夕礼拝

負債の免除

「負債の免除」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第15章1-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第18章21-35節
・ 讃美歌:113、431

負債の免除  
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いております。本日は第15章です。毎回述べていますが、申命記は、神が与えて下さる約束の地カナンにこれから入って行こうとしているイスラエルの民に、モーセが、そこに入ったらこのように生活しなさいと語り聞かせている、という設定で書かれています。この15章にはどのようなことが教えられているのでしょうか。最初の1節に「七年目ごとに負債を免除しなさい」とあります。負債とはつまり借金です。七年目ごとの借金の免除が命じられているのです。神が与えて下さるカナンの地に入ったなら、あなたがたは、七年目ごとに借金を帳消しにして、負債のある人を救済しなさいと命じられているわけです。

七年目の安息年  
 この七年目という区切りは、レビ記25章2節に書かれていることと関係があると思われます。そこにはこのようにあります。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」。ここにも、七年目には、ということが語られています。六年間土地を畑として作物を栽培したら、七年目にはそこを休閑地とせよというのです。それは農業の面から言っても、畑を休ませていわゆる地力を回復させる、という合理的なことなのでしょう。しかしこれは、継続して収穫をあげていくための農業の手法を教えているわけではありません。七年目の安息の年に畑に自然に出来たものは、その土地の所有者のみでなく、奴隷や雇い人、外国人で滞在している者など、貧しい者たちに与えられなければならないと教えられているのです。同じことは出エジプト記の23章10、11節にもこのように語られています。「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない」。七年目には、畑は自分のためではなく、「あなたの民の乏しい者」のために用いられなければならないと教えられているのです。

七日目の安息日  
 この教えは、週の七日目を安息日として、一切の仕事を休まねばならないという掟と関係しています。今読んだ出エジプト記23章の続きの12節にはこのようにあります。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。つまり土地にとっての七年目の安息年の教えと人間にとっての七日目の安息日の教えはつながっており、どちらも目的は、家畜や奴隷たち、寄留者、滞在者たちが休んで元気を回復することです。七日ごとの安息日が、七年目ごとの安息年の元にあるのです。申命記には、土地のための安息年の掟は語られておらず、その代わりにこの15章の、七年目の負債の免除が語られています。それは申命記の方がより商業化された社会を前提としているということかもしれません。いずれにせよ、その精神は、貧しい者、弱い立場にある人々を社会全体で保護し、共に支えていくということです。神の民であるあなたがたは、約束の地に入ったらこのようなことを大切にして歩みなさい、と教えられているのです。

貧しい者、弱い者を支えよ  
 ところでこの負債の免除は具体的にはどのようになされるのかについて、学者の間に議論があります。七年目になるとその時点での借金が全て帳消しになるのか、それとも借金そのものは残るが、七年目には返済が猶予されるのか、という議論です。現実的なのは返済の猶予でしょう。それは土地についての安息年の掟とも関係します。土地を耕してはならない七年目には収穫が得られず、収入がないのだから、その年には借金の返済も猶予される、というのは合理的なことだと言えます。しかし申命記はそのような合理的なことを語っているのではありません。申命記はこの制度の具体的運用のことなど考えていないのです。語られているのは、イスラエルの民が神の民としてどういうことを大切にして歩むのか、という姿勢、精神の問題なのです。そのことがはっきりと現れているのが7~11節です。このようにあります。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。つまり、貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を大きく開いて必要なものを貸し与えよ、ということです。心に未練を起こすな、負債免除の年が近づいたからといって貸し渋ってはならない、とも言われています。ここから考えるなら、申命記が語っているのはやはり返済の猶予ではなくて負債の帳消しです。あと少ししたら自動的に帳消しになってしまうのにお金を貸す人は普通いません。しかし申命記は、そういう非常識なことを敢えてせよと命じているのです。そのようにして、貧しい者、弱い者を支えよと言っているのです。それが、神が与えて下さる約束の地での神の民イスラエルのあるべき姿だと言っているのです。

