夕礼拝

霊の力に満たされて

「霊の力に満たされて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; エゼキエル書、第11章 14節-25節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第4章 14節-15節

 
序 聖霊によって満たされてヨルダン川から戻られた主イエスは40日の間、悪魔によって試みを受けました。荒れ野の中を霊によって引き回される中で、「もしあなたが神の子なら、そのしるしを見せてみろ」と迫られたのです。ご自身がまことに神であることを求められるがままに現したいという誘惑の中で、決して人間の思いが望むような形でご自身を明らかにするということはなさらなかったのです。神がまことに神であることは人間が自分の物差しで決めることができるようなことではないのです。神がその人に働きかけて、心の目が見えるようにしてくださって初めて明らかになるようなことがらなのです。このお方がまことに神であることは、誰がどう見ても明らかな事柄なのではなくて、普段は人間の目に隠れている事柄なのです。

1 けれども、誰であれ確かに認めることができるのは、ナザレに生きたイエスという人物がいたということです。そしてこのお方がガリラヤ地方を中心として活動され、大変な評判を巻き起こしたことです。さらに多くのユダヤ教の会堂でお教えになり、たくさんの人から尊敬を受けられたという事実です。ナザレのイエスというお方がいて、この地上を歩まれたということ、その事実はどんなに信仰を否定しようとする人でも認めないわけにはいきません。ユダヤ州の総督ポンティオ・ピラトやローマ皇帝アウグストゥスが確かに歴史上存在したのと同じ意味で、またわたしたち一人一人が今確かに歴史上存在しているのと同じ意味で、主イエスはこの地上を歩まれたのです。この福音書の第三章の冒頭には、「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」(1-2節)という言葉が出てまいります。このような具体的歴史を背景に持つかくかくしかじかの時代に、主イエスはお生まれになり、育たれたのだ、と言っているのです。わたしたちが生きているのと同じ、この具体的な世界の中を、主イエスも間違いなく歩まれたのです。
 このお方はまたわたしたちと同じように、生まれ育った故郷を持っていました。主イエスが悪魔の誘惑を退けられた後、主はいよいよ、伝道を開始されます。その一番始めに、主はガリラヤに帰られました。ご自分のお育ちになったガリラヤをその伝道の出発点とされたのです。「ガリラヤ」という地名は、ヘブライ語で「周辺の地」、「辺境の地」を意味する言葉をギリシア語の音に置き換えた言葉です。もともとこの地方には先住のカナン人が残っており、ユダヤ人はそれほど多く入っていませんでした。けれども紀元前2世紀にこの地方に生まれたユダヤ人の王国がユダヤ人を保護したことから、その力が大変大きくなりました。そうした中で人種の混合が進み、方言もはっきりしたものが生まれるようになり、律法に対しても、幾分自由な見方が出てきたと言われています。それゆえに純粋のユダヤ人からは軽蔑されることもあったようです。主イエスはしかし、このご自分がお生まれになった場所を恥とされたり、無視されたりすることはありませんでした。ご自身のご生涯の中で、大事な意味を持つ場所であることをお認めになったのです。だからこそ、ヨルダン川で洗礼を受け、悪魔の誘惑を退けられた後、まずこのガリラヤにお戻りになり、最初の伝道を開始されたのであります。その生涯と伝道活動の主要な舞台とされたのです。
 主イエスがガリラヤに戻られたのはふるさとへのあこがれの気持ちからではありませんでした。また手柄を立てて故郷へ錦を飾るためでもありませんでした。この場所を出発点として、御国の福音を宣べ伝えるためであったのです。わたしたちの伝道も、わたしたちが今住んでいる、具体的な生活の場から始まることを覚えたいと思います。先日、歯医者に行きましたら、帰りがけにそのお医者さんが話しかけてこられました。「指路教会の方ですか?」と尋ねてこられたのです。「はあ、どうしてご存知なんですか?」と尋ねると、「いつもあちらの教会の方に歩いていかれるので」と言うのです。そこでお話しを伺っていると、以前お子様を連れられてこの教会の教会学校に来ていたことがあるというのです。「今、毎週お話しをされているんですか。準備が大変ですね」と同情までしてくださいました。久しぶりに指路教会の礼拝に来られてはどうか、とお勧めし、今度クリスマスの案内を持参します、とお伝えしました。
