主日礼拝

内なる光

「内なる光」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第119編 105-112節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章29-36節
・ 讃美歌:321、352、509

一本の糸
 本日この礼拝において、ルカによる福音書第11章29~36節をご一緒に読みたいと思います。先週の礼拝においては32節までを読みました。29~32節は先週と重なるところです。先週の説教においても申しましたが、このあたりは一見、いろいろな話が脈絡なく並べられているように思えます。しかし実はこれらの話は一本の糸によって繋がれているのです。先週見たその糸は本日の36節まで繋がっています。先週に続いてその糸をご一緒に見出していきたいと思います。

よこしまな時代
 29節以下には、「今の時代の者たちはよこしまだ」と始まる主イエスの厳しいお言葉が語られています。これが語られた相手は、主イエスのもとに集まって来た群衆たちです。ご自分のもとに集まった人々に対して主は、「あなたがたはよこしまだ」とおっしゃったのです。何をもって「よこしまだ」と言ったのでしょうか。それは彼らが「しるしを欲しがる」からです。主イエスにしるしを求める者がいたことは、この章の16節に語られていました。14節以下に、主イエスがある人から口を利けなくする悪霊を追い出して癒したことが語られていました。その奇跡を見た群衆たちの間に、二種類の反応が起りました。一つは「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」というもの、もう一つが16節の「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」ということです。第一の、イエスの力は悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ、という悪意あるコメントに対する主イエスの反論がその後の17節から26節までに語られていました。第二の、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」た人々に対する言葉がこの29節以下に語られているのです。この人々は、主イエスが悪霊を追い出すと口の利けなかった人がものを言い始めたという奇跡を目撃しました。しかしその恵みの出来事を見ても主イエスを信じる者とはならず、この出来事が本当に神様の力による救いのみ業なのかどうかを疑い、主イエスを試そうとしたのです。「天からのしるし」とは、主イエスが神様からの救い主であると納得するための目に見える証拠です。彼らはそれを求めることによって主イエスを試したのです。主イエスはそういう人々のことを「今の時代の者たちはよこしまだ」とおっしゃったのです。「今の時代」は主イエスの時代のみではないでしょう。いつの時代も人間はこの「今の時代の者たち」と同じだと思います。私たちもまた、主イエス・キリストによる恵み、救いが他の人々に与えられたという出来事を見ても、自分の救い主としてはなかなか受け入れようとせず、しるし、証拠によって自分が納得しないと信じない、という姿勢でいることが多いのです。それは「よこしまな」ことだと主イエスはおっしゃっています。「よこしまな」はもっと単純に「悪い」という言葉です。しるし、証拠を求め、それによって自分が納得しなければ信じないという今の時代の人々の姿勢を主イエスは「悪い」とおっしゃるのです。悪いとはどのように悪いのか、そのことは後でもう一度考えたいと思います。

ヨナのしるし
 さて主イエスは、しるしを欲しがる今の時代の人々には「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃいました。旧約聖書ヨナ書の主人公であるヨナは、アッシリアの都ニネベの人々に対するしるしとして主なる神様によって派遣されました。先週の説教でも申しましたが、ヨナは、ニネベの町の人々の罪が甚だしく大きいので主なる神様が怒っておられ、この町はあと四十日で滅びる、という神様のみ言葉を告げたのです。ヨナは何か奇跡を行なったわけではなくて、み言葉を告げただけです。すると32節にあるように、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」のです。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」と30節にあるのはそのことです。そして30節は「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と言っています。「人の子」というのは主イエスがご自身のことを語られる言葉です。ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、主イエスご自身が今の時代の者たちに対するしるしとなるのです。そのしるしはヨナのしるしと同じように、ただ神様のみ言葉を告げるという仕方によって与えられます。ニネベの人々がヨナの語る説教つまり神様のみ言葉を聞くことによって信じて悔い改めたように、今の時代の人々も、主イエスの語るみ言葉を聞くことによって信じて悔い改めることを求められているのです。

