説教「私の息子なら」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第118編22-25節
新約聖書 マタイによる福音書第21章33-46節
指導者たちへの二つのたとえ話
マタイによる福音書第21章33節で主イエスは、「もう一つのたとえを聞きなさい」と言って、「ぶどう園と農夫のたとえ」をお語りになりました。「もう一つ」と言われているのは、28節以下にも「二人の息子のたとえ」が語られたからです。これら二つのたとえ話は誰に対して語られたのでしょうか。23節には、「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来て」とあります。また本日の箇所の45節には、「祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて」とあります。ファリサイ派は、主なる神がイスラエルの民に与えた律法に基づく生活を実践し、人々にも律法を守って生きることを教えていた人々です。つまりこれらのたとえ話は、エルサレム神殿で礼拝を司っている祭司長たちや民の長老たち、そして律法の教師たちといった、ユダヤ人たちの宗教的指導者たちに対して語られたのです。この21章の始めのところには、主イエスがいよいよエルサレムに入られたことが語られていました。大勢の群衆が主イエスを歓呼の声で迎えたのです。しかし祭司長、長老、ファリサイ派の人々は、主イエスが来たことを喜ぶどころか、むしろ迷惑に思っています。多くの人々が喜んで主イエスを迎え、その教えを聞いていることを苦々しい思いで見つめているのです。そして主イエスが神殿の境内で、彼らの許可を得て商売をしていた人々を追い出すと、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と問い詰めました。ユダヤ人の宗教的指導者である彼らは、主イエスの教えもみ業も受け入れようとせず、むしろ抹殺してしまいたいと思っているのです。その彼らに対して主イエスは二つのたとえ話をお語りになったのです。本日はその二つ目、「ぶどう園と農夫のたとえ」をご一緒に読みます。
ぶどう園と農夫のたとえ
「ある家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た」。これがこのたとえ話の設定です。当時のぶどう園は、ぶどうの実を出荷するためにあるのではありません。採れたぶどうからぶどう酒を造り、それを売るのです。「搾り場」というのはぶどう酒を作るための施設です。垣を巡らすのはぶどうの実を狙ってやってくる動物を防ぐためであり、「見張りのやぐら」も、ぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものです。主人は、これらのぶどう園に必要な設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出たのです。この主人が神さまを指しており、ぶどう園はイスラエルの民、そして主人からぶどう園を預けられた農夫たちが、その指導者である祭司長、長老、ファリサイ派の人々のことです。つまりこのたとえ話は、神さまとイスラエルの民とその指導者たちとの関係を表しているのです。
収穫の時が近づいたとき、主人は、収穫を受け取るために僕たちを遣わします。このぶどう園は主人のものであり、ぶどう園としての設備を整えたのはこの主人なのですから、実際に働いたのは農夫たちであるにしても、そこから生み出された製品なり、それを売って得られた利益なりのある部分を主人に納めるのは当然のことです。ところが農夫たちは、この当然の要求のために遣わされた僕たちを捕まえ、「一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」のです。主人はさらに多くの僕たちを送りましたが、農夫たちは彼らをも同じ目に遭わせました。そこで主人は最後に、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、息子を送りました。ところが農夫たちは、息子を見ると、「これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう」と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまったのです。主人がイスラエルの民のもとに最初に送った僕たちとは、旧約聖書の預言者たちのことです。また、先ごろ現れて人々に悔い改めを求め、その印としての洗礼を授けた洗礼者ヨハネも、主人が遣わした僕たちの一人だと言うことができます。そして主人が最後に遣わした息子、それは言うまでもなく、神の独り子である主イエス・キリストです。主イエスがこの世に来られたのは、このように、神が、ご自分の独り子をこの世にお遣わしになった、ということだったのです。そしてここには、神から遣わされた独り子主イエスがこれからどうなるかが示されています。農夫たちは、その息子をすらも殺してしまうのです。主イエスがエルサレムに来られたことを語っているこの21章から、主イエスのご生涯の最後の一週間である、いわゆる受難週が始まっています。この週の内に主イエスは彼ら祭司長、長老、ファリサイ派の人々によって捕えられ、ローマ帝国の総督ピラトに引き渡され、十字架につけられて殺されるのです。主人の息子がぶどう園の外に放り出されて殺されてしまう、という話は、主イエスの十字架の死を指し示しているのです。
