主日礼拝

あなたはキリストの手紙

「あなたはキリストの手紙」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第3章1-3節  
・ 讃美歌:464、516、540

パウロは、コリントの教会の人々に、たくさんの手紙を書き送りました。このコリントの信徒への手紙二もその手紙の一つです。手紙というのは、会うことができない人に対して、何か伝えたいことを伝達するための手段です。その手紙の差出人にとって、その手紙の送り相手は、大抵特別な関係のものです。特段関係していない人には、手紙を出すということはありません。わたしたちは、遠距離になればなるほど、その人との繋がりを意識するものです。またわたしたちは今まで顔を合わせることのできていた人と、会うことができなくなると、その時に孤独を感じます。先週一週間わたしは、妻が実家に帰ったために、大変な孤独を感じました。そして、手紙を出すということはしなかったのですが、普段よりもメールのやり取りが増え、また電話をする回数も増えていました。このように、わたしたちは会うことができなくなってしまった特別な関係のものとの繋がりを保持するために、わたしたちは手紙、もしくはその他の媒体を用いてコミュニケーションをとります。それは、わたしたちが、孤独を恐れ、繋がりを求めているためでしょう。
では、パウロも、わたしのように寂しくなり、その孤独を埋めるためにコリントの人々に手紙を書いたのでしょうか。おそらくそれは違うでしょう。わたしたちがこのコリントの信徒への手紙二を読んでいても、パウロは寂しくて一刻も早くコリントの人々に逢いたいというような、そのような孤独がここに書かれているとは思えません。しかし、この手紙を書いていた時のパウロは、ある種の孤独を感じていたと思います。それは、愛する者と会えないというような孤独ではありません。パウロの寂しさは、パウロが愛するコリント教会の中の一部の人たちとの関係の中で感じていた孤独です。コリント教会の中のある一部の人々は、パウロの手紙を受け取って、そこに書かれているパウロがもっとも伝えたいことを、ちゃんと受け止めてくれていませんでした。パウロは、神様の救いのこと、またその救いに与り自分が神様の救いを宣べ伝える者になったことなど、手紙に書いて送っていました。コリントのある人々の中に、そのパウロの伝えようとしていたことを受け止めることのできない者たちがいました。その者たちの無理解の原因となっていることがありました。その無理解の原因となっていたこととは、パウロが神様のこと、救いのこと、教会の歩み方のことなどを語っても、「お前にはそのように語る資格はない」と思われていることです。これは、パウロだけでなく、伝道する者にとっても、またなにかの場面で責任を負って語ることになっている人にとっても、このように思われること、このように言われることが、一番きついことであって、苦しいことです。パウロは手紙の内容が理解されないということよりも、このように、自分が語るに相応しくないものと判断され、そもそも話が聞かれないということに、ある種の孤独、それは繋がりが切れてしまっているために起こる、信頼という絆が切れてしまっていているために起こる寂しさを感じたのだと思います。
コリントの教会のある人たちの中では、パウロのことを「手紙では強気だが、面と向かって会うと弱腰のものである」と思っていたり、「会って話すと話のつまらない者」と思っていたりしました。そのように思われていたので、パウロは手紙の中で、コリントの人々に弁明をします。わたしは、会った時も手紙の時も同じ気持であると言っています。パウロは、涙ながらに書き送った手紙の中にも、彼は自分の願いよって、伝道者になって伝道しているのではなく、神様によってであるということを弁明しています。また自分が、そもそもユダヤ人を迫害する者であって、律法を正しく行うことをしていれば良いと思っていて、他者を裁くものであり、そのような罪人の頭であると言って、本当に自分はつまらぬ罪深いものであったのに、神様はそのわたしを救ってくださり、福音を宣べ伝える者にしてくださったということ、神様に召されて異邦人にそして諸国の王に福音を宣べ伝える者にならされたのだということを主張しています。
しかし、そのような手紙をもらった人は、それを読んで、どう思ったでしょうか。パウロは自分が、自分の思いや自分の願いで伝道者になっていないし、そのような罪人の私が神様に召命を受けて伝道していると思って書いたつもりでしたが、手紙の読み手は、パウロのこの手紙は自己推薦している手紙だと判断してしまいました。3章1節に「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書いてあります。ここで、「またもや」という言葉が使われているということは、パウロの手紙は、いつも自己推薦があると思われていたのかもしれません。パウロは、自分では、自分のような者は、この宣べ伝える仕事をする資格がないけれども、神様によって、神様の恵みによって、そのようにしていると言っているつもりなのに、読む方にとっては、パウロが自己推薦をしているというように受け取られてしまっていたのでした。
この時代には、推薦状がしきりに書かれており、教会に送られていたそうです。1節後半で、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状が、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いてということがわかります。このように、コリントの教会には、この人はどういう人だということを判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていましたし、またこの人がどのような人であるということを自らで判断して他の教会にある人を推薦していたということが日常的に起こっていたということが、ここからわかります。パウロが出す手紙が、自分を推薦する推薦状だと受け取られてしまうという素地が教会にあったのです。またそのように推薦状を受け取った者は、自己推薦状の送り主が推薦されるにふさわしいか判断するということが、コリントの教会では日常的に行われていたのです。
