夕礼拝

イエスさまに呼び寄せられて

「イエスさまに呼び寄せられて」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:創世記 第49章28節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第3章13-19節
・ 讃美歌:11、402

<どうやって使徒に選ばれる?>
今日の聖書箇所は、主イエスがこれと思う人々を呼び寄せ、十二人を選び、「使徒」に任命なさった、ということが語られています。そして、その十二人の名前のリストが16節以下に書かれています。教会でよく「十二使徒」と言われる人々のことです。

わたしたちは、大勢の中から誰かが選ばれる、という時には、当然、その人に選ばれる理由があると考えます。理由は、優秀さであったり、能力であったり、良い人物であるとか、信頼できる人だとか、色々あるでしょうけれども、なにか他の人とは違う秀でた特別さがあるからこそ、「これ」と思って選ばれる、というのが、わたしたちの感覚です。

ですから、もしかするとわたしたちは、この選ばれた主イエスの十二使徒に対して、「キリスト教教会の始まりの中心を担うことになる彼らは、素晴らしい、特別な人たちが選ばれたんだろうなぁ。殆どみんな殉教するほど熱心であったし、強い信仰の持ち主なんだろうなぁ」というイメージを持っているかも知れません。
すると、こんな疑問を持ちます。「そういえばイスカリオテのユダだけ、どうしてしまったんだろう。なぜこんな裏切り者が十二使徒の中にいたのだろう。イエスさまはこの人だけ間違って選んでしまったんだろうか。」そんなふうに、ふさわしくないと思われる人が選ばれていたことを、不思議に思ったりするのです。

しかし主イエスは、人々の中から、立派で優秀な人に目を付けて引き抜いたのではありませんでした。この十二人が選ばれた理由は、わたしたちには分かりません。
ただ、どうやって選ばれたのかは、知ることが出来ます。

13節には、主イエスが「山に登って」とあります。主イエスが山に登られるのは、祈られる時、父なる神の御心を尋ね求められる時です。
それは、この本日のマルコ福音書の記事と同じことが書かれている、ルカによる福音書6:12以下においてはっきり書かれています。そこには、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。主イエスは「祈るために山に」行かれ、そして夜を徹して祈り、十二人を選ばれたのです。
また、マルコによる福音書でも主イエスはガリラヤの宣教に出かける前に、1:35のところで、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスは常に祈りをもって、父なる神が為そうとしておられることを尋ね求めながら、父なる神との対話の中で、行動し、決断されていたことが分かります。

つまり、十二人は主イエスの祈りの中で、神の御心に従って、選ばれているのです。
そして主イエスは「これと思う人々を呼び寄せられ」ました。この13節の「これと思う人々」は、聖書の口語訳という別の翻訳では、「みこころにかなった者たちを呼び寄せられた」となっていました。直訳すると「彼は、彼自身が望んだ人々を呼び寄せた」となります。
つまり十二人は、主イエスが祈り、ただ、父なる神のご意志に従って選ばれた者たち。神の御心にかない、主イエスがただ望まれた、そういう人たちだったのです。  

<ふさわしくない人たち>
 神の選びは、神のまったく自由なご意志による選びです。人間の側には、神に選ばれる理由が何もありません。ですから、わたしたちの目から、神が選ばれた理由を見いだすことは出来ません。神がそうお決めになったから、としか言えないのです。まるでふさわしくないとわたしたちが判断するような人物さえ、神はお選びになります。それは、まさにこの十二使徒のリストを見ることで、よく分かります。

