夕礼拝

大いに喜びなさい

「大いに喜びなさい」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第5章1-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章10-12節
・ 讃美歌 : 454、481

天の国
 本日は、主イエスの語られた8番目の幸いである「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」という御言葉に共に聞きたいと思います。ここでは「天の国はその人たちのものである。」と結ばれております。この結びの言葉は主イエスがこの山上で語られた最初の幸いである「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と同じです。二つとも「天の国はその人たちのものである。」と結ばれております。心の貧しい人々に対して語られた幸いと同じ結びになっているのです。主イエスの教えは「天の国は心の貧しい人たちのものである。」と始まって、「天の国は義のために迫害される人々のものである。」となるのです。「天の国はその人たちのものである。」という言葉に再び戻って来るのです。おそらく、元々はこの「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」という8つ目の祝福の言葉をもって、この幸いの言葉は閉じられていたことであろうと推測をされます。その後に続く、11節と12節では今度は一般的な「人々」という呼び方から、直接「あなたがた」という呼び方へと変わります。ここから「あなた方へ」の語りかけとなるのです。内容的には同じことがもう少し丁寧に語られております。主イエスが別の機会に語られたものが、ここで一緒に合わせられこのような形で置かれたのではないかと、推測することができます。
 この本日の8番目の祝福は「義のために迫害される人々」ということですから、これまで見てきました7つの祝福と比べますと、今の私たちの生活とは少しかけ離れた、あるいは縁遠い教えのように思えるかもしれません。心の貧しさ、悲しみ、平和ということであれば私たちの信仰の生活にも直接関わってきますが、「迫害」となると現代の日本にいる今の自分の生活にはあまり関係がないと思われてしまうのではないでしょうか。けれどもこの最後の言葉、最後の祝福の言葉こそ、何よりもこれまで多くの人々を励まし、生かし、支えてきた御言葉なのです。

証人
 新約聖書の中の比較的遅い時期に書かれたものでペトロの手紙一があります。この手紙は90年代の後半、ローマの皇帝ドミティアヌスによるキリスト者への大規模な迫害が行なわれていた頃の文書ではないかと言われております。その3章14節にはこうあります。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」とあります。本日の主イエスの御言葉と似ております。これは、この主イエスの山上における御言葉が、教会の中で大事にされ、語り継がれ、このような形で、実際に迫害を受けている人々の生活を支える言葉となっていたということが分かります。教会の歴史とは迫害の歴史であったと言うことができます。この主イエスの幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきたのです。けれども先ほども言いましたように、今の私たちの信仰生活のあり方と、このような教会の迫害の歴史を比べるとそれは私たちとはやはりかけ離れてしまうものであると考えてしまうかもしれません。けれども、私たちの生活するこの国でも、キリスト教会はある時代、戦時中は弾圧を受けました。治安維持法の違反容疑で解散を命じられた教会もあったようです。大変な時代を信仰の先達達は信仰を守り貫き、現在の私たちの教会があるのです。迫害をされ、時に殉教の死を遂げるなどと言う信仰は、この自分にはとてもないと思うかもしれません。殉教者という言葉は、「証人、証し人」という言葉から来ています。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われております。けれども、ここで主イエスが祝福されている信仰はもちろん、殉教を伴うような、そのような信仰を含みますが、必ずしもそればかりではありません。信仰者が全員そのようなことは出来ません。そのような英雄の死を讃えているのが、本日の箇所ではありません。なぜなら、8番目の祝福の言葉はこう続くのです。11、12節「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」ここでは、「迫害を受ける」ということはののしられること、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることです。ののしられる、あるいは悪口を言われる、ということは私たちの日常の小さな歩みの中でも起こることです。普段の生活の中でも、それと同じことが起こる可能性があるということです。10節の「義のために迫害される」というところを「わたしのためにののしられ」というように言い換えています。