 またわたしが教会への行き帰りに毎日のように利用するコンビニエンスストアの店長さんは、日曜の朝早くから背広を着てやってくるわたしに関心をもって話しかけてきてくださるようになりました。教会で働いていることを知って、いろいろな興味や質問をぶつけてきてくださるようになりました。最近はお子さんを教会学校にやってはどうかと考え始めているというのです。自分がかつてアフリカで働いていた時、子供たちの目はすばらしく輝いていた。今コンビニの店長をするようになって店に出入りする子供たちを見ていると、日本の子供たちの目は本当に疲れて死んだような目に見える。何かがおかしいと思っている。教会でお話しを聞けば、マイナスになるようなことはないと思うから行かせてみたらどうかと思っているというのです。
 こうした信頼や尊敬を教会が得るというのは、決してばかにならないことだとわたしは思います。いや、すばらしいことだと思います。このわたしたちが生きている横浜という具体的な町をなおざりにして伝道を考えることは抽象的な話です。具体的に足を下ろして生活しているこの町、そこに生きている人々を愛し、そこで与えられる出会いと交わりの中でわたしたちは伝道していくのではないでしょうか。そこを足場としながら、この日本を見、この世界を見定めて、祈り、働くのです。
 主イエスが「諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」というのも、決してなおざりにしてはいけないことなのだと思います。主はユダヤ教の会堂で毎日お教えになったのです。この会堂も、ユダヤ人にとって地域の共同体の中心でした。毎日の生活の中心でした。ユダヤ人社会には、どんな場所にも会堂は建設されていたのです。特にエルサレム神殿が破壊されたり、人々がバビロンへ囚われていったりした後は、この会堂が、彼らの結束を固め、その信仰を通してつながりあう場となったのです。人々はここで礼拝を捧げ、時には裁判を行ったのです。また子供のための学校のような役割もこの会堂に期待されたのです。この生活の中心で主イエスが語り、お教えになったことで、その評判が周りの地方一帯に広まったのです。わたしたちの日々の歩みそのものが、伝道の機会に満ちているのです。そうしようと気張らなくても、キリストと結ばれているわたしたちの歩みが「キリストのかおり」を放っているのです。気づかぬうちに証しをなしているということがあるのです。
2 その上でこの主イエスを満たし、駆り立てていた「霊」についてわたしたちの思いは導かれていきます。この「ルカによる福音書」において、「霊」、あるいは「聖霊」は、その冒頭からさまざまな箇所に出てまいります。聖霊は鳩のように目に見える姿で降り、主イエスがどなたであるかを証しします(3:22)。また荒れ野の中での悪魔との戦いへと誘い、その試みに打ち勝つ力を与えます(4:1-13)。試練と戦う力を与えるのです。また今日の箇所のすぐ次にこう記されているように、「主の霊」がとどまることによって、主の油注ぎ、救い主としての派遣を表します。また聖霊は病気をいやし、悪霊を追い払う力を持ちます(5:17)。さらに主イエスが遣わした72人が働きの実りをもってその下に帰ってきた時についてこう言われています、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」父なる神のご計画を伝え、喜びにあふれさせるのも聖霊なのです。
 この「霊」の力が、主イエスには満ちておられました。「霊の力に満たされて」いたのです。この霊の力に満たされていたからこそ、主イエスの言葉には力があったのです。その教えには力があったのです。このように、「霊」と「力」は強い結びつきを持っています。言葉そのものに力があったのです。霊が生み出す力が伴っていたのです。主イエスの話を聞いた人々は、その時ただならぬものを感じたのです。ここには何か普通にはないものがある、そのことを感じたのです。何か特別な力がある、権威がある、ある種の畏れの気持ちを持たざるを得ない、そうさせる力が働いていたのです。少々俗っぽい言い方をすれば、その話がまことに「聞かせるもの」であったのです。激しく魂をゆさぶるものであったのです。それゆえそこに「評判」が生まれ、「尊敬」が生まれたのです。
 けれども、主イエスに満ちていた「霊」そのものに、ガリラヤの人々が本当にこの時撃たれたか、といえば、そうではなかったと言わざるを得ないと思います。主イエスが「評判」となり、「尊敬」を受けたといっても、それでガリラヤの人々自身が聖霊に生かされ、その力に満たされるようになったとは言えないのです。どうかすると、「評判」や「尊敬」だけに終わってしまう、ということもあり得るのです。「評判」や「尊敬」が、ことによるとそれ以上は足を踏み入れないという形で、信仰の世界に飛び込む時の妨げになってしまうということもあり得るのです。ちょうど事件が起きた現場で、警察の立ち入り禁止のロープが張られ、そこに入ることができないようにしてある、そのことに半ば安心して、群衆が距離を置いてその事件の現場検証を見守るようなものではないでしょうか。自分が事件に巻き込まれる危険からは距離を置いて、しかし関心があって遠巻きに見守っている。そういうことがあり得るわけです。わたしたちが信仰の世界に近づきつつも、自分自身が距離を置くために、柵を設けてしまうということがあり得るのです。聖霊の働きに自分を明け渡すことから距離を持ってしまうということがあり得るのです。