 例えば、18節に「アルファイの子ヤコブ」とありますが、彼はローマ帝国の委託を受け、その権力にあやかって、同胞の仲間たちから厳しく税金を取り立て、私腹を肥やすような仕事をしていた徴税人でした。マタイ福音書では「徴税人マタイ」とあって、名前の混乱があり、もしかすると同じ18節の「マタイ」が徴税人なのかも知れませんが、とにかく、このローマの権力にあやかって仕事をする弟子がいた。その一方で、「熱心党のシモン」というのは、ユダヤ人の中で、ローマ帝国に武力をもってしてでも反発しようとする立場の人物です。政治的な立場において、絶対に相容れない二人が名前を連ねています。
 また、ユダヤ社会の中で罪人として忌み嫌われていた先ほどの「徴税人」の仕事をする者がいる一方で、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師でした。ヤコブとヨハネは「ボアネルゲス」「雷の子ら」と呼ばれていて、これは気性が激しく、雷のような大声を出すから、という説があります。職種もバラバラだし、決して知識のある学者とか、社会的な地位が高いとか、影響力があるというような人物ではありません。これだけ見ても、十二人は思想も職業もバラバラだし、他の人と比べて特別な才能や良いものを持っていたとは言えません。

 また、信仰の面を見ても、信仰に固く立つ人だったから選ばれた、などという人は一人もいません。
弟子の筆頭のような存在である「岩」ペトロという名をもらったシモンは、「死んでも主イエスに従います」と誓ったその口で、十字架を前に主イエスを三度も「知らない」と言って逃げ出してしまいました。
トマスは、ヨハネ福音書によれば、十字架の死の後に復活なさった主イエスのことを聞いても、自分の目で見るまでは絶対に信じないという、とても疑い深い人でした。
マルコでは、十一人みんなが主イエスの復活を信じないので、主イエスが彼らに現れて、不信仰とかたくなな心をおとがめになった、とあります。

 そして19節には「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」と、ユダの名が記されています。聖書は、主イエスが祈って選ばれた十二人の中に、主イエスを裏切ったユダがいたことを忠実に伝えています。わたしたちは、人間の思いで、ユダが選ばれたのは誤りだったのではないだろうかと考えてしまいますが、しかし、そうではないのです。

 この十二人は、主イエスが、救いのみ業を実現なさるために、御心によってお選びになった十二人です。主イエスご自身が、祈り、望まれて、選ばれた十二人です。
彼らが優秀で、何かが出来るから、立派だから選ばれたのではありません。むしろ、弱く、疑い深く、愚かで、罪深い者たちです。人から見れば、救いようがない、と思えるような者もいます。
しかし、主イエスが、彼らを選ばれました。そして、彼らの弱さも、愚かさも、裏切りも、その罪のすべてをも、神のご支配の中に置いて下さる。すべてを神の力で覆い尽くして、神の救いのみ業を行ない、神の国、神のご支配を実現して下さるのです。神にはそれがお出来になります。
主イエスは、御自分に逆らい、裏切る者の罪をもお引き受けになり、すべてご自分の十字架の死によって担い、神の赦しを得させて下さいます。そして、神は主イエスを復活させてくださり、罪にも、死にも、悪にも打ち勝つ勝利を与えて下さるのです。
この神の恵みに依り頼むことだけが、神に選ばれた者がなすべきことです。

主イエスの許に呼び寄せられた十二人が、このように罪深い者であり、まったく人間の側の条件によらず、主イエスの祈りと、神の御心のみによって選ばれた人たちであったことは、わたしたちにとって、大きな恵みです。
なぜなら、それはわたしたちが教会に来ること、つまり、神に選ばれ、招かれて礼拝に来るということも、同じことだからです。
わたしたちが、罪に捕えられ、悪に打ち負かされ、弱く疑い深い者であったとしても、弱く、愚かな者であっても、わたしたちに特別に選ばれる理由が何もなくても、神は御心によって選んで下さり、恵みを与えようとして下さるのです。罪を赦し、救って下さり、主イエスの勝利に与るようにと招いて下さるのです。
神がわたしたちを望んで下さり、呼び寄せて下さった。ただその恵みによって、わたしたちは今、主イエスの御許に集められ、御言葉を聞き、礼拝をする者とされています。
 わたしたちが求められていることは、優秀さや、立派さや、熱心さなどではなく、この方に自分をお委ねし、この方に赦していただき、この方に従っていくことなのです。

