夕礼拝

熱心に祈る教会

説教「熱心に祈る教会」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 詩編第107編10-16節
新約聖書 使徒言行録第12章1-17節

場面がエルサレム教会に戻る
 しばらく使徒言行録の連続講解から離れていましたが、本日から連続講解に戻ります。本日と来週で12章を読みます。11章の後半では、アンティオキア教会の誕生と成長が語られていました。ユダヤ人キリスト者を中心としたエルサレム教会から独立した、最初の異邦人を中心とした教会が誕生し、急速に成長して行ったのです。また再来週に読む13章ではそのアンティオキア教会から、バルナバとサウロが宣教旅行(いわゆる「パウロの第一次宣教旅行」)に派遣されることが語られています。ところが11章と13章の間に挟まれた12章では、一旦、その場面がアンティオキア教会から離れてエルサレム教会に戻ります。一体、エルサレム教会では、何が起こっていたのでしょうか。

ヘロデ・アグリッパ一世とその迫害
 少し遡りますが、8章1節で語られていたように、ステファノの殉教をきっかけとして、「エルサレム教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方」に散らされて行きました。エルサレム教会は大きな打撃を受け、教会消滅の危機に瀕していたと言っても、言い過ぎではないでしょう。そのような状況の中で、12章で語られている出来事が起こったのです。冒頭1節に、「その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とあります。「ヘロデ王」とは、ヘロデ・アグリッパ一世のことです。主イエスが誕生したときのヘロデ王(いわゆる「ヘロデ大王」)とは別人で、その孫に当たります。またルカによる福音書の十字架の場面では、ピラトだけでなくヘロデが主イエスを尋問しますが、このヘロデはヘロデ・アンティパスという人物で、ヘロデ・アグリッパ一世はその甥に当たります。
 さてヘロデ・アグリッパ一世は、紀元41~44年にユダヤの王として在位しました。自らの実力で王となったのではなく、ローマ皇帝の後ろ盾によって王となったと言うべきでしょう。そもそも当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、独立した王国ではありませんでした。ヘロデ・アグリッパ一世は一時期ローマにいましたが、その時期に時の皇帝カリグラやクラウディウスと親しい関係を築きました。二人の皇帝の後ろ盾によって、彼はあのヘロデ大王の時代とほぼ同じ領土を与えられ、さらには「王」の称号も与えられたのです。ユダヤ人は、ローマ帝国による支配を快く思っていませんでしたから、帝国の力によって王となったヘロデ・アグリッパ一世にとって、自分の統治を安定させるためには、ユダヤ人の人気を得ることが不可欠でした。実際、彼はそのために力を注ぎ、ヘロデ家の中で、最もユダヤ人に人気があったそうです。このヘロデが「教会のある人々に迫害の手を伸ばし」たのです。使徒言行録は何も記していませんが、その背景にも、ヘロデがユダヤ人の人気を得ようとしたことがあったと考えられます。先ほど見たように、ステファノの殉教をきっかけとして、ユダヤ人は、特にその宗教的指導者たちはエルサレム教会の人たちに激しい迫害を加えました。そのユダヤ人の人気を得るためには、エルサレム教会の人たちを迫害するのは効果的であったに違いありません。このようにしてエルサレム教会は、ユダヤ人たちによる迫害によって大きな打撃を受けていた上に、ヘロデによる迫害も受けることになったのです。ヘロデによる迫害は、これまでの迫害とは異なり国家権力による迫害でした。

ヤコブが殺される
 この迫害で、「ヨハネの兄弟ヤコブ」が剣で殺されました。ヤコブとは、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ」(マルコによる福音書3:17)のヤコブのことです。主イエスの十二弟子の一人で、主イエスの「山上の変貌」に立ち会ったのは、ペトロとヨハネとこのヤコブだけであり、大切な弟子の一人でした。そのヤコブがヘロデによって捕らえられ殺されたのです。十二人の使徒の中では最初の殉教でした。ペンテコステにエルサレムで教会が誕生して以来、ヨハネの兄弟ヤコブがその中心的な指導者であったのは間違いありません。そのヤコブを失った衝撃、痛みと悲しみは、エルサレム教会にとってまことに大きなものであったのです。

ペトロが捕らえられ牢に入れられる
 しかしそれだけでは終わりませんでした。3節にこのようにあります。「そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、さらにペトロをも捕らえようとした」。ヘロデは、ヤコブの処刑がユダヤ人に喜ばれるのを見て、さらにユダヤ人を喜ばせようとして、十二人の使徒の筆頭であるペトロを捕らえて牢に入れました。捕らえてすぐに殺さなかったのは、より効果的なペトロの処刑を演出するためでした。ペトロが捕らえられたとき、ユダヤ教の大切な祭りが行われていました。3節に「除酵祭の時期であった」とあり、4節に「過越祭の後で」とあります。「除酵祭」と「過越祭」は、厳密に言えば同じ祭りではありませんが、ここでは同一のものとして言及されています。この除酵祭ないし過越祭には、エルサレムに多くのユダヤ人が集まりました。4節後半にあるように、ヘロデが「過越祭の後で」、ペトロを「民衆の前に引き出すつもり」であったとは、過越祭でエルサレムに集まった多くのユダヤ人たちの前でペトロを処刑することによって、より効果的に人気を得ようとしたということです。ヘロデの人気取りのために、ペトロは捕らえられた後、牢に入れられていたのです。

