主日礼拝

証し人ヨハネ

「証し人ヨハネ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第119編129-136節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章6-13節
・ 讃美歌:18、149、441

証し人ヨハネ  
 ヨハネによる福音書は、「初めに言があった」という印象的な文章から始まっています。これまで二度にわたって読んだ1章1~5節には、初めにあったその「言」は、神と共にあり、自らも神であったこと、万物はこの言によって成ったことが語られていました。つまりこの「言」は、生きた人格的な存在であり、天地創造に関わっていたまことの神であられるのです。そしてその神である「言」にこそ私たちを生かす命があり、また暗闇の中にいる私たちを真実に照らす光でもあるのだ、と語られていました。このように、この世界と私たち人間の根源、土台であり、命でもあり光でもある「言」について語ることから、この福音書は始まっています。それは観念的、抽象的な話であり、言い方を変えれば天の上の話です。そのような天の上の話で始まったヨハネ福音書ですが、6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネは、一般に「洗礼者ヨハネ」と呼ばれている人です。ヨハネ福音書は他の三つの福音書とはかなり違った語り方をしていますが、主イエス・キリストが活動を始める前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスのための備えをしたということは、四つの福音書に共通して語られていることです。しかし、そのヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書では違っています。他の三つの福音書では、ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰ることを促すことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。ヨハネ福音書におけるヨハネはそういうことはしていません。この福音書においてヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして本日の箇所の9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来て、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことを言っているのです。その「光」である主イエスについて証しをするためにヨハネは現れたのです。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しをすることによって、救い主イエス・キリストのお働きのための備えをしたのです。

彼は光ではなく  
 8節には「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」とあります。ヨハネが証しをするために神から遣わされたことが繰り返して語られているわけですが、「彼は光ではなく」と言われていることがこの8節のポイントです。光について証しをしたヨハネ自身は光ではないのです。まことの光は、彼の後に現れる主イエス・キリストなのであって、彼はそのまことの光へと人々の目を向けさせ、人々がその光を信じるようになるために証しをしたのです。このことは、19節以下に詳しく語られていきます。そこでヨハネは、「わたしはメシアではない」と言っています。メシアとは、神が遣わして下さる救い主のことです。自分が救い主なのではない、とヨハネははっきり言ったのです。そして、それではあなたは何なのか、と問われて、彼はイザヤ書の言葉を引用して「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。まことの光である救い主が来られることを告げ、その方を迎えるために備えをせよと叫ぶ声、それが私だ、ということです。また15節には、ヨハネが「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と語ったことが記されています。自分が光なのではなく、自分の後からまことの光であられる方が現れる、その方を指し示し、人々の心をその方へと向けるために私は「証し人」として生きている、ヨハネ福音書の著者は洗礼者ヨハネがそのような自覚をはっきりと持っていることを語っているのです。ヨハネ自身が主イエスと自分との関係を語っている箇所はこの後にもいくつかありますが、代表的なのは3章28節以下です。そこにおいてヨハネはこう言っています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。  
 ヨハネ福音書が洗礼者ヨハネのことをこのように花婿の介添人として、衰えていくべき者として描いていることの理由は、一つには、当時、ヨハネを救い主だと信じていた人々がいたからだと思われます。ヨハネにも弟子たちがいたことはこの福音書にも、他の福音書にも語られています。彼らはヨハネが捕えられ、殺された後も、その教えを守っていたのです。その人々の間に、ヨハネこそ神が約束して下さっていた救い主だった、という信仰が生まれていったようです。ヨハネ福音書は、そういう人たちの存在を意識しつつ、ヨハネではなくて主イエス・キリストこそが救い主なのであって、ヨハネは救い主イエスの証しをした人だったのだ、ということを示すために、このように語っているのだと思われるのです。

