夕礼拝

神からの誉れと報い

説 教 「神からの誉れと報い」 副牧師 川嶋 章弘
旧 約 詩編 第115編1-18節
新 約 ルカによる福音書 第14章7-14節

安息日の食事会の席で
 先週からルカによる福音書14章を読み始めました。本日は7節から14節を読みます。前回お話ししたように、14章1節から24節は一続きの場面です。1節に「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」とありました。安息日の礼拝の後に、ファリサイ派の議員が主催した食事会に主イエスは招かれたのです。1節から6節では、この安息日の食事会の席で主イエスが水腫を患っている人を癒されたことが語られていました。この人は、病によって苦しんでいたに違いありませんが、それでも今すぐ治療しなければ命に関わるという状況ではありませんでした。この食事会に招かれた人たちの多くは、ファリサイ派の人たちや律法の専門家です。彼らは、「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という十戒の第四の戒めについて、安息日にしても良いことと、してはいけないことの線引きを厳密に定め、その線引きをしっかり守ることに熱心でした。彼らによれば、命に関わる場合は安息日であっても助けて良いけれど、命に関わらない場合は安息日には助けてはならないのです。このように第四の戒めを単なる規則として受け止めていた彼らに対して、主イエスは水腫を患っている人の癒しを通して、安息日に苦しんでいる人が救われて神様との交わりに生きられるようになることにこそ、神様の御心があることを示されたのです。主イエスは、たとえ命に関わらなくても、安息日に病に苦しんでいる人がいるならば、罪に苦しんでいる人がいるならば、すぐに癒さずにはいられない、救わずにはいられない、と言われるのです。この出来事を目の当たりにした律法の専門家やファリサイ派の人たちは、一言も発することなく沈黙しました。それは、彼らが主イエスの言葉に納得したからではありません。むしろ彼らは、自分たちが守ってきた線引きを脅かした主イエスに対して、より一層敵意を深めたに違いないのです。

婚宴に招待されたら
 険悪なムードに包まれた食事会ですが、それで終わることなく、その後も続きました。本日の箇所では、主イエスが水腫を患った人を癒やされた後で、食事会の席で話されたことが語られています。その前半では、主イエスは食事会に招かれた人たちに向かって語っていて、後半では、食事会に客を招く人、つまり会の主催者に向かって語っています。
 主イエスが食事会に招かれた人たちに話し始められたきっかけは、「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づい」(7節)たからでした。11章37節以下で、やはりファリサイ派の人から招待された食事会で、主イエスはファリサイ派の人たちに「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」(43節)と言われていました。ですから本日の箇所で、招待されたファリサイ派の人たちが上席に座ろうとしたのも不思議なことではありません。その様子に気づいて、主イエスは譬えを語られたのです。8節以下です。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

謙虚に振る舞うことへの勧めなのか?
 最近は、結婚式の後に披露宴を行わないことも増えてきましたが、披露宴を行うのであれば、そこではやはり席次が、つまり座席の順序があり、新郎新婦は、招待する方々に失礼がないよう席次を定め、席次表を作ることになります。主イエスの時代も、席次表はなかったとしても、婚宴の席次には決まりがあったのです。この主イエスの譬えそのものは難しいものではありません。婚宴に招待されたとき上座に座るなら、後から自分より身分の高い人が来ると、婚宴を主催する人から「席を譲ってください」と言われ、恥をかいて末席に座ることになる。しかし逆に、婚宴に招待されたとき末席に座っていれば、「さあ、もっと上席に進んでください」と言われて、皆の前で面目を施すことになる。難しい話ではありません。よく分かる話です。そして私たちは思うのではないでしょうか。やはり人は、謙虚に振る舞うのが大切なのだ、謙虚に振る舞う人こそが、最終的には人々からの誉れを得ることができるのだ、と思うのです。しかし主イエスの譬えは、本当に私たちが謙虚に振る舞うことを勧めているのでしょうか。
 先ほどファリサイ派の人たちが上席に座ろうとしていたのは不思議なことではない、と申しました。では、私たちはどうでしょうか。「日本人というのは、こういう人たちだ」と語るのは、少々乱暴すぎるかもしれません。言うまでもなく日本人にも色々な方がいるからです。それでも私自身を振り返ると、いわゆる上座に座ろうとした、ということはあまりなかったように思います。そしてそれは、私だけでなく日本人全体の傾向である、と言えると思うのです。どちらかといえば私たちは、上座に座ろうとするよりも末席に座ろうとします。遠慮するのです。それが美徳であると思っているのです。そうであれば私たちは、ファリサイ派の人たちとは違うということになるのでしょうか。主イエスの譬えはファリサイ派の人たちに対する批判ではあっても、私たちには関係ないということに、いやそれどころか、末席に座ることを美徳とする私たちの姿勢を肯定しているということになるのでしょうか。主イエスの譬えを、謙虚に振る舞うことの大切さを教えていると受け止めるなら、そういうことになるかもしれません。しかしそう受け止めるべきではないのです。主イエスがこの譬えを通して私たちに伝えようとしていることは、婚宴の席次についてのマナーでもなければ、謙虚に振る舞うことの大切さでもないからです。

