主日礼拝

恵みを受けて生きる

説教題「恵みを受けて生きる」 副牧師 川嶋 章弘
旧 約 イザヤ書第30章18-19節
新 約 コリントの信徒への手紙一第1章4-9節

指路教会へ送られた手紙として
 基本的に月一回、私は主日礼拝の説教を担当させていただいていますが、1月にペトロの手紙一を読み終え、先月からコリントの信徒への手紙一を読み始めました。先月は手紙の初めの部分1-3節を読みました。そこには当時の手紙の定型に従って、手紙の差出人、受取人、挨拶(祝福)の言葉が記されていました。手紙の差出人は1節にあるように「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」であり、受取人は2節にあるように「コリントにある神の教会」でした。そして3節では、祝福の言葉が、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と告げられていたのです。ただパウロはこの手紙を単に「コリントにある神の教会」だけに向けて書いたのではありません。前回お話ししたように、2節の「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」は、聖書協会共同訳のように「ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めている人々へ」と読むことができます。そうであればこの手紙は「コリントにある神の教会」と「至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めている人々」に向けて書かれた、ということになります。ですから私たちはこの手紙をパウロがコリント教会へ送った手紙としてだけ読むのではなく、イエス・キリストを主と告白するすべての教会へ送られた手紙として、それゆえにこの指路教会へ送られた手紙として読むのです。

神への感謝
 さて、多くのパウロの手紙では手紙の差出人と受取人、祝福の言葉を記した後に感謝の言葉が続きます。この手紙も同じで、本日の箇所は感謝の言葉を記している部分です。
 冒頭4節でこのように言われています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」。いかんともしがたいことではありますが、日本語に翻訳しようとすると、どうしても原文のギリシャ語の語順が分からなくなってしまいます。日本語よりも英語の翻訳のほうがギリシャ語と同じ語順で訳されていることも少なくありません。それはともかくとして、この4節をギリシャ語の語順に従って訳すと、「私は感謝しています 私の神に いつも あなたがたについて」が最初にあり、「あなたがたが神の恵みを受けたことについて キリスト・イエスによって」が続きます。つまりこの4節の文章の主文となるのは、パウロがいつもコリント教会の人たちについて神に感謝している、ということなのです。私たちが手紙を書くときには手紙を送る相手への感謝を記すことが多いと思いますが、パウロはここでコリント教会の人たちに感謝しているのではなく神に感謝しています。神への感謝からこの手紙は始まっているのです。

社交辞令?
 パウロがコリント教会の人たちについて神に感謝していることは、決して当たり前のことではありません。前回お話ししたようにパウロの伝道によってコリント教会は誕生しました。しかしパウロがコリント教会を去った後、教会には色々な問題が起こりました。本日の箇所の後、10節以下では、教会の中に党派争いが起こっていたことが語られています。また経済的な繁栄を享受し、しかしそれゆえに人心の荒廃も進んでいたコリント社会の影響は教会にも及んでいて、倫理的な乱れが教会でも起こっていました。パウロはこの手紙でそのような教会が抱える問題に対して厳しい言葉で非難しています。ですからパウロがコリント教会の人たちについて神に感謝するというのは不思議なことです。むしろ問題だらけのコリント教会の人たちについて神に感謝なんかできない、と思ったほうが自然に思えます。そのためこのパウロの感謝の言葉は、あくまでも社交辞令であって心からの感謝ではない、と考える人もいるのです。

