主日礼拝

罪のただ中で

「罪のただ中で」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第103編1-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第3章21-26節
・ 讃美歌:22、280、536、72

三回目の説教
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙を読み進めていますが、3章21~26節について説教するのは本日が三回目です。この箇所には、イエス・キリストの福音、つまりキリストによる救いの知らせ、喜びの知らせの根本が簡潔に、はっきりと語られており、ローマの信徒への手紙の中でも大変大事な所です。この手紙全体はここに語られていることの説明であると言ってもよいくらいなのです。これまで二回にわたってこの箇所を読んで来ましたが、一回目は教会創立記念日礼拝、二回目は召天者記念礼拝でした。それぞれの礼拝においては、教会の創立記念や天に召された方々のことを覚えつつ、この箇所に語られているある言葉ないし事柄に集中してお話をしました。創立記念日礼拝で取り上げたのは「神の義」という言葉でした。イエス・キリストによって「神の義」が新たに示された、とこの箇所は語っています。「神の義」とは、神がご自分の義を人間に与えて下さり、罪ある人間を義として下さる、つまり罪の赦しを与えて下さる、その神の救いの恵みを意味しています。この「神の義」が示されたことによって、新しい時代、新約聖書の時代が始まったのです。この神の義の再発見によって宗教改革が起り、プロテスタント教会の時代が始まりました。「神の義」が新たに見出される時、そこには新しい時代が切り開かれてきたのです。指路教会が誕生した141年前の明治7年、この国は新しい時代に入ったばかりでした。指路教会の誕生を担った若い人々も、主イエス・キリストによって示された神の義にこそ、新しい時代を生きていくための土台があると信じて洗礼を受けたのです。また召天者記念礼拝においては、神がキリストを、罪を償う供え物として立て、それによって贖い、つまり罪の赦しを与えて下さったこと、そのキリストによる贖いにこそ、天に召された方々が今主イエスのもとで神のみ顔を仰ぎ、礼拝をしていることを信じる根拠があるとお話ししました。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、罪を償う供え物となって下さったことにこそ、死においても失われることのない神の恵みがあるのです。このように、創立記念日礼拝と召天者記念礼拝では、この箇所に語られているキリストの福音の中心をなすいくつかのテーマに集中して語ってきました。本日は、それら二回の礼拝においては十分に取り上げることができなかったことをもおさえつつ、この箇所全体のまとめをしようと思います。

ところが今や
 先ず最初に注目したいのは、21節の「ところが今や」です。この言葉は、「しかし今や、全く新しいことが始まっている」ということを語っており、20節までと21節以降とでは全く違うことが語られていることを示しています。20節までの所に語られていたのは、人間の罪とそれに対する神の怒りでした。しかもそれは、一部の人間が罪を犯しており、その人たちに対して神が怒っているというのではなくて、全ての者が、ということは神の民であるユダヤ人も含めて、一人の例外もなく皆罪の下にあり、神の前で正しい者は一人もいない、ということです。3章20節までの所にはそのことが徹底的に語られてきたのです。21節の「ところが今や」は、その人間の罪と神の怒りの現実の中に、今や全く新しいことが始まっていることを告げています。その新しいこととは、神の義が示されたことです。イエス・キリストによって神の義が示されたことによって、罪の下にあり、神の怒りの下にある私たち人間の世界に、今や決定的に新しいことが始まり、新しい時代が来ているのです。
 この手紙は至る所でこのことを語っています。いくつかの箇所を開いてみたいと思います。5章9?11節にこうあります。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。「今や」とか「今は」という言葉が繰り返されています。6章17、18節にも、その「今」が「かつて」との対比の中で語られています。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」。7章5、6節もそうです。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、〝霊〟に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」。ここにも、今や、古い生き方から解放された新しい生き方が与えられていることが語られているわけです。そして8章1節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。これらの箇所は共通して、今や、罪に対する神の怒りの時は過ぎ去り、義とされ救いにあずかって新しく生きる時が始まっていることを語っています。パウロはこの手紙全体を通して、今やイエス・キリストによって新しい時が始まっているのだから、そのことを信じて新しく生きていきなさいと語りかけているのです。そのことを最初に語り始めているのがこの3章21節の「ところが今や」なのです。

