夕礼拝

闇から光に

「闇から光に」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42編5-7節
・ 新約聖書:使徒言行録 第26章1-23節
・ 讃美歌:55、241

 主イエス・キリストが、パウロをユダヤ人や異邦人のもとに遣わし、福音を宣べ伝えることを命じられました。その理由が、今日の箇所の18節にこう書かれています。
「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
 キリストを知らない人々は、暗い闇の中にいるということです。しかし、キリストが宣べ伝えられるということは、そこに光が差し込むということです。キリストを信じるということは、闇から光の中を歩む者になる、ということです。

 今、教会は、クリスマスを待ち望み、備えをするアドヴェントの時を過ごしています。
 神の御子主イエスが、まことの人となり、この世に来て下さったクリスマス。それは、神が闇の中を歩いている人々に、光を照らして下さった出来事です。その恵みを覚えつつ、今日のみ言葉に耳を傾けましょう。

<弁明の状況>
 今日の聖書箇所は、パウロが、アグリッパ王の前で弁明をする場面です。21章で、パウロがエルサレムでユダヤ人に訴えられてから、二年が経ちました。そして、今回で三回目の弁明になります。また、今日の弁明の中で、パウロは自分の回心の出来事について語りますが、パウロの回心について書かれているのも、使徒言行録の中ではこれで三回目となります。

 今回の弁明は、ユダヤ人に訴えられ、捕えられたパウロが、裁判の席でローマの総督フェストゥスに、皇帝に上訴することを告げたことがきっかけでした。
 皇帝に上訴したため、パウロはローマに身柄を移されることになりました。
 パウロは23:11で、主イエスに「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と告げられていました。パウロ自身、ローマで伝道をすることを強く願っていましたが、監禁されて二年経ち、ローマへの護送という形で、ようやくその道が開かれたのです。

 しかし、パウロをローマの皇帝に引き渡すにあたり、パウロを送り出す総督フェストゥスは、彼に死刑を求刑されるような罪があるとは思えませんでした。
 なぜなら、パウロがユダヤ人たちに訴えられている理由は、25:18~19でフェストゥスが「告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」と言っているように、宗教に関することと、パウロが、イエスという者が死んだのに生きていると言っている、ということだったからです。
 皇帝への手紙に、パウロの罪状についてどう書けばよいのか分からなかった総督フェストゥスは、ユダヤ人の事情に詳しいアグリッパ王にパウロの弁明を聞かせ、アドバイスをもらおうとしたのでした。
 パウロも、アグリッパ王に「王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存知だからです。」と言って語りはじめました。

<三回目のパウロの弁明>
 さて、まず、弁明の内容を一通り見てみましょう。
 パウロは、この弁明の中で最初に、まず自分自身もユダヤ人で、訴えている者たちの同胞であり、しかもファリサイ派という最も厳格なグループに属する者であったことを語ります。
 そして、同胞に訴えられて裁判を受けている理由が、6節にあるように「今、私がここに立って裁判を受けているのは神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。」と言っています。
 十字架に架かって死んだナザレの人イエスが、神によって死者の中から復活し、生きている、ということは、ユダヤ人が先祖の時代から長い歴史の中で、神に仕えながら待ち望んでいた救いの約束の実現であり、それこそが希望なのだ、とパウロは語っているのです。

 しかしパウロ自身も、かつては主イエスの出来事が、ユダヤ人が待ち望んでいた神の約束の実現であると受け入れることが出来ませんでした。9節にあるように「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました」とあるように、主イエスを信じる者たち、教会を激しく迫害していたのです。

 ところが、パウロは、教会を迫害するためにダマスコに向かう途中、天からの光を見ました。そこで、復活の主イエスに出会い、語りかけられ、回心させられたのです。12節以下は、その出来事を語っていきます。
 小見出しに「パウロ、自分の回心を語る」とありますが、「回心」は「心を改める」ではなくて、「心を回す」と書きます。心を改めるのは、自分の反省や決意によって、もう過ちは犯さないようにしようと心がけていくことです。しかし、「心を回す」回心は、世界の造り主である神の方を見ないで、あらぬ方向を向き、自分が見つめたいものを見つめて、神から離れて自己中心的に歩んで来た、その歩みをやめて、180度方向を変えて、神に立ち帰ること。神の方へ自分の心を回して、神の方に向き直る、ということです。

