夕礼拝

聖霊降臨

「聖霊降臨」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:創世記第1章1-9節
・ 新約聖書:使徒言行録第2章1-13節
・ 讃美歌:3、341

【ペンテコステとは】
 本日の聖書箇所は、ペンテコステの出来事について書かれています。 ペンテコステとは、主イエスがお生まれになったクリスマス、そして十字架の後の復活を記念するイースターと並んで、聖霊が降り、教会が誕生した日として、キリスト教が最も大切にしている日の一つです。
 今年は、5月15日がペンテコステの日です。ですから、今日の聖書箇所は、再来週のペンテコステを、少し先取りをすることになります。

 ペンテコステは、世間ではクリスマスやイースターほどには知られていません。
 まず「ペンテコステ」という言葉が聞き慣れません。「ペンテコステ」というのはギリシャ語で、五十番目、五十日目という意味です。これは、元はユダヤ教のお祭りの日で、日本語に直せば、今日の聖書に書かれているように「五旬祭」といいます。
「五旬祭」は、過越祭(すぎこしさい)という祭りの翌日から七週目、つまり五十日目に行われるので、そのように言われています。「七週祭(ななしゅうさい)」とも言います。
 五旬祭は「初物を刈り入れる刈り入れの祭り」という名前もあって、初めて刈り入れる小麦を捧げる感謝の日でした。初物は、全体を代表するものだと考えられていました。ですので、初物、最初に刈り入れた小麦を捧げることは、これから刈り入れる全ての小麦を、感謝して捧げる、という意味があります。
 ユダヤ教では、「過越祭」「仮庵祭」「五旬祭」という三つの祭りが、ユダヤ人の男子がエルサレム神殿に巡礼しなければならないと決められている、三大祭りでした。

 主イエスが十字架に架けられたのが「過越祭」の時でした。そして十字架の死からよみがえられ、使徒たちに現れて、天に上げられるまでが四十日間でした。
 その後、使徒たちは主イエスが天に上げられる前に1:5で「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と約束して下さったことを、集まって祈りながら待っていました。
 そうして十日が経ち、ちょうど「五旬祭」の日に、その約束の出来事が起こりました。
 約束の聖霊が、一同の上に降ったのです。それで、キリスト教の教会では、聖霊が降った日のことを「聖霊降臨日」と言ったり、「ペンテコステ」と呼んで、感謝し、記念する礼拝をささげるのです。

【聖霊が降る】
 さて、五旬祭の日、何が起こったのでしょうか。使徒たち、そして主イエスを信じて従う人々は、一同が一つになって集まり、主イエスが天に上げられた後、ずっとお祈りをして、約束の聖霊を待っていました。
 2節に「彼らが座っていた家中に」と書かれているので、みんな一緒に家の中にいて、座っていたのでしょう。
 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。それは突然やってきました。
 神が業を行われるのは、人が都合の良いタイミングや、望む時ではありません。神ご自身が定められた時に、それは行われます。
 激しい風と聞いて、わたしたちは台風を思い出すかも知れません。空から風が吹き付ける唸り声のような音と、風の強さで戸や窓をたたく激しい物音、家が飛ばされるのではないかと思うような風の音が思い出されます。
 でも、これは風ではありません。風の「ような」音とあるように、この天からの音は聖霊が来られる「しるし」として聞こえたものです。それほど激しい音です。風は、旧約聖書で神の霊がおられることを表す時に用いられる表現です。聖霊なる神は、はっきりと一同に、ご自分が来られたことを知らせて下さったのです。

 そして耳で聞こえる「しるし」の次は、目で見える「しるし」です。
 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。これは中々想像するのが難しい情景ですが、火や炎も、神がそこにおられるしるしとして、旧約聖書に登場します。
 聖霊なる神を目で見ることはできません。しかし、ペンテコステの日には、神が確かに働かれ、そこにおられ、聖霊が一人一人に授けられるということが、耳で聞いて、目で見て知ることが出来る、外からの「しるし」によって、はっきりと示されました。
 炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のもとに、聖霊が来て下さいました。

 「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。
 この「ほかの国々の『言葉』」という単語は、3節の「炎のような『舌』」という単語と同じ単語です。「言葉」と「舌」。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人にとどまり、〝霊〟は「ほかの国々の言葉」を語らせました。聖霊は、「言葉」を語らせるのです。
 1:8で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と主イエスが言っておられました。
 聖霊に満たされて人々が語ったことは、主イエスを証する言葉です。聖霊は、主イエスの十字架と復活の出来事を証させ、神の御業を語らせる霊なのです。

 神が聖霊によって力をお与えになり、いよいよ地の果てまで、主イエスの証言が宣べ伝えられる時が来ました。いよいよ人間が神に遣わされて、神の御業に用いられる時が来ました。集まって祈り、備えていた者たちが、語り始めます。
 聖霊によって誕生した、主イエスの救いの業を宣べ伝える共同体。これが、教会の誕生です。ですから、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われているのです。
 またこのことから分かるように、教会は聖霊によって、力を与えられて、初めて、主イエスの救いの御業を語ることが出来るのです。

