主日礼拝

待っておれ

「待っておれ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ハバクク書 第2編1-4節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第10章35-39節
・ 讃美歌:224、527、525

<苦しみの中で>
 みなさんハバクク書はじっくり読んだことがあるでしょうか。去年から始まった聖書通読運動も、旧約聖書は今詩編で、まだそこまでは行っていません。だから、読んでいない、昔読んだけれどあまり記憶にない、ハバクク書と聞いてもピンとこない、という方もあるかも知れません。

 ハバククというのは預言者の名前です。この「預言」は、未来のことを予知して言う「予言」ではなくて、「言葉を預かる」という字を書きます。つまり、神の言葉を預かって、民に伝えるのが、聖書に出て来る預言者の役割です。ハバククが活動したのは、一説によれば、イエス・キリストがこの世にお生まれになる600年ほど前ではないかと考えられています。

 ハバククは、南王国ユダという国で神の民イスラエルに向かって預言をしました。紀元前600年ごろというと、当時は新バビロニアという国が政治的にも文化的にも大きな力をもっていた時代です。新バビロニアが領土を拡大するにあたって、やがて南王国ユダも、この大国と対峙することになりました。
 南王国ユダには、かつてヨシヤ王という神に忠実な良い王様がいたのですが、彼が死ぬと国はだんだん衰弱していきました。周囲の大国の要求に従いながら、何とか王権を保っていましたが、ついには新バビロニアが南王国ユダを侵略し、王様がバビロンに連れて行かれ、また民も捕囚となって連行されました。これが、バビロン捕囚です。こうして南王国ユダは滅び、イスラエルは国を失ってしまいました。

 ハバククが預言をしたのは、これらのバビロン捕囚の10年前くらいだと考えられます。王国が消滅する直前のハバククの時代、南王国ユダは徐々に傾き、世界を強い国々が席巻し、脅威が間近に迫ってきました。それらの国々は、まことの神を神とせず、自分たちの力を誇り、自分たちの栄光を追い求める、不信仰な異教の国々です。そして南王国ユダも、国を保つために、神の秩序、神のご支配に従うよりも、それらの国々の言いなりになり、他の国の求めに応じつつ、何とか生き残ろうとしていました。
 しかし、それらの国々はあまりに強く、暴虐です。彼らがいつ攻め込んできて、自分たちを捕え、略奪し、殺すかも知れない。自分たちがどうなってしまうか分からない。国の滅びの気配を感じて、緊張が高まり、不安と恐れが満ちている。そんな時代が、ハバククの生きた時代でした。

 このような世界情勢の先行きが見えない不安感や、社会の緊張感の高まりは、わたしたちが今感じていることと似ているように思います。国同士のことも、自然災害も、さまざまな犯罪や、悲しいニュースも、不安をあおり、緊張感を高め、心を暗くします。この世界は、どこへ向かっているのだろう。将来どうなってしまうのだろう。そんな問いが、いつもあります。
 また、世界のことでなくても、わたしたちは自分自身の人生において、それぞれが不安を感じたり、閉塞感を覚えたり、息の詰まる思いをすることがあります。小さな社会や人間関係の中でも、破れや、崩壊を経験します。どうしてこんなことが起こってしまうのか、これからどうなっていくのか。日々の生活に、人生の上に、そのような不安や恐れが起こってきます。
 そして時に、不安や恐れ、苦しみや悲しみ、そして絶望を感じる中で、神がいるなら、どうして何もしてくれないのか。神はいないのではないか。そんな疑問を浮かべる人があるかも知れません。

<神の正しさ>
 しかし預言者ハバククは、神が正しいことを貫かれる方であること。神が、この世界を支配しておられることを疑いません。
 決して、神がご自分の民を、見捨てられたのでも、見て見ぬふりをしておられるのでもない。ましてや、ご不在であったり、撤退しておられるのでもない。苦しみの中でも、弱さの中でも、常に自分たちが神の御手の中にあることを信じます。
 ハバククは、これらの強い国々が興り、自分たちを苦しめ悩ますのは、南王国ユダが神に逆らったために、裁きを受けているのだと告げています。ハバクク書の1:12には「主よ、あなたは永遠の昔から/わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた」とあります。