 これまで使徒言行録の中では、9章と22章で、パウロの回心が語られてきました。
 三回目の今回、特徴的なのは、26:14の主イエスの「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」という言葉です。
 この「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」というのは、今日のところだけに語られています。これは、昔、荷を引かせたりする家畜には後ろ足のところにとげの付いた棒を取り付けたようです。家畜が主人に反抗して足を蹴り上げようとすると、家畜自身がそのとげによって痛い思いをするのです。
 ですからここでは、パウロが、主イエスを迫害することは、本来従うべき神に逆らい、反抗することであり、それはパウロ自身を苦しめ、傷付けることだ、ということです。

 パウロが、ユダヤ人として神に熱心に従っているつもりで、教会を迫害していること、主イエスご自身を迫害し、反発することは、パウロが信じ従おうとしている神の御心に、実は逆らうことになってしまっていたのであり、神に対して罪を重ねることになっていたのです。

 しかしパウロは、主イエスに出会い、この方こそが神の約束を実現する方であると知りました。主イエスこそ、神の民がずっと待ち望んでいた救い主であると知ったのです。
 そのようなパウロに、主イエスは「起き上がれ、自分の足で立て」と言い、パウロを御自分の奉仕者、また証人にする、と仰ったのです。

 この三回目の回心の記述は、このように、パウロに主イエスを証言する者としての使命が与えられ、主イエスによって民と異邦人に遣わされたことが重点的に描かれています。
 この主イエスのご命令を受けて、パウロは19節にあるように、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように」と伝えたのです。

 これらのことを伝えたために、ユダヤ人たちは神殿の境内いたパウロを捕えて殺そうとしたのです。主イエスが救い主であることを伝えたことが、パウロがユダヤ人に訴えられている理由です。しかしパウロは、決して自分の主張を言ったり、人々を惑わそうとしてこれらのことを伝えているのではありません。
 パウロは22節にあるように、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、つまり、ユダヤ人が神から与えられた、今でいう旧約聖書に預言され、約束されていたこと以外には、何一つ述べていない、と語ります。
 預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこととは、23節にあるように「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」ということです。この預言者たちやモーセが必ず起こると語ったことが、主イエスにおいて、実際に実現し、パウロはその通りに語り告げているのです。

<旧約聖書から新約聖書、そして今も語り告げられる光>
 さて、今回のパウロの弁明で、「光」という言葉が何度か出てきました。13節「天からの光を見たのです。」18節「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ…。」そして23節「民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」と出てきます。この光は、すべての民に与えられる神の救いの光であり、旧約聖書の時代から、預言されてきました。

 本日お読みした旧約聖書のイザヤ書42章は、人々の救いのために、まさに「光」が神によって立てられることが預言されているところです。そこにはこうありました。イザヤ書42:6~7をお読みします。
 「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。/民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。/見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」
 神が、民の契約、諸国の光となる者を立てられること、そして、見ることのできない目を開き、捕らわれた人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す、解放する、ということが預言されています。
 この、神の救いの約束が、主イエスによって実現したのです。

 またそれは、クリスマスの出来事、主イエスのご降誕の時にも、この方こそ、神の民が待ち望んだ光である、ということが証しされています。
 使徒言行録と同じ著者ルカが書いた、ルカによる福音書2:29以下に、「シメオンの賛歌」と呼ばれているところがあります。シメオンは、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、と聖霊に告げられていた人です。そして、生まれて間もなく、神殿で神に献げられるために、ヨセフとマリアに連れて来られた幼子イエス様を見て、聖霊によってシメオンはこの幼子が約束のメシア、救い主であると示され、神に賛美をささげたのです。
 そこにはこうあります。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。/これは万民のために整えてくださった救いで、/異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 シメオンは幼子イエス様を腕に抱き、この方が、万民、すべての人々のために神が整えてくださった救いであり、異邦人まで、すべての人を照らす光だ、と語りました。
 ユダヤのベツレヘムの馬小屋でお生まれになったこの幼子イエス様こそ、神がユダヤ人、つまりイスラエルの民を選び、約束し、この神の民を通して実現なさった「万民の救い」であり、異邦人、つまり世のすべての人々を照らす啓示の光となられる方なのです。

