主日礼拝

祝福しながら

「祝福しながら」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ヨシュア記 第1章1-9節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第24章44-53節
・ 讃美歌:327、183、337

今はもう一緒にはいない?
 2008年7月から3年半以上にわたって礼拝において読み続けてきたルカによる福音書を本日をもって読み終えることになりました。本日ご一緒に読む24章44節以下は、その前の所、36節以下とつながっている、同じ場面です。24章においてこれまで、復活なさった主イエスが何人かの弟子たちに現れて下さったことが語られてきました。復活した主イエスとの出会いを与えられたその人々を囲んで弟子たちが集まり、語り合っていると、その真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さった、それが36節以下の場面です。それでもなお信じられずにいる弟子たちに主イエスは、ご自分が肉体をもって復活したことを示すために手と足を見せ、さらに焼き魚を一切れ食べて見せた、ということが43節までに語られてきました。そのようにして、ご自分が確かに復活なさったことを示した上で、主イエスが弟子たちにお語りになった言葉が44節です。主イエスはこうおっしゃいました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。ここで先ず注目したいのは、「まだあなたがたと一緒にいたころ」というお言葉です。それは主イエスが十字架につけられる前、弟子たちが主イエスに従って共に歩んでいた頃、ということです。その頃主イエスは弟子たちと寝食を共にする仕方で一緒におられたのです。しかし逮捕され、十字架につけられたことによって主イエスは弟子たちから引き離され、一緒にいることができなくなりました。けれども今は、復活して再び弟子たちの前に立っておられるわけです。それなのに主イエスのこのお言葉は、あなたがたと一緒にいたのはかつてのことで、今はもう一緒にはいない、という意味になっています。どうしてこのような言い方をなさるのでしょうか。
 このことは、先週の説教においてお話ししたこととつながります。先週お話ししたことの一つは、主イエスの十字架と復活の前と後では、主イエスと弟子たちとの関わり方が変わったということです。十字架以前は、今も申しましたように弟子たちは主イエスと寝食を共にしていたのです。主イエスはそのようにいつも彼らと一緒におられたのです。しかし復活の後はもうそういうことはありません。復活なさった主イエスはいろいろな仕方で弟子たちにご自身を現して下さいましたが、それは一時のことで、すぐに去って行かれたか、あるいはそのお姿が見えなくなったのです。復活した主イエスとの交わりは、十字架以前の、いつも生活を共にするというものではもはやなくなっているのです。「まだあなたがたと一緒にいたころ」というお言葉は、十字架と復活によってそういう変化が起こっていることを示しているのです。

主イエスのお姿を見ることができない私たち
 そしてこれも先週申しましたが、この復活後の主イエスと弟子たちとの関わりは、私たちが今与えられている主イエスとの関わりに近いものです。私たちも、目に見える仕方でいつも主イエスと一緒にいることはできません。寝食を共にするような仕方で主イエスに従っていくことは私たちにはできないのです。しかし弟子たちと私たちの間には違いもあります。弟子たちはそれでもここで、復活した主イエスを目の前に見ています。一時であれ、目に見える仕方で主イエスと出会うことができたのです。しかし私たちはそうではありません。この弟子たちのように、一時でも、復活された主イエスと目に見える仕方で出会うことができたらいいのにと思いますが、私たちには、そのような形での主イエスとの関わりは与えられていません。私たちは、この目で見ることなしに主イエスを信じ、目に見えない主イエスと共に歩まなければならないのです。弟子たちと私たちのこの違いは何によるのでしょうか。弟子たちは、一時にせよ復活した主イエスのお姿を見ることができたのに、どうして私たちにはそれができないのでしょうか。

主イエスの昇天によって
 それは、本日の箇所の50節以下に語られているように、主イエスが天に上げられたからです。51節に、「彼らを離れ、天に上げられた」とあります。それを主イエスの昇天と言います。「天に昇る」と書く「昇天」です。それは死んだという意味ではありません。体をもって復活した主イエスが、その体において地上を離れて天に上げられたのです。復活からその昇天までの間、主イエスは繰り返し、目に見える仕方で弟子たちの前に姿を現されました。しかし昇天以後はもう、この地上で、目に見える仕方で主イエスとお会いすることはなくなったのです。このルカによる福音書の続きとして、同じ著者によって書かれたのが「使徒言行録」ですが、その最初の所には本日の箇所と内容的に重なっている部分があります。使徒言行録の1章9節にやはり主イエスの昇天のことが語られているのですが、そこには「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。天に上げられたことによって、主イエスのお姿が目に見えなくなった、それが昇天という出来事なのです。この昇天以降、地上を生きる私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはなくなったのです。