このたとえ話の最後に、主イエスは祭司長、長老、ファリサイ派の人々に問いかけておられます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはこの問いに答えてこう言いました。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません」。ぶどう園の持ち主である主人は生きているのです。そのままですむはずはない、この極悪非道な農夫たちは必ず滅ぼされ、ぶどう園はもっとまともな農夫たちの手に委ねられていく、それが、彼らも認める世の常識です。主イエスはそのことを確認した上で、43節でこうおっしゃいました。「だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる」。「神の国はあなたがたから取り上げられる」、つまりあなたたがたこそこの農夫たちなのだと主イエスはおっしゃったのです。彼らはそこで初めて、45節にあるように、「イエスが自分たちのことを言っておられると気付き」ました。あの極悪非道な農夫たちとは、洗礼者ヨハネが悔い改めを求めても無視し、今また主イエスを受け入れずに亡き者としようとしている彼ら自身のことなのです。彼らは、「そんなやつはひどい目に遭わされて殺され、ぶどう園は他の人に与えられるべきだ」と言いました。それは自分たち自身に対して、そういう判決を下した、ということだったのです。それに気づいた彼らはかんかんになって怒りましたが、主イエスを預言者だと思っている群衆を恐れたために、主イエスを捕えることはできませんでした。
命と人生の主人は誰か
このようにこのたとえ話は、神のぶどう園であるイスラエルの人々の指導者とされていながら、神が遣わした主イエスを受け入れようとせず、抹殺しようとしている祭司長、長老、ファリサイ派の人々への当てつけとなっています。しかしそれだけでこの話を済ませてしまうわけにはいきません。もう一度このたとえ話の設定を確認したいと思います。主人はぶどう園の全ての設備を整えて農夫たちに貸し与えています。それはそのまま、私たち一人一人の人生にあてはまることではないでしょうか。私たちは、自分の人生は自分が、自分の能力と努力によって築き上げている、と思っているかもしれません。しかし、私たちが自分の能力や努力で築いている部分というのは、人生においてそんなに大きくはないのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、持って生まれたいろいろな条件の下で生きています。そもそも命そのものが、自分で獲得したものではなくて、気づいたら神が与えて下さっていたものです。そして体もそうです。どのような体をもって生きているか、男であるか女であるか、健康で頑強か、病弱か、あるいは何らかの障がいをもって生まれてくる場合もあります。人生を大きく左右するそれらの条件を、私たちは自分で決めることはできません。それは全て神から与えられたものです。神が与えて下さった命を、神が与えて下さった条件の下で私たちは生きているのです。いろいろな能力、才能もそうですし、生まれ育った家庭環境もそうです。私たちの人生は、自分の努力ではどうにもならないこれらの様々な条件に制約されているのです。その条件の中で私たちは勿論、努力をするし、それによって変わってくることも多々あります。あの農夫たちだって、なまけていたら収穫を得ることはできないのであって、一生懸命働いていたのでしょう。しかしそのように働くことができたのは、主人がこのぶどう園を整えて、そこに迎えてくれたからです。私たちが人生において努力して何かを成し遂げることができるのも、それと同じでしょう。そうであるならば私たちは、そこで得られた成果や実りの一部を、自分に命を与え、人生の条件を整えて下さった神さまにお返ししなければなりません。それは、収入のある部分を神さまに献げる、というようなことでもありますが、何よりも先ず大切なことは、自分の命や人生が神から与えられたものであることをちゃんと自覚することです。この農夫たちで言えば、このぶどう園は自分たちのものではなくて主人のものであり、主人が整えてくれ、雇ってくれたからここで働くことができ、収穫をあげることができている、ということを意識して、主人に感謝することです。