主日礼拝

神の言葉を聞き、守る

「神の言葉を聞き、守る」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ヨナ書 第3章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章24-32節
・ 讃美歌:323、55、492

一本の糸
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めておりまして、前回、先々週の礼拝において第11章14節以下を読みました時に、26節までという予定を変更して23節までによって説教をしました。それで本日は24節以下についてお話をしたいと思います。このあたりのところは、いろいろな話が、一見脈絡なく並べられているように見えます。14節から23節までには、主イエスがある人から口を利けなくする悪霊を追い出したことをきっかけとして、主イエスのその力が何によるのかをめぐっての話が語られていました。24~26節は、人から出て行った汚れた霊がまた戻って来る、という主イエスの教えです。27、28節は、主イエスのみ業やみ言葉に感動してある女性が叫んだことに対する主イエスの答えが、そして29節以下には、「しるし」を求める今の時代の人々に対する主イエスの批判が語られています。これらの話は表面的には相互に特につながりのない、それぞれ独立した話のようにも思えるのです。しかしよく読んでいくとそこに、話の繋がりが見えてきます。これらの話を繋ぐ一本の糸があることが分かってくるのです。

悪霊に対する勝利
 23節までと24節以下との繋がりは一番分かりやすいかもしれません。23節までは、悪霊を追い出すことに関する話ですが、24節以下は「汚れた霊」についての話です。そこには繋がりがありそうだ、ということは想像できるでしょう。もっとも、23節までのところに出てくる「悪霊」と24節の「汚れた霊」とでは、同じ「霊」という訳が使われていますが、原文の言葉は全く違います。ですからこの繋がりは、日本語の訳で読むと感じるけれども原文を読んだのでは感じられないことかもしれません。しかし確かにこの点に、23節までと24節以下の繋がりがあると言うことができます。悪霊も汚れた霊もどちらも、人間を支配して、その人を神様の恵みから引き離し、その人から語るべき言葉を奪い、人との交わりを破壊してしまう力です。そういう力に取り付かれ、支配されてしまう私たちの姿と、その力を打ち破ってその支配から私たちを解放して下さる主イエスのことを、これらの話は語っているのです。前回読んだ23節までに語られていたのは、悪霊が完全武装して守っている城に私たちは捕えられ、虜になっている。その城を、悪霊よりももっと強い者である主イエスが襲撃し、悪霊に打ち勝ってその武装を解除し、捕えられている私たちを解放して下さる、ということでした。このようなたとえを用いることによって主イエスは、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った人に対して、今ここで起っているのはそのような悪霊の間の内輪もめではなくて、主イエスが悪霊との激しい戦いに勝利し、その人を悪霊の支配から解放したという出来事なのだ、とお答えになったのです。

汚れた霊が戻って来る
 24~26節にあるのは、今度は汚れた霊が人から出て行き、うろついたあげくまた戻って来る、という話です。ここでは汚れた霊が自分の意志で出て行き、また戻って来ることになっていますから、主イエスによって悪霊が追い出されたという先ほどの話とは違っています。しかしその違いは、どこに焦点をあててこの出来事を見つめているかの違いです。つまり主イエスに焦点を当てるならば、23節までのように、主イエスが悪霊と戦って勝利し、追い出す、という話になるのです。それに対して24節以下は、悪霊を追い出してもらった人間の方に焦点を当てて語っています。そうすると、汚れた霊がその人から出て行った、その後その人はどうなったか、という話になるのです。そのように、23節までと24節以下は、同じ出来事を別の角度、別の視点から見つめている話であり、その点で繋がっているのです。つまり24節以下において問われているのは、主イエスの勝利によって悪霊の支配から解放され、救いにあずかった私たちがどう生きていくのか、ということなのです。