新しい時代への移行期間
 同じ使徒言行録1章によれば、主イエスの復活から昇天までの間は四十日でした。その四十日は、「まだあなたがたと一緒にいたころ」と言われている十字架以前の時代から、主イエスのお姿を目で見ることができない昇天以後の時代への、言わば移行期間であると言えます。その間、主イエスはいろいろな機会に、目に見える仕方で、体をもって復活なさったお姿を現して下さいました。しかしそれは十字架以前とは違う仕方で、つまりずっと一緒にいるのではなく、一時現れては見えなくなる、という仕方によってでした。そのような仕方で姿を現すことによって主イエスは、昇天の後、主イエスのお姿を肉の目で見ることなしに歩んでいくことになる、その新しい時代への備えを弟子たちに与えておられたのだと思います。「まだあなたがたと一緒にいたころ」というのは、これからはもう以前のように目に見える仕方で私と一緒にいることはなくなるのだ、ということを弟子たちにわきまえさせるためのお言葉でもあったのです。

聖書に書かれていることは実現する
 そのことを踏まえて読み返してみると、復活なさった主イエスが弟子たちにお語りになった言葉はどれも、主イエスの昇天によって始まろうとしている新しい時代、目に見えない主イエスを信じて生きていくという時代を迎えようとしている弟子たちに、その備えをさせるために語られていると言うことができると思います。先ほど読んだ44節の「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」というみ言葉もそういう思いで語られているのです。「モーセの律法と預言者の書と詩編」というのは旧約聖書の三つの部分を示す言い方で、要するに旧約聖書全体が、ということです。その旧約聖書全体に、「わたしについて」書いてある事柄が今実現し、これからさらに実現していく、というのがこの言葉の意味です。「わたしについて書いてある事柄」とは何か、それが46節と47節に語られています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。主なる神様から遣わされる救い主メシアは、苦しみを受けて殺され、三日目に死者の中から復活する、神様のそういうみ心を旧約聖書は語っていたのです。その預言がまさに今、主イエスの十字架の死と復活によって実現したのです。そしてこれから実現していくみ心は、「罪の赦しを得させる悔い改め」が、「その名」つまり主イエスの名によって「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「その名によって」という言葉は「宣べ伝えられる」にかかるのか、それとも「罪の赦しを得させる」にかかるのか、口語訳と新共同訳では訳し方が違いますが、いずれにしても、主イエスの十字架の死と復活によって神様による救いのみ業が実現した、悔い改めて主イエスを信じる者には罪の赦しが与えられる、その救いの知らせ、福音が、全世界に宣べ伝えられていく、そういう神様のみ心が聖書に示されており、そのみ心は必ず実現していくのだ、と主イエスはお語りになったのです。そして48節には「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。あなたがたは、主イエスによって実現した神様の救いの出来事の証人として遣わされる、あなたがたによって、罪の赦しを得させる悔い改めが、全世界に宣べ伝えられていくのだ、聖書に語られている神様のみ心はあなたがたを通して実現していくのだ、ということです。

新しい時代を生きるために
 これらのみ言葉は、主イエスの昇天後の新しい時代を生きていく、つまり主イエスを肉の目で見ることなしに、目に見えない主イエスを信じて生きていく弟子たちに、信仰の目で何を見つめたらよいのかを教え示し、励ましを与えています。肉の目で主イエスを見ることのできない私たちが、信仰の目で見つめるべきこと、それは、主イエスが肉体をもってこの世に来られ、肉体をもって十字架にかかって死なれ、肉体をもって復活なさったことによって、肉体をもって生きる私たち人間のための神様の救いのみ業が成し遂げられたということです。その救いのみ業をなし終えた主イエスは天に昇り、肉の目には見えなくなります。その昇天の後の時代を生きる信仰者は、目に見えない主イエスを救い主と信じ、その主イエスの名によって与えられた、罪の赦しを得させる悔い改めを自分自身もなしつつ、その救いの証人として歩むのです。主の昇天以後の新しい時代を生きていく弟子たち、つまり私たちの歩むべき道はそこにこそあるのです。