<派遣するために>
さて、このように主イエスが祈りによって十二人を選び、任命し、使徒と名付けられたのは、具体的には14節にあるように「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」とあります。

「使徒」という言葉は、「遣わされた者、派遣された者」ということです。具体的には、派遣する者の代理人ということです。代理人は、派遣した主人から、その権威を預かり、それを用いることが出来るし、また責任を負います。法的な行為も、代理ですることが出来ます。そのために、代理人となる者には、自分を派遣した主人に対する厳しい服従の義務があったといいます。
主イエスは、十二人をそのようなご自分の「使徒」とされました。彼らにご自分の権威を与え、派遣して、多くの人々に、神の国の福音を宣教させるために、彼らを呼び寄せられたのです。ご自分の宣教の業を、十二使徒に託されたのです。

彼らに託そうとしておられる宣教の内容は、1:15でずっと主イエスが教えておられること「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という教えです。
主イエスが、神の救いのみ業を成し遂げるために「救い主」として来られ、いよいよイスラエルの民に約束された神のご支配が実現する。だから、神から離れていた歩みをやめなさい。主イエスの語られる教えを受け入れ、神のもとに立ち帰り、神が与えて下さる恵みを受け取りなさい、ということです。
また、主イエスが悪霊を追い出す権能、つまり悪霊を追い出すために神の力を用いることを彼らに許されたのは、この神の国の福音が、まことに真実であり、神の力によって実現するということを「証し」するためです。
そうして、神の国、神の恵みのご支配への招きが、福音が、すべての人々に告げ知らされるために、主イエスはこの十二人を「使徒」として選び、遣わされたのです。

しかし、主イエスは選んだ彼らをすぐに「使徒」として派遣なさったのではありませんでした。彼らが派遣されるのは、このずっと後、6:7~のところからです。
主イエスが、十二使徒を選ばれたのは、14節にあるように、まず「ご自分のそばに置くため」でした。
まず、この使徒たちが、主イエスの恵みを知ること。神のご支配を生きる者になること。主イエスの教え、御言葉を聞き、主イエスの御業を目撃し、主イエスと共に生活をして、神の恵みに生かされること。それが、まず使徒たちに、一番はじめに与えられたことです。
そうして、主イエスとの交わりの内に、恵みを味わい、信仰が養われ、力が与えられ、派遣のための十分な備えがなされたのです。

その後に、主イエスは御自分の宣教の業を十二人にお委ねになり、派遣して宣教させられました。また、その宣教のために、御自分が行なっておられたような、悪霊を追い出す権能をお与えになり、そこで神の権威が示され、福音が証しされるようになさいました。
使徒たちは、あくまで遣わされる者であって、自分の意見を言ったり、思想を教えたり、自分たちの力で何かをするのではありません。自分を遣わした主人である主イエスの教えを告げ、主イエスに与えられた権能を用いて、悪霊を追い出すのです。
彼らは、自分の能力や才能によってではなく、主イエスが、ご自分の恵みによって彼らを生かして下さり、共にいて、神のご支配のもとを歩ませて下さることによって、使徒の務めを果たすことができる者へと整えられていったのです。
だからこそ、主イエスに送り出されて、自分自身が喜んで主イエスから聞いた福音、希望と力を与えられた御言葉を宣べ伝え、証しすることが出来るのです。

14節には、主イエスが十二人を呼び寄せ、「任命」し、使徒と名付けられた、とありましたが、この「任命」という言葉は、「造る」という意味の言葉です。「彼は十二人を造った(he made that twelve)」と訳す英語の聖書もあります。主イエスは、使徒として遣わすために、十二人を選び、そばに置き、お造りになった。みこころによって選び、その使命を果たすために必要な備えも、力も、主イエスがすべてお与えになり、神の国の福音を告げ知らせる十二人の使徒を、新しく造り出されたのです。

