもりが、いつのまにかその道が広い道になってしまっていることもあります。広い道を歩んでいたつもりが、いつのまにか細い道になっていくということもあるでしょう。私たちは、自分の歩んでいる道を見極めることができない者です。私たちは自分が本当に歩むべき道はどこか、ということにおいて、いつも迷いや不安があるのです。そうなると「狭い門から入りなさい」という教えは、私たちに、迷うことを求めている教えだと言うことが言えます。

偽預言者を警戒しなさい
 私たちは自分の歩んでいる道が間違った道になってしまっていないか振り返ってみる必要があります。本日の15節以下の御言葉も、そのことと関連しております。本日の箇所は「偽預言者を警戒しなさい」と始まります。ここで、偽預言者がどういう者であるかをはっきりとは示しておられません。預言者というと旧約聖書を思い起こしますが、ここでの預言者とは、神様のみ言葉を宣べ伝える者で、信仰の指導者、導き手です。自分の意見を述べるのではなく、「主はこうお語りになります」とひたすらに、神様の言葉を宣べ伝える者です。神様の宣べ伝える御言葉の中心は、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事があり、その救いの出来事が起こったことを伝えることです。キリストこそが救い主であること、すなわちイエスがキリストであると、言うことです。従って、偽預言者とは、それを言わない人です。預言者の中に偽者がいる、と主イエスは教えておられるのです。偽者の預言者に導かれていったら、間違った道を歩むことになってしまいます。そのようにならないようによく警戒しなさいというのです。教会において、預言者とは神様のみ言葉を教え、その指導者となっていた人々です。その人々の中に、偽者がいる。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。教会はしばしば羊の群れに喩えられますが、彼らは一見羊の仲間であるように見えるのです。そして仲間の羊たちを導いていこうとします。しかし実はその中身は狼であって、羊を餌食にしようとしているのです。この偽の羊、偽の預言者についていくと、貪欲な狼によって食い物にされてしまうのです。ある人が偽預言者のことをこのように説明しました。「キリストの言をしりぞけ、キリストの信仰を非難し、その預言の内容は、反キリスト教的信仰に通じるものである。このような預言によって、神の御命令から離れるように、教会をさせる。彼らの預言の言葉に従えば教会は挫折するに決まっている。希望を与えるように見えるが、その末は幻滅であり、教会の内的生活は荒れ果ててしまう。」というのであります。主イエスは山上の説教を教えて、教会はこのような教師とその教えを警戒しなければならない、と言われるのであります。預言者たちを見分けなければ、自分は預言者に導かれて正しい道を歩んでいるつもりが、間違った道、滅びに通じる道に導かれてしまっているかもしれないのです。

良い木は良い実を結び
 私たちがこのように間違った道、滅びに通じる道に行かないためにも、預言者、指導者、御言葉を語る者を常に吟味しなければなりません。吟味するとは、ここできちんと見分けなければならないということです。また、そのためには私たちは一人一人が、自分自身のことを吟味し、自分の歩んでいる道を常に振り返ってみることが大切です。16節にこうあります。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」さらに続けて「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」とあります。この部分はこのようにも言えます。「人はまさか、茨からぶどうを、あざみからいちじくを集めはしないだろう」と言うことです。まさか、そのようなことはあるはずがないという意味です。そんなことはありません、という言葉を予想している言葉です。茨とぶどうであれば、そうかもしれません。しかし、偽預言者についてそう簡単に見分けることができるでしょうか。また、私たちは実際に見分けているでしょうか。偽預言者と言うのは、表向きに偽預言者のような顔をしているはずがありません。羊のように見せている、とあります。それは非常に見分けにくいということです。しかし、問題は偽預言者がどのような格好をしているかということではありません。もっと大切なことは、私たちにそれを見分ける力があるかどうかということです。あるいは、本当に見分けたいと思っているでしょうか。16節には「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」とあります。その実とは何でしょうか。その実が何であるかを知らなければ、見分けようがありません。ある人はこのように言っております。「偽りの教理、教えを示す人があれば、だれでも茨であり、あざみである。」と言うことです。その実とは何であるのか、私たち自身が知っているかどうかということです。その実とは、私たちが何を信じているかと言うことです。自分の信仰であります。自分はどうして救われているのか、ということです。17節では「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」とあります。この節の最初の所に「このように」とあります。「このように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」というのです。良い木が良い実を結ぶとは、偽預言者の問題の説明になっております。このように偽預言者のもたらす実のことを考えてみると、良い木だけが、良い実を結ぶので、偽預言者の実を見ると、彼らは実だけではなく、彼ら自身も間違っているから、こんな実が出るのだ、ということになります。ここでは「良い木」と「良い実」と同じ「良い」という字になっていますが、元々の字は違います。「良い木」の方は広く用いられる言葉で、刀が良く切れるとなど言うような時に用いられます。そのものの機能にあったということで、良い木であれば、本当に木としての力を出しているということになります。「良い実」の方は「美しい」という意味のある言葉です。ここでは、「美味しい実」となるのです。また、「悪い木」と「悪い実」も違う「悪い」と言う言葉が使われております。「悪い木」とは非常に病んでいるという意味です。「悪い実」の方は邪しまなどという意味がある言葉です。ここでは値打ちがないということになります。「美味しい実」は健全な良い木からしか出ないのです。偽預言者は健全な良い木ではないということです。それでは、良い木、美味しい実を結び木とはどんな木でしょうか。

