夕礼拝

教会を建てる

「教会を建てる」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第19章1―6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第16章13-20節
・ 讃美歌 : 52、390

主イエスの問いかけ
 本日はマタイによる福音書第16章13節から20節をご一緒にお読みしたいと思います。本日の場面は、主イエスが弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方に行かれたときのことです。主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。恐らく既に、主イエスの権威ある教えと不思議な力ある業のことが、広く評判になっていたと思われます。主イエスはそのことを承知しながら、弟子たちに問われたのです。弟子たちは答えました。 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。当時の人々は新しい支配を待ち望んでいました。ローマ帝国に支配される中で、正義と平和の支配する新しい秩序の到来、新しい始まりを求めていたのです。新しい時代が来る前には、そのための使者が現れるはずでした。救いの到来を告げ知らせ、そのための備えをさせるために、先駆者が来ることになっていたのです。そして、人々はこのイエスこそは、新しい始まりを告げる預言者の一人ではないかと噂し合っていたのです。しかし、噂は噂に留まります。更に主イエスは一歩進んで、突っ込んで、弟子たち自身に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたのです。

私にとって主イエスとは
 この問いかけは私たち一人ひとりにも問われているのです。教会は洗礼を受けることを希望される方々が出てくることを待ち望んでいます。そして、神様の導きにより洗礼の志を与えられましたら、信仰の学びをします。そして、教会の長老会において面接・試問が行われます。洗礼の志願者たちは、志願に至った経緯や自分の信仰について述べます。更にそのことを受けて、長老たちが質問します。受洗志願を承認するために、丁寧に、さまざまな信仰の試問がなされます。しかし、そこで突き詰めれば言えば、そこでの問いは究極的には「あなたは、イエスを誰と言うのですか」ということになります。この質問に尽きると言って良いと思います。洗礼を受けて信仰者になるというのはどういうことなのか、あるいは、聖書について、教会の信仰について、学び始めたら、ゴールはありません。終わりはないのです。信仰者は生涯、信仰について学び続け、問い続けていくのです。信仰の内容が全部分かるということは有り得ないのです。大切なことは主イエスが問われる「あなたはわたしを誰と言うか」「私にとって、イエスとは何者なのか」という問いと真剣に取り組むことなのです。その問いこそ、信仰への確かな入り口であります。

主イエスこそメシア、生ける神の子
 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけに、シモン・ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。ペトロがこの告白をもって言い表したのは、人々の噂とは全く別のことです。人々は、イエスが新しい時代の先駆者であると考えました。しかしペトロは、イエスこそが、「メシア、生ける神の子」であると告白をしたのです。それは、新しい時代の究極的な言葉であるという告白です。主イエスの後に誰かを待つ必要はありません。ペトロの告白は主イエスこそが、人間とこの世界に対する最終的な答えだと言うのです。確かに、私たち個々人も、この世界も、いつの時代もさまざまな問題を抱えています。世界に目を向ますと争いは一向になくなりません。平和への道のりはまだまだ遠いと思われます。武力的な対立もあります。また、経済的な対立もあります。一部の豊かな国が、貧しい国々の資源を吸い上げてますます豊かになっていくという現実があります。この国においても経済的な格差はどんどん広がっています。国内の政治に携わる者たちの中にも、自分が得た権限を利用して、自らの利益をはかることしか考えないような不正が見られます。私たちの身近なところでも、深刻な家族の不和、兄弟の不和や人間関係の対立があります。そして、そのような社会のひずみというのが、最も弱い立場にある者たちに、しわ寄せをもたらすのです。とても社会の正義は実現されているとは思えません。私たちは、依然として、正義と平和の実現を待ち続けているのではないでしょうか。  この待望は世の終わりまで続くのです。主イエス・キリストは救い主としてこれら、十字架の死と復活において、贖いの御業を成し遂げられました。しかし、神様の救いの御業は完成していません。私たちは主イエス・キリストが再び来られる時を待ち望んでいるのです。主イエスが再び来られる、この人間の歴史は、主イエスが再び来られる救いの完成のときを待ち望んでいるのです。しかし、そのような終わりを目指す歴史世界の中に、このペトロの告白は、決定的な言葉であります。「あなたはメシア、生ける神の子です」。このイエスこそは、メシア、キリストであると告白したのです。他の人を待つ必要はないのです。まだ完成には至っていないけれども、確かに既に、主イエスにおいて、新しい秩序が始まっているのです。神の国、神のご支配が、この歴史の世界の中に突入して来ているのです。
主イエスという方において、神の国の御支配が既にもたらされているのです。