 この「神の裁き」は、今苦しんでいる人に対して、過去に何か悪いことをしたから、今苦しみという裁きを受けているのだ、ということを言っているのではありません。これは単に、人の行いの善悪の問題ではないのです。
 聖書においては、すべてが神と人との関係で捉えられます。神との正しい関係にあること、つまり造り主である神に従い、神の呼びかけに応える者であることが「正しい」ということであり、神に背き、逆らうことが「罪」です。
 旧約聖書には、神の民イスラエルが、何度も罪を犯したこと、神を離れ、逆らったことが語られています。そして神が、そのようなイスラエルの罪を裁かれるのは、神がイスラエルを選び、愛しておられるからです。裁きの目的は、神がイスラエルを御自分のもとに立ち帰らせるため、再びイスラエルが神との正しい関係の中を歩むためです。
 神が正しさを貫かれるからこそ、神と選ばれた民との正しい関係を求められるからこそ、罪に対する「神の裁き」があります。

 ですからハバククは、どんな状況であっても、神は必ず良い目的のためにすべてを導いて下さる。神は、逆らう者や敵国さえも御手の内におき、支配しておられ、イスラエルの民の救いのために、神のご計画を実現するために用いておられるのだ、と信じるのです。この苦しみも、悩みも、神は御存じである、すべては神の御手の中にある、と信じるのです。
 そして最後には、神に逆らった神の民、自分たちを立ち帰らせ、恵みを与えて下さり、救って下さることを信じているのです。神は世界をお造りになった方であり、すべてを支配しておられる方であり、神の民を選んで救い出して下さった方だからです。

 この神の恵みのご計画があることを信じた上で、しかし神よ、今の現実はあまりに辛い。諸国の悪はあまりに酷い。いつ、あなたのご計画が成就するのでしょうか。いつ、すべてが終わるのでしょうか。そのことを、ハバククは神に向かって問いかけていくのです。

<神に問いかけること>
 本日の箇所の2:1で、ハバククは「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」と言います。

 ハバククは、すべての疑問、すべての問い、すべての訴えに対する答えを、ただ神から聞こうとします。すべての問いを、訴えを、嘆きを、わたしたちも神に向けてよいし、そうするべきです。ただ神に向かって、求め訴えていくのです。
 もし、神の御言葉から離れて、国や、自然の働きや、人に目を向けるなら、わたしたちはそこに何か苦しみの理由を見つけたとしても、希望や、光を見つけることは出来ないでしょう。神を求め、神の方を見ようとしないなら、神はやはりこの世界に関わっておられないのだ、神は御不在なのだ、という結論にいたるでしょう。

 しかしハバククは、神への訴えをやめません。祈りを中断しません。答えを神にのみ求めて、神が語られるのを待つのです。神のご計画や御心を、すぐに知り、理解し、把握することは出来ません。わたしたちもまた、神に向かって粘り強く祈り、御言葉を待たなければなりません。

<与えられた幻>
 そして、神はハバククにお答えになります。2:2以下が神のお答えです。
 まず神は、幻を板の上にはっきりと記せ、と言われます。幻というのは、神の意志を預言者に知らせるものです。これから神が示されることを、走りながらでも、どんなに慌てふためいている者でも、しっかりと読むことができるように記せ、と言われます。

 そして、その幻、神の示されることの内容が語られます。
 定められた時のために幻がある、と言い、それは「終わりの日に向かって急ぐ」と言っています。「人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」
 神は、ご自分の意志、ご計画や約束を、実現する日を定めておられます。すべてのもの、すべての時を支配しておられる方です。神の定めた時に、必ず終わりの日は来ます。終わりの日とは、救いの完成のことであり、神とイスラエルの民との約束、「アブラハムの子孫によって、地上のすべての氏族に祝福をもたらす」という約束が実現することです。
 そして、それは遅れることはない。人の目に遅れているように見えても、計画が進んでいないように見えても、これは神が来たらせるものであり、急いでいる。必ず遅れずに、神が定めた時に実現する。だから「待っておれ」と言われます。

