夕礼拝

神はどこにいるのか

説 教 「神はどこにいるのか」 牧師 藤掛順一
旧 約 列王記下第18章1-37節
新 約 マルコによる福音書第15章33-39節

南王国ユダの王ヒゼキヤ
 先々週に続いて、旧約聖書列王記下からみ言葉に聞きたいと思います。本日は第18章です。先々週に読んだ17章には、北王国イスラエルの滅亡が語られていました。ダビデとその子ソロモンの下で繁栄したイスラエル王国は、ソロモン王の死後、北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂しました。列王記はこれまで、南北両王国の歩みを並行的に語ってきましたが、17章において北王国イスラエルは滅び、18章から先は南王国ユダのことのみが語られていきます。

 北王国が滅亡した時に、南王国の王だったのがヒゼキヤです。18章から20章までに、ヒゼキヤの治世のことが語られています。この人については、3、4節にこう語られています。「彼は父祖ダビデが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。高き所を取り除き、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒したのはヒゼキヤである。彼はまた、モーセが造った青銅の蛇を粉々に砕いた。イスラエルの人々はその頃まで、これをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである」。これまで見てきた南王国ユダの王たちは、ヒゼキヤの父アハズを除いては、おおむね、主なる神の目に適う正しいことを行ったと言われていました。それは、主なる神を礼拝することを中心として国の政治を行ったということでした。しかしヒゼキヤはその中でも特別に、主のみに従う思いが強かったのです。「高き所を取り除き、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒した」ということにそれが現れています。歴代の王が見逃してきた、偶像礼拝に繋がる可能性のあるものをヒゼキヤはことごとく取り除いたのです。そしてそのことは、「モーセが造った青銅の蛇を粉々に砕いた」ということにまで及びました。「モーセが造った青銅の蛇」については民数記21章に語られていました。エジプトを脱出して荒れ野を旅していたイスラエルの民が、そのつらさから主なる神に対して不平不満を言ったために、主は怒って「炎の蛇」を送り、それにかまれた多くの人が死にました。民が悔い改めてモーセに助けを求め、モーセは主のご命令によって青銅の蛇を造って竿の先に掛けたのです。炎の蛇にかまれた人がその青銅の蛇を見上げると生き延びることができた、とあります。つまりこの青銅の蛇は、イスラエルの民が、自分たちをエジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神の恩を忘れて罪を犯し、それによって苦しみに陥ったが、悔い改めた民を主が赦して下さり、救って下さった、という出来事の印でした。この出来事を思い起こすためにイスラエルの人々は竿の先に掛けられた青銅の蛇を見上げていたわけですが、次第にそれに香をたくようになっていったのです。ヒゼキヤは、それは偶像礼拝であるとして、元々はモーセが造ったものである青銅の蛇までも粉々に砕いたのです。

主のみを頼りとしていたヒゼキヤ
 このように偶像礼拝を徹底的に退けて主なる神のみを礼拝することに潔癖だったヒゼキヤのことが、5節以下にこう語られています。「ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。主に固く結び付き、付き従って離れることなく、主がモーセに命じられた戒めを守った」。ヒゼキヤは、他のどの王よりも深く、主なる神を頼りとしていたのです。彼が、主がモーセに命じられた戒め、つまり十戒を中心とする律法をしっかり守ったのは、規則を守る遵法精神が旺盛だったからではなくて、主なる神にこそ依り頼み、信頼していたからです。そしてこのことが、18、19章に語られていることの前提と言うか、伏線となっているのです。
 7、8節にもヒゼキヤのことがこう語られています。「主が共におられたので、向かうところ敵なしであった。それでアッシリアの王に逆らって、これに仕えなかった。ヒゼキヤはペリシテ人をガザとその領域まで、見張りの塔から城壁に囲まれた町に至るまで攻撃した」。主に堅く信頼していたヒゼキヤに主はいつも共にいて下さったので、彼は向かうところ敵なし、という戦果を上げました。そしてそれを背景に、当時この地に進出してきていたアッシリアの王にも屈服しなかったのです。このアッシリアこそ、北王国イスラエルを滅ぼした国です。17章に語られていた北王国滅亡のことが9〜12節にもう一度語られています。北王国はアッシリアに攻められ、首都サマリアは三年の包囲の末に陥落し、人々はアッシリア各地に連れ去られてしまいました。12節には、そのことが起った理由が語られています。「彼らが自分たちの神、主の声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従いもせず、実行もしなかった」。北王国イスラエルは、主なる神に従わなかったために滅びたのです。しかしヒゼキヤは、それとは正反対の、主なる神に心から信頼し、依り頼む歩みをしているのです。