悪霊のわが家
 汚れた霊は、主イエスによって追い出され、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探しますが見つからない。それで「出て来たわが家に戻ろう」と言って戻って来ようとします。ここには、悪霊でも汚れた霊でもどちらでもよいですが、彼らにとって、最も居心地のよい休み場所は私たち人間の中なのだ、ということが語られているのです。悪霊は人間の中でこそ安住できるのです。「出て来たわが家に戻ろう」と言っています。悪霊にとって、私たちこそが「わが家」なのです。最もくつろげる、安心できる、思い通りになる場所なのです。だから一旦は追い出されても、いつでも戻って来ようとしているのです。…という私の話を「ああそうなんだ」と感心して聞いていてはなりません。「出て来たわが家に戻ろう」という汚れた霊の言葉を語っておられるのは主イエスです。それは主イエスの、私たちに対する、痛烈な皮肉を込めた問いかけです。「あなたがたは、汚れた霊にとって居心地のよいわが家になってしまっていないか、悪霊の家にふさわしい者になってしまってはいないか」という厳しい問いがここにあるのです。悪霊にとって居心地のよいわが家となっている、それは私たちが悪霊の支配に慣らされ、それに自分を合わせてしまっているということです。神様の恵みに応えて従おうとせず、むしろ神様をも隣人をも憎んでしまう、交わりを破壊してしまう私たちの姿は、悪霊が「わが家」と呼んで喜んで住むような、悪霊向きの家になってしまっているのです。しかし私たちを造って下さった神様は、私たちを悪霊が住むための家としてお造りになったわけではありません。むしろ神様はもともと私たちを、聖霊の宮として、神様の聖なる霊が住むための、それにこそ相応しい家として造って下さったのです。ところが私たちは神様に背き逆らう罪によって、聖霊の宮としての本来の姿を失い、悪霊が喜んで住むような、悪霊にわが家と呼ばれるような者になってしまっているのです。それはあるまじきことです。主イエスが、「出て来たわが家に戻ろう」という汚れた霊の言葉をお語りになったその心は、「悪霊にこんなことを言わせておいてよいのか。悪霊に『わが家』呼ばわりされてあなたがたは何とも思わないのか」という叱咤激励なのです。

掃除をして、整えられていた
 汚れた霊が戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた、と25節にあります。これは何を意味しているのでしょうか。汚れた霊が出て行った後、その家は掃除され、きれいに整えられたのです。それは、悪霊の支配から解放された私たちが、汚れた霊によってこれまでさんざん汚され、荒らされていた自分という家を、いっしょうけんめい掃除してきれいにし、壊された所を修理して、ちゃんとした家に整えた、ということでしょう。それこそ、悪霊に「わが家」なんてもう言われないように、自分という家をきれいにリフォームして、内装も外観も新しくしたのです。そして表の表札には、以前の苦い経験を反省して、「汚れた霊お断り」という札を掲げたのかもしれません。もう二度と、汚れた霊、悪霊などにこの家を占拠されてしまうものか、という固い決意をもって、私たちは自分という家を整える、掃除され、整えられた家はそういう私たちの姿を表しているのです。

ほかの七つの霊と共に
 汚れた霊が戻って来て見出したのはそのように掃除がされ、整えられた私たちという家でした。「汚れた霊お断り」という札を見た悪霊は、「これは前のように簡単にはこの家に入り込むことはできないな」と考えます。そこで、「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」のです。つまり、自分一人ではこのきれいになった家に入り込むことができないので、「自分よりも悪いほかの七つの霊」を助っ人に頼み、その仲間と一緒になってこの家に押し入るのです。そうすればもう怖いものなしです。「汚れた霊お断り」の札はすぐに引きはがされて踏みつけられ、窓は割られドアは破られ、結局この家は、合計八つの悪霊が住み着くまさにホーンテッドマンションになってしまうのです。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とはそういうことです。

空き家
 この話によって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。なぜこのように、前よりもさらに悪くなってしまうようなことになったのでしょうか。そうならないためにはどうすればよかったのでしょうか。これと同じ話がマタイによる福音書の12章43~45節にあります。そこと読み合わせてみると、この話のポイントがどこにあるのかが見えてくるように思います。そこには、汚れた霊が戻ってきたところにこのように語られているのです。「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」。ここに、ルカにはない言葉が一つあります。「空き家になっており」という言葉です。掃除され、きれいに整えられたこの私たちという家は、空き家なのです。そこに住んでいる人が、主(あるじ)がいないのです。それがいけなかったのです。私たちが自分という家をどんなにきれいに掃除をし、内装も外観も美しく整え、そして「汚れた霊はもうお断り」という札を掲げたとしても、その家が空き家で、誰も住んでいなければ、主人がおらず、家を守る人がいなければ、結局その家はより悪い悪霊に占拠されてしまうのです。