キリストにあって神の恵みを受けたゆえに
 しかし本当にパウロの感謝は社交辞令に過ぎないのでしょうか。そうではないと思います。パウロは本当に心から神に感謝しているのです。その感謝の理由は、4節を聖書協会共同訳で読むとよく分かると思います。このように言われています。「私は、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みのゆえに、いつも私の神に感謝しています」。コリント教会の人たちが「キリスト・イエスにあって与えられた神の恵み」が、感謝の理由なのです。新共同訳では「キリスト・イエスによって神の恵みを受けた」と訳されていますが、原文の言葉は「受けた」ではなく「与えられた」です。また「キリスト・イエスによって」の「よって」は、英語の前置詞inに当たる前置詞で、「キリスト・イエスの中で」、あるいは「キリスト・イエスにあって」と訳せます。この「キリストにあって」(in Christ)は、パウロの手紙に度々出てくるとても大切な言葉です。新共同訳では「キリストに結ばれ」と訳されている場合が多くあり、5節の「キリストに結ばれ」も「キリストにあって」という言葉です。コリント教会の人たちが「キリストの中にある」、「キリストにある」とは、彼ら彼女たちが洗礼を受け、キリストの十字架と復活による救いに与ることによって、キリストの中に入れられているということです。キリストの中に入れられ、キリストと一つとされて生かされているコリント教会の人たちに、神の恵みが与えられているのです。それは、「与えられている」という言葉が示すように、彼ら彼女たちがもともと持っていたものでもなければ、自分の力で獲得したものでもありません。キリストにあって神が一方的に与えてくださった救いの恵みです。つまりパウロは、コリント教会の人たちが救いに与り、キリストにあって救いの恵みの内に生かされていることを神に感謝しているのです。この救いの事実は、何があっても決して変わることも失われることもありません。コリント教会が問題だらけであったとしても、彼ら彼女たちがキリストにあって救いの恵みの内に生かされているという救いの事実は微動だにしないのです。だからこそパウロはこのことを神に「いつも」感謝している、と言えるのです。コリント教会の問題が解決に向かったから、あるいは彼ら彼女たちがパウロの言葉を受け入れたから感謝するのではなく、たとえそういうことがまったくなかったとしても、この救いの事実のゆえにパウロはコリント教会のことを神に「いつも」感謝できるのです。

神に感謝することから始めよう!
 私たちも洗礼を受け、キリストの十字架と復活による救いに与り、キリストの中に入れられています。私たちもキリストにあって救いの恵みの内に生かされているのです。しかし私たちはしばしばこの救いの事実を忘れてしまいます。たとえば私たちは祈るときに、「いつも」感謝しなさいと言われると、到底できないと思うのではないでしょうか。そう思うのは、日々の生活の中で、いつも神に感謝する出来事が起こるわけではないからです。具体的な喜ばしいことや嬉しいことが起こったときは、そのことを覚えて感謝するけれど、そのようなことがなければ感謝しようがないと思うのです。むしろ私たちは祈るとき、日々の生活の中で直面する悩みや苦しみばかりを訴えてしまいます。もちろん悩みや苦しみをどんどん神に訴えて良いし、喜ばしいことや嬉しいことがあればその都度、神に感謝するのは大切です。しかし私たちにはどんなことよりも先に、そしていつも、神に感謝することがあります。それが、私たちがすでにキリストにあって救いの恵みの内に生かされている、ということにほかなりません。どれほど私たちが、あるいは私たちの教会が困難に直面しているときも、神に感謝する出来事が見いだせないような状況にあるときも、すでにキリストにあって救いの恵みの内に生かされていることをいつも神に感謝することから私たちは始めるのです。祈りにおいてだけではありません。教会の営みにおいても、私たちの信仰生活においても、私たちは救いの恵みに感謝することから始めます。教会がどのように歩み、何をするかに先んじて、あるいは私たちがどう生きるか、何をするかにに先んじて、神の救いの恵みがあるからです。決して逆ではありません。救いの恵みが先にあり、その恵みへの応答として教会の営みも私たちの信仰生活もあるのです。だからこそたとえ教会の営みや私たちの信仰生活に課題や問題があったとしても、私たちが救いの恵みを与えられていることに変わりはない、その救いの事実は決して揺らがないのです。私たちはいつも神に感謝することから始めたい。とりわけ問題だらけで、その問題に向き合っていかなくてはならないときこそ、パウロがそうであったように、問題を指摘する前に、批判する前に、対策を講じる前に、私たちも神への感謝から始めたいのです。「神に感謝することから始めよう!」。私たちの教会のスローガンにしても良いぐらいです。私たちはどんなときも何をするにしても、キリストにあって救いの恵みの内に生かされていることへの感謝から始めるのです。