奴隷の解放  
 12~18節には、奴隷の解放についての掟が記されています。同胞であるヘブライ人が奴隷として売られて来るのは、借金の返済が出来なくなったからです。今なら「自己破産」という制度がありますが、昔は、破産することは奴隷になることでした。そのようにして売られて来た奴隷は、七年目には解放しなければならないのです。七年目には全ての借金が帳消しになるのだから、その人が奴隷とならなければならない理由も消えるのです。だから彼を自由にするわけですが、ただ解放するだけではいけないと言われています。13、14節こうあります。「自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい」。つまり豊かにお土産を持たせて去らせなさいということです。それは、彼が再び自由人となって生計を営んでいくための元手となるものです。その人の再出発をそのように支え助けることが命じられているのです。

祝福を分かち合うために  
 このように、貧しい者、弱い者を助け支えていく心構えは、神の民として、神の祝福にあずかって生きるために必要なのです。しかしそれはもっと正確に言えば、神が与えて下さっている祝福を分かち合い、その中で共に生かされていくためです。先ほど、七年目に奴隷を解放する時には豊かに贈り物を与えよという13、14節を読みましたが、その次の15節には、その理由がこのように語られているのです。「エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである」。奴隷を豊かな贈り物と共に解放するのは、イスラエルの民全体が、主なる神によってエジプトの奴隷状態から解放された時に与えられた恵みを思い起こすためなのです。その時彼らは、エジプト人から豊かな贈り物を与えられてエジプトを出ました。それはエジプト人の好意によると言うよりも、主なる神様の祝福によって与えられたものでした。イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から解放された時にそういう祝福を受けたのです。その祝福を、自分の下で奴隷となっていた同胞にも味わわせることによって、主が与えて下さった祝福を共に体験し、味わうのです。そのようにして主による救いの恵みを再確認するために、豊かな贈り物を与えて奴隷を解放することが命じられているのです。つまり、負債の免除や奴隷の解放といった、貧しい者、弱い者を支え助けることは、主なる神の祝福をいただくための交換条件としての親切な良い行いではなくて、神によって救われ、豊かな祝福を既に与えられている神の民が、その喜びの中で、神の祝福を分かち合い、共にそれにあずかるためになされることなのです。もうじき帳消しになってしまうことが分かっていても金を貸すというような、常識では考えられない、自分が損をしても貧しい者を助け支えるようなことは、神の救いの恵みが既に豊かに与えられているという喜びの中でこそできるのです。自分の下にいる奴隷を、沢山の贈り物と共に解放することも、神によって奴隷状態から解放された、その救いの恵みに感謝しているからこそできるのです。

主イエスによる救い  
 負債の免除と奴隷の解放は、新約聖書において、神が独り子イエス・キリストによって与えて下さった救いの恵みを語るたとえとされています。負債は罪と置き換えられます。主イエスによる罪の赦しはしばしば、負債の免除になぞらえられるのです。また、主イエスの十字架の死は、私たちの贖いのための死であったわけですが、その贖いというのは、身代金を払って奴隷を解放することです。罪という負債のゆえに奴隷となってしまっている私たちのために、主イエスはご自分の命を身代金として支払って下さり、私たちを解放して下さったのです。私たちは主イエス・キリストによって負債を免除され、奴隷状態から解放されたのです。

仲間を赦さない家来  
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第18章21節以下において主イエスがお語りになったたとえ話はそのことを印象深く描いています。この話には、一万タラントンの負債を負っている家来が出て来ます。その人は債権者である王に、「必ずお返ししますから、どうか待ってください」と願ったのです。王は憐れに思って負債を帳消しにしてやりました。支払いの猶予ではなくてまさに帳消しです。もう返さなくてよい、ということです。これが罪の赦しのたとえであることは、このたとえがペトロの「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」という問いをきっかけにして語られたことからも明らかです。兄弟の罪、つまり兄弟が自分に対して負っている負債、自分にはその返済を求める権利がある、その借金をどこまで赦し、免除するべきか、という問いがここには見つめられているのです。この家来は主人に一万タラントンの負債があった、と主イエスは語っておられます。一万タラントンとはどれほどの金額でしょうか。一タラントンは六千デナリオンです。一デナリオンが普通の労働者の一日の賃金でしたから、一タラントンは六千日分の賃金です。一年に三百日働くとしたら、一タラントン稼ぐには二十年かかります。一万タラントンはその一万倍、つまり二十万年分の賃金です。つまりこれは天文学的数字であって、一生かかっても決して返す事の出来ない負債なのです。その負債を主人が免除してくれた、帳消しにしてくれた。それが、神が主イエス・キリストの十字架によって私たちに与えて下さった罪の赦しの恵み、救いです。神は、私たちが一生かかってどんなに頑張っても決して償うことのできない罪を、赦して、帳消しにして下さったのです。負債を免除するとは、そのお金はもう返って来ないということであって、それだけの損害を自分が引き受けることです。神は私たちを赦すために、一万タラントンというとてつもない損害を引き受けて下さったのです。それが独り子イエス・キリストの十字架の死です。神は私たちの負債を免除して下さるために、独り子の命を犠牲にして下さったのです。

