説教題「二つの提案」 牧師 藤掛順一
旧 約 サムエル記下第17章1-29節
新 約 ローマの信徒への手紙第9章14-18節
アブサロムの反乱
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書、サムエル記下からみ言葉に聞いています。先月は第15章を読みました。そこには、ダビデ王の息子アブサロムが、父の王位を奪い取ろうとして反乱を起したことが語られていました。この反乱はかなり周到に準備されており、またアブサロムは行動力のある魅力的な人物だったこともあって、イスラエルのかなりの人々が彼を支持するようになりました。ダビデは、エルサレムから脱出して、荒れ野に逃れなければならなくなったのです。若い頃にはサウル王に追われて逃げ回ったダビデですが、今度は、自分の息子に追われて逃げるはめになったのです。本日は、このアブサロムの反乱の話の続きです。先ほどは第17章の全体を読みましたが、16章から18章までが一続きの話ですから、その全体を見ていきたいと思います。アブサロムは一時はかなりの力を持ちましたが、結局はダビデの軍勢との戦いに敗れ、殺されてしまいました。その顛末がここに語られています。
アヒトフェルの提案
さて先月読んだ15章の12節にあったように、アブサロムは、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルという人を自分のもとに迎え、参謀としました。この人は、ダビデが部下のウリヤから奪い取って妻としたバト・シェバのおじいさんに当る人で、ダビデの宮廷の重臣であり、また大変優れた人物でした。彼がアブサロムの側に加わったことを聞いたダビデは、15章31節で、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と祈っています。それはダビデがアヒトフェルを恐れていることの現れです。このアヒトフェルが、アブサロムの求めに応えて早速いくつかの助言をします。そのことが16章20節以下に語られています。「アブサロムはアヒトフェルに、『どのようにすべきか、お前たちで策を練ってくれ』と命じた。アヒトフェルはアブサロムに言った。『お父上の側女たちのところにお入りになるのがよいでしょう。お父上は王宮を守らせるため側女たちを残しておられます。あなたがあえてお父上の憎悪の的となられたと全イスラエルが聞けば、あなたについている者はすべて、奮い立つでしょう』」。ダビデは多くの側女たちをかかえていたわけですが、エルサレムを脱出する際に、彼女たちを王宮に残したのです。アヒトフェルの第一の提案は、アブサロムが彼女たちのところに入ること、つまり父ダビデ王のハーレムを自分が受け継ぐということです。それは、ダビデに代って自分がイスラエルの王となったことを示す象徴的な行為であり、ダビデはもう死んだも同然だと宣言することです。要するに、父を排除して自分が王となる強い決意を人々に示すことで、アブサロムを支持している人々は奮い立つし、どっちにつこうかと迷っている者たちには、「もうダビデの時代は終った。これからはアブサロムの時代だ」と示すことになるのです。アヒトフェルのこの提案は直ちに実行されました。16章23節にはこうあります。「そのころ、アヒトフェルの提案は、神託のように受け取られていた。ダビデにとっても、アブサロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった」。アヒトフェルの提案は神のお告げのように受け取られていた。つまり彼は天才的ひらめきを持ったブレーンだったのです。彼の提案によってアブサロムの陣営は大いに盛り上がったのです。
アヒトフェルは次に第二の提案をしました。それが17章1節以下です。「アヒトフェルはアブサロムに言った。『一万二千の兵をわたしに選ばせてください。今夜のうちに出発してダビデを追跡します。疲れて力を失っているところを急襲すれば、彼は恐れ、彼に従っている兵士も全員逃げ出すでしょう。わたしは王一人を討ち取ります。兵士全員をあなたのもとに連れ戻します。あなたのねらっておられる人のもとに、かつてすべての者が帰ったように。そうすれば、民全体が平和になります』」。つまりアヒトフェルは、自分が今すぐ出撃してダビデを追い、ダビデ一人を討ち取る。そうすればダビデに従っている軍勢もアブサロムに従うようになる、と提案したのです。まだそう遠くへは逃げていない、しかも疲れているダビデの一行を今のうちに攻撃しようというこの提案は、まことに理にかなった、有効な提案であると誰もが思いました。もしこの提案が実行されていたら、おそらくダビデの命運はここで尽きていたでしょう。
アルキ人フシャイの提案