聖書を悟るとは
 目に見えない主イエスを信じて生きていくという新しい時代に備えさせるために、主イエスはここで弟子たちに、聖書を説き明かして下さいました。聖書に何が語られているのかを示し、それがご自身の十字架と復活によって実現したこと、そしてこれからも実現していくことをお語りになったのです。そのことによって主イエスが教えて下さったのは、目に見えない主イエスを信じて生きていく私たちの信仰を支え、導き、励ますのは聖書のみ言葉だということです。聖書が説き明かされることによってこそ、主イエスをこの目で見ることのない私たちにも、信仰が、罪の赦しを得させる悔い改めが与えられるのです。しかし、聖書に書いてあることの内容をただ知識として知っていても、それで信仰が得られるわけではないし、罪の赦しを得させる悔い改めに至ることはできません。必要なのは、聖書を本当に悟ることです。そのことを語っているのが45節です。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。復活した主イエスが弟子たちにして下さったのは、ただ聖書を説明し、ご自分について書かれていることを教えた、ということではなかったのです。主イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて下さったのです。聖書に語られている神様の救いのみ心が主イエスの十字架と復活において実現し、これからも実現していくことを私たちが本当に知るためには、心の目を開かれなければなりません。聖書を知識として知っているだけでは、主イエスとは誰であるかということも、主イエスによって実現した神様の救いの恵みも、そして罪の赦しを得させる悔い改めも、分からないのです。分からないというのは、それが自分に与えられている救いであることが分からないということです。主イエスがこの私の救い主であることが分からないのです。主イエスの十字架の死と復活によって、この私の救いが実現したということが分かること、それこそが、聖書が本当に分かるということです。そのためには私たちは、心の目を開かれなければならないのです。

心燃える体験
 この24章の35節までのところに語られていた、いわゆる「エマオ途上」の話もそのことを語っていました。主の復活の日、二人の弟子がエマオという村へと歩いていた。そこに復活した主イエスが近づいて来て共に歩いていかれました。しかし彼らはそれが主イエスだと気付きませんでした。エマオの村に着いて、夕食の席で主イエスがパンを裂いてお渡しになった時に、彼らの目が開けて、主イエスだと分かったのです。目が開けた彼らは、32節にあるように、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主イエスは27節にあるように、彼らと共に歩きながら、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。それは本日の箇所で主イエスが、ご自分について聖書に書いてある事柄をお語りになったのと同じことです。しかし彼ら二人がその聖書の説き明かしを本当に分かったのは、目を開かれた時でした。目を開かれ、主イエスの復活が本当に分かった時に、聖書の解き明かしによっていかに自分たちの心が燃えていたかに気付いたのです。心の目を開かれ、聖書が語っている主イエスによる救いが本当に分かり、それが自分のための救いのみ業であることを知らされる時、私たちの心はこのように燃えるのです。そのように聖書によって心燃える体験を与えられていくことによって私たちは、目に見えない主イエスを信じて生きることができるのです。

聖霊の働きによって
 「心の目を開いて」と訳されていますが、原文に「目」という言葉はありません。直訳すれば「心を開いて」です。しかし見てきたように、肉の目で主イエスを見ることのない時代を生きていく弟子たち、そして私たちのためにこのみ言葉は語られているという意味では、「心の目を開いて」と訳すことにも意味があります。そしてそのように私たちの心を、心の目を、開いて下さり、聖書によって心燃える体験を与えて下さるのは、聖霊です。49節で主イエスがお語りになったのは、その聖霊を送るという約束です。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。これは、使徒言行録第2章のペンテコステの出来事、弟子たちに聖霊が降り、彼らが高い所からの力、つまり神様の力に満たされて、主イエスの証人として語り始めた、それによって教会が誕生した、そのことへの備えとなっているお言葉です。復活した主イエスが天に上げられ、肉の目には見えない方となられることによって新しい時代が始まります。それは、目に見えない主イエスを信じて生きるという時代です。その新しい時代に、信仰者と共にあり、その歩みを支え導いて下さるのは、聖霊なる神様なのです。私がその聖霊を送るから、エルサレムの都に留まって待っていなさい、と主イエスはこの48節でお語りになったのです。私たちは、この約束の実現であるペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって誕生した教会の礼拝に連なっています。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」ということが私たちにも起るのは、礼拝において、聖霊なる神が働いて下さることによってです。「わたしたちの心は燃えていたではないか」という体験も、礼拝において、聖霊の導きの中でみ言葉を聞くことによって与えられるのです。