この事実をちゃんと意識していたなら、主人から遣わされた僕たちをあのようにないがしろにすることはないはずなのです。ところが彼らは、その僕たちを殺し、袋叩きにし、ついには主人の息子までも殺してしまいました。それは彼らが言っているように、その財産つまりこのぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとした、ということです。彼らは、このぶどう園が主人のものであり、主人に収穫の分け前を渡さなければならないことを認めていないのです。私たちにあてはめて言えば、命を与え、人生の条件を整えて下さった神の存在を認めていないのです。そして、自分の人生は自分のものだ、自分が主人であって、誰の指図も受けない、そこで得られたものは全て自分のものだ、誰にも渡さない、と思っている。それがこの農夫たちの姿です。それは私たち一人一人の姿でもあると言わなければならないのではないでしょうか。つまりこのたとえ話はユダヤ人の指導者たちのことを語っているだけではなくて、私たち一人一人ことでもあるのです。イエスは自分たちのことを言っておられるのだ、と気付かなければならないのは、私たちなのです。
「私の息子なら」
主人が、つまり神が、この農夫たちのところに自分の息子を送った、とこのたとえ話は語っています。それは、神がこの世に、私たち人間のもとに、その独り子イエス・キリストをお遣わしになった、ということです。神は何のために独り子を遣わしたのでしょうか。この主人はその前に多くの僕たちを遣わしました。それは「収穫を受け取るため」だったと語られています。しかし息子を送るに際してはそれとは違うことが語られています。37節です。「そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った」。主人は、「私の息子になら収穫を渡してくれるだろう」と言ったのではありません。この主人が、つまり神が息子を遣わしたのは、収穫の分け前を得るためではありません。主人が求めているのは、農夫たちが、このぶどう園は主人のものであり、主人が整えてくれたものであることを自覚して、感謝して、主人とその息子を敬うことです。ぶどう園のオーナーである自分と彼らの間にそういう正常な関係が築かれることを、この主人は求めているのです。私たちにあてはめて言うならば、私たちが、自分の命は、人生は、神が与えて下さり、整えて下さったものであることを自覚して、神こそが私たちの主人であることを受け入れ、神との本来の、正常な関係を築くことです。神が私たちに求めておられるのは、お金や物ではありません。あるいは私たちが世のため人のために何らかの奉仕することでもありません。私たちが神を、自分に命を与え、人生を導いて下さっている方として信じ、感謝し、その独り子イエス・キリストを敬い、神と良い関係をもって生きることをこそ、神は求めておられるのです。神はそのために、独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。しかし私たちが現実にしていることは、このたとえ話のように、このぶどう園の、つまり自分の命と人生の主人が神であることを否定して、それを自分のものにしようとすることであり、そのために、神が遣わして下さった独り子主イエスを拒み、信じて敬うことなく、亡き者にしてしまうことなのではないでしょうか。祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々のそのような思いによって主イエスは十字架につけられました。それと同じことを、実は私たちもしているのです。
神の思いとは
主イエスは彼らに、主人はこの農夫たちをどうするだろうか、と問いました。彼らは、そんなやつらはひどい目に遭わされて殺されるべきだ、と答えました。そうなのです。そのようにひどい、極悪非道なことを彼らは、そして私たちはしているのです。私たちは、世の常識からするなら、ひどい目に遭わされて殺されなければならない罪人なのです。けれどもここで気づかされるのは、「そんな悪人どもはひどい目に遭わされて殺されるべきだ」と言っているのは、祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々なのであって、主イエスではない、ということです。こんな極悪非道な罪人はひどい目に遭わされて殺されるべきだ、というのは人間の常識であって、神さまの、そして主イエスの思いは、それとは全く違うものだったのです。それでは神の思いとはどのようなものだったのでしょうか。それは、この主人が、この農夫たちのもとに自分の息子を遣わしたことに示されています。既に何人もの僕たちが殺されたり、袋叩きにされているのです。