夕礼拝

挫折を超えて

「挫折を超えて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書;エレミヤ書、第22章 24節-30節
・ 新約聖書;ルカによる福音書、第3章 23節-38
・ 讃美歌 ;12、431

 
序 横浜指路教会には、よく先祖のルーツを辿ろうとして問い合わせに訪れる方があります。この半年の間にも、こうした問い合わせを持って教会を訪問された方が二人くらいありました。明治や大正時代に生きた先祖が、どのような経緯で洗礼を受け、どのような信仰の証の道を辿ったのか、そのことを掘り起こして、自分のルーツを知りたいと思う人が増えているようなのです。ある人は幕末の時代に先祖にまでさかのぼって、資料を集めようとしていました。わたしの母方の祖先は武士だったと聞いたことがあります。そういえばわたしの祖父は武士のような気骨を持った人でした。父方の祖先は百姓だったと言います。父方の祖父は農家を弟に譲って、数学を志して長野市に出てきて、机代わりのみかん箱にしがみついて勉強したという話を聞いたことがあります。このようなエピソードを聞くことは大変興味深いことです。自分の中にどのような血が流れているのか、どのような経緯を辿って今の自分があるのかを知ることは、自分の知らなかった部分を発見するような醍醐味があると言えるでしょう。
 信仰のルーツだけでなく、自分がどこから来たのかを問う関心は最近大きくなってきていると言えます。日本人はどこから来たのか、という日本人論は近年のブームです。つい最近も日本人の起源についてNHKが特別番組を制作したりしています。血縁というのはまた、単に興味深いだけでなく、一つの力、権力を示すものともなります。水戸光圀の印籠が象徴する力はその典型でありましょう。優れた者の血、有名な人の血をひいていることはそれだけで一つのブランドとなるのです。そうしたブランドものの血に敬意とおそれを抱く人間の弱さにつけこんで、皇族の結婚式を偽装した詐欺事件も、話題になったところです。
 こうした血のつながりを表に表したものを系図と言いますが、系図はこのようにして、人のアイデンティティーを明らかにしたり、社会的な身分をはっきりさせたり、何かの役職に就いている正当性を証明したり、人に勧告するだけの権限を示すものとなったりするのです。それでは先ほどお読みいただいたルカの福音書が掲げている系図は、わたしたちに今何を語りかけているのでしょうか。