賜物をどう用いるのか
 続く5節でパウロはコリント教会の人たちについて神に感謝している理由について、さらに具体的なことを語っています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」。4節で言われていた、キリストにあって与えられた神の恵みとして、コリント教会の人たちには具体的な恵みの賜物が豊かに授けられていたのです。それが「言葉」と「知識」の賜物です。「言葉」の賜物とはディベートの力とか、コミュニケーションの力とかではなく、神の恵みを語る言葉、キリストによる救いの良い知らせ、つまり福音を語る言葉が与えられているということです。また「知識」の賜物とは、単に幅の広い知識を持っていることではなく、信仰の知識、救いについての知識を与えられているということです。しかしパウロがこのように言うことに、私たちは疑問を感じるのではないでしょうか。ここでもお世辞を言っているのではないかと思うのです。なぜならこの手紙全体から分かるのは、むしろコリント教会の人たちに恵みの賜物が豊かに与えられていることが、教会に問題を引き起こしていた、ということだからです。しかしパウロは、言葉にしろ知識にしろコリント教会の人たちに与えられている恵みの賜物そのものを否定しているのでも、賜物が不足していると言っているのでもありません。そうではなく彼ら彼女たちが、与えられた恵みの賜物を誤って用いていることを非難しているのです。与えられた賜物に問題があるのではありません。それどころか7節にあるように「賜物に何一つ欠けるところがな」いのです。私たちに与えられている救いの恵みが揺らぐことはなく、問われているのはその恵みに私たちがどう応答していくかであるように、私たちに与えられている恵みの賜物に欠けるところはなく、問われているのはその賜物を私たちがどう用いていくかなのです。パウロはコリント教会の人たちが恵みの賜物を豊かに与えられていることを確信し、そのことを神に感謝しているのです。同じようにここに集められている私たち一人ひとりにも恵みの賜物が豊かに与えられています。私たちは自分に賜物があるだろうかないだろうかと悩むのではなく、あるいは自分の賜物が十分ではないのではないかと悩むのでもなく、自分に与えられている賜物をどのように用いるかを真剣に考えなくてはならないのです。

キリストについての証が確かなものとなる
 6節で、「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」と言われているように、言葉と知識が豊かに与えられることを通して、コリント教会ではキリストについての証しが確かなものとなりました。教会でキリストについての証しが確かなものとなるとき、教会はその証しを教会の中だけに留めておくのではなく、世の人々に宣べ伝え始めます。キリストによる救いの良い知らせを語る言葉と知識が豊かになることによって、教会は世の人々に力強くキリストについて証しするようになるのです。それは伝道するということにほかなりません。コリント教会は力強くキリストを証しし、伝道を推し進めていったに違いないのです。キリストにあって神の恵みを与えられている私たちも、その恵みを独り占めするのではなく、世の人々に証ししていきます。とりわけ創立150周年を迎えているこの年に、150年に亘って指路教会が救いの恵みを受け続け、またその恵みを証しし続けてきたように、今、指路教会に連なり、救いの恵みを与えられて生きている私たちも、その恵みを世の人々に、自分の周囲の人々に力強く証ししていきたいのです。

キリストの現れを待ち望む
 私たちが救いの恵みを与えられて生きるとは、7節後半にあるように「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んで」生きることでもあります。「主イエス・キリストの現れ」とは、十字架で死なれ、復活されて天に昇られたキリストが世の終わりに再びこの地上に来てくださることであり、いわゆるキリストの再臨です。確かにキリストの十字架と復活によってすでに救いは実現しました。しかしその救いはなお目に見えず隠されています。「現れ」という言葉は、「隠されていたものが顕わになる」という意味の言葉です。キリストが再び来てくださるとき、目に見えず隠されていた救いが顕わになり、救いが完成するのです。救いの恵みを与えられて生きるとは、このキリストの再臨と救いの完成を待ち望んで生きることなのです。しかしコリント教会の人たちはキリストの再臨を待ち望んで生きる生活を見失っていました。将来のキリストの再臨と救いの完成を切に望んで生きるのではなく、今、自分に与えられている賜物を誇ったり、競い合ったりしていたのです。私たちはすでに救いの恵みを与えられ、恵みの賜物を授けられて生きています。そのことへの感謝が失われてはなりません。しかし同時に、「いまだ」完成していない救いの完成への待望、キリストの再臨への待望をも失ってはならないのです。この「いまだ」という緊張感が失われるとき、コリント教会がそうであったように、現在にしか目が向かなくなり、自分たちに今、与えられている賜物を誇ったり、競ったりするようになります。将来を思わず、今の満足を追い求めるような生活になってしまうのです。私たちの社会には、「今が楽しければそれで良い」とか、「自分たちの世代が楽であればそれで良い」という生き方があり、そのような生き方に対して、私たちは批判的な思いを持つのではないでしょうか。しかしそのような生き方のキリスト者バージョンもあるのです。それが、「今、自分たちが救われているならそれで良い」とか、「もう救われているのだから何をしても良い」という生き方です。でもそのような生き方は間違っています。そのように生きるなら、どれほど豊かな賜物を与えられていても、それを正しく用いることはできません。キリストの再臨と救いの完成を待ち望むことなしに、私たちはそれぞれに与えられている恵みの賜物を正しく受けとめ、用いていくことはできないのです。