パウロも、自己を推薦している手紙をかつて書いていたのでしょう。しかし、その自己推薦というのは、普通の自己推薦ではないのです。普通の自己推薦であれば、「わたしはこのように素晴らしい人である。このような業績持っている。このように教会に貢献した。」ということ書きます。そのように自己の誇れることを、書くのです。しかし、パウロの自己推薦状は、逆に自己の誇れないことを書き示すのです。このコリントの信徒への手紙二の後半にも「もし誇るならば、自分の弱さを誇る」と書いてあります。他の手紙でも、自分が罪人の頭であることを証明するように書き記します。自己の誇れないことを手紙に書くのは、自分が如何にダメな男だということを示し、その謙遜さ誇って自分を推薦しているということではありません。パウロは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、ただ神様がそのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」と言いたいのです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できるものではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。そしてなにより、神様からの推薦を際立たせたいからです。パウロは自己を自分で推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのです。パウロにとって、自分がコリントの人々に宣べ伝えたことも、そこで生まれた繋がりも、自分の力ではなくただ神様の推薦の上で、ただ神様の恵みによって、なされたのであるということを示したかったのです。しかし、そこまで書いても、パウロはやっぱり自己推薦していると思っていた人がいたのです。ですからこの手紙を今パウロは書いているのです。
そこで、パウロはこの神様のからの推薦を、違う形で証明しようと試みます。それが2節の不思議な言葉です。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの言葉です。これは、読む人にとっては意外なことでした。推薦状とは、他者か、または自己が書いた書類であるはずです。しかし、パウロは書類の形式ではなくて、人が推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。パウロは「自分は、あなたがたに対して、イエス様の福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、今イエス様を信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」とパウロは言いたいのです。しかし、ここでパウロが言いたいのは、「自分の伝道の 成果があなたがたに現れている。だからわたしは素晴らしい人で、神様に選ばれているのだ。」ということではありません。何か作品を作る人にとって、その作品は自分の成果のあらわれであり、その作品がその作者の推薦状となることがあると思います。ですが、パウロは自分の手で、イエス様を信じる信仰者を作ったとは考えていませんし、そのことを誇ろうとしておりません。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信しています。信仰者もまた、「信仰は父なる神様が与えてくださる」ということが、聖書に示されているように、信仰者に自分がなったのは、色々な出会いや、紹介、聖書の言葉、礼拝の説教などあったが、それらすべては神様の働きであるということを、信仰者となって知るようになります。だからパウロはそのことを知っているので、「あなたがたに信仰を与えてくださったのは神様であり、その神様がわたしパウロを用いて、あなたがたに福音を宣べ伝えたということを、あなたがたは知っている。そして、それを信仰によって知っているあなたがたの存在が、神様の救いの働きを示し、またわたしが神様によってただ用いられているということをあらわすのだ。だからあなたがたは神様からのわたしの推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。
2節の後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「それは」と書かれていることが、「パウロの推薦と関係していていること」、また「パウロが召されている根拠を示すこと」であるとすれば、ここは「わたしたちの心に」ではなく、推薦状と称されるコリントの人々つまり「あなたがたの心に書かれており」というのが、文脈そって適切ではないかとわたしたちは考えます。しかし、聖書のもとの言葉を見ても、ここは「わたしたちの心」としか訳しようがありません。ということは、「それは」ということは、「私が推薦されるということは」ということでは、ないということです。「それは」ということ、これは、ただそのまま「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」ということ、つまり「それは」と書かれていることは「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということで、それが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということです。