祝福しながら
 そして50節以下に、主イエスが天に上げられたこと、昇天が語られています。先ほども申しましたように、使徒言行録第1章9節の昇天の場面では、主イエスのお姿が「彼らの目から見えなくなった」ことが語られています。ルカ福音書における昇天の場面の特色は、主イエスが手を上げて弟子たちを祝福なさり、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた、と語られていることです。主イエスは弟子たちを祝福しながら昇天なさったのです。ここにも、先ほどから見て来ている、これから弟子たちが新しい時代を生きていく、ということへの配慮があると言えるでしょう。主イエスが天に昇られることによって、彼らはもう主イエスのお姿を肉の目で見ることはできなくなるのです。かつてのように、寝食を共にするような仕方で一緒にいることはなくなるのです。目に見えない主イエスを信じて、主イエスによって実現した救いを心の目、信仰の目で見つめて生きていくのです。そのように、目に見える仕方においては彼らを離れていく主イエスが、しかし祝福を与えつつ離れて行かれた、そのことによって、目に見えない方となられた主イエスは、いつも彼らを祝福していて下さるのだ、ということが示されているのです。

良い言葉を語りつつ
 「祝福する」という言葉は、その成り立ちにおいては、「良い言葉を語る」という意味です。天に上げられ、目に見えなくなった主イエスは、弟子たちに、信仰者に、常に「良い言葉」つまり恵みの言葉、救いの言葉、罪の赦しの言葉を語っていて下さるのです。ルカ福音書が主イエスの昇天において強調しているのはそのことです。そしてそれゆえに52節以下には、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と語られているのです。「大喜びで」とあります。昇天によって主イエスのお姿が見えなくなったのです。目に見える仕方ではもう共におられなくなったのです。それなのに彼らは「大喜び」した。それは、主イエスがいつでも祝福していて下さること、良い言葉、恵みの言葉、救いの言葉を語りかけていて下さることを確信したからです。その大きな喜びの中で、彼らは神をほめたたえていた。この「ほめたたえる」も、原文において実は「祝福する」と同じ言葉です。つまりこれも「良い言葉を語る」という意味です。主イエスが自分たちを祝福して下さっていること、良い言葉を語って下さっていることを確信した彼らは、自分たちも神を祝福しつつ、神に向かって良い言葉を、この場合には感謝と賛美の言葉を、そして罪の赦しを得させる悔い改めの言葉を語りつつ、聖霊を与えられることを待っていたのです。主イエスのお姿は肉の目には見えなくなりました。しかし主イエスと彼ら弟子たち、信仰者の間には、このような、主イエスが常に祝福を与えて下さり、それに応えて信仰者が神を礼拝し、ほめたたえるという関係が打ち立てられたのです。復活した主イエスが、弟子たちとの間にそのような関係を打ち立てるために、様々な仕方でご自身を現し、語りかけて下さったことをこの24章は語っています。このような周到な準備を経て、ペンテコステの出来事、聖霊が降り教会が誕生するという、救いのみ業における新しい展開がなされていったことをルカ福音書はそのしめくくりにおいて語っているのです。この恵みの中で私たちも今、礼拝において聖書のみ言葉の説き明かしを受け、聖霊のお働きによって心燃やされつつ、目に見えない主イエスを信じ、その祝福にあずかり、そして主イエスの父である神様に喜びと賛美と感謝の言葉を語りつつ生きることができるのです。

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