祈りの力以外に何の力も与えられていない
 ヤコブが殺されたのに続いて、ペトロが捕らえられて牢に入れられました。5節の後半には、「教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた」とあります。エルサレム教会の人たちは、ペトロのために、ペトロを助けてください、と神様に熱心に祈っていたのです。いえ、祈ることしかできなかった、と言うべきでしょう。圧倒的な力を持った国家と比べれば、いつ消滅してもおかしくないエルサレム教会は、何の力もない小さな存在です。国家権力による迫害の中で、自分たちもいつ捕まるか分からない状況にあって、教会の人たちは祈る以外に何の力も持っていなかった。だから教会では、ペトロを助けてください、私たちの教会を助けてください、と熱心な祈りが神様に献げられていたのです。
 祈ることしかできないのは、このときのエルサレム教会だけではありません。私たちの教会も同じです。そんなことはないと思われるかもしれません。確かに私たちの教会は国家権力による迫害を受けているわけではありません。消滅寸前のエルサレム教会と比べれば、立派な教会堂を持ち、連なるメンバーの人数も多いかもしれません。けれども熱心な祈りを神様に献げていたエルサレム教会の姿は、祈ることしかできなかったエルサレム教会の姿は、キリストの教会には祈りの力以外に何の力も与えられていないことを見つめています。祈りとは、神様の力に頼ることです。自分の力に頼るのではなく、神様の力に頼ることが祈りです。私たちの教会にも、祈りの力以外に何の力も与えられていません。私たちの教会も、自分たちの力に頼るのではなく、神様の力に頼って歩んでいきます。私たちの教会も、熱心な祈りを神様に献げて歩んでいくのです。

人間の力では逃げ出せないし助け出せない
 ペトロは牢に入れられると、「四人一組の兵士四組」に引き渡され監視されたことが、4節の前半に語られています。四人一組の兵士が、一日四交代制でペトロを監視していたのです。しかも6節によれば、ペトロは牢の中で、「二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間」にいたことになります。おそらくペトロは左右にいる兵士と鎖で繋がれていたのです。残りの二人の兵士は牢の外で見張っていたのだと思います。このように極めて厳重な監視体制のもとでペトロは牢に入れられていました。それだけではありません。万一牢から逃げ出せても、簡単に町にたどり着くことはできませんでした。10節には「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門のところまで来ると」とあります。たとえ牢から逃げ出せても、二つの衛兵所を通り抜け、さらに町に通じる鉄の門を開けなければならなかったのです。この箇所を読むとき、「四人一組の兵士四組」とか、「二本の鎖でつながれ」とか、「第一、第二の衛兵所」とか、随分と細かく描かれていることに気づきます。それは、ペトロが自分の力では決して逃げ出せないことを、また人間の力ではペトロを決して助け出せないことを見つめているのです。ペトロが牢から脱出することは、人間の可能性の中にはなかったのです。

神の救いのみ業
 しかし人間の可能性を超えて、神様がみ業を行ってくださいます。6節冒頭に、「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜」とあるように、過越祭も終わり、ヘロデがペトロを民衆の前で処刑することになっていた日の前日の夜に、神様はみ業を行ってくださったのです。主の天使がそばに立つと、光が牢の中を照らしました。天使がペトロの脇をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言うと、鎖がペトロの手から外れ落ちたのです。天使から、「帯を締め、履物を履きなさい」と言われると、ペトロはその通りにしました。さらに天使から、「上着を着て、付いて来なさい」と言われると、ペトロは外に出て、天使に付いて行きました。そして第一、第二の衛兵所を通り過ぎると、町に通じる鉄の門がひとりでに開いたので、外に出ることができたのです。神様は天使を遣わして、人間の可能性を超えた救いの御業を成し遂げてくださったのです。