 では、これらの苦しみや恐れや不安の中で、どのように待っていればよいのか。どう生きればよいのか。
 神は、信仰によって生きなさい、と言われます。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。
 高慢な者、という言葉は、もとは「膨張した者」という言葉です。ハバクク書では新バビロニアを指していると思われますが、自分を高め、さまざまなものを貪り、膨らんでいる。自分の力を頼り、自分の栄光を求め、自分を神のようにしている者のことです。そのような者は、正しくない。神との正しい関係にない、ということです。神との関係が破れている、つまり命の源である神から離れることは、滅びることを意味します。

 神は「神に従う人は信仰によって生きる」と言われます。この「信仰」という言葉は、「真実」と訳すことも出来ます。信仰とは、神に頼ること、神の真実によって生かされることです。それが神との正しい関係であり、そのように神に従う人、神に依り頼む人は、神の真実によって生きる、と言われているのです。

 わたしたちは時々「信仰」を、自分が神を信じる思いの強さとか、神に向かう自分の熱心さのように考えていることがあります。しかし、信仰は自分の中にあるのではありません。自分次第で、信仰を得たり、手放したり、強めたり、弱めたりできるものではありません。
 わたしたちが強くても、弱くても、どんな状態であっても、真実である、まことの神がおられ、「わたしはあなたの神だ」と語りかけてこられる。この声にお答えし、この方の恵みに生かされていることを知り、この方に頼っていく。それが「信仰」なのです。「信仰によって生きる」とは、神の力によって生かされていることです。

 だから、神のご計画の実現を待つ間、自分がどのような状態にあっても、神の御手の中にあるということ、神がすべてを支配して下さっているということ、神が救いのご計画を実現して下さるということ。このことに信頼し、このことに希望をもって、神に頼って「待っておれ」と言われるのです。
 神の救いのご計画の中に、わたしたちの人生が位置付けられています。人生に苦しみや、悲しみや、困難が起こっても、終わりの日、救いの完成に向かって前進する力強い神の歴史の中に、すでに巻き込まれています。「それは必ず来る。待っておれ。」神がそう言われます。

<約束の実現>
 さて、ハバククのこれらの預言の10年後、南王国ユダは新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに連れ去られました。またさらにその約50年後には新バビロニアも、ペルシア王キュロスによって滅ぼされました。そのために捕囚の民はエルサレムに帰って来ることができ、神殿も再建されました。しかし、国は失われたままであり、神の民イスラエルは、神の救いが実現することを、待ち続けていたのでした。

 ハバククにとっては、自分が生きている間に、神の救いが実現したのではありませんでした。ハバククはおそらく、敵が攻め込んできて、王が辱められ、民が泣き叫びながら連れて行かれ、国が消滅していくのを見たかも知れません。
 神のご計画は実現しなかったのでしょうか。救いの約束は反故にされたのでしょうか。ハバククは国が滅びるのを見て、絶望しながら死んでいったのでしょうか。
 そうではなかったでしょう。ハバククは神の約束を待ち望んでいたからです。そしてわたしたちは今、神が確かに救いの約束を実現されたことを知っています。

 本日読まれた新約聖書のヘブライ人への手紙の10:37~38は、このハバクク書の2:3~4が引用されています。35~39節をもう一度お読みします。(読む)ここには、苦しみに遭っても、確信を捨ててはいけない、大いなる報いがあるから、約束を忍耐して待ちなさい、信仰によって生き、来たるべき方を待ちなさい、ということが語られています。
 来たるべき方とは、イエス・キリストです。しかもここでは、キリストの再臨を待ちなさい、という意味で用いられています。すでに救い主は来られ、ハバククの時代から、人類の歴史に大きな転換が起こっているのです。

 ヘブライ人への手紙の一つの大きなテーマは、神の独り子イエス・キリストが人類の大祭司として来て下さった、ということです。大祭司とは、イスラエルの人々の罪を贖うために、神に動物の犠牲をささげる役職です。イスラエルの民は、大祭司に任命された人自身も含め、自分の罪のために何度も神に犠牲をささげなければなりませんでした。
 しかしイエス・キリストという大祭司が来られました。この方は罪のない正しい方であり、イスラエルの罪も、すべての人間の罪も、永遠に贖うために、御自分を献げられ、ただ一度、御自分の血によって、わたしたちを清めて下さった、ということが語られているのです。