アッシリアの侵略
 しかしそのヒゼキヤとユダ王国にもいよいよ、アッシリアの手が伸びてきました。それが13節以下です。13節に「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダの城壁に囲まれた町すべてに攻め上り、これらを占領した」。南王国ユダもついに、アッシリアの侵略を受け、多くの町々が占領されてしまったのです。18、19章はこのアッシリアによるユダ王国の侵略の顛末を語っています。本日はその前半ということになります。

 さてこの攻撃を受けてヒゼキヤは、アッシリアに恭順の意を示すことで危機を逃れようとします。14節「ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わして、『私が間違っていました。どうか私のところから引き揚げてください。要求されることは何でもいたします』と言った」。アッシリアの王はラキシュにいた、とあります。聖書の後ろの付録の地図の4「イスラエル王国とユダ王国」を見ていただきたいと思います。ラキシュはこの地図のGの2、死海の西、ヘブロンとガザの間にあります。そこから右上のエルサレムまでは僅かな距離です。アッシリア王はここまで攻めてきていたのです。そういう状況の中でヒゼキヤは、貢物を納めることで何とかアッシリア軍に引き揚げてもらおうとしました。アッシリアは銀三百キカルと金三十キカルを要求し、ヒゼキヤは神殿と王宮の宝物庫の全てを、また主の神殿の扉や柱を覆っていた金までも、アッシリア王に渡したのです。

 しかしアッシリア王はそれで兵を引こうとはしませんでした。彼はエルサレムに大軍と共に使者を送り、ヒゼキヤに、降伏して国を明け渡すように求めたのです。使者の代表であるラブ・シャケがヒゼキヤに語った言葉が19節以下です。「ヒゼキヤに言うのだ。大王、アッシリアの王はこう言われる。お前が頼りにしているものは一体何なのか。口先だけの言葉が、戦略や戦力だとでも言うのか。お前は一体誰を頼りに、私に逆らうのか。今、お前はあの折れかけた葦の杖、エジプトを頼りにしている。だが、それは寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、自分を頼りとするすべての者にそのようにするのだ。お前たちは、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ」

何を頼りにしているのか
 ラブ・シャケはヒゼキヤに、「お前が頼りにしているものは一体何なのか」と言っています。そして、エジプトに頼ろうとしても、そんなことは無駄だぞ、と言っています。そのことは北王国の滅亡において既に明らかでした。しかしヒゼキヤはエジプトに頼ろうとしていたのではありません。先ほど見たように、彼は主なる神を頼りとしていたのです。ラブ・シャケはそのことを知っており、それについて語っています。「お前たちは、自分たちの神、主を頼りにすると言っている」というところからです。その後のところは分かり難いですが、彼はヒゼキヤが高き所などの祭壇を取り除いて、主なる神への礼拝をエルサレムの神殿に集中したことを取り上げています。それは先ほど見たように、主なる神への礼拝から偶像礼拝の要素を取り除くためでしたが、ラブ・シャケは、ヒゼキヤはそれによってイスラエルの人々の、主なる神を拝み、頼りにしようとする思いを妨げている、と言っているのです。これまではあちこちの高き所や祭壇で主を礼拝し、お願いができたのに、エルサレムに行かなければそれができなくなった。それはヒゼキヤが人々の心を主なる神から離れさせようとしているのだ。そんなことをしているヒゼキヤを主が助けてくれるわけはないだろう、ということです。