主イエスに住んでいただく
 いや、空き家にしているわけではない、と私たちは思うかもしれません。自分という家をきれいに掃除し、リフォームして整え、そしてそこには自分が住んで、自分でその家を守っているのだ、決して空き家にしてほうってあるわけではない…。しかしまさにそれが悪霊の思う壷なのです。自分という家を自分で守っている、その自分は、悪霊に打ち勝つことができる強い者でしょうか。ましてや、さらに悪い七つの霊といっしょになって攻撃をしかけてくる悪霊を撃退することができるでしょうか。私たちが自分で家を守っている、というのは、この家のセキュリティーの面では、空き家であることと何も変わらないのです。ここにおいて、23節までの所で主イエスが語られたあのたとえとの繋がりがはっきりします。強い人が武装して家を守っていても、もっと強い者が襲って来るとその人は打ち負かされ、その家は占領されてしまうのです。私たちがせっかく家をきれいに整えても、前よりももっと悪い霊が襲って来ると、結局打ち負かされて前よりも悪い状態になってしまうのです。そうならないためにはどうすればよいのか。答えはただ一つです。七つの悪霊よりももっと強い方である主イエス・キリストに、この家に住んでいただくこと、この家の主(あるじ)となっていただくこと、そして主イエスにこの家を守っていただくことです。つまり、主イエスによって悪霊の支配から解放された私たちは、悪霊が出て行き、罪が赦されて救われたことを喜んでいるだけではいけないのです。主イエスによって悩みや苦しみから救っていただいて、後は自分で自分をきれいに掃除し、整え、自分の力で生きていけると思ったら大間違いなのです。それは、きれいにした家を空き家にしておくのと同じです。その家は結局、より強い悪霊の住処となってしまうのです。大切なことは、自分という家に主イエス・キリストをお迎えすることです。主イエス・キリストに私たちの家の主人となっていただくことです。先ほど申しましたように神様は私たちを、聖霊の宮として、神様の聖なる霊の住まいとして造って下さいました。私たちがその神様によって造られた本来の祝福された人間として生きるためには、主イエス・キリストを主人としてお迎えし、主イエスに宿っていただくことが必要なのです。

本当に幸いな人
 さて27節には、主イエスの話を聞いていた群衆の中のある女性が、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだことが語られています。これは主イエスに対する感嘆の叫びです。彼女は、主イエスが悪霊に取り付かれた人を癒したことを見、またその出来事をめぐって語られたみ言葉を聞いて、何とすばらしい方なのだろうと思ったのです。そしてその思いを、女性らしく、このようなすばらしい方を産み、育てたお母さんはなんと幸いな人だろう、という仕方で表現したのです。すると主イエスはそれに対して、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とお答えになったのです。
 この話は、ルカによる福音書のみが語っているものです。しかしルカはこれと似た話を既に8章19節以下で語っていました。それは、主イエスの母と兄弟たちが訪ねて来たという話です。「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と告げた人に主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになったのです。神の言葉を聞いて行う人こそが私の本当の母、兄弟なのだ、というこのみ言葉は、本日の所の、神の言葉を聞きそれを守ることこそが、私の母であるよりも幸いなことだ、というみ言葉と通じるものです。そして、この主イエスの母と兄弟たちに関する話は、マタイ福音書においては、12章46節以下に、あの「汚れた霊が戻って来る」話に続いて語られているのです。つまりこの話はもともと、「汚れた霊が戻って来る」話とセットになっていたと考えられるのです。ルカは、主イエスの母と兄弟とは誰か、という話を切り離して8章に置き、「汚れた霊が戻って来る」話の続きには、本当に幸いなのは主イエスの母ではなく神の言葉を聞いて行う人だ、というお言葉を置いたのです。そうすることによってルカは、26節までと27節以下の繋がりをよりはっきりさせようとしているのでしょう。ルカはそこにどういう繋がりを見ているのでしょうか。