1 この系図は冒頭でまず「イエスは宣教を始められたときはおよそ30歳であった」と告げています。この系図の直前の箇所で、主イエスは洗礼を受けて天からの声をお聞きになっておられます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。主イエスは神の聖なる霊によって、自らが神の救いのご計画によってこの世に遣わされた御子なる主であることを改めて自覚されたのではないでしょうか。天から降る声の中でこの方は、父なる神とのこの上なき交わりに生き、父なる神のご意志に従って生きることが、自らの進むべき道であることを深く理解されたのだと思います。父なる神のご意志がそのままご自分の意志であることを深く理解されていたのです。ここにおいて主イエスの公の生涯が始まります。主イエスの宣教が始まるのです。その公の生涯が語られ始める最初にこの系図は位置しています。公の歩みの最初に、この方がどのようなお方であるのかを明らかにする目的で、この系図が置かれているのです。
 主イエスに関わる系図として、わたしたちがすぐに思い浮かべるのは「マタイによる福音書」の冒頭に出てくる系図です。この系図と、今与えられている「ルカによる福音書」の系図を比べてみますと、すぐに気づかされるのは、マタイの系図がアブラハムから始まりキリストに至っているのに対して、ルカの系図はそれとは逆に、主イエスから始まって過去にさかのぼり、最後は神に至っているということです。系図を辿る方向が逆向きなのです。マタイの系図は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」として掲げられています。それゆえに主イエスがまことにダビデの子であること、その子孫より現れ出ると預言されていたまことの救い主にほかならないのだということを証ししようとしているのです。アブラハムからダビデ、ソロモン、それに続くイスラエルのたくさんの王たち、そしてバビロン捕囚の時代を経てキリストに至るという一本の直線を証しているのです。主イエスこそはイスラエルが待ち望んでいたダビデの子の中から現れるメシア、救い主であり、イスラエルの歴史を成就・完成させてくださるお方なのです。ですからアブラハムからキリストに至る線を明らかにしようとしているのです。
一方ルカの系図は、このお方がまことに神の子であることを示すことに関心があります。救い主はまことの神の子としてこの世に来られたことが重大なのです。そしてそこに関わるイスラエルの歴史については、マタイほど楽観的ではありません。そこにはイスラエルの歴史に対する深い絶望があります。ルカの系図には、あのバビロン捕囚の時代に、ソロモン王から続いてきたメシアを待ち望む血の流れがいったん途絶えたという理解があるのです。
先ほどお読みいただいた旧約聖書エレミヤ書の第22章24節以下には、バビロン捕囚によって連れ去られたコンヤ王―これはエホヤキンと呼ばれている王の別名ですが―このコンヤ王においてイスラエルの王たちの歴史に主の裁きが下されたことが告げられています。24節以下、「『わたしは生きている』と主は言われる。『ユダの王、ヨヤキムの子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない。わたしはあなたを指から抜き取る。わたしはあなたを、あなたの命をねらっている者の手、バビロンの王ネブカドレツァルとカルデア人の手に渡す。わたしはあなたと、あなたを産んだ母を、生まれたところとは別の国へ追放する。あなたたちはそこで死ぬ。彼らが帰りたいと切に願っている国へ帰ることはできない』」(24-27節)。さらに29節、30節でこう告げられます、「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。主はこう言われる。『この人を、子供が生まれず 生涯、栄えることのない男として記録せよ。 彼の子孫からは だれひとり栄えてダビデの王座にすわり ユダを治める者が出ないからである』」。ルカはここに、メシアがその中から現れると言われたソロモンに続く王たちの血の流れに断絶を見ているのです。それはソロモンの後に続いた王たちが結局は主に背を向けて離れ去り、主が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏し、自らメシアを迎え入れるにふさわしくない民であることを明らかにしたからなのです。自分は神に選ばれた民だ、自分の子孫の中からメシアが現れるのだ、そのようにして恵みを当たり前のこととして前提している時、それは実は神の恵みが自分たちの手の中にあるもの、人間の所有物であるかのように振舞っていることになるのです。そこに人間の驕りが生まれ、自分の腹を神とすることが起こっているのです。
わたしたちの信仰の歩みの中にも時に恵みを当たり前のこととして、自分の手の中にいつもある当たり前の持ち物であるかのように考えてしまうことがないでしょうか。罪の赦しの恵みを自分の自由にできる所有物のように思ってしまうことがないでしょうか。何をしても赦されると思って、自分の思いと行いを正当化するための道具として「罪の赦しの恵み」という言葉を使うということがないでしょうか。そこに神の言葉は上から切り込んできて、預言者を通して語りかけます、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3:7-8)。石ころからでもアブラハムの子をお造りになることができるほどの自由を持っておられる神、この全能の神に対する畏れを、わたしたちは失ってはなりません。この全能の神が、ご自身の自由な決断の中で、わたしたちに身を向けて、恵みをもって関わってくださいます。神の恵みは自分の所有物のように安心して手の中に入れておけるものではなく、一回一回新しく、感謝をもって受け止めなおされるものなのです。神の恵みを一回一回、新しく知らされ、味わい、感謝をもって受け入れる歩み、それがキリストのものとされたわたしたちの歩みです。ご自身の自由な決断の中で、ついには肉を取り上げて、この世にまで来てくださった神がわたしたちの神です。それほどまでにわたしたちを愛して、わたしたちと関わり、メシアを迎えるに値しないかたくなで背きの心に満ちたわたしたちを憐れんでくださったのです。