兄弟の罪を赦す  
 そのようにして負債を免除された家来が、自分に百デナリオン借金している仲間に出会った、とこのたとえ話は続きます。この百デナリオンが、私たちの兄弟が私たちに対して犯している罪、彼らが私たちに負っている負債です。百デナリオンは百日分の賃金であり、年収の四分の一です。それは決してどうでもよいはした金ではありません。相当な額です。つまり兄弟の罪は私たちを十分傷つけ、相当な損害を与えるものなのです。その仲間と出会った時彼は、「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」のです。私たちが兄弟の罪を赦さないというのはこういうことだ、と主イエスは言っておられるのです。百デナリオンは相当なものであり、その返済を求めることは私たちの正当な権利です。けれども私たちは、一万タラントンの負債を、自分では到底償い得ない罪を、主イエス・キリストの十字架の死によって赦していただいたのです。そういう救いを与えられているのです。そのことを覚えるなら、兄弟が自分に対して犯している百デナリオンの罪を、赦さないでよいのだろうか。神は私たちに「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と語りかけておられるのではないか。そして私たちは、兄弟の罪を赦すことによってこそ、主イエスが私たちの罪を赦すために引き受けて下さった苦しみを、その主イエスの苦しみによって与えられた罪の赦しの恵みの大きさを、そこにある神の祝福の大きさを、自分も体験し、それを兄弟姉妹との間で分かち合い、共にその救いの恵みにあずかっていくことができるのではないでしょうか。

過激な恵み  
 申命記15章は、七年目ごとの負債の免除と奴隷の解放を教えています。それは、実際に制度として行なうことはとても無理だと思えるような過激なことです。しかしその過激さは、神が私たちに与えて下さっている救いの恵みの過激さです。常識では考えられない過激な恵みを私たちは、神の独り子主イエス・キリストの十字架の死によっていただいているのです。そのような恵みを受けたがゆえに私たちは、常識では考えられない過激な仕方でそれに応えていくのです。もうじき帳消しになってしまうことが分かっていても金を貸し、自分に百デナリオンの罪を犯している人を赦し、また自分のもとで奴隷になっている人を解放し、その新しい自由な歩みを応援していくような生き方がそこに生まれるのです。それは、そうしなさいと命じられてすることではなくて、神が与えて下さっている救いの恵みを喜び、その祝福を兄弟姉妹と共に分かち合い、共有していこうとすることの中で与えられていくことです。私たちがそのように歩んでいくことを通して、「あなたがたの間に貧しい者はいなくなる」という神の祝福が実現していくのです。

主イエスの復活の記念日に  
 七年目の負債の免除は、週の七日目の安息日とつながっていると申しました。今私たちは、週の七日目の土曜日ではなくて、週の初めの日、日曜日を安息日としてこのように礼拝を守っています。それはこの日に主イエス・キリストが復活なさったからです。主イエスの復活によって、十字架の死による罪の赦し、負債の免除は確かなものとなりました。また私たちが罪と死の奴隷状態から解放されて、新しい命、永遠の命を待ち望みつつ生きることが出来るようになったのも、主イエスの復活によってです。主イエスの復活を記念するこの日に、主イエスの父である神を礼拝し、その祝福を豊かにいただくことによって、互いに罪を赦し合い、お互いを束縛から解放し合っていくような、神の民としての交わりを築いていきたいのです。

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