神の言葉を聞き、それを守る
 今申しましたようにルカは27節以下の話から、主イエスの母や兄弟とは誰か、という要素を取り除いています。そして前面に押し出しているのは、本当に幸いな人とはどのような人か、ということです。それは、神の言葉を聞き、それを守る人なのです。「神の言葉を聞き、それを守る」というと、神様からの掟や戒めを守る、実行する、という意味にのみ受け止めがちです。勿論そういう意味も込められているのですが、この「守る」という言葉にはもっと広い意味があります。「しっかり保管する」とか「見守る」というような意味でもあるのです。つまり、神の言葉を聞いて、その言葉をしっかりと心の内に受け止め、そのみ言葉を大切にし、それに聞き従っていく、ということです。そこにこそ、本当に幸いな生き方が与えられるのです。それは、あの汚れた霊が戻って来る話に即して言えば、主イエス・キリストを自分という家にお迎えし、そこに住んでいただき、主人となっていただく、ということです。「神の言葉を聞き、それを守る」とは、主イエスを心の内に迎え入れ、主イエスに住んでいただき、自分という家を悪霊の攻撃から守っていただくことなのです。そこにこそ、悪霊の支配から解放された、聖霊の宮としての、本当に幸いな歩みが与えられていくのです。

ヨナのしるし
 29節以下は、群衆の數が増えてきたのをご覧になって主イエスが語られたお言葉です。これについては次回丁寧に見ていきたいと思いますが、本日の話の流れの中で一つのことに触れておきたいと思います。主イエスは、「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃいました。群衆たちは「しるし」を求めて来ている、そのことを主イエスは「よこしまだ」と言っておられるのです。「しるしを求める」とは、要するに奇跡を見たい、それによって信じる根拠を確かめたい、納得したい、ということです。はっきりとしたしるしを示してくれるなら信じてやる、という人々の思いが「よこしまだ」と言われているのです。そして、あなたがたにはヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない、と言っておられます。ヨナのしるしとは何でしょうか。それは30節にある、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように」ということです。このことを語っているのが旧約聖書ヨナ書であり、本日はその第3章を共に読む旧約聖書の箇所として選びました。ヨナは神様から大いなる都ニネベに言ってみ言葉を告げるように命じられたのです。そのみ言葉とは、ニネベの人々の罪が大きいので、神様はお怒りになり、この町を滅ぼそうとしておられる、ということです。3章は、ヨナがニネベの町でそのみ言葉を人々に告げたこと、するとヨナの告げるみ言葉を聞いたニネベの人々は神様を信じ、町をあげて断食をして自らの罪を悔い改めたこと、それで神様は思い直し、町を滅ぼすのをやめた、ということを語っています。これが、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」という出来事です。ヨナはニネベの町で、何か人々を驚かせるような奇跡を行ったのではありません。彼はただ町を歩き回りながらみ言葉を告げたのです。ニネベの人々はそのヨナの言葉を聞いて、信じたのです。「お前の語っていることが本当に神様の言葉であるしるしを見せろ、奇跡を行なって我々を納得させたら信じてやる」などとは言わなかったのです。そこに、しるしを求めているあなたがたとの大きな違いがある、と主イエスは言っておられるのです。ニネベの人々は、自分たちが悪霊に支配され、悪霊の住処となってしまっていることをみ言葉によって示され、これではいけないと思ったのです。そして、そのみ言葉を心の内にしっかりと受け止め、それに聞き従っていったのです。つまり神の言葉を聞き、それを守る人となり、神様の側に身を置いて、悪霊と戦う者となったのです。23節には「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とありましたが、彼らはまさに神様に味方し、一緒に集める者となったのです。そのことによって、悪霊よりも強い方である主なる神様が、彼らを支配していた悪霊を打ち破り、彼らを解放し、そして彼らの内に住み、守って下さる、本当に幸いな者となることができたのです。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というみ言葉は私たちに対する問いかけでした。主イエスは私たちに、あなたがたは私に味方し、私と共に悪霊と戦うのか、それとも結局悪霊のわが家となって、悪霊の支配の下で主イエスに敵対するのか、と問うておられるのです。この厳しい戦いの場において、中立ということはあり得ません。本当に主イエスが勝利しておられるのか、そのしるしを確かめてから、などと日和見を決め込んでいる場合ではないのです。主イエスの十字架と復活を告げるみ言葉を聞いて、それを信じて、私たちのために悪霊に勝利して下さった主イエスを私たちの内にお迎えして、主イエスと共に悪霊と戦う者となることが、今私たちに求められているのです。

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