【人々の驚き】
 さて、そのような出来事が起きて、エルサレムに大きな驚きと動揺が広がりました。
 5節には、「天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た」とあります。ちょうど五旬節の時でもあり、いつもは他の地域に住んでいるユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した異国の人など、神を敬う熱心なユダヤ人たちが、巡礼のためにエルサレムに大勢集まっていました。
 聖霊が降ってきた時の激しい風の吹くような音は、みんなを驚かせました。そして、何があったのか確かめようと、この使徒たち一同が集まっていた家の辺りに様子を見にやってきました。
 聖霊を受けた使徒たちや一同はおそらく、家の外に出たのでしょう。
 そして、霊が語らせるままに、「ほかの国々の言葉」で話しだした、とあります。
 それで、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。
 わたしたちも、海外に行って、そこの地元の人が急に日本語で語りだすのを聞いたら、やはりビックリすると思います。
 しかも、いろんな国からやってきた人々が、それぞれみんな、自分の故郷の言葉を聞いたといいます。人々は、驚き怪しみます。
 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちはめいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」
 そして聖書には、そこに集まった人々が、どのような国からやってきたかが述べられています。
 パルティア、メディア…と始まって、ローマ、そしてクレタ、アラビアまで。多くの地名が出てきます。そして大事なことは、これらの地名は、当時知られていた世界のほとんどすべての場所だということです。それは5節で「天下のあらゆる国」と表現されていることからも分かります。
 当時の人々は、今のわたしたちのように地球儀を持っているわけではありませんでした。
 しかし、当時の人が知りうる限りの、全世界のあらゆる国から来た人がエルサレムに集まっており、それぞれの国の言葉で、神の偉大な業を聞いた、というのです。

【神の偉大な業を語る言葉】
 聖霊が語らせた言葉は、多くの人々に驚きと、怪しみと、戸惑いを引き起こしました。
 その出来事はただ単に、人々が自分の国の言葉を聞いて驚いたというだけではありません。そこであらゆる国の言葉で語られたのは、同じ一つの内容、「神の偉大な業」についてでした。

 人の言葉について、旧約聖書の創世記で書かれていることがあります。それは今日お読みした箇所ですが、「バベルの塔」として有名な話です。
 はじめ、世界中は同じ言葉を使って話していた、とあります。ある時、人々は「有名になろう。全地に散らされることのないようにしよう」と、天まで届く塔を建てようとします。有名になろう、とは名をあげること、自分たちを高くする行為です。そして、全地に散らされないようにと、自分たち本位の町を造ろうとします。これは、人が自己中心的になり、自分が神のようになろうとする行為です。そのため、神は言葉を混乱させ、全地に散らされたので、人々はこの町の建設をやめた、という話です。
 神を神とせず、自分たちが偉大になろうとしたために、人々の言葉はバラバラにされ、各地に散らされてしまった、といいます。

 しかし、このペンテコステの時、世界中からの人々が同じところに集まり、それぞれの国の言葉で、しかし、同じ一つのことを聞いたのです。それは、神の偉大な業についてです。
 11節に「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と述べられています。
 聖霊の働きによって、あらゆる国の人々に、一つのこと、「神の偉大な業」が語られました。言葉は違えど、みな同じことを聞いたのです。主イエス・キリストの十字架と復活により、罪を赦し、永遠の命と復活を約束して下さるという、神の偉大な業についてです。言葉も住むところもばらばらにされていた人々は、主イエスが送って下さった聖霊の働きによって、共に一つの神の言葉を聞き、主イエスの救いのもとに、再び一つの神の民として集められたのです。
 それは、わたしたちも同じです。時も国も言葉も違いながら、この時に人々が聞いたのと同じ、神の偉大な業を、わたしたちも聖霊の導きによって聞いています。そして、その言葉をまた、わたしたちも霊によって語らされていくのです。

【あざける者】
 このペンテコステの日の出来事に、人々は驚きました。
 しかし一方で、聖霊を受けて語る者たちを、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた、とあります。
 不思議な出来事に驚いて「どういうことなのか」と問いを持つ者もいれば、ばかにして笑う者もいたのです。
 この教会にとっての重大な出来事について「あざける者もいた」と聖書が記述しているのは、衝撃的なことです。