信仰者の模範であるヨハネ  
 しかしそれだけではありません。ヨハネはメシア、救い主ではない、主イエスこそが救い主だ、と語ろうとしているということだけでは、この福音書における洗礼者ヨハネの位置づけを十分に説明することはできないのです。なぜならこの福音書において、洗礼者ヨハネは、他の三つの福音書以上にしばしば登場しており、しかも他の福音書におけるよりも大事な役割を担っているからです。主イエスご自身がヨハネのことを語っている箇所が、5章33節以下です。そこを読んでみます。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。「ヨハネは真理について証しをした」と主イエスは言っておられます。その真理とは主イエスのことです。そしてそのヨハネは「燃えて輝くともし火であった」とも言っておられます。つまりヨハネはまさに光について証しをし、人々が彼の証しによって輝く光に照らされたのだ、と言っておられるのです。ヨハネ福音書は、ヨハネが、まことの光であり真理であり命である主イエスの証しをしたことを積極的に評価しているのです。ヨハネ自身は救い主ではない、と言うことによってヨハネの評価を下げようとしているのではなくて、むしろ証し人であるヨハネを高く評価し、信仰者の模範としているのです。

「ヨハネによる」福音書  
 ここで、この福音書が「ヨハネによる福音書」と呼ばれていることについて考えたいと思います。この福音書を書いた人のことが語られている文章が、最後の21章にあります。以前に申しましたが、この福音書は元々は20章で終わっていたと思われます。21章は後から付け加えられたと思われるのです。しかしそれは、21章はヨハネ福音書の一部として読まれるべきではない、ということではありません。21章は、ヨハネ福音書を生み出し、その信仰によって歩んでいた教会において付け加えられたのです。ですから私たちは21章までの全体を「ヨハネによる福音書」として読んでよいのです。その付け加えられた21章の24節に、この福音書を書いた人のことが感謝をもって思い起こされ、このように語られています。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」。この福音書を書いた人の証しが真実であることを知っている人たちの群れの中で、21章は書かれたのです。そしてこの24節では、ヨハネ福音書を書いたのは「この弟子」だと言われています。「この弟子」とは、その前の20節に出て来る「イエスの愛しておられた弟子」です。この弟子は、最後の晩餐の時から登場しており、主イエスの受難と復活の場面に何度も出てきます。この「イエスの愛しておられた弟子」がヨハネ福音書を書いたとされているのです。この弟子の名前はこの福音書の中に全く語られていません。それはゼベダイの子であり、ヤコブの兄弟だったヨハネだと言い伝えられてきたので、この福音書は「ヨハネによる福音書」と呼ばれるようになったのです。ですからこれが「ヨハネによる」福音書であるという明確な根拠はないわけです。しかし先ほどの21章24節に「これらのことについて証しをし」とありました。この福音書を書いた弟子は、主イエスについての証しをしたのです。この福音書はその全体が「証しの書」なのです。その証しを最初にしたのは、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た」と本日の箇所に語られているヨハネです。このヨハネは勿論洗礼者ヨハネであって、主イエスの愛しておられた弟子とは別の人ですが、しかしこの福音書が証しの書であるとすれば、洗礼者ヨハネもまたその証しを語った人の一人だと言えます。この福音書は洗礼者ヨハネによる証しの書でもあるのです。「イエスの愛しておられた弟子」がヤコブの兄弟ヨハネだとすれば、この福音書は複数のヨハネによる証しの書だということになります。あるいは、この福音書において証しをしている人で名前が知れているのは洗礼者ヨハネだけであることから、もう一人の証し人である「イエスの愛しておられた弟子」はヨハネであるという言い伝えが生まれたのかもしれません。まあそんなことは詮索しても仕方のないことですが、大事なのは、この福音書が主イエスについての証しの書であり、その証しの先駆者が洗礼者ヨハネなのだ、ということです。そして主イエスはこの福音書の15章27節で、弟子たちにこう言っておられます。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」。つまり、主イエスに従っていく弟子たち、信仰者たちも、主イエスのことを証しする人となるのです。その証しの先駆者である洗礼者ヨハネは、またこの福音書を書いた「主イエスの愛しておられた弟子」は、「証し人」として生きた信仰の先達、私たちがその後に従って歩み、見倣うべき信仰の模範なのです。  
 主イエスこそまことの光であることを証しすることがこの福音書の書かれた目的であることは、以前に読んだ20章31節に語られていたことと繋がります。そこには「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とありました。まことの光である主イエスの証しをし、それによって人々が主イエスを救い主であると信じるようになり、主イエスによるまことの命を受ける、そのためにこの福音書は書かれたのです。洗礼者ヨハネもまた、そのための証しに生きたのです。