彼らが主人を主人として受け入れようとしていないこと、敬っていないことは明らかです。そんな連中のところに大切な息子を遣わすなんて、私たちなら絶対にしないでしょう。このたとえ話を読んで感じるのは、この主人はあまりにもお人好しの馬鹿だということです。「私の息子なら敬ってくれるだろう」なんて、そんな思いがこの農夫たちに通じるはずがないことは目に見えているではないですか。ところがこの主人は、殺されることが目に見えていながら、大切な息子を遣わしたのです。それが神の思いでした。そういう思いによって神は、その独り子を、罪人である私たちのもとに遣わして下さったのです。私たちが、自分の人生の主人は神であるとすんなり認めて、神を信じ敬うものとなるはずがないことは目に見えているのに、むしろ主イエスを拒み、十字架につけてしまうことは明らかなのに、その私たちの真ん中に、神はご自分の独り子を、十字架につけるために遣わして下さったのです。主イエスご自身も、父なる神のそういうみ心をご自分の思いとして受け止め、十字架の死に至る生涯を歩んで下さったのです。
私たちの救いの道を開くために
神が、そして主イエスが、そのようにして下さったのは、罪に支配されてしまっているために神さまとの正しい関係を失っており、自分ではそのことに気づくこともできず、罪から抜け出すことができない、つまり自分の力で救いを得ることができない私たちのために、救いの道を開いて下さるためでした。そのことが、42節で主イエスが引用した聖書のみ言葉に示されています。「家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。これは主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと」。建築の専門家が、こんな石は役に立たない、いらないと言って捨ててしまった石、それはイスラエルの指導者である祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々が、主イエスを拒み、こんな者は救い主ではない、むしろ神を冒涜している者だとして十字架につけて殺したことと重なります。しかしそのように拒否され、捨てられた石である主イエスが、神の救いのみ業のための「隅の親石」になったのです。それは建物の肝心要の石、この石がなければ、建物全体が崩れてしまう、そういう最も大切な石です。家を建てる者たちが捨てた石がそのように救いの土台になった。たまたま偶然にそうなったのではありません。「これは、主がなさったことで/わたしたちの目には不思議なこと」とあるように、神がそうなさったのです。家を建てる者たちが捨ててしまった石を、神が用いて、救いのみ業を実現して、神の家を、新しい神の民を、建てて下さったのです。それは人間の目には不思議なこと、考えられないこと、常識を超えたことです。しかし神はその全能のみ力によって、また私たちに対する限りない愛によって、そういう不思議なこと、驚くべき救いのみ業を実現して下さったのです。
神がそのようなみ心によってこの世に遣わして下さった主イエス・キリストを、私たちは拒み、十字架につけて殺してしまいました。それは祭司長、長老、ファリサイ派の人々のせいにできることではなくて、私たち一人一人の罪によって起ったことです。しかし神はそのことによって、私たちの救いを実現して下さいました。本当ならひどい目に遭わされて殺されなければならない私たちに代って、神の独り子主イエスが、ぶどう園の外に放り出されて殺されてしまう、というひどい目に遭ったことによって、神は私たちを赦して下さったのです。そしてさらに神はその主イエスを復活させて、主イエスのもとに私たちを召し集め、新しい神の民を結集して下さいました。そのようにして、私たちのために救いの道を開いて下さることが、独り子を遣わして下さった神のみ心だったのです。それは驚くべきこと、人間の常識をはるかに超えたことです。でも神がそうして下さらなければ、私たちは救われなかったのです。
神の家である教会において
私たちは、洗礼を受けてキリストと一つにされることによって、主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたこの驚くべき救いの恵みにあずかります。洗礼によって独り子イエス・キリストと一つにされた私たちは、神との正しい良い関係を回復されて生きていきます。そのために神は、礼拝において、み言葉と聖餐によって、主イエスによる救いの恵みを心と体をもって味わわせて下さっています。神はそのようにして私たちを、主イエス・キリストという隅の親石のもとに築かれている神の家、神の家族である教会の一員として育み、養って下さっているのです。この神の恵みの中で私たちは、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という神のご期待に応える者となっていくのです。