 そして、主イエスはこの地上を歩まれ、悔い改めと、神の国、神のご支配を宣べ伝えられました。そして、十字架の死によって、神に逆らい、背いたすべての人の、滅びにいたる罪を赦して下さったのです。まさにこの方の十字架の死によって、神の救いの約束は成就しました。
 そして、神はこの方を死者の中から復活させて下さり、主イエスを信じる者に、永遠の命を与え、終わりの日の復活の約束をも、確かな希望として与えて下さったのです。

 この救いはイスラエルの民、ユダヤ人だけに留まりません。預言されていた通りに、使徒言行録において、この救いは諸国の民へ、異邦人へと宣べ伝えられていきました。主イエスの光が、全世界の人々を照らしていく。そのことが実現していく歩みが語られているのです。
 パウロが、この主イエスご自身に命じられて、ユダヤ人や異邦人に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきたこと、そして、これから当時の世界の中心地であるローマへ行って伝道する、ということは、旧約聖書の時から預言されている神の御心であり、救いのご計画なのです。

 これが、パウロが23節で「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」と語っていることです。
 主イエス・キリストこそ、闇を照らす光です。旧約聖書に預言された神の約束の光は、世に現れ、罪人を救い出し、そして世界のすべての人に告げ知らされるのです。そして、異邦の地へ、異邦の人々へ、全世界へ、今ここにいるわたしたちへと、光は語り告げられています。
 それは、主イエス・キリストが、わたしたちの目を開き、わたしたちを闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちの罪を赦し、聖なる者とされた人々と共に、恵みの分け前に与らせて下さるためなのです。

<闇の中>
 ところで、「闇から光に」ということは、主イエスと出会う前は、みな闇の中にいる、ということです。確かに、苦しみや悲しみを覚えて、自分は出口のない闇の中を歩んでいる、と自分で思っている人がいるかも知れません。しかし、いや、わたしは幸せだし、充実しているし、色んなものも手に入れている。闇の中になんていない、わたしの人生は明るいと、そのように言う人も、いるかも知れません。
 しかし、わたしたちは、主イエスというまことの光と出会わなければ、この方を通して造り主である父なる神の愛を知らなければ、どちらにしろ大変深刻な真っ暗闇の中にいるのであり、歩くべき方向が分からずに、さまよわなければならないのです。

 主イエスの光を知らないなら、自分が闇と思っている闇は、本当は思っている以上にもっと深刻で深い闇です。また、自分は光の中にいると思っているとしても、主イエスの光を知らないなら、本当は何も見えない闇にいるのです。自分が闇の中にいることさえ分からないほどに、何も見えていないのです。

 パウロが主イエスと出会った時、それは本日の13節にわざわざ「真昼のこと」だったと書いてありました。太陽が最もまぶしく、天高く輝いている時。パウロは明るい道を、自分の信念、熱心さに従って、鼻息を荒くして教会を迫害しに向かっていたのでした。パウロは、この時、自分が律法を厳格に守るファリサイ派であることを誇りに思い、自分のしていることの正しさに自信を持ち、まさに白昼堂々と教会を迫害して回っていたのです。パウロは自分こそ、神の光の中を歩む者だと思っていました。
 しかし、その真昼の太陽を、さらに超える光が、パウロを照らしました。それは、「太陽より明るく輝いて」、パウロと同行していた者との周りを照らした、とあります。今日のところには語られていませんが、9章と22章の回心の記事のところには、その光のためにパウロは一時、目が見えなくなった、と書かれています。
 パウロは、キリストのまことの光に照らし出され、闇から光へと引き出されました。まことの光に照らされなければ、パウロは闇の中を歩いているとも思わなかったし、神の御心を知ることは出来ませんでした。それは、闇にいること、目を閉じていたのと同じことだったのです。
 まことの救いの光に照らされて視力を失い、パウロは初めてこれまで自分が必死に見つめていたものが虚しいものであり、見るべき方を見ていなかった、神に逆らい、闇の中にいたのだと、気付かされたのです。