 このように神は、救いのご計画の実現のために、御自分の御子イエス・キリストを、滅んでしまった南王国ユダのダビデの血統から、確かに救い主として生まれさせて下さり、約束を実現する御業を行なって下さいました。
 その目的は、イスラエルの民が望んだ「国の復興」という一民族の救いを実現するためではありません。
 神は、イスラエルの祖先アブラハムと結ばれた約束を決して忘れず、この神の民を通して、イエス・キリストの救いを実現し、地上のすべての氏族、世界のすべての人々を祝福する、キリストによってすべての者の罪を赦し、神の民へと招く、そのような救いを実現して下さったのです。

 ハバククはイエス・キリストと出会っていません。しかし、神は必ず救いを実現して下さることを信じて、死んだのでしょう。
 ヘブライ人への手紙の11章以下は、そのように、約束を待ち望んで死んでいった、旧約聖書の時代の信仰の先達たちのことが語られています。
 11:13には、旧約聖書の人々の物語が語られた後、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」とあります。
 彼らは約束のものは見なかったけれど、絶望して死んだのではない。むしろ、この世は仮住まいであるといって忍耐し、神から与えられた約束を信じて、希望を見つめて、喜びをもって生きたのだというのです。それは決して軽い喜びではなく、悲しみの極みにあっても、死を目前にしても、なお神に訴え、神にすがることができる、神のもとに自分の拠り所を持っている、という喜びであるでしょう。
 どうしてこのように喜び、希望を持つことができるのか。忍耐し、神の約束を待ち望むことができるのか。それは、神が真実な方であるからです。

 そして今や、この神の真実は、約束の救い主イエス・キリストによって、今わたしたちに明らかに示されています。キリストはこの地上に来られ、十字架の死によって、わたしたちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。そして、神がキリストを死者の中から復活させて下さることによって、キリストが死に打ち勝ち、すべての勝利者となられたこと、そしてわたしたちもまた、このキリストの永遠の命に与り、キリストが再び来られる日、終わりの日に、復活させられるという、確かな約束を与えて下さったのです。これこそ、神の真実です。この真実によって、わたしたちは生きるのです。

<終わりの日に向かって>
 わたしたちはなお、終わりの日、神の救いが完成する日を待っている状態にあります。それは、復活の時であり、すべての者の目に、神のご支配が明らかになることです。死にも悪にも勝利され、神のご支配が打ち立てられることです。
 約束は目に見えませんが、この約束を実現して下さる神のご計画を、わたしたちはイエス・キリストを通して、ハバククよりもはるかに確かに、はっきりと見ています。イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、神の勝利と、神のわたしたちへの愛がはっきりと示された中で、その日を待っているのです。
 だから、この神に愛されている確信、救いの確信を捨ててはいけない、と言われています。

 まだ悪ははびこっているように見えるし、不安は尽きないし、苦しみ悩みは絶えません。キリストを信じたからと言って、辛いことがない訳ではないし、むしろ苦しみを負うこともあるし、皆同じように体は弱るし、いつかは必ず死を迎えます。しかし、わたしたちは目の前の、死で終わる自分の人生だけを見つめるのではありません。神の真実を見つめるのです。救いの完成へと至る、神のご計画を見つめるのです。事実、世にキリストを遣わして下さったように、神のご計画は確かに実現します。キリストは必ず再び来られます。その時まで、神は愛の内に、わたしたちの人生を丸ごと包み込んで、御自分のご計画を前進させて下さるのです。たとえその終わりの日が実現する前に、自分の地上の歩みを終えるとしても、キリストの十字架と復活によって示された「復活の命」を、確かに望み見て、神の御手に自分を委ねることができるのです。
 だから、わたしたちは「ひるんで滅びる者」ではなく、「信仰によって命を確保する者」です。「待っておれ」と神が言われます。絶望したり、世捨て人のようになったり、自暴自棄になったりすることなく、キリストにしっかりと結ばれて、希望をもって与えられた人生を大切に歩み、約束の実現を待つのです。

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