南の国の女王
 さてここには旧約聖書のもう一つの出来事があげられています。31節以下の「南の国の女王」についての話です。これは「シェバの女王」と呼ばれている人のことで、旧約聖書列王記上第10章に語られています。彼女はアラビア半島の南端の、今日のイエメンあたりの国の女王で、ダビデの後を継いでイスラエルの王となった息子ソロモンの知恵を伝え聞き、はるばる会いに来たのです。ソロモンは、「ソロモンの知恵」というのが決まり文句になったほどに知恵に満ちた人でした。シェバの女王は彼に様々な質問をしましたが、ソロモンに答えられないことは何一つなかったとあります。この「南の国の女王」がヨナと並べられているのはどういう意味においてなのでしょうか。実は並べられているのはヨナと南の国の女王ではありません。31、32節を読むとそれが分かります。31節には、「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」とあります。32節はそれと対になった文章で、「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」とあります。ですから南の国の女王と対になっているのはヨナではなくて「ニネベの人々」なのです。そして31節の後半には、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」とあり、32節の後半には「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」とあります。つまりヨナと対になっているのは南の国の女王ではなくてソロモンなのです。この対になった節が語っているのは、南の国の女王とニネベの人々が、世の終わりの神様による裁きの時には正しい者として今の時代の人々を罪に定める、今の時代の人々は彼らによって罪人として裁かれるということです。

衝撃的な話
 これはユダヤ人たちにとっては衝撃的な話です。南の国の女王もニネベの人々もイスラエルの民ではない異邦人です。彼らは主なる神様を知らず、その救いにあずかる者ではない、だからイスラエルの王であるソロモンのところに知恵を求めてやって来たのだし、イスラエルの民の一人であるヨナが彼らの罪を指摘するために遣わされたのだ、というのがイスラエルの人々がこれらの話を読んで思っていることでした。つまりこれらの話はイスラエルの民族意識をくすぐり、誇りを抱かせるような話だったのです。ところが主イエスは、この人々こそが、神様の民であるイスラエルを裁く者となる、とおっしゃったのです。その理由はただ一つ、彼らはソロモンの知恵を、またヨナの説教を聞いて受け入れ、信じたのに、イスラエルの人々は主イエスの言葉を聞き、そのみ業を体験しても信じようとせず、そこでなおしるしを求め、証拠がなければ納得できない、と言っているからです。主イエスは「ここに、ソロモンにまさるものがある」とおっしゃいました。主イエスこそ、ソロモンの知恵にまさる知恵である、ということです。また「ここに、ヨナにまさるものがある」ともおっしゃいました。主イエスこそ、ヨナの説教にまさって神様のみ言葉を、しかも恵みの言葉をあなたがたに伝えている方なのです。そのように主イエスがヨナにまさる説教を語り、ソロモンの知恵にまさる知恵を示しているのに、それによって悔い改めようとせず、その言葉を信じて受け入れようとしないのでは、ニネベの人々やシェバの女王という異邦人たちの方がよっぽどましではないか、と主イエスは言っておられるのです。つまり主イエスは32節までのところで、しるしを欲しがり、証拠を示せば信じてやると言っている人々に対して、あなたがたの求めているようなしるしはいつまで経っても得られはしない。しるしを求めることをやめて、私の言葉を神の言葉として聞き、それをしっかり受け止め、信じる者となりなさい、と言っておられるのです。そうするとこれは、本日の箇所の直前の28節の「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というみ言葉と繋がります。ここに、このあたりの話を繋いでいる一本の糸がはっきりと現れているのです。