<新しいイスラエル>
この主イエスがお造りになった使徒が「十二人」であったことには、特別な意味があります。十二は、神が旧約聖書の時代、選んでご自分の民とされたイスラエルの十二部族を現しているのです。
今日の創世記49:28には、ヤコブの十二人の息子たちが祝福され、十二部族となったことが語られています。このイスラエルの民が、神との契約を与えられ、神の民として歩んできたのです。

 神がイスラエルの民を選ばれたのは、決して強かったからとか、忠実だったからではありません。それは、申命記7:6~8に、イスラエルの民が選ばれた理由が、このように書かれているところがあります。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
 イスラエルの民もまた、ただ神の愛によって、恵みによって選ばれたのです。

 そして、この民が選ばれたのは、この民だけが救われるためではありません。創世記12章に語られている、イスラエルの祖先であるアブラハムと神との約束、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」との約束が実現するためです。この民を通して、地上のすべての氏族、この世を生きるすべての人々が、神の祝福を受けるためなのです。その神のご計画に用いられるために、選ばれ、神のものとされたのがイスラエルの民です。
 ですから、神は、そのご計画をイスラエルの民に示し、ご計画通りに、神の御子である主イエスを民の中に遣わして下さり、十字架と復活によって、すべての者を救う約束を実現して下さったのです。

 そうして救い主となられた主イエスは、御自分の許に、十二使徒からはじまる「新しいイスラエル」を興されます。新しい神の民は、もはや民族を超え、国を超え、時を超えて集められます。神に選ばれ、招かれて、イエス・キリストの救いを信じ、洗礼を受けた者は誰でも、この神の民に加えられるのです。そうして、神の約束、すべての氏族を祝福する、世のすべての者に救いを与えるという、神のご計画が実現していきます。
この主イエスの信仰によって作り上げられる「新しいイスラエルの民」こそ、キリストを信じる者の群れ、神の恵みに呼び寄せられた者たちの群れである「教会」なのです。
そして、今のわたしたちも、この使徒たちから始まる一つの教会に招かれ、信仰によって連なり、新しい神の民の一員、新しいイスラエルとされるのです。

<わたしたちも遣わされる>
そして、この十二使徒から始まる「新しいイスラエル」に連なるわたしたちも、この主イエスの十字架と復活の救いのみ業、神の国の福音を世界中に宣べ伝えるために、派遣されるのです。

しかしまず、使徒たちがそうであったように、主イエスは、わたしたちを選び、呼び寄せて下さり、傍に置いて下さいます。御言葉を語りかけ、十字架と復活の御業によって、罪に捕らわれているわたしたちを解放し、新しく造り変えて下さり、神との交わりに生きる者として下さいます。
その御言葉を聞き、主イエスの命に養われるのが、教会の礼拝であり、説教を聞き、聖餐の恵みに与ることです。
 誰一人、正しい者、清い者、強い者ではありませんでした。使徒たちのように、弱い者、疑い深い者、暴力的な者、強欲な者、嫌われていた者、裏切る者…そのような者であったわたしたちです。それでも、神が選んで下さり、主イエスの許へ、教会へ招き、罪の赦しに与らせ、神の恵みのもとで生かして下さるのです。

 わたしたちは、ただひたすら感謝をしてその恵みを受け取ることしか出来ません。しかし、その恵みによって、主イエスは御自分の十字架と復活の御業によって、わたしたち罪人を、新しく造り変え、新しい神の民として下さいます。
そして、必要な御言葉の養いと備えを十分に与えられたなら、今度はわたしたちが、主イエスの救いのご計画に参与する者として、まだ福音を知らない人々のところへ、この喜びを知らせるために、派遣されていくのです。
 そのように、教会が、主イエスからいただいた救いの恵み、喜びを、大胆に語り、神の御言葉が広がっていくところに、神のご支配、神の国が実現していくのです。

関連記事

TOP