死への恐れの中にあってなお平安を与えられる
 私たちはこの出来事を読み、天使がペトロの脇をつついて起こした、と語られていることを、微笑ましい描写だと思います。その一方で、このような奇跡は自分には起こらない、自分には関係ないとも思います。しかしこの出来事は本当に私たちには関係ないのでしょうか。そうではないと思います。ではこの出来事は、私たちに何を示しているのでしょうか。
 まずペトロに注目したいと思います。この箇所を読んで驚くことの一つは、6節で「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」と言われていることではないでしょうか。よくこんな状況で眠れるなと思います。なぜペトロは、いつ処刑されるか分からない状況でも眠ることができたのでしょうか。別の言い方をすれば、なぜペトロはこの絶体絶命の状況でなお平安を与えられていたのでしょうか。それは、このときペトロが十字架と復活の主イエスのお姿にしっかり目を向けていたからではないでしょうか。使徒言行録の著者ルカは、このペトロの逮捕の出来事を、主イエスのご受難と重ね合わせて描いていると思います。ほかならぬ主イエスご自身が除酵祭(過越祭)に逮捕され、十字架につけられて死なれたからです。ペトロは逮捕されたとき、自分が主イエスと同じように除酵祭に逮捕されたことに気づかなかったはずがありません。ペトロは死を恐れていなかったから、牢で眠ることができたのではないと思います。ルカはペトロをそのような死を恐れない英雄として描いていません。そうではなくペトロは死への恐れの中にあって、十字架と復活の主イエスのお姿を見つめました。ペトロが三度、主イエスを知らないと言って、主イエスを裏切り、見捨てたにもかかわらず、その十字架と復活によって、ペトロを罪と死の支配から救い出してくださり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えてくださった主イエスのお姿を見つめたのです。牢の中にあっても、たとえこれから処刑されるとしても、そのときも主イエスが共にいてくださることに、そして死の先で復活と永遠の命が与えられることに目を向け、そのことによって平安を与えられ、絶体絶命の状況でも眠ることができたのです。
 私たちはおそらく牢に入れられることも、処刑を間近に控えることもないでしょう。しかし私たちは誰もがいつか地上の生涯を終えて死を迎えます。キリスト者であっても、信仰を持って生きていても、死への恐れがなくなるわけではありません。「死ぬのが怖い」というのは、人間の本能的なもの、本質的なものだと言って良いと思います。しかしその「死ぬのが怖い」という恐れの中で、私たちは十字架と復活の主イエスのお姿を見つめます。死を迎えるときも主イエスが共にいてくださり、その死の先で復活と永遠の命が与えられることを見つめるのです。そのことを通して、私たちは死への恐れの中にあって、なお平安を与えられるのです。

主イエスに従って歩む
 もう一つには、ペトロが救いの恵みの中で主イエスに従って歩んだことが示されます。それは、ペトロが主イエスと同じように除酵祭で逮捕されたことにだけでなく、天使の語る言葉に従ったことに示されています。8節でこのように言われています。「天使が、『帯を締め、履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはそのとおりにした」。ペトロは天使が語る言葉の通りにした、その通りにしたのです。天使が続けて「上着を着て、付いて来なさい」と言うと、やはりペトロはその通りにしました。ペトロは天使の言葉に従うことで、自分がどうなるのかよく分かっていたわけではありません。9節にも「天使のしていることが現実のことだとは分からず、幻を見ているように思えた」とあります。しかし何が何だかよく分からなくても、天使の言葉に従うことを通して、ペトロは神様の救いの御業を体験しました。だからペトロは、11節でこのように言っています。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ」。最初から分かっていたのではなく、天使が語る言葉に従うことを通して、神様が天使を遣わして、ヘロデと民衆のあらゆるもくろみから自分を救い出してくださった、と本当に分かったのです。救いの恵みの中で主イエスに従って歩むとは、このように歩むことです。私たちも自分が何もかも分かったから、あるいは納得したから神様の言葉に従うのではありません。何が何だかよく分からなくても、納得していなくても、神様の言葉に従って歩んでいく中で、不思議な驚くべき神様の御業を体験します。人間の可能性の中では決して起こらない神様の御業を体験し、ペトロと同じように「今、初めて本当のことが分かった、神様が私たちのために御業を行ってくださったのだ」と、神様を賛美しつつ歩んでいくのです。

教会が祈り続ける中で
 しかし何よりもこの出来事において私たちが受けとめるべきことは、この神様の御業が、教会が祈り続ける中で起こったということです。12節以下には、牢から救い出されたペトロが「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行き、神様が自分を牢から救い出したことを教会の人たちに伝えたことが語られています。その12節の後半には、「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」とあります。エルサレム教会の人たちは、マルコの母マリアの家に集まって、ペトロを助けてください、私たちの教会を助けてください、と祈っていたのです。ですから5節に「教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた」とあり、12節に「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」とあり、それに挟まれて、ペトロを牢から救い出した神様の救いの御業が語られていることになります。それは、教会が熱心な祈りを神様に献げる中で、神様が救いの御業を行ってくださったことを見つめています。教会が祈り続ける中でこそ、神様は人間の可能性を超えた驚くべき御業を行ってくださるのです。