世界の創造主である主のみ心
 さらに彼は25節でもっと重要なことを言っています。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上って来たと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ」。ラブ・シャケは、アッシリアの王がユダ王国を滅ぼしに来たのは、他ならぬ、ヒゼキヤとユダの人々が礼拝し、依り頼んでいる主なる神のみ心によるのだ、と言っているのです。これは驚くべき発言です。当時は、いや今もと言うべきかもしれませんが、神というのはその国や民族のいわゆる「守護神」であって、その国を守り、戦いにおいて勝利をもたらす存在でした。人々は他国との戦いにおいて、自分たちの神に勝利を祈願したのです。だから国と国との戦争はそれぞれの神どうしの戦いで、戦争に勝った国の神が相手の国の神に勝利した、というのが常識的な考え方だったのです。その常識からすれば、イスラエルの神である主は、イスラエルを、この場合には南王国ユダを、守り、勝利させる存在です。その主が、アッシリアを用いてユダ王国を滅ぼそうとしている、それが主なる神のみ心だ、などというのは普通には考えられないことです。しかしイスラエルにおいては、そして主なる神においては、そういうことがあり得るのです。何故なら、主なる神は、イスラエルの民族神、守護神ではなくて、天地の全てを造り、支配しておられる方だからです。主は、世界の創造主であられ、諸民族の全てをみ手の内に導き、支配しておられる神なのです。その主がイスラエルの神であるのは、主がイスラエルの民をご自分の民として選んで下さり、契約を結んで下さり、「私はイスラエルの神だ、イスラエルは私の民だ」と言って下さったからです。主が結んで下さったこの契約のゆえに、主はイスラエルの神であられるのです。ですから主は、イスラエルがこの契約を破り、他の神々を拝んだりして、主なる神の民として歩むことをやめてしまうなら、お怒りになり、他国を用いてイスラエルを滅亡させることをもなさるのです。そういうことがつい先だって起こりました。それが、北王国イスラエルの滅亡です。北王国も、主がご自分の民として選び、契約を結んで下さったイスラエルの民による国でした。しかし主を金の子牛の像にして拝むとか、周辺諸国の偶像礼拝の影響を受けるとか、主に対する罪を重ねて来たのです。主はそれでも北王国を守り、預言者たちを遣わして、悔い改めて主との契約に立ち帰るように求めて来ました。しかし彼らはそれに応えなかったために、ついに、アッシリアによって滅ぼされたのです。それは、主なる神と関係なく起ったことではなくて、主がアッシリアを用いて北王国を滅亡させた、ということです。主なる神は、ご自分の民の国であっても滅ぼされる、そのことをユダの人々は目撃したばかりなのです。さらに言えば、この列王記が書かれたのは、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕囚となった後です。列王記は、南北両王国の滅亡までの歩みを、主なる神の民である自分たちが、主との契約を守らず、主に従わなかったためにこのようなことが起った、という理解の下に語っているのです。つまりラブ・シャケが言った、「お前たちが礼拝している主なる神がお前たちを滅ぼそうとしている」ということは、列王記がまさに見つめている真理でもあるのです。

アッシリア王の脅し、降伏の勧告
 ラブ・シャケの言葉はユダの人々を動揺させました。ヒゼキヤの家臣たちが26節で、「ユダの言葉ではなくてアラム語で話してください」と言っていることにそれが現れています。しかしユダの人々皆にこれを聞かせることこそラブ・シャケの目的です。28節以下「そしてラブ・シャケは立って、ユダの言葉で大声で叫び、こう言い放った。『大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる。「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちを私の手から救い出すことはできない。ヒゼキヤは、主が必ずや救い出し、この都がアッシリアの王の手に渡されることは決してない、と言って、主に頼らせようとするが、そうさせてはならない」』」。そして31節以下で彼は人々に降伏を促し、降伏すれば、お前たちは生きることができる、アッシリアの王が、お前たちが豊かに生きることができる新しい地を与えてくれる、と言ったのです。さらに33節以下で彼は、これまでアッシリアによって滅ぼされてきた諸民族の名をあげて、決定的な脅しを語っています。35節にこうあります。「その国々の神のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したのか。主はエルサレムを私の手から救い出すことができるとでも言うのか」。ヒゼキヤとユダの人々は、アッシリア王によるこのような脅しを受け、降伏を迫られました。そこまでが本日の18章です。このアッシリアによる危機がこの後どうなったかは19章に語られており、それは次回のお楽しみです。