ところがここに、もう一人の人物が登場します。それはアルキ人フシャイという人です。アブサロムは、彼の意見も聞いてみよう、と言いました。このフシャイも、先月読んだ15章に出て来ました。彼はダビデの部下の一人ですが、「ダビデの友」とも呼ばれています。ダビデと非常に親しい、ダビデが心許していた人だったのでしょう。そのフシャイは、ダビデがエルサレムから逃げ出す時に、一緒に行こうとしたのですが、ダビデは彼に、むしろアブサロムの所へ行って、彼の部下となるふりをして、その動向を自分に伝えてくれと頼みます。つまりフシャイは、ダビデのスパイとしてアブサロムのもとに送り込まれているのです。そのフシャイがアブサロムの所に来た時のことが、16章16節以下に語られています。「ダビデの友、アルキ人フシャイはアブサロムのもとに来て、アブサロムに向かって言った。『王様万歳、王様万歳。』アブサロムはフシャイに言った。『お前の友に対する忠実はそのようなものか。なぜ、お前の友について行かなかったのか。』フシャイはアブサロムに答えた。『いいえ。主とここにいる兵士とイスラエルの全員が選んだ方にわたしは従い、その方と共にとどまります。それでは、わたしは誰に仕えればよいのでしょう。御子息以外にありえましょうか。お父上にお仕えしたようにあなたにお仕えします』」。このようにして、フシャイはアブサロムの信頼を得て、その側近となったのです。アブサロムとしても、ダビデの友であった人が、自分についてくれたことは大変嬉しく、彼を重く用いようとしたのでしょう。それで、あのアヒトフェルの提案について、フシャイの意見も聞こうとしたのです。そのフシャイは、アヒトフェルの提案に反対し、別の提案をします。17章7節以下です。「フシャイはアブサロムに、『今回アヒトフェルが提案したことは良いとは思えません』と言い、こう続けた。『父上とその軍がどれほど勇敢かはご存じのとおりです。その上、彼らは子を奪われた野にいる熊のように気が荒くなっています。父上は戦術に秀でた方ですから、兵と共にはお休みにならず、今ごろは、洞穴(ほらあな)かどこかを見つけて身を隠しておられることでしょう。最初の攻撃に失敗すれば、それを聞いた者は、アブサロムに従う兵士が打ち負かされた、と考え、獅子のような心を持つ戦士であっても、弱気になります。父上も彼に従う戦士たちも勇者であることは、全イスラエルがよく知っているからです。わたしはこう提案いたします。まず王の下に全イスラエルを集結させることです。ダンからベエル・シェバに至る全国から、海辺の砂のように多くの兵士を集結させ、御自身で率いて戦闘に出られることです。隠れ場の一つにいる父上を襲いましょう。露が土に降りるように我々が彼に襲いかかれば、彼に従う兵が多くても、一人も残ることはないでしょう。父上がどこかの町に身を寄せるなら、全イスラエルでその町に縄をかけ、引いて行って川にほうり込み、小石一つ残らなくしようではありませんか』」。フシャイはまず、ダビデとその手勢が歴戦の勇士であることを示し、それゆえに慎重に事を進めた方がいいと言います。これによって、今直ちに追撃しようというアヒトフェルの主張を、慎重さを欠く無謀な策だと批判しているのです。そして彼の提案は、イスラエル全国から兵士たちを集結させ、万全の体制を築いてから攻撃しようということです。そうすれば絶対に負けることはない。そしてさらにフシャイは、アブサロム自身が軍勢を率いて出陣することを勧めています。ここが彼の賢いところです。アヒトフェルの提案は、アヒトフェル自身が直ちに兵を率いて追撃するというものでした。それに対してフシャイは、アブサロム自身が出陣することを提案しています。彼はアブサロムの自尊心をくすぐっているのです。自分自身が軍勢を率いて出陣し、敵、というのは父であるダビデですが、その敵を打ち破って凱旋して王として即位することの方が、アヒトフェルに軍勢を委ねて追撃させて勝利するよりも、アブサロムには魅力的に感じられるのです。フシャイはそのようにアブサロムの心理を上手に利用しています。それで、アヒトフェルの提案ではなく、フシャイの提案が採用されることになりました。14節には、「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ」とあります。アブサロムにとって本当に優れた、有効な提案はアヒトフェルのものだったのです。戦いにおいては、チャンスを捉えて迅速に行動することが大事です。エルサレムを逃げ出したダビデはまだ体制を立て直すことができておらず、今一番弱っているのです。しかしこれまでイスラエルを治めてきたダビデを支持している者もなお多いわけですから、時が経てばそれだけダビデは力を取り戻していきます。アブサロムが勝利するためには、今のこのチャンスを捉えて一気呵成に攻めるのがよいのです。アヒトフェルが一万二千の兵を率いて追撃するというのも、迅速な、小回りのきく戦いをするためです。しかしこの適切な提案は退けられ、ダビデのために時間を稼ごうとするフシャイの提案が採用されたのです。
アヒトフェルとフシャイ