神の救いの御業
 ペトロは、主イエスこそが、人間と世界の悲惨・困窮に対する究極的な答えであることを告白しました。そして、ペトロは自らの学んだ言葉によって「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表したのです。「メシア」とは「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書の中で、やがて来る約束の救い主を指す言葉として用いられてきました。このメシアをギリシア語に翻訳したのが、キリスト、という言葉です。イエスこそ、待ち望まれたメシア、キリストなのです。さらにこの方は「生ける神の子」です。「生ける」とは生きているということです。物を言わない死んだ偶像ではありません。生きて自由に働く神の御子なのです。神の独り子が、まさに、救い主メシアとして、この世界に来られた。罪によってむしばまれ、死によって支配された世界の直中に、救い主として来られたのです。確かに、世界も文明も病んでいます。命の源である神から引き離され、神に背を向けたときから、重い病におかされているのです。私たち人間もその中であえいでいます。しかし今や、御子イエスにおいて、新しい救いの時代が始まりました。主は私たちを死の支配から贖い出し、むなしさの中から救い出して、命の祝福の中に置いてくださいます。私たちを御自身のものとして、死の力にうち勝ったよみがえりの命の支配の中に置いてくださるのです。それは、人間の常識を超えていることです。誰も想像しなかったことです。ただ神だけが、御心に従って、愛をもって救いの道を開いてくださったのです。

ペトロの上に
 神はこの地上に独り子として遣わされ、十字架に引き渡され、死なれ、私たちの罪の贖いとして死に渡すという痛ましい手続きをもって、そして御子を死の中から引き上げて、よみがえらせるという驚くべき仕方で、私たちに命の道を開いてくださったのです。この御子イエス・キリストと直面しながら、主イエスの御前に立ち、私たちは告白します。「あなたはメシア、生ける神の子です」。それは、私たちが下から積み上げていった知識によって到達する答えではありません。ただ天の父が、聖霊の力によって私たちの霊の目を開き、私たちに現してくださったのです。だから主イエスはペトロを祝福して言われました。 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」。主イエスは続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われました。主イエスは、滅びるべき人間の一人であるシモン・バルヨナを新しい名で呼ばれました。その名前は「ペトロ」です。その名前はシモンが主イエスの召しを受けたときに与えられた名前です。今、主イエスはその新しい名前によってペトロを召されたのです。主イエス御自身の教会の礎としてペトロを召されたのです。ここで言われる「岩」というのが、ペトロ個人を指すのか、ペトロの信仰告白を指すのかということについて、意見が分かれました。ローマ・カトリック教会は、この岩をペトロその人と見て、ペトロを初代ローマ教皇に立てています。そして、その権威を代々の教皇が継承していると主張したのです。一方で私たち、プロテスタント教会は、ペトロの正しい信仰告白が基礎になるのであって、ペトロ個人ではないと主張しました。確かに、正しい信仰告白の上に教会は築かれます。その意味で教会は告白共同体です。しかし、その告白の言葉において、その告白の主体が問われます。ペトロ個人は確かに、不確かな存在であったかもしれません。直後には、主イエスからサタン呼ばわりされています。十字架の前夜には、三度にわたってイエスとの関わりを否定しました。このときの告白の内容についても、どれ程よく理解していたか分かりません。しかし、主イエスは、このペトロの挫折を見抜いた上で言われました。 ルカによる福音書22章31節から32節の言葉です。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22章31-32節)」。主イエスはペトロの弱さをも知っておられます。しかし同時に、その立ち直りを信じておられるのです。そして、このペトロに大切な務めを託されました。ここでも同じです。ペトロ自身は不確かな存在であるかもしれません。しかし主イエスは、御自身と直面したときの、ペトロの告白を支えながら、それを受け入れてくださったのです。主イエスの御前に立たされるとき、新しい力を与えられるのです。この告白を担ったペトロを祝福されたのです。ペトロという個人の上にではなく、また信仰告白という単なる言葉の上にでもなく、この告白の出来事の上に、教会は築かれます。主イエスと直面したとき、ペトロが信仰を言い表したのです。その出来事を岩として、主イエス自ら、御自身の教会を建ててくださったのです。同じように弱く不確かな私たちも、主イエスによって、主の教会を建てる生きた石のひとつとして用いられるのです。

教会に
 さらに主イエスは、教会を代表するペトロに対して、天の国の鍵をお授けになります。このことは、救いに関わる重大な権能が教会に託されたということです。救いに関わる重要な権能が教会に委ねられたのです。この大切な権能を担って、教会は洗礼志願者の面接、試問を行ないます。教会は人の救いに関わる重大な決定をするのです。洗礼を受けることとは、主イエス・キリストと一つに結び合わせられるということです。罪に死に、神のものとして生まれることです。神の民の一枝として、新しく生まれるのです。主イエス・キリストによって、陰府の力はうち破られました。陰府とは、死者の行くところ、死の力が支配するところです。陰府の力、死の力も主の教会に対抗することはできません。私たちはやがて地上の生涯を終え、その命の終わりのときを迎えます。しかしそのとき、私たちは、死と滅びの門の中に飲み尽くされてしまうのではありません。死は勝利に飲み込まれたのです。死はもはや私たちを支配しません。私たちは、主イエス・キリストのものとして、神の民として生きるとき、死を通して、よみがえりの命へと招かれているのです。そして、このことを信じることができるのです。もしかしたら、次の主日を迎える前に、私たちの地上の命が終わってしまうかもしれません。人間には分かりません。たとえ、そうなったとしても、同じ信仰の告白によって結ばれた神の民の一人として、主イエスと直面しながら、死に勝利されたよみがえりの主イエスの御手に委ねられるのです。ここに、誰も、どんな力も奪うことのできない確かな平安があります。

関連記事

TOP