体のともし火は目
 さて33節以下はまた、それまでとは全く違う話をしているように思えます。33~36節を私たちは分かりにくいと感じると思います。それは、二つの話が結びつけられているからです。33節の前の小見出しの下の括弧の中に示されているように、マタイによる福音書ではこの二つは別の所に置かれています。5章15節は「ともし火は燭台の上に置くもの」という話、6章22、23節は「体のともし火は目」という話です。この二つの話は本来は別のことを語っていたわけです。ところがルカはその二つを結びつけて一つにしています。その結びつけ方が分かりにくいのです。
 先ず、「ともし火」の話ですが、それは穴蔵の中や升の下に置かれるべきものではなく、燭台の上に置かれるべきものです。そうすることによってこそ、周囲が明るく照らされるのです。その話は36節につながっています。「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。これは、あなたの全身が燭台の上に置かれたともし火によって明るく照らされている、という様子を語っています。それが望ましいこと、求めるべきことなのです。そういうすばらしい状態を得るためには何が必要かを語っているのが34節の「体のともし火は目」という話です。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。全身が明るいか暗いか、明るく照らされているかそうでないかは目によって決まる、目が澄んでいれば全身は明るいが、濁っていれば暗くなってしまう、「あなたの体のともし火は目である」とはそういう意味です。ですから、ともし火によって全身が明るく照らされているという望ましい状態を得るためには、目がどうなっているかに注意する必要があります。ともし火の話と目の話とはこのように結び合わされているのです。そこで考えなければならないのは、「目が澄んでいる、濁っている」とはどういう意味かです。私たちも「あの人は目が澄んでいる」という表現を用いることがあります。その意味は、純粋だとか、二心がない、嘘偽りがない、などということでしょう。また「あの人の目は濁っている」と言うと、やましいところがありそうだとか、生気がない、覇気がない、などという意味でしょう。しかし主イエスがそういう意味で「澄んだ目を持ちなさい」と言っておられると考えるのは間違いです。そう考えてしまうと、ここを貫いている一本の糸が見えなくなってしまうのです。「澄んでいる」と訳されている言葉は、「単純である」という意味です。「目が単純である」とは、一つのものをしっかりと見つめている、ということです。目が澄んでいるというのは、純粋だとか偽りがないなどということではなくて、見つめるべきものをちゃんと見ている、ということなのです。それに対して「濁っている」ですが、これは「澄んでいる」という言葉と対になるものとして用いられた意訳であって、原文の言葉は単純に「悪い」です。口語訳では「目がわるければ」でした。目が悪いとは、見るべきものがよく見えていない、ということです。つまりここには「目が澄んでいる、濁っている」という日本語の表現が持っているようなニュアンスはないのであって、目が見るべきものをしっかり見つめているならあなたの全身は明るいが、目が悪くて見えなくなっていると全身は暗い、と言っているのです。つまりこの目は、輝いているともし火の光を受け止めるための器官です。目が光をしっかり受け止めていれば、ともし火によって全身が照らされ明るくなる、しかし目が光を受け止めることができないと、ともし火が輝いていてもその人の世界は暗いままなのです。

外なる光
 ここで大切なことは、ともし火は私たちの外に輝いていて、私たちは目によってその光を受け止めるのだということです。全身が明るく照らされているという望ましい状態を得るためには、私たちの外に輝いているともし火の光をしっかり受け止めなければなりません。私たちは、自分の中に光を、あるいは光を発するものを持っていて、それを輝かせることによって全身を明るくするのではありません。そのような光の源を私たちは自分の中に持ってはいないのです。私たちはいつも、自分の内に光を持ちたい、心にいつも光が明るく輝いているような歩みをしたいと願っています。そういう光が自分の心に輝いていると感じる時もあります。しかし私たちがしばしば体験するのは、ほんの些細な失敗や挫折、物事が自分の願い通りにならないことなどによってその光はかき消され、不安や悲しみや怒りや嫉妬などのどす黒い思いに支配され、全身が暗い闇に覆われてしまう、ということです。つまり私たちが自分の内に持っていると思っている光というのは、単なる幸福感をそう錯覚しているだけであって、苦しみ悲しみ不幸の中でも自分の全身を明るく照らす光を私たちは持ってはいないのです。そういう本当の光は私たちの外にあるのです。私たちはその光を受け止める目を持たなければなりません。目が悪ければ、その光が輝いていてもそれに照らされることができないのです。