<まことの光>
 本当の闇の暗さを、みなさんは経験したことがあるでしょうか。わたしは一度、そのような本当の闇を経験出来る建物に入ったことがあります。それは一歩入ると、一切の光が無くて、本当の闇が広がっています。建物の空間の形も広さも分からず、自分の形も分からず、手を前に差し出しても、本当にそこに自分の手があるかどうかも分かりません。自分が輪郭を失ってしまいそうな、とても不安な空間でした。自分の存在が不確かに感じられたのです。出口で小さな明かりを見た時に、遠くからでもその光が何と頼もしく、ほっとするものだったでしょうか。
 もしわたしたちが、主イエスのまことの光を知らず、深刻な闇に包まれてこの世を歩いているのなら、不安に駆られ、その闇の中でわずかな光、自分の存在を確かにしてくれる何か探そうと、必死になると思うのです。そして、これが頼れる光かも知れない、と思ったら、もうそれを中々手放せなくなるのです。
 しかしこの世のどんなものも、すべて一時的な見せかけの光です。お金も、富も、成功も、自己実現も、一瞬明るいかも知れませんが、いつまでも人を照らすことは出来ません。絶望した時、死に臨む時、本当にそれらのものが、希望を与え、わたしたちを闇から光へと連れ出し、安心させてくれるのでしょうか。この世のものには、何の確かさもありません。そして、神以外のものを見つめさせ、執着させることこそ、サタンの支配にあるということなのです。

 ところが光を求める一方で、闇の中にいた者にとって、この神のまことの光の中に出ることは、本当は、とても恐ろしいことだと思います。闇に隠していた、あるいは闇の中で自分でも見えていなかった罪が、すべて光の中に晒されるからです。それは、闇に隠れていたいと思うほど、人には見せられない、醜悪で、惨めで、悲惨な罪です。そのような自分の罪の姿を突き付けられるのは、耐えられないことです。神の光の中に招かれることは、この自分の罪が、神の御前に明るみに出され、向き合うことにもなるのです。
 また、これまで闇の中で、自分の存在をかけてしがみ付いていたものを手放さなければならないということなのです。

 しかし、神は、御子主イエスをわたしたちに与えて下さいました。この方をこそ、わたしたちは自分の存在の拠り所とするのです。この方に罪を赦され、命を与えられ、神のものとされるのです。そのために、人の罪をご自分の身にすべて引き受けて下さるために、わたしたちの最も深い闇の底まで、悲惨な罪の中にまで、神の御子ご自身が人となって来て下さったのです。
 そして、わたしたちの罪のために十字架に架かって死んで下さいました。わたしたちの目には、弱く、貧しく、惨めな、恥を受けたこの方こそが、わたしたちの闇を照らし、罪を覆って下さる光なのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しを信じるなら、神の前に、罪を赦された者として立つことがゆるされるのです。
 主イエス・キリストが、神と、わたしたち罪人との間に立って下さり、執り成して下さったので、わたしたちは、神の光のもとで裁かれるしかない罪を覆われて、光の中に進み出ることを許されています。罪の赦しがあるから、わたしたちは神の御前に出て、神の御顔を仰ぐことが出来るのです。
 そうして、光の中を歩む者として、まったく新しく変えられるのです。

 わたしたちは闇の中で、自分では何もできません。しかし、神から、一方的に御子を闇の中にいるわたしたちのところに遣わし、罪を赦し、光を照らし、恵みを注いで下さったのです。
 この主イエス・キリストの救いを、まことの光を知っているなら、この世で闇の中を歩いているかのように思われる時も、見るべき方向がしっかりと示されます。確かに目を上げて、わたしたちを捕えて離さない神の恵みの内にいることを信じることが出来ます。
 この光は、この世のどんな悲しみや苦しみにも、慰めと励ましを与え、死さえも、覆い尽くす、まことの光であり、唯一の希望です。

 主イエスのご降誕、十字架、復活は、そこまでして、わたしたちを神のもとに立ち帰らせ、恵みに与らせようとして下さる、神のわたしたちへの愛による出来事です。
 この光が、語り告げられています。わたしたちは見せかけの光ではなく、信仰の目を開かれて、このまことの光を仰ぎ、闇の中ではなく、神の祝福の中を、光の子として神と共に歩みなさいと、招かれているのです。
 そして、まことの光を知ったなら、まだ闇の中にいる人々に、わたしたちも、この光を語り告げていくのです。

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