フシャイはしかし、それで安心はしませんでした。彼は、もしもアヒトフェルの提案が実行されればダビデが危ないことを誰よりもよく知っていました。それで彼は、アブサロム陣営の今の状況をダビデに伝えようとします。そのことが、15節以下に詳しく語られています。その伝令として用いられたのは、これもダビデがエルサレムに残るように15章で依頼した祭司ツァドクとアビアタルの息子たち、ヨナタンとアヒマアツです。エルサレムの外で待機している彼らのところに、父である祭司の家から使いの女が送られる。ところが彼らがダビデに通報しようとしていることが明るみに出て、探索を受ける。彼らはある家の井戸の中にかくまわれ、その家の妻の機転によって探索を逃れてダビデのもとまで行くことができたのです。このあたりは、スリルとサスペンスに満ちた場面です。彼らの通報によって状況を知ったダビデは、その夜のうちにヨルダン川を渡り、安全なところまで逃れることができたのです。
一方、自分の提案が退けられたアヒトフェルは、家に帰り、首をつって自殺してしまいます。それは、自分の提案を受け入れてもらえなかったことを恨んで、拗ねて、というような子供じみたことではないでしょう。彼は、アブサロム側が勝利するためには、自分の提案を実行するしかないことを冷静に見極めているのです。その提案が退けられたことによって、もうアブサロムに勝ち目はない、その滅亡は時間の問題であることを悟ったのです。ということは、彼を支持した自分自身の滅亡ももう確定的だということです。彼はその全てを見切って、絶望の内に死んだのです。ダビデはヨルダン川の東のマハナイムという所に落ち着き、そこで勢力を立て直していきました。そしてこの後の18章には、ダビデの軍勢とアブサロムの軍勢が戦ったこと、ダビデ軍が勝利し、アブサロムが悲劇的な死を遂げたことが語られています。全ては、アヒトフェルの予想の通りになったのです。あの二つの提案の内、フシャイの提案が取り上げられた時点で、ダビデの勝利、アブサロムの滅亡は決定的となっていたのです。
二つの提案
これが16章から18章にかけての、アブサロムの物語です。ここには先ほども申しましたように、まことにスリルに満ちた、手に汗握る描写があります。また、アヒトフェルとフシャイの二つの提案をめぐって事態が決定的に動いていくあたりは、言葉が人の心を動かし、事態を大きく変えていくという大変面白い場面です。同じようなことは、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の中にも描かれています。シーザーを暗殺したブルータスが、ローマの民衆にその理由を説明するのです。「シーザーは、自分がローマの支配者、王になろうという野望を抱いていた、その野望を打ち砕いて、ローマを民衆の手に取り戻すために我々はシーザーを打ったのだ」。その演説を聞いた群衆は、「なるほどシーザーは野心家だった。ブルータスは我々の手にローマを取り戻してくれた」と思い、彼を称えたのです。しかしその後、アントニー(アントニウス)が演説に立ちます。彼は最初はブルータスを応援するかのように語り始めるのです。しかし、その演説の中で彼は、シーザーがいかにローマの民衆のことを思っていたか、彼が暴君のように人々を支配したことなどなかったということを語っていきます。彼が語り終えた時、民衆の心は、シーザーへの哀悼の思いと、暗殺者ブルータスへの憎しみで満たされていました。アントニーの演説によって、形勢は一気に逆転して、ブルータスは追われる身になったのです。シェイクスピアはこの戯曲で、演説が人の心を動かし、形成を逆転する様を見事に描いています。しかしそれよりも二千年以上前に書かれた聖書に、このような記述があるのです。聖書は、シェイクスピアと肩を並べる文学書でもある、と言えるのです。
神がみ心を行われた
しかしこの物語が語っているのは、フシャイがその巧みな弁舌で人々の心を動かしてダビデを救った、ということではありません。本日の箇所の中心は14節です。「アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」。アブサロムをはじめとしてみんなが、フシャイの提案の方が優れていると思ったので、アヒトフェルの提案が退けられたのです。それは、主なる神が、アブサロムの滅亡を定めておられたからなのです。フシャイの巧みな弁舌が人々を動かしたように見えますが、それは表面的なことに過ぎず、本当は、神が事態を導き、み心を行われたのです。
敵対する者をも用いて