 先ほど申しましたように、キリスト教に関心を持って歩み始める時、それは決して悪いことではありません。いやむしろ必要なことですらあります。誰がいきなりどんなことになるかしれない事件に首をつっこもうとするでしょうか。じっくり時間をかけて見守ってみてよいのです。いったいどんなものなのか様子をうかがってみてよいのです。一番最初のうちは、試しに教会に行ってみたらよいのです。ちょっとどんなものか見てみるという気持ちでもよいのです。「うん、聖書も結構いいことを言っているじゃないか」、「うん、教会も悪いところではなさそうだ」、そう思えるだけでもいいのです。ここで主イエスを本当の意味でどなたなのかを知ることがでいないでいるガリラヤの人たちをも、主は受け入れてくださり、そのお話しを語りかけてくださっているのです。
 けれども、主が最後に望んでおられることも、わたしたちは覚えていなければなりません。それはわたしたち自身が、主イエスにおいて起こっている「神の事件」に巻き込まれることです。主イエスに満ちておられる「霊」に撃たれることであります。立ち入り禁止のロープをかいくぐって事件に巻き込まれていくことです。「評判」や「尊敬」をも通り越して、神の事件の中に飛び込んでいくことです。
 わたしたちをこのように事件に巻き込んでくださるのが聖霊にほかなりません。この聖霊がわたしたちの「心の目」を開いて主イエスがこのわたしにとって誰であるのかを示してくださるのです。
 本日旧約聖書の箇所として読まれましたエゼキエル書11章14節以下には、バビロンへ連れ去られたイスラエルの民が、その異国の地で味わっている苦しみの最中に聞いた主の言葉が記されています。19節以下、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。わたしたちの固くて石のような心を柔らかい肉のような心にし、「心の目」を開いて「神の事件」が見えるようにしてくださるのが聖霊です。聖霊が、今、ここに、生ける神がおられるということをわたしたちに分からせてくださるのです。主イエスこそ、人となった生ける神だということを示してくださるのです。主イエスが人となり、十字架におかかりになり、死の中から復活されたのは、わたしたちが神の民となり、主なる神がまことにわたしたちの神となられるためです。そのようにして神の民が生まれるためです。神の民を教会に再結集するためです。近づきつつある神の国、始まりつつある神の国に目を覚まされ、その完成に向かって備えをなすためです。「ナザレのイエスという方がおられて、そのお話しは尊敬に値するものだった」、といった次元を越えて、聖霊によって目を開かれ、神の深きご計画を知るようになるためなのです。

結 わたしたちにそのことを知らせるため、肉を取り、神がわたしたちのすぐ隣にまで来てくださった出来事、そして「神がいつまでも共におられる」ということを自らお示しになってくださった出来事、この世界史上の最大の事件がクリスマスです。わたしたちが目を開かされるべき「神の事件」です。今あの預言者エゼキエルの見た幻が実現しようとしているのです。
聖霊の豊かな導きを祈り求めつつ、主の再び来られることを待ち望み、このアドベントの時を過ごしたいと思います。   

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、わたしたちに聖霊の導きを豊かにお与えください。あなたがこの世界に引き起こされた大いなる恵みの事件、神が人となられた事件の恵み深さを味わわせてください。この真っ暗闇に見える世界の只中でいよいよ神の国が近づいていることに目を覚まさせてください。あなたのご支配を実現させてください。この国と社会、この世界が、本当の意味で、クリスマスのショックを経験し、聖霊によって「心の目」を開かされますように。そしてその恵みの出来事に生かされる幸いと喜びで世界を満たしてください。
聖霊をわたしたちに遣わしてくださる、主イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。

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