わたしにつながっていれば
 ヨハネによる福音書第15章の最初にはこうあります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネによる福音書第15章1-2節)これが良い木、美味しい実を結ぶ木ということでしょう。イエス・キリストに結びついている木、キリストが結びついている木です。すなわち、キリストに結びついている人であります。キリストに結びついているとはどういうことでしょうか。キリストに結びついているとは、キリストに救われたから、キリストによって生きるということです。イエス・キリストの恵みを受けること、イエス・キリストに祈ることです。

天の父として
 私たちは主イエスが語られた「山上の説教」の結びの部分を読んでおります。これまで、主イエスが語られ、教えられてきたことのしめくくりとして、この箇所を読んでおります。「天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができる」とは、5章20節の言葉を思い起こさせます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。ここにも、天の国に入るためには何が必要かが語られていました。それは、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」に生きることです。そしてその「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とはどういうものであるかが、5章21節以下の、山上の説教の中心部分において語られてきたのです。そこに様々な仕方で語られてきたことの中心となっていたのは、「あなたがたの天の父」という言葉でした。主イエス・キリストの父であられる神様が、あなたがたの天の父となって下さり、あなたがたを子として愛し、養い、はぐくんで下さる。その天の父の子として、天の父の愛を信じ、その養いと導きに身を委ねて生きなさいというのが、山上の説教の中心的なメッセージなのです。私たちの信仰の内容とはこの天の父の愛の下で生きることです。自分の正しさ、自分の立派な行いを拠り所として生きることをやめるということです。「見てもらおうとして、人の前で」よい行いをしていこうとする偽善は、そのような、自分の正しさ、よい行いを誇ろうとする思いから生まれるのです。そしてそれは、地上に富を積んで生きようとすることです。地上の富、それは、私たちが様々な意味で自分のものとして持っている財産です。そこには、自分の正しさ、力、立派な行いも含まれています。そういう、自分が持っているもの、自分の力に寄り頼むことをやめて、天に富を積めと教えられています。天の富とは、良い行いをして神様に貸しをつくるようなことではなくて、神様の、天の父としての愛と憐れみにのみ寄り頼んで生きることです。神様が天の父として、私たちに必要なものをすべてご存じであり、それを必要な時に与えて下さることを信じて、信頼して生きるのです。そこに、「何を食べようか何を着ようか何を飲もうか」という思い悩みからの解放が与えられます。地上の富、自分の持っているものに寄り頼んでいる間は、私たちは思い悩みから解放されることはないのです。

山上の説教の中で
 山上の説教において教えられてきたみ言葉に従って天の父なる神様の子として生きることです。その時、そこには、良い実りが与えられます。その実りによって、本物と偽者とを区別することができるのです。天の父なる神様のもとで、その子として生きるところに与えられる実りとはどのようなものでしょうか。それは、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることです。右の頬を打たれたら左の頬をも向けることです。それは私たちの立派さによってできることではありません。天の父なる神様が、私たちを、私たちの正しさによってではなく、ただ父としての憐れみによって愛していて下さる、同じように私たちを迫害する者をも、その罪にもかかわらず、子として愛しておられる、その天の父のみ心を受け入れることによってこそ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことは実現するのです。そのために主イエスが与えて下さったのが「主の祈り」です。「天にましますわれらの父よ」と神様に語りかけていく中で、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るのです。この祈りを真剣に祈り続けていく中で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という実りが与えられていくのです。この教えを語られた主イエスご自身が、まさにそのように歩まれました。主イエスは私たちの罪を背負って十字架の死への道を歩んで下さり、自分を十字架につける者たちのためにもとりなし祈って下さったのです。それは主イエスが、ご自分をお遣わしになった天の父なる神様の御心を行い通されたということです。私たちはこの主イエスに従っていくのです。その歩みが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る歩みとなっていくのは当然のことなのです。

その実で見分ける
 偽預言者は、表面的にはよい働き、よい業を、熱心にしているのです。しかしその業、働きが、教会の中に、その人を中心とするグループを作っていってしまう、そしてそのグループと別の人を中心とするグループとが対立し合い、教会の一致を損なうような結果を生んでしまう、この福音書が編纂された教会において、おそらくそのような問題が起っていたのでしょう。そこで偽預言者と呼ばれている人々は、決して自分が偽預言者だとは思っていないのでしょう。自分は神様のために、人のためにと思って熱心に働いていても、その働きが、自分の業、自分の業績、自分の誇りを満たすようなものになってしまうことであれば、天の父なる神様の御心を行うものではなくなってしまうのです。私たち一人一人が自分の事柄として受け止め、心していくべきことだと言えるでしょう。19節にはこうあります。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」このように、火に投げ入れられるというのはある表現の仕方と言うこともいえますが、このような「さばき」があるということです。「さばき」とは、神様が御心に適わない者をさばかれるということです。しかし、ここで大切なことは、私たちがおそろしい「さばき」に会うということではなく、神が確かに生きておられるお方であるということを認識することです。さらに最後に念を押すように「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」とあります。偽預言者を見分ける道がここにある、と言うのです。そのように良く見分けなさいと、本日の御言葉は繰り返します。教会のために、何よりも私自身のために、そうすることを主イエスが望んでおられるのです。

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