信仰者
 主イエス・キリストを信じ、その信仰に生きる、キリスト者として生きようとすることで、私たちはそうではない周囲の人々からあまりよく思われなかったり、時には、様々な仕方でののしられ、悪口を言われます。主イエスが弟子たちを伝道の業へと派遣する前に、弟子たちに伝えた命令の中に次のような言葉があります。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」(マタイによる福音書10章18節)また、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(同23節)と主は言われます。実際に初めの頃の教会のキリスト者を初め、教会の歴史を振り返るとそこには迫害の歴史があります。この「迫害をされる」という言葉には「追いかけられる、追い詰められる、そしてそこから追い払われる」という意味があります。初めの頃の教会のキリスト者たちはユダヤ人の会堂、シナゴーグを使わせてもらい礼拝をしていました。やがてこのシナゴーグ、礼拝を追われるということになるのです。追われる、追い払われたのです。キリスト者たちはその礼拝堂から出て行かざるをえませんでした。そして彼らが追放される先々で福音を宣べ伝えたのです。彼らが追放されたことによって、この福音が世界中に広まったのです。キリストの福音が迫害されれば迫害されるほど、広まるということです。先ほどの「預言者」とは教会の歴史における殉教者たちのことのみではありません。
 信仰の生活とは、どんなに小さな信仰生活であっても戦いがないということはないでしょう。「義のために迫害される」とは、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いと言えるのではないでしょうか。私たちの生きるこの世界は、神様を知らず、知ろうともしない世界です。神を神としない者たちが支配するこの世界です。この世はこの世を愛し、神様なきこの世を愛し、それに執着し、人間の欲望に仕えて、それを実現しょうと、そのような世界であります。そのような中で、神様の御心を求め、神様に頼り、心の貧しさに生きる、柔和さに生きる、清さに生きることが求められているのです。信仰を持ち続けるということは戦いであります。私たちの信仰の生活は、日々の戦いなしに信仰を持ち続けることは出来ません。しかし、そのようにして、信仰を保ち続けることを神様は喜んで下さるのです。

大きな報い
 そして、神様が喜んで下さるからこそ、私たちにも大きな喜びが与えられるのであります。そして、「天には大きな報いがある」とあります。「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということです。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。天の父なる神様を見る者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きることができるのです。その報いはもう既に与えられています。神が与えて下さる報いは主イエスを私たちに与えて下さったことから始まります。主イエスにおいて示された神の愛の大きさ、その報いの大きさです。主イエスが「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と義のために迫害される人々に神の国を約束されています。主イエスが、「義のために迫害される人々」と言われるとき、そこでは義のために苦しみを受けているすべての人々に向かって、約束しておられるのです。主イエス・キリストと出会い、信仰を告白し、洗礼を受け主イエスに従う歩みをしている者、自分はキリスト者と強く自覚しているものだけが義のために苦しみを受けるのでないでしょう。すべての人がそれに参与するのです。

主イエス・キリストこそ
 主イエス・キリストこそ最後、最大の預言者、預言者の中の預言者としてこの世に来られました。神の義を確立するために、誰よりも迫害され、人々から「ののしられ、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」ました。そして遂に、十字架へと追いやられたのです。主イエス・キリストは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主です。もし、私たちが義のために、福音のために、イエス・キリストを信じようとするがゆえに、追い立てられ、追い詰められのどうしたら良いのでしょうか。あれば、私たちは主イエスのところに、主イエスに従うのです。このお方の主イエスの後に従うということです。それこそは幸いなことであり、喜ばしいことです。主イエスの後に続く人間とされるのです。ある聖書注解者がこういっております。「義のために苦しまねばならないことを、イエスは栄光に満ちて召しであると言われる。なぜなら、その人は神を自分の味方に持っているからである。」主イエスは、義のために苦しまねばならないことを栄光に満ちた召しであると言うのです。なぜなら、その人、義のために苦しむ人は神様を、自分の味方に持っているからです。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではありません。この世界において真の義なる、本当に正しい、義なる神様は、義のために苦しむ者の傍らにいてくださるのです。主イエスはそのような、ののしられ、迫害される者と共におられるのです。主イエスのために傷を負う者と共におられます。自分にではなく、主に目を向け、主イエスに信頼を置くことができるのです。私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従いつつ歩み、天の父なる神様の報いを求めるのです。この「天には大きな報いがある」とは、恵みによる報いがあるということです。私たちの目にはまるで報いがないという現実、キリストの名によって失うものがあるかもしれません。ののしられ、迫害を受けるでしょう。けれども、天において、即ち神様の御前において獲得することとなるのです。

主イエスに従って
 主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられるのです。先ほどと同じペトロの手紙一にはこうあります。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」このお方の後に従うために、召された。誰よりも苦しみを受け、人々からののしられたお方に従う、このお方が共にいて下さるのです。この方と共に与えられた1週間を歩んで参りましょう。

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