さらにここで、話を広げると、コリントの人々が救われているということは、パウロを推薦すること以上に、ある御方を推薦することになります。それはイエス様です。イエス様こそが、わたしたちの救いの根拠であり、イエス様がこの世に来てくださらなければ、十字架にかかりわたしたちのために犠牲となって罪を贖ってくださらなければ、わたしたちは罪と死から救われませんでした。またイエス様が復活をさせられなければ、わたしたちは、わたしたちの死の後に復活するという、死に対する勝利も信じることができなかったでしょう。またイエス様が、「父なる神様はわたしたちを愛していてくださり、信仰を与えてくださり、神様のものとしてくださり、神様の民としてくださり、信じるものに永遠の命を与えて下さり、神様の国に最後に住まわせて下さる」というその「喜びの知らせ」を伝えてくださらなければ、それら信じることもできませんでした。コリントの人々が、そしてわたしたちが今それらの喜びの知らせを信じることができているのは、イエス様の働きがあったからです。イエス様の働きのおかげで、わたしたちは喜びの知らせを信じることできるようになったのです。従って、「わたしたちが信じていること」で、「イエス様の働き」が示されるのです。どうしようもないわたしたちであっても、その救いを、復活を、希望を、信じていることで、イエス様の働きが示され、イエス様が推薦されるのです。パウロは、そのようにあなたがたが「イエス様を推薦する推薦状である」ということも、パウロの心に刻まれていると確信しているのです。
パウロは、3節で、自分の推薦状の話ではなく、あなたがたはキリストの手紙であるということを語り始めます。3節で、もしまだパウロが自分の推薦状のことを語りたいのならば、3節で「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として」と書かず「キリストがわたしたちを用いてお書きになった推薦状」と書いていたはずです。しかし、3節では、そこを「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えています。ですから、パウロはここでもはや自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々が「キリストに書かれた手紙である」ということを伝えたくなったのです。
コリントの人々、そしてわたしたちもまたキリストの手紙です。では、どういう意味でわたしたちはキリストの手紙なのでしょうか。第一にわかることは、3節で「キリストがお書きになった」と書かれていることからわかります。この手紙は、イエス様によって書かれた手紙であるということです。そして、イエス様が書いたのですから、その内容は、「イエス様が伝えたいこと」であるということがわかります。イエス様がそれぞれの人々にお伝えになりたいことというのは、それぞれの事柄があると思います。しかし、根本的にイエス様が人々にお伝えになりたいことというのは、先ほど申し上げた、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。イエス様によって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神様が、どうしようもないわたしたちを見捨てず愛してくださっていて、死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神様の国に入らせ、そして父なる神様の家に住まわせてくださることを約束してくださっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことをイエス様は、手紙に書いているのです。つまり、その救いと愛と希望の喜びの知らせを、イエス様はわたしたちに書き記しておられるのです。
どのようにして、わたしたちに書き記されているのか、それは信仰によってです。3節に「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」ということが書かれています。わたしたちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、すなわち聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時にわたしたちは、聖霊なる神様によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。この節では「墨によってではなくて」と注意書きが記されています。墨というのは文字を長期保存するのに、適しているものです。この時代の中では、一番長く文字を保存できるものと考えられていたでしょう。しかし、その墨であっても、永遠に事柄を保存できるものではありません。やがて文字は消えてしまいます。パウロは、そのような有限な、保存時間に限界があるものよってではなく、永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。