信仰における動揺、疑い、絶望
 つまりこの18章には、ヒゼキヤとユダの人々が陥った大きな危機と、そこにおいて彼らが体験した動揺、試練が語られています。それは単に、超大国の攻撃によって国が滅ぼされそうになった、という危機ではありません。ユダ王国はこれまで、曲がりなりにも主なる神の民として、主を礼拝し、主に依り頼んで歩んで来たのです。そしてヒゼキヤは、他のどの王よりも深く、主なる神のみを信頼し、頼りにしているのです。その主なる神は、果たしてヒゼキヤを、そしてユダ王国を守ってくれるのだろうか。ひょっとしたら、北王国イスラエルを滅ぼしたのと同じように、今やユダをも滅ぼすためにアッシリアを遣わしたのかもしれない。この世界の全てを造り支配しておられる主は、恵みによってイスラエルの民を選び、エジプトの奴隷状態から解放して下さり、契約を結んでイスラエルをご自分の民として下さったけれども、北王国イスラエルの人々は主に背くことばかりをしてきたために主の怒りによって滅びた。ユダ王国の人々も同じような罪を免れることはできない。だとすれば、我々が頼りにしている主ご自身が今や我々を滅ぼそうとしておられるのだ。そういう動揺、疑い、絶望の淵に彼らは立たされたのです。この動揺、疑い、絶望は、神を信じていないところに生じているのではありません。天地の造り主である主なる神を信じており、イスラエルが神の民とされていることを信じているからこその動揺であり疑いであり絶望です。そしてそこにさらに、今世界で起っている目に見える現実が拍車をかけています。多くの国々が、アッシリアに抵抗したけれども、ことごとく滅ぼされたのです。それぞれの国がそれぞれの神を信じ、依り頼んでいたが、どの神も、自分の民をアッシリアから救うことはできなかったのです。主なる神だけは例外だ、などとどうして言えるのか、というラブ・シャケの問いは説得力があります。世界の情勢は、軍事力を中心とした国力によって決まる。強い国は我が物顔に好きなことをし、弱い国はそれに振り回される、そういう現実が、当時も今も変わらずにあり、それもまた、主なる神に信頼して依り頼む信仰を動揺させるのです。

神はどこにおられるのか
 ヒゼキヤとユダの人々が体験したこの動揺、疑い、絶望、つまり試練は、主なる神を信じて歩む私たち信仰者が共通して体験するものです。しかもこれは、主なる神を信じているからこそ起ってくる動揺であり試練です。私たちは、ただ私たちを守り、願いを叶え、ご利益を与えてくれるだけの神を信じているのではありません。私たちが信じている主なる神は、この世界と全ての人々を導いておられ、契約の恵みを与えて私たちをご自分の民として下さっています。けれども私たちがのその契約を破るなら、お怒りになり、滅ぼすことをもなさる方です。それはつまりこの神が、人間が自分のために作り出した偶像ではなくて、生きておられるまことの神だということです。生きておられるまことの神を信じている私たちは、その信仰のゆえにこそ、神のみ心が分からなくなる、という試練を味わうのです。この深刻な試練は、「神さまは守って下さる」という単純な信頼によって乗り越えられるものではありません。苦しみ悲しみの現実の中で私たちは、神のお姿を見失って、神はどこにおられるのか、という深刻な問い、絶望を抱くのです。

絶望の中で見つめることができるもの
 その絶望の中で、私たちには見つめることができるものが与えられています。そのことを、本日共に朗読した新約聖書の箇所、マルコによる福音書第15章33〜39節が語っています。それが主イエス・キリストの十字架の死です。神の独り子であり、ご自身がまことの神であられる主イエスが、私たち罪人の救いのために、十字架にかかって、苦しみを受け、死んで下さったのです。主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びました。これは詩編22編の言葉であり、その詩編は最後は神への信頼で終わるのだから、主イエスは十字架の上でも最後まで父なる神を信頼しておられたのだ、とこの言葉を読む向きもありますが、しかし私は違うと思います。主イエスは、十字架の苦しみの中で、神に見捨てられて、つまり神を見失って、神がどこにおられるのかが分からなくなって、その絶望の内に死なれたのです。それは、私たちが陥り、味わう絶望です。主イエスはそういう絶望を味わって、死んで下さったのです。そのことを見つめることができることこそ、神はどこにおられるのか、という深刻な問い、絶望の中にある私たちに与えられている救いです。主イエスが神への信頼の内に死なれたのなら、それはもう、「神はどこにおられるのか」という絶望を覚えている私たちと何の関係もないことです。私たちにはそんなことは出来ないのですから。主イエスは神に見捨てられた絶望の中で死なれた、そこには何の希望も見えません。しかしそれを見たローマの百人隊長が「まことに、この人は神の子だった」と言いました。主イエスの絶望の内の死においてこそ、神の子が、まことの神がそこにいて下さったのです。私たちは、神のみ心が分からなくなり、神を見失ってしまう絶望の中で、このことを見つめることができるのです。

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