証し、証言  
 このようにヨハネ福音書は証しの書です。しかしなぜ「証し」が必要なのでしょうか。証しとはそもそもどのようなものなのでしょうか。先程、証しとは証言である、と申しました。例えば何かの事件を目撃した人が、目撃者として証言をします。それによって、そこにいなかった人、見ていなかった人も、こういうことが起ったのだ、と知るようになるのです。証言というのはそのように、そのことを知らない人、見ていない人に、知っている人、見た人が語るものです。そこで問われるのは、その証言を信じるか信じないか、です。事件の捜査で言えば、ある目撃証言が得られたとして、それが起ったことを正確に伝えているのかどうか、色々な物的証拠から、また他の人の証言と突き合わせて検討して、事件の全貌を掴んでいくのです。証言というのはそのように、直ちに真実として受け入れられるのではありません。それを信じるか否かの判断が求められるのです。そういう意味で証言と、客観的な報告とは違います。証言は、それを信じ、受け入れるかどうかの決断を聞く者に迫るのです。

信仰の決断が求められている  
 ヨハネによる福音書が証しの書であり、主イエスのことを証ししている、証言しているということの意味もそこにあります。主イエスこそ、初めにあった「言」、ご自身が神である「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言にこそ命があり、人間の光がある。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、つまり救い主となって下さった。それが主イエス・キリストである。とこの福音書は証ししています。しかしそのことは、客観的な報告として、誰が読んでも「ああそうだ」と分かり、納得できるようなことではないのです。その証し、証言を信じて受け入れるか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったのだということを、本日の箇所の10節以下が語っています。10、11節にこうあります。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「万物は言によって成った」と3節に言われていた「言」、つまりこの世界の全てのものの造り主でもある「言が」、肉をとり、人となってこの世に来られたのです。それは9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われていたのと同じことであり、この後の14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われていることです。「言」は主イエス・キリストという一人の人間となって、この世に、私たちのもとに来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかしこの世は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。つまり主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。主イエスを十字架につけたのは当時のユダヤの人々ですが、私たちも今、主イエスこそまことの光であり、救い主であられるという証しを聞いて、それを信じない、受け入れないとすれば、それは私たちも主イエスを十字架につけた人々と同じだ、ということです。主イエス・キリストによる救いは、当時も今も、そこに救いがあることが誰にでもはっきりと分かる、というものではないのです。つまりそれは証しによって、証言によって示されているのです。私たちはその証しを聞いて、それを信じて受け入れるか、信じないで拒むかという決断を求められるのです。ヨハネによる福音書が、「証し」という仕方で主イエスによる救いを語り、宣べ伝えていることにはそういう意味があります。このことは実は他の福音書においても同じです。主イエスによる救いの知らせ、つまり福音は、「証し」という仕方でしか語られ得ないのです。キリストによる救いを、誰が聞いても理解でき、納得できる客観的な報告として語ることはできません。福音を伝える言葉は常に証しです。それを聞く者は、主イエスを救い主として、まことの光として信じ受け入れて、主イエスに従い共に生きる者となるか、それともそれを受け入れず、主イエスに従うことを拒み、自分を主人として生き続けるか、という信仰の決断を迫られるのです。

神の子とされる  
 主イエスについての証しを聞いて、主イエスを信じ受け入れる決断をする者に約束されている恵みが12節に語られています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。初めにあった「言」であり、まことの神であられ、人となって私たちの救い主としてこの世に来て下さった主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。「資格」と訳されていますが、これは私たちが勉強して、あるいは試験を受けて取る資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられるものです。「権力」は自分の力で得ることができるかもしれませんが、「権威」はどんなに力があっても自分で得ることはできません。それは他から与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得ることによって実現するのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。その私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。神が私たちを神の子として新しく生まれ変わらせて下さる、と言ってもよいでしょう。主イエス・キリストを自分の救い主と信じて洗礼を受けることにおいて、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

証しを信じ、証し人として生きる  
 主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れることによって私たちは、神の子として新しく生かされる、という救いを与えられます。しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも起り得ます。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われています。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けており、その最初の「証し」を語っているのが洗礼者ヨハネなのです。ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、ヨハネやこの福音書を書いた人の後に続いて、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

関連記事

TOP