 しかし事実、これは、わたしたちの今の世界でも、同じことが起こります。
 「神の子が人となって、十字架で死んでよみがえられた」という福音は、人間の理性で理解することは不可能です。どうして、世界を造られた神の御子が、弱い人間となって馬小屋でお生まれになるのでしょうか。どうして、神の御子が、辱めを受け、苦しみ、十字架という不名誉な死に方をしなければならないのでしょうか。それが、私の罪を赦すためであったとはどういうことでしょうか。そして死んだ方が、復活させられ、そのことによって私も復活するということがあるのでしょうか。
 ある人々は、キリスト教は幻想を信じていると思っているでしょう。
 宗教改革者のルターは、このように言っています。
 「世は聖霊の賜物を見もせず、理解もせずに、逆に、あざけり侮辱します。実際、私たちの主が言われたこと、語られたことは、すべてこの世に合わず、合わせることもできないのです。」
 それは、よく考えてみれば当然のことです。神が行って下さった救いの御業は、わたしたち人間の理解も、想像も、遥かに超えている、驚くべきことだからです。
 しかし神は、その救いの御業を確かに行って下さいました。神に背き、罪と死に捕らわれたわたしたちを、神は憐れみ、愛して下さったからです。
 主イエスについて語られる証も、聖霊の御業も、ある者には驚きと戸惑いを与えるものであり、またある者にとっては、あざけるような事として捉えられます。人の理性や理解には限界があります。そして神の御業は、人の思いを遥かに超えているのです。
 だから、わたしたちには聖霊の導きが必要です。主イエスが送って下さった聖霊の助けによって、神の御業を聞き、知ることができるのです。そして聖霊の助けによって、主イエスを信じると告白し、また証する者となることが出来るのです。

【聖霊に満たされる】
 4節で、「一同は聖霊に満たされた」と書いてあります。
 外から来るものに満たされるためには、受け入れる器の中身は空でなければならないでしょう。彼らが聖霊を迎える備えは、祈って待つこと、それは自分を空にして、神から与えられるもので満たされるために用意しておくことでした。
 そして、天から下った聖霊に満たされて、新しい言葉を語らされたのです。

わたしたちも同じように祈り求めなければなりません。
 わたしたちの器には、内から様々なものが満ち溢れてしまっているのではないでしょうか。自分の知恵、理性、プライド、さらには自分の正義、自分の良い業、熱心さ…そのような一見良いものでさえ、聖霊に満たされることを邪魔するほどに、自分を埋め尽くしている場合があります。
 聖霊が来られる時、わたしたちの中が既に他のもので満ちていたら、わたしたちは何も準備をしていないし、主を受け入れようとしていないのです。
 わたしたちが神の前で、本当は自分が、自分自身を満たす良いものを何も持っていないことに気づく時、神のもとに立ち帰って、ただ空っぽの自分を差し出す時、神は最も良いもの、罪の赦しと、神と共に生きる命と、永遠の喜びを、わたしたちの内に豊かに注いで下さいます。
 自分が空っぽになることは、辛く苦しいことかも知れません。それは無力感や、弱さや、貧しさを感じることだからです。
 しかし、そのようなところにこそ、神は恵みを溢れるほど注ぎ、わたしたちを神の霊で満たして下さるのです。

【教会の歩み】
 聖霊は一人一人に働いて下さいます。一人一人を満たして下さいます。しかし、一人で主イエスを信じ、一人で主イエスの証人になるのではありません。
 聖霊が来られた時、聖書は一同が一つになって集まっていたところに、降って来られたと書かれています。一同が集まっていたのは、皆が一人の主イエス・キリストのもとで一つになっていたからです。それぞれは、一人の主イエスに、共に結ばれて、約束の聖霊を受け、主イエスを証言する者の共同体となるのです。それが教会です。
 聖霊が降った日から教会は誕生し、神に遣わされて、全世界に向けて、主イエスを証する歩みをはじめました。
 その教会の歩みは、今も続いています。その歩みは、主イエスが再び来られる約束の日まで続きます。

ペンテコステの時、聖霊の約束を待ち、祈り求めていた人々が、聖霊に満たされ語ったのは、あらゆる国の言葉で、同じ神の偉大な業を語ったのでした。
 このペンテコステが、五旬祭であり、最初の刈り入れを代表として神に捧げ、その後のすべての刈り入れを感謝する日であったように、この日、最初にエルサレムで、ユダヤ人があらゆる国の言葉で神の言葉を聞いたことは、この後、すべての国々のすべての人々が、神の言葉を聞くということを約束しているといえるでしょう。

 聖霊は、今も、これからも、教会で主イエスの救いの御業が語られ、また聞かれるために、働いてくださいます。教会には、そのようにして、主イエスのもとに、新しい神の民が呼び集められているのです
 わたしたちも、2016年の日本という国にいながら、ペンテコステの日から語られている同じ一つの神の言葉、主イエスの十字架と復活による救いという、神の偉大な業を聞き、新しい神の民として教会に集められています。
 この教会から、またわたしたち一人一人が聖霊に満たされ、神によって遣わされ、主イエスを証していくのです。わたしたちの力ではありません。聞くことも、語ることも、聖霊の助けによります。
 ペンテコステの出来事は、そのように、主イエスを証する群れである教会の誕生と、一人一人に与えられる聖霊の働きと恵みを伝えているのです。
 わたしたちも、一つになって聖霊の助けを祈り求めながら、教会から遣わされて、この新しい一週間、一人一人に与えられた聖霊の助けによって、主イエスを証して歩んでいきましょう。

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