気をつけるべきこと
 このようにローマの信徒への手紙は、主イエス・キリストの十字架の死による贖いによって罪を赦され、神の義を与えられて新しく生きることができる新しい時が今や始まっている、という福音、救いの知らせ、喜びの知らせを語っています。私たちに求められているのは、この福音を大胆に信じて、新しい時を感謝と喜びをもって生きていくことです。しかしそこで気をつけなければならないことがあります。それは、「ところが今や」によって示されている新しさ、救いの知らせだけに目を奪われて、かつてのこと、3章20節までのところに語られていたことを忘れてしまってはならない、ということです。20節までのところには、人間の罪の現実が語られていました。罪に支配され、神の怒りの下にある、それが私たちの現実なのです。21節の「ところが今や」は、その現実に対して今や新しいことが起っており、イエス・キリストよって神の義が示されたので、それを信じて新しく生きることができる、と告げています。しかしこの新しさが告げられたことによって、罪に支配され、神の怒りの下にある現在の現実を見つめることをしなくなってしまい、それはもう過ぎ去った過去のことのように思ってしまうとしたら、それは全く間違いなのです。パウロがこの手紙の最初の部分、具体的には1章18節から3章20節までのところで、延々と、人間の罪と神の怒りについて、しかも全ての人がその罪の下にあることをしつこいほどに語ってきたのは、3章21節以下に語られていく、神の義によって生かされていく新しい時においても、この人間の罪の現実を忘れてしまってはならない、そのことが常に見つめられていなければならない、ということを語るためでしょう。つまりパウロが語っている「ところが今や」は、これまでに語ってきた人間のどうしようもない罪の現実のただ中で、神が、御子イエス・キリストによって、ということは人間のいかなる力にもよらず、ただ神の恵みのみ心によって、新しい救いの御業を行って下さり、人間を罪の支配から解放して新しく生きることが出来るようにして下さったことを言い表しているのです。ですから「ところが今や」によって示されている新しさは、もう自分の罪や神の怒りのことを見つめることをやめて、そんなものはなかったような顔をして生きていけるということでは決してありません。むしろ私たちは、私たちの罪の現実をしっかりと見つめながら、その現実のただ中で神が私たちのために、独り子イエス・キリストによって新しい救いのみ業を行って下さり、新しく生きる道を開き与えて下さったことを覚えていかなければなりません。それによってこそ、キリストによる救いの恵みによって本当に新しく生きることが出来るようになるのです。パウロの言葉に即して言うならば、24節の「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」という救いを信じて生きることは、23節の「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」という罪の現実を見つめることの中でこそ与えられるのです。自分の罪を見つめ、自覚していること、具体的に言えば、自分がいかに神をも隣人をも愛することができず、むしろ神に敵対しており、隣人を傷つけてしまうことの多い者であるかに敏感であることこそ、「ところが今や」によって示されている新しさに生きるために必要です。罪に支配されている自分の現実に対する敏感さ、自分の罪を見つめ、認める感受性を失った信仰はグロテスクなものです。それは神による救いを自己満足やおかしな自信の根拠とし、信仰が自己主張や他者に対する傲慢さをもたらすようなものになってしまうのです。