席次を気にして生きている
 私は上座に座ろうとしたことがあまりなかった、と申しました。しかしそれは私が席次を気にしたことはなかった、ということではありません。私たちが上座より末席に着こうとすることを好むからといって、私たちが席次を気にしていないということにはならないのです。むしろ私たちはファリサイ派の人たちと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に席次を気にしているのではないでしょうか。別の言い方をすれば、私たちは絶えず自分とほかの人を比べて、自分の位置を気にしている、平たく言えばどっちが上なのかを気にしているのです。自分の位置を決める基準は色々です。地位や身分であったり、成績や業績であったりします。どれだけ頑張っているか、どれだけ忙しいか、どれだけつらいか、そういうことも基準になります。そして、自分の位置を気にすることと表裏一体なのが、自分の位置にふさわしい評価を求める、ふさわしい誉れや報いを求める、ということです。私たちはたとえ自分から末席に座ったとしても、自分より地位の低い人が、自分より上座に座っているのを快く思いません。自分より成績や業績の悪い人が、自分より評価されているのに不満を抱きます。自分より頑張っていないように、忙しくないように、つらい思いをしていないように思える人が、自分より幸せそうにしているのを妬ましく思うのです。謙虚に振る舞ってはいても、私たちは心の中で、なんで自分があの人より下なのか、と文句を言っています。「上席に進んでください」と言われるのを期待しています。周りの人から自分が正当に評価され、自分が相手よりも上である、と認められることを求めています。
 それだけではありません。私たちは信仰についても、自分とほかの人を比べ、自分の位置を気にしています。私たちはしばしば、自分の信仰は弱い、と言ったりします。しかしそう言いつつも、ほかの人と比べて、あのような人よりは自分は信仰的に生きている、あのような人よりはクリスチャンらしく、清く、正しく、立派に生きている、と思っているのです。そしてほかの人と比べて、自分が神様に正当に扱われていないように思えるとき、私たちは不満を持つのです。どうして神様はあのような人に幸せを与え、自分には苦しみばかりを与えるのか、どうして神様はあのような人が、人生の勝ち組になることをお許しになり、自分には人生の負け組でいることを強いるのか、と不満を抱かずにはいられないのです。
 ファリサイ派だけでなく、ほかならぬ私たちが絶えず自分の席次を気にしています。何かにつけ自分の位置が気になって仕方がないから、自分とほかの人を比べてばかりいるのです。私たちが末席に座ることを好むとしたら、それは席次を気にしていないからではなく、席次を気にしていることを隠して、自分を低く見せ、謙虚に振る舞うためです。そうすることによって、周りの人からの評価と誉れを得ようとしているのです。