どこにそれが刻まれるのか、それはわたしたちの心であるとパウロは3節で書いています。わたしたちの心にしっかりと刻まれているという意味と、ここでもう一つパウロがもうひとつ指し示そうとしている意味があります。それは3節後半にかかれています。3節後半には「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」と書かれています。石の板ということで、わたしたちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が書かれた石の板のことです。すなわち律法です。石に対して心ということが言われているということで、ここでパウロが意識しているのは、石の板である律法ではなくて、わたしたちにはイエス様が与えられている、すなわち喜びの知らせである福音が与えられていることを言いたいのです。わたしたちは律法によって、自分たちの罪を知ります。わたしたちは律法によっては、救われませせん。わたしたちは律法によって自覚させられる罪を、イエス様が十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。イエス様によって救われるその救いの喜びの知らせ、すなわち福音がわたしたちの心に刻まれるということを、パウロはここで強調したいのです。
わたしたちもキリストの手紙です。なぜわたしたちがキリストの手紙であるということがわかるのか、またさらにいえばその手紙の差出人がイエス様であるということがなぜわかるのか。それは、イエス様の印がその手紙に付けられているからです。かつての手紙は、封を閉じる時に、そこにロウを垂らし、指輪に刻まれた印を押し付け封印していました。その印が、差出人を示す印でありました。信仰者はこの印を、聖霊なる神様によって付けられているとパウロは語ります。エフェソの信徒への手紙1章13節でパウロは「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」と言っています。イエス様の救いの福音を聞き、信じた者は、聖霊によって「この者は、わたしのものである」「これはわたしが出した手紙である」ということを証しする印を押されているのです。この印は、滅びること無い永遠の霊が媒体となって付けられた「印」、例えるならば絶対に朽ちること無いロウによって付けられた印です。ですから、わたしたちは、その聖霊なる神様によって、神様のものであることが証明され、神様の手紙であることが示されるのです。では、自分に聖霊なる神様が注がれているということを、わたしたちはどのようにして知ることができるのか。それは、イエス様が備えてくださった一つの儀式によってわかります。その儀式というは、洗礼です。わたしたちは洗礼を受ける前に、信仰を告白します。そして、悔い改めて洗礼を受けます。この洗礼は、聖霊なる神様を注がれているかがわからないわたしたちのために、信仰が与えられていること、聖霊なる神様が与えられていることが、目に見える形となり、神様からのそれらの保証の印となるのです。ですから、洗礼を受けた時、わたしたちははっきりと、キリストの手紙となったことがわかるのです。
コリントの人々も、わたしたちもキリストの手紙であることがわかりました。その手紙の差出人は、イエス様です。そして、その内容は、イエス様がこの世で示された喜びの知らせです。その知らせをわたしたちが信じているので、わたしたちの心にそれが刻まれています。刻まれた上に、イエス様の手紙であることを示す確かな印が、聖霊なる神様によって、押されています。では、この手紙の宛先はどこなのでしょうか。それは、大きく言えば、この世です。どうやってこの世にこの手紙を届けるのか。それは、手紙であるわたしたちが、この世に出ていき、それぞれの場所で他者と出会い、その人に届けられるのです。わたしたち一人ひとりが出会う隣人が、わたしたちのそばにいる隣人が、イエス様の手紙の出したい特別な相手です。そのわたしたちの隣人がイエス様が救いと喜びを知らせたい人々です。わたしたち自身は、隣の人にどうやったら、イエス様のことを伝えられるかと思います。なにかと言葉を絞り出そうしますが、わたしたちはイエス様のことをうまく語ることができません。わたしたちが言葉をひねってイエス様を伝えるのではありません、神様が今日わたしたちにいっておられるのは、「わたしのことを信じているあなたが、喜びの知らせを信じているあなたそのものが、イエス様を宣べ伝える言葉となり、手紙となっている」ということです。真に無力で、小さくて、何もできなくて、愚かであっても、その救いと福音を信じている。それがわたしたちです。しかし、神様はそのようなわたしたちを、本当によく用いてくださるのです。真に無力だから、神様の力がよくあらわされるのです。わたしたちが愚かであるから、神様の知恵が偉大であることを示されるのです。イエス様の救いの恵みによって、無力なわたしたちを救われました。その時、わたしたちの存在は、イエス様を推薦する、推薦状の入った手紙となるのです。
わたしたちもかつて、誰かを通して、教会と出会い、そこで神様と出会い、信じるに至りました。その誰かが、わたしたちにとって、神様からの手紙でした。その誰かは、神様からの、神様と出会うための招待状でありました。わたしたちは、神様によって教会に招かれて、神様と出会い、信じるに至りました。わたしたちは手紙でありますけれども、もっと突き詰めれば、わたしたちは、隣人のための神様の招待状です。わたしたち自身はキリストの手紙でありますけれども、神様のすべてを伝えることのできるものではありません。わたしたちは、救いを信じて福音を信じています。その信じるものの心に福音が刻まれています。福音が刻まれたわたしたちの存在が物語ること、言葉をかえれば、その存在から放たれる香りが、隣人を神様へと誘うのです。そうであるならば、わたしたちは香り付きの招待状であると言えるでしょう。福音に生きる喜びの香りのする招待状として、わたしたちは隣人と出会うのです。その招待状をもって、隣人は教会と出会い、神様と出会うのです。
今日イエス様が与えて下さった喜びの知らせを胸に、わたしたちはこの世に送り出されます。イエス様が今わたしたちをこの世に投函してくださいました。イエス様の手紙として、それぞれの送り先に、送られていきます。福音を喜ぶ香りを漂わせ、隣人に送られていきます。主に感謝して。

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