悪い目と悪い時代
 私たちの外に輝いている光。それは主イエス・キリストが与えて下さった神様のみ言葉です。このみ言葉のみが、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを私たちに告げてくれます。つまり神様が独り子イエス・キリストの命をすら与えて私たちを罪の支配から解放して下さり、神の子として新しく生かして下さるという恵みです。この恵みのみ言葉を聞き、しっかりと受け止め、それに聞き従っていくことによってこそ、私たちはキリストによる恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。しかしそのみ言葉を受け止めて聞き従うことをせず、しるしや証拠を求めていくなら、つまり自分の薄っぺらい知識や、まことに限られた範囲でしか通用しない人間の常識によって主イエスを試そうとするならば、キリストによる恵みの光に照らされることはできません。目が悪くて光を受け止めることができなくなってしまっているからです。32節までと33節以下を繋いでいる糸はそこに見えてきます。つまり南の国の女王やニネベの人々は、澄んだ目で神様のみ言葉の光を受け止め、それに聞き従った人々だったのです。それに対してしるしを求める今の時代の人々は、目が悪くて光をしっかり受け止めることができなくなっているのです。34節の「濁っていれば」は「悪い」という言葉だと申しました。29節の「よこしまな」も「悪い」という言葉だと申しました。両者は原文において実は全く同じ言葉です。「今の時代の者たちはよこしまだ」という29節と、「目が濁っていれば体も暗い」という34節は、同じことを言い表しているのです。先ほど、今の時代の人々の姿勢が悪いとはどのように悪いのかを後でもう一度考えたいと申しましたのは、この34節を意識してのことでした。主イエス・キリストによって示された神様のみ言葉の光を受け止める目が悪くなっているために、その光に照らされることができない、主イエスが言っておられる今の時代の人々の悪さとはそのことなのです。

内なる光
 35節の「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」という勧めもこの流れの中で理解すべきです。つまりこれは自分の中にもともと持っている光が消えてしまわないように気をつけなさいということではなくて、目が悪くなることによって私たちの外に輝いている神様のみ言葉の光を受け止めることができなくなり、その結果私たちの内にある光が消えてしまうことのないように、いつも澄んだ目でまっすぐにみ言葉の光を見つめ、それによって照らされることによって全身が明るくなるようにしなさい、ということです。私たちが自分の内に光を持つことができるとしたら、それは自分を磨き、人格を高めて自分の内側から光を放つことができるようになることによってではなくて、目を常にまっすぐにみ言葉の光へと向けていることによって、28節の言葉を用いるならば、「神の言葉を聞き、それを守る人」となることによってなのです。それは言い換えれば、どんな悪霊よりも強い神様の独り子である主イエス・キリストに、私たちという家の主人になっていただくこと、この方に家を守っていただくことによってです。それによってこそ、私たちは悪霊に支配される家ではなく、神様の聖なる霊の住まい、聖霊の宮となることができるのです。天の父である神様は、私たちの内に聖霊を与え、住わせたいと願っておられます。そのことは13節の終わりに語られていました。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。神様に熱心に求めていけば、神様は必ずこの聖霊を与え、私たちの内に住まわせて下さるのです。聖霊が私たちの内なる光となって私たちの全身を明るく照らして下さるのです。そのことを祈り求めるために主イエスは「主の祈り」を教えて下さいました。このように、本日の箇所を貫いている一本の糸をたぐっていくと、11章の冒頭にまでつながっているのです。

入って来る人を照らす
 私たちの目がみ言葉の光をしっかり見つめているならば、「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」と36節にあります。私たちは、全身が光輝いている者となるのです。それは繰り返し言っているように、私たちが自分の中に光を持っているからではありません。主イエスによって与えられたみ言葉の光に照らされているからです。その光に照らされる時、私たちは自分が明るく生きることができるだけでなく、周囲をもその輝きで照らす者となることができるのです。つまりともし火としての役割を果たすことができるのです。33節に、ともし火は、「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。私たちが輝かす光は、「入って来る人」に道を示し、その足もとを照らすのです。それは、主イエス・キリストを信じその救いにあずかる者の群れである教会に新たに入って来る人、キリストの救いの中へと入って来る人です。み言葉の光に全身を明るく照らされることによって、私たちも、闇の中に輝くともし火となることができます。自分の中にいくら探し求めても見出すことのできない、またどんなに自分を磨いても決して作り出すことのできないまことの光へと世の人々を招くともし火となることができるのです。

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