神の自由な御心によるみ業
 しかしそれは、教会の祈りによって神様がその御業を行ってくださる、ということでは決してありません。教会には祈りの力が与えられていますけれど、それはその祈りの力によって、神様に御業を行わせることができるということではないのです。そのように考えるとしたら、私たちは大きな間違いを犯していることになります。そのように考えるなら、私たちは自分たちの祈りに神様を従わせることになり、自分たちの都合の良いように神様を利用することになってしまうからです。神様は自由なお方です。神様はその自由な御心によって御業を行ってくださるのであって、私たちが神様に御業を行わせることは決してできないのです。それは、私たちが熱心に祈れば、神様はその祈りを聞いて御業を行ってくださるけれど、私たちが熱心に祈らなければ、神様は御業を行ってくださらないのではない、ということでもあります。それでは結局、私たちの熱心や頑張りが、神様の御業を引き起こすことになってしまうのです。
 そうではないことは、この出来事においても見つめられています。この出来事において一方でペトロは牢から救い出されましたが、その一方で、ヨハネの兄弟ヤコブは剣で殺されました。エルサレム教会は、ペトロのためには熱心に祈ったけれど、ヤコブのためには熱心に祈らなかったということなのでしょうか。そんなことはあり得ません。ヤコブのときもペトロのときも、教会は熱心な祈りを神様に献げていたのです。しかしヤコブは殺され、ペトロは救われました。それは人間の目には理不尽で、不平等なことのように思えます。「どうして」と思わずにはいられないことです。しかし神様が自由な御心によってその御業を行ってくださるとは、そういうことです。どうしてこのときヤコブが殺されなければならなかったのか、それは私たちには分かりません。しかし神様はヤコブの命を取り去られたのです。一方で神様はこのときペトロの命を救われました。しかし伝説によれば、ペトロは後にローマで殉教しました。このこともまた人間の目には理不尽で、「どうして」と思わずにはいられないことです。けれどもペトロの命を救われた神様は、その命を取り去られるお方でもあり、どちらも神様の自由な御心によって行われたことなのです。
 神様の「自由な御心」というのは、神様の勝手な御心ということでは決してありません。私たちは自由と聞くと、自分の好き勝手にすることであるように思います。しかし神様が自由な御心によって御業を行うとは、神様が最もふさわしい仕方でその御業を行ってくださる、ということです。このことは人間の目には理不尽なように思え、「どうして」と思わずにいられないことも少なくありません。特に人の死に対して、しばしばそのように思います。幼くして、若くして亡くなる方があり、本人に非はないのに戦争や災害、犯罪や事故で亡くなる方があります。「なぜ、この人が死ななくてはならないのですか」、「神様、どうしてですか」、と問わずにはいられないことがあります。私たちにはその問いに対する答えは与えられていません。ただ私たちは、神様が私たちに命を与えてくださる方であり、そしてお定めになっているときに、それを取り去られる方であると信じるだけです。神様が自由な御心で、最もふさわしい仕方で御業を行ってくださると信じるだけなのです。

熱心に祈る教会
 教会には祈りの力が与えられています。しかしその祈りの力によって、神様に御業を行わせるのではないとしたら、何のために教会は祈り続けるのでしょうか。教会が祈り続ける中で、神様が御業を行ってくださったこの出来事は、何を見つめているのでしょうか。熱心に祈ったからといって、神様が祈りを聞いてくださらないのなら、熱心に祈ることに意味がないのでしょうか。そうではありません。祈りとは、神様の力に頼ることだと申しました。教会が熱心に祈り続けるとは、教会が自分たちの願いを何としても神様に聞いてもらおうとすることではなく、教会が神様の力に頼り続けることです。私たちは祈る中でも罪を犯し、不信仰をさらけ出します。そのことは次回、お話しします。しかしそれでも熱心に祈り続ける教会に、自分の力に頼るのではなく、ひたすら神様の力に頼り続けようとする教会と私たちに、神様は御業を行ってくださるのです。私たちの願いが叶うことも、叶わないこともあるでしょう。しかし神様は最もふさわしい仕方で御業を行ってくださいます。人間の可能性を超えて、不思議な驚くべき御業を行ってくださるのです。いえすでに神様は驚くべきみ業を行ってくださいました。独り子を十字架につけてまで、罪人である私たちを救い、死を超えた復活と永遠の命の約束を与えてくださったのです。その神様が、これからも人間の可能性を超えた驚くべきみ業を行ってくださることに信頼して、私たちは熱心に祈り続けていきます。そのことに信頼して熱心に祈り続ける私たちの歩みに、「今、初めて本当のことが分かった、神様は私たちの教会に、そして私たちに、御業を行ってくださったのだ」と言わずにはいられない体験が必ず与えられていくのです。

関連記事

TOP
6月14日 伝道礼拝のご案内
6月14日 伝道礼拝のご案内