死ぬべき罪人である私たち
 召天者記念礼拝で取り上げたこと、神がキリストを、罪を償う供え物としてお立てになったという25節も、今申しましたこととつながります。キリストによって与えられた神の義、神の救いは、主イエス・キリストがご自身を私たちの罪を償う供え物として与え、十字架にかかって死んで下さったことによってこそもたらされたのです。私たちは、主イエスの十字架の死によってこそ、罪を赦され、義とされて、新しく生きることが出来るのです。このことを見つめていく限り、自分の罪を忘れてしまったり、それを過去のものとしてしまうことは出来ません。私たちの罪は、神の独り子である主イエスが、罪を償う供え物として血を流して死んで下さらなければ赦されようがない程に大きなものだったのです。もし私たちが自分の罪を自分で償おうとするなら、死ぬ他ないのです。私たちはそのことがなかなか分かりません。自分が犯しているあれこれの罪を見つめることによって自分の罪深さを量っているうちは、自分の本当の罪深さは見えて来ないのです。なぜならそこでは必ず、他の人との比較が生じるからです。自分の罪と人の罪とを比較していくところには、確かに自分も悪いがあの人の方がもっと悪いとか、こんな罪を犯したのはあの人のせいでもある、というような思いが生まれるのです。そのようにして自分の罪を相対化してしまうと、自分の罪の本当の姿は見えて来ないのです。私たちの罪が本当に示され、見えてくるのは、主イエス・キリストの十字架の死を見つめることによってです。主イエスの十字架の死が、自分の罪を償うための供え物としての死だった、自分の罪は主イエスの十字架の死によってしか赦され得なかったのだ、ということを見つめる時に、私たちは、あれこれ言い訳をして人のせいにしようとする一切の言葉を封じられ、自分は死ぬべき罪人であることを本当に示されるのです。そしてそのように自分が死ぬべき罪人であることをはっきりと示されるところにおいてこそ、「ところが今や」というみ言葉が、真実な恵みのみ言葉として、福音として、私たちの心に響いて来るのです。罪に支配されており、死ぬべき罪人である私たちの現実のただ中に、主イエスの十字架による贖いの恵みが告げ知らされ、神の義によって生かされる新しい歩みが与えられるのです。

神の義を示すため
 さてこれまでの二回の説教においては、25節の後半以降には全く触れてきませんでした。25節後半から26節にかけてこのように語られています。「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。ここは訳すのが大変難しい所です。この新共同訳を読んでも、何が語られているのかよく分かりません。以前の口語訳聖書はこうなっていました。「それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。この二つの訳に共通しているのは、神が主イエス・キリストを、私たちの罪を償う供え物として立てて下さったのは、「神の義を示すためだった」と語られている点です。ここに大事なことが示されています。神が独り子主イエスを遣わし、その十字架の死によって贖いの業を行い、私たちを義として下さったことを24、25節は語っていますが、その神の救いのみ業は「神の義を示すため」だったのです。私たちを義として下さるためとか、罪の赦しを与えて救って下さるためではなくて、神の義を示すために救いのみ業がなされたのです。そういえば21節のあの「ところが今や」において示されている新しさも確かに、神の義が示されたということでした。この「神の義」は、最初の方でも申しましたように、神がご自分の義、正しさを、義ではない、罪人である私たちに与えて下さり、それによって私たちを義として下さり、救って下さるという意味です。ですから「神の義」は「私たちに対する神の救い」と言い換えることもできるのです。それならば最初から「神の義」ではなくて「神の救い」が示されたと言えばいいではないか、25節も、神の義を示すためではなくて神の救いを示すため、と言った方が分かりやすいではないか、と私たちは思いがちです。しかしそうではないのです。イエス・キリストの十字架による贖いのみ業において示されたのは、やはり「神の義」、「神の」正しさなのです。そのことを語っているのが26節の「御自分が正しい方であることを明らかにし」という言葉です。口語訳では「こうして、神みずからが義となり」となっていました。つまりキリストによる贖いのみ業によって、神ご自身の義、正しさが示され、確立したのです。