2 このルカの系図では、31節のダビデの手前に、ナタンという名が挙がっております。ここはダビデの子が来るのだから、ソロモンのはずではないか、とわたしたちは思います。しかしもはやソロモンに続く王たちの流れから救い主が現れる道はイスラエルの反逆によって閉ざされてしまったのです。そこでルカは、ソロモンではなくて、ダビデの3番目の子であるナタンの家系の末に、主イエスが現れたことを示しているのです。
マタイの系図と比べて、ルカはどうしてこのように違う名前が挙がっているのかということについて、いろいろな説明が試みられてきたようです。たとえばマタイの系図は父ヨセフのものであり、ルカの系図は母マリアのものである、と言われています。23節に出てくるエリはマリアの父であり、マリアには兄弟がなく、後を継ぐ者が無かったのでヨセフを娘婿として養子に取ったと言われています。あるいはマタイの系図もルカの系図もともにヨセフの系図だけれども、マタイの方は直接的な血のつながりではなく、法律上の王の位の継承の流れを表しているのに対して、ルカの方は血縁上の結びつきを表しているとも言われています。  
しかしそのいずれであっても大切なことは、御子なる神が、具体的な一人一人の名前を持った人間のつながりの中に肉を取って来てくださったということです。そしてメシアを迎える備えに失敗した、かたくなで、罪に満ちた、暗いこの人間の世界に、その罪をご自身に引き受けるために来てくださったということです。メシアを迎えることに失敗した人間の挫折を越えて、神は救いの業を成し遂げてくださるという大いなる恵みの出来事です。神に正しくお応えすることなど到底できない人間が味わう深い「挫折を越えて」、神は恵みを現してくださるのです。冒頭に述べたような、人間の世界の中で、優れた家系の血の流れにより頼むことや、そこに自分のアイデンティティーを見出すことも、結局はブランドものに惹かれる人間の心を利用して、当面の世渡りを上手にしていくための方便程度の役割しか果たせないでしょう。それは人間が神の前で味わい知るべき、本当の挫折から逃れて、神の前での人間の破れを取り繕うとする姿なのかもしれません。
苦難と艱難、繕いようのない破れ、自分では克服しようのない挫折、その暗闇の只中にわたしたちがたたずむ時、そこに神の憐れみの光がパッと投げかけられるのです。主イエスが後におっしゃられたように、「心の貧しい者」にこそ、神の憐れみが降り注ぐのです。自らの破れを悲しみ、主の前に言葉を失い、黙してひざまずくしかない砕けた魂を神は顧みてくださるのです。神に反逆せざるを得ない罪の民の只中に、主イエスは来られてわたしたちが神に立ち帰ることができる道をご自身で備えてくださいました。このお方が来てくださり、今も聖霊においてわたしたちとともにいてくださるおかげで、わたしたちは自らの人生が決して無意味ではないことを知ります。わたしたちの代々の先祖からの命のつながりも、意味のないことではありません。それも今のこのわたしたちが神のものとされるために、神が備えてくださった連綿とした命のつながりなのです。わたしたちは血のつながりの中に、この世を上手に渡っていくブランドものの価値を見つけようとするのではなく、連綿とした命のつながりの中に現れる神の救いのご計画を見るのです。まことの神の子、御子なる主が来てくださったおかげで、この世界も、この歴史も、決して無意味に終わることはありません。それは神がご自身をお与えになるほど愛され、顧みられ、今もご支配のもとにおいてくださっている世界なのです。恵みの支配の中を生きるようにと、主がわたしたちを日々招き、わたしたちがそれにどうお応えするのかを重大な関心をもって見守っておられる世界、それがわたしたちの生きているこの世界なのです。たとえどんな試練や困難、悩みや恐れ、不安や恐怖に満ちた暗い闇のような世界であっても、この世界は神が愛し、支え、御国へと導いてくださっている世界です。たとえわたしたちの人生が惨めで破れに満ちたものであっても、挫折に終わるしかない歩みであっても、途中で中断されてしまうかもしれない人生であっても、それは意味のない人生ではない。この世界、この歴史、一人一人の人生に大いなる関心を持って、この世に来られ、その意味を満たしてくださったお方、何事も決して空しく終わることはないことを明らかにしてくださった方、このお方が昨日も、今日も、明日も、わたしたちとともにいてくださり、日々新たに関わってくださり、恵みを現してくださいます。この恵みを知るわたしたちは、苦難と挫折の只中にあっても、なお「生きる勇気」を与えられ、暗闇の只中でも、なお顔を上げて、救いの光を仰ぐ幸いを知っているのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、人間であるわたしたちの、あなたのご期待に到底お応えすることのできない深い挫折を覚えます。どうかわたしたちを憐れみ、挫折の只中で御顔の光を仰ぐ恵みに与からせてください。困難や試練の只中にあっても、あなたのものとされていることを喜び、あなたのみに希望を置き、あなたに感謝し、あなたを讃美して歩むことの幸いに生きる者とならせてください。わたしたちの破れに満ちた歩みをすべてご存知のあなたが、わたしたちの人生の意味を満たし、完成させてくださることに希望を置いて、今日というこの日も、あなたの御前を歩む幸いへとどうかわたしたちを招いてください。
まことの神の御子なる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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