主イエスがしっかり支えてくださる
 とはいえキリストの再臨を切に望んで本当に大丈夫だろうか、という不安もあるのではないでしょうか。なぜなら私たちが毎週の礼拝の中で告白している使徒信条に、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とあるように、キリストの再臨と救いの完成は、審きのとき、いわゆる「最後の審判」のときでもあるからです。私たちは自分が救われるのだろうか滅ぼされるのだろうかと不安になりながら、ビクビクしながらキリストの再臨を待ち望んで生きなくてはならないのでしょうか。そうではないことが、8節でこのように言われています。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」。「主」とは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、キリストにあって救いの恵みの内に生かされている私たちを、「最後まで」しっかり支えてくださるのです。今、イエス・キリストは天におられます。しかしそれは主イエスが今、私たちと共にいてくださらないということでは決してありません。主イエスは、今このときも私たちの傍らにいてくださいます。目には見えなくても聖霊のお働きによって私たちの傍らにいてくださり、そして「最後まで」、世の終わりまで私たちの歩みをしっかり支えてくださるのです。「最後まで」とは、「世の終わりに至るまで」ということだけでなく、「最後の審判においても」ということでもあります。主イエス・キリストの日に、キリストが再び来てくださり、審きが行われるそのときも、主イエスが私たちをしっかり支えてくださり、「非のうちどころのない者」、「非難されるところのない者」にしてくださるのです。私たちに救われるに値するものがあるからではありません。私たちは非のうちどころのない者どころか、弱さと欠けと罪だらけの者でしかありません。本来なら神の御前で非難されて当然なのです。しかし主イエスはそのような私たちを救うために十字架で死んでくださいました。その主イエスが、世の終わりの審きのときも私たちを救うために、私たちを堅く支えてくださり、非のうちどころのない者、非難されるところのない者としてくださるのです。十字架の死を引き受けられたほどの主イエスの私たちへの愛が、世の終わりの審きのときも私たちをしっかり支え続けるのです。だから私たちは安心して、ビクビクすることなく、同時に「いまだ」という緊張感を持って、キリストの再臨と救いの完成を待ち望んで生きることができるのです。

神の真実と神への感謝
 9節冒頭に「神は真実な方です」とあります。私たちがキリストにあって恵みの内に生かされていることの確かさは、私たちの信仰にあるのではなく、またどんな信仰生活を送っているかにあるのでもなく、神の真実さにあります。だからパウロは、コリント教会が、そして私たちの教会が問題だらけであったとしても、コリント教会の人たちと私たちが救いの恵みの内に生かされていることに、いつも感謝できるのです。パウロの感謝の源には神の真実があるのです。この神の真実が、言い換えるならば、神の変わることのない愛が、かつても今も将来も、そして世の終わりのときも、私たちを堅く支え続けるのです。
 続けて「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」とも言われています。神の独り子イエス・キリストとの交わりに招き入れられたとは、私たちが教会へと招き入れられた、ということにほかなりません。教会は、教会に連なる者たちの交わりである前に、なによりもキリストとの交わりなのです。私たちの決意や決心ではなく、真実な方である神の招きが教会を立て、私たちをキリストの交わりに生かします。教会は、神の真実によって支えられているのです。神の真実が先にあります。私たちの信仰生活は、また教会の営みはこの神の真実にお応えするもので、逆ではありません。神の真実にお応えして生きる歩みが、恵みを与えられて生きる私たちの歩みであり、教会の歩みなのです。コリントの教会も私たちの教会も色々な課題を抱えています。それらの課題に向き合う土台は私たち自身ではなく、神の真実にこそあります。だから私たちはパウロがそうであるように、いつも神の真実に立ち返るのです。いつも神の真実に立ち返るとき、私たちはいつも神に感謝することから始めることができるのです。神の真実と神への感謝こそ、教会が課題に向き合うときのスタート地点なのです。

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