「神の義」と「神の救い」
 キリストによる贖いのみ業によって、神ご自身の義、正しさが示され、確立したとはどういうことか、このことを理解するための鍵となるのが、この25、26節に語られている、神が忍耐をもって今まで人の罪を見逃してこられた、ということです。ここの訳が、新共同訳と口語訳では違っていて、新共同訳では「今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるため」というよく分からない文章になっています。口語訳では「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった」です。ここは口語訳の方が分かりやすいです。今まで、即ちキリストの贖いの業がなされるまで、人間が犯してきた罪を、神は忍耐をもって見逃してこられたのです。人間の犯している罪に対して当然下されるべき怒り、罰を、忍耐して差し控えておられたのです。しかしそのように神が人間の罪に対する怒りや罰を差し控えておられる間は、神の義、神の正しさは示されないのです。神の義が示され、貫かれるなら、つまり神の正しさによる裁きが貫徹されるなら、神に背き、罪を犯している人間が罰せられずに見逃されることはあり得ないのです。罪が裁かれずに見逃されたら、神の義、正しさは否定されてしまうからです。ですから、神の義が示され、神の正しさが確立するためには、罪ある人間が裁かれ、罰せられなければなりません。そのことが、今この時に、独り子主イエス・キリストにおいてなされたのです。キリストにおいて神の義が示され、確立したのです。しかしそこで行われるべき罪人へ裁き、罰は、本来それを受けなければならないはずの私たちの上にではなくて、神の独り子イエス・キリストの上に下されました。主イエスが、罪人に対する神の怒りと裁きを、私たちに代って引き受け、私たちの罪を償う供え物として十字架にかかって死んで下さったのです。このことによって今や、神の義、正しさが示され、確立したのです。それと同時に、本来義ではない、死ぬべき罪人である私たちが赦されて義とされるという救いも実現したのです。神が、「御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさ」ったというのはそういうことです。神の義が示されることと、主イエスを信じる者が義とされることが、主イエスにおいて同時に実現したのです。そのことによって私たちは今や、「神の義」を「私たちに対する神の救い」と言い換えることが出来るのです。

有り難い救いの恵みを味わいつつ
 このことは私たちの信仰においてとても大事なことです。私たちは多くの場合、自分の罪が赦され、救われることばかりを求めています。その自分の救いをあたかも権利であるかのように捉え、神に対して、あんたは私を救う義務があると要求し、自分を救わない神など信じてやらない、という態度を取っていることが多いのではないでしょうか。しかし今見て来たことから分かるのは、罪人である私たちが赦され、救われるというのは、神の義、神の正しさが否定されてしまうようなとんでもないことなのだということです。私たちはこの社会において、いわゆる巨悪がのさばり、罰せられることもなく豊み栄えているのを見ると、こんなのおかしい、これでは正義が踏みにじられている、と憤ります。しかし私たちが罪を赦され、義とされ救われるというのは、それと同じようにおかしいこと、神の正義が踏みにじられているようなことなのです。しかし神は、ご自分の義を、神の正義を打ち立てつつ、同時に罪ある私たちを赦し、義とし、救って下さるという驚くべきみ業を行って下さいました。その驚くべきみ業は、神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって実現したのです。私たちは、神がご自身の独り子の命を犠牲にして下さったという、驚くべき、文字通り有り難い、あり得ないような恵みによって、罪を赦され、義とされて、新しく生きることができるのです。その救いを受けた私たちは、自分の罪を見つめることをやめて、罪など犯していないような顔をして傲慢な自己主張に生きるようなことは出来ません。まさに罪に支配されている自分の現実のただ中で、それにおののきながら、しかし主イエスの十字架の死によって与えられた赦しの恵みを大胆に信じて、その恵みに感謝と喜びとをもって応えていく、そういう新しい歩みへと踏み出していくのです。これから聖餐にあずかります。聖餐は、主イエスが私たち罪人のために、肉を裂き血を流して贖いの業を成し遂げて下さった、その驚くべき、まことに有り難い恵みを信じて洗礼を受け、キリストと結ばれて生きている者たちが、その有り難い恵みをパンと杯によって体全体で味わい、体験しつつ、神の義によって生かされていくために備えられているものです。聖餐にあずかる者は、主イエスが死ななければ赦され得ないほど深い自分の罪を今一度はっきりと覚えさせられると共に、その罪のただ中に与えられている神の救いの恵みにあずかり、神によって義とされて生きる新しい命を大胆に生きていくのです。

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