しかもそれは、ダビデの友でありスパイとして送り込まれたフシャイを用いて神がみ心を行われた、というだけではありません。神がアブサロムの滅亡とダビデの王への復帰のためにお用いになったのは、フシャイだけではなく、あのアヒトフェルもまたそうだったのです。それはアヒトフェルがアブサロムに、父の側女たちの所に入ることを勧めたあの第一の提案によってです。この提案の目指すところは、先ほど申しましたように、アブサロムが父ダビデに取って代わる意志をはっきりと表して、従う者たちの士気を高め、どっちつかずにいる者たちの決心を促すことでした。それは人間の思いからすれば、思い切った有効な政策だったのです。けれどもこのことは実は、人間の駆け引きを超えた、重大なことだったのです。同じようなことをした人がいたことが、創世記に語られています。創世記35章22節です。そこに、ヤコブ、即ちイスラエルの長男ルベンが、父ヤコブの側女ビルハのところへ入って関係を持った、ということが語られています。そこにはその事実だけが語られているのですが、49章3、4節において、そのことが重大な結果を生んでいるのです。そこは、ヤコブが死に臨んで息子たちに与えた言葉が記されています。ルベンはヤコブの長男ですから、最初に言葉を与えられています。しかしそこに語られているのは、こういうことです。「ルベンよ、お前はわたしの長子、わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で、長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り、それを汚した」。「お前は父の寝台に上り、それを汚した」と言われているのが、あのビルハとのことです。父の側女と関係を持つことは、父の寝台を汚すこと、父を汚すことなのです。それによって、ルベンは「長子の誉れを失う」と言われています。父を汚したことによって、長子としての誉、祝福を失ってしまうのです。アヒトフェルの提案によってアブサロムがしたのはそういうことでした。彼はこのことによって、自分を、父ダビデに与えられていた神の祝福を受け継ぐことができない者としてしまったのです。アブサロムの滅亡は、実はこのアヒトフェルの第一の提案によって既に決定的になっていたと言うことができるのです。
ファラオをも用いる神
このアブサロムの物語が私たちに教えているのは、人間は様々な計画や策略を用いて自分の思いを実現しようとするが、それらの全てを用いて神がみ心を行われる、ということです。フシャイの場合のように、神のご意志に沿った策略や努力が用いられるということでもあるし、逆にアヒトフェルの場合のように、神のみ心とは反対のことのために、天才的なひらめきや優れた見識によって策を練ったとしても、神はそのことをも、み心の実現のためにお用いになるのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙第9章14節以下ですが、そこにも、同じことが語られています。奴隷とされていたイスラエルの民の解放を頑なに認めようとしなかったエジプトの王ファラオについて、神は、「わたしがあなたを立てた」と言われるのです。それは「あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」でした。ファラオが頑なになり、神の言葉に聞き従おうとしない、そのことすらも、神はご自分の救いのご計画の中で用いて下さるのです。
神のみ心こそが実現する
このローマの信徒への手紙9章から11章で見つめられているのは、主イエス・キリストによる救いを受け入れようとしないで敵対しているユダヤ人たちのことです。彼らは旧約聖書以来、神に選ばれ、その祝福を担ってきた民でした。そのユダヤ人たちが、今神が遣わして下さった救い主、神の独り子である主イエス・キリストを認めようとせず、その十字架と復活による救いを受け入れず、むしろ主イエスを信じる人々を迫害している、どうしてそんなことが起こっているのか、ということがパウロにとって大問題でした。それについてパウロはこの手紙の9〜11章で、それは神が彼らを頑なにしておられるのであって、このことを通して、ユダヤ人以外の者たち、異邦人にも、救いを及ぼして下さる神のご計画が実現する、そして最終的には、ユダヤ人たちも、神の救いにあずかるようになる、と言っているのです。神は救いのみ心を、敵対している者たちをも用いて実現して下さるのです。それはパウロが自分自身において経験したことでした。彼はユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、イエスを信じる人々を迫害する急先鋒だったのです。その彼が、神に選ばれ、主イエスとの出会いを与えられて、今や使徒、伝道者となっているのです。神に激しく敵対していた自分が、神によって用いられて、救いのご計画の前進のために仕える者となっているのです。だから、今敵対しており、福音を受け入れていない人々も、彼らは救われないとか、神に選ばれていないなどと言ってはならない。神の救いのみ心は、そういう人々を通しても実現し、前進していくのだ、ということをパウロは確信を持って語っているのです。アブサロムの物語も、それと同じことを教えていると言えるでしょう。私たちはこの物語を通して、私たちの周囲の人々の、また私たち自身の、目に見える現実がどうであろうとも、またそこで人間がどのような思いを抱き、何を計画し、どう策略を巡らそうとも、神の救いのご計画が必ず進展し、実現していくのだということを信じることができるのです。