真実に低くなりなさい
 しかし主イエスは、共に食事の席に着いている人たちに、そして私たちに、この譬えを通して、自分を低く見せ、謙虚に振る舞いなさい、と伝えようとしているのではありません。人からの誉れを得るためには自分を低く見せるほうが上手くいく、と勧めているのではないのです。ここで問われているのは、私たちが婚宴に招かれたときに上座に着くか、それとも末席に着くかではありません。私たちがどちらに座ったとしても、席次を気にしていることが問われているのです。絶えず自分とほかの人を比べて、自分の位置を気にしていることこそが問われているのです。主イエスは、自分を低く見せ、謙虚に振る舞うことを勧めるために、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と言われたのではないのです。そうであれば私たちは、「末席に行って座りなさい」という主イエスのお言葉をどのように受け止めたら良いのでしょうか。主イエスは譬えの終わりで「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われています。この主イエスのお言葉こそ、この譬えの結論であり、主イエスが私たちに伝えようとしていることの中心です。「末席に行って座りなさい」とは、自分を低く見せ、謙虚に振る舞いなさいということではなく、「へりくだる者」でありなさい、低くなりなさいということなのです。それは、自分が高くされるためには、初めから自分を高くするより、自分を低くしておく方が賢い生き方だ、というようなことではありません。そうではなく主イエスは、私たちが真実に「へりくだる者」となることを、真実に低くなることを求めておられるのです。

お返しができない者を招く
 では、私たちが真実に「へりくだる者」となるとは、真実に「低くなる」とはどういうことなのでしょうか。このことが12節以下から示されていきます。12節以下で主イエスは、食事会に客を招く人、つまり会の主催者に向かって、このように言われます。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。ここで主イエスは、文字通り友人や家族や親類、近所の金持ちを食事会に呼ばないよう命じているのではないでしょう。二つのことを比べるときに、このような極端な言い方をすることがあるからです。実際、当時も今も、婚宴であれば家族や親類を招待しないわけにはいきません。主イエスは非現実的なことを言っているわけではないのです。友人や家族や親類を招待するに違いない。付き合いのある近所の金持ちを招待することもあるかもしれない。そのようなことはあるに違いないし、あっても良いけれど、しかしそれらの人たちだけでなく、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」をこそ招きなさい、と言われるのです。なぜでしょうか。この人たちは招かれても「お返しができない」からだ、と主イエスは言われます。友人や家族や親類、近所の金持ちは、「お返しができる」人たちです。しかし「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」たちは、当時のユダヤ人の社会では、食事会に招かれてもお返しができない人であり、水腫を患っている人が「招かれざる客」であったように、この人たちもそもそも食事会に招かれるのにふさわしい人たちではありませんでした。しかし主イエスはそのようなお返しができない人たちにこそ心を向け、そのような人たちをこそ招きなさい、と言われるのです。
 ここで主イエスは、食事会に客を招く人が、そして私たちが誰を招くべきかを語っています。しかしその前提にあるのは、神様がどのような者たちを神の国へと招かれるのか、救いへと招かれるのかということにほかなりません。神様は、神の国にまったくふさわしくない者を、神様に「お返しができない者」を、神の国へと招かれ、救いへと招かれます。私たちは自分が食事会に誰を招くべきかを考える前に、自分たちが神の国にまったくふさわしくない者であることに、神様に何もお返しができないことに気づかなくてはなりません。そのような私たちに神様が心を向けてくださり、愛してくださり、神の国へと招き、救いへと招いてくださったことに気づかなくてはならないのです。そのことに気づくとき初めて私たちは、自分にお返しができない人たちに目を向け、その人たちを招くことへと導かれるのです。

低くされた私たちが主イエスの恵みの中に
 ですから私たちがへりくだる者となるとは、私たちが低くなるとは、自分が、神様にお返しができないことに気づくことです。神様の救いにふさわしいものを何一つ持っていないことに気づくことです。私たちが救いにふさわしい何かを持っているから、あるいは私たちが、神様にお返しができるから、神様は私たちを救いへと招かれるのではない。このことに気づくことなのです。別の言い方をすれば、神様に背き、自分勝手に生きていた罪人である私たちを、ただ一方的な恵みによって、神様が救いへと招いてくださったことに気づくことです。そのことに気づくとき、私たちは神様のみ前でへりくだる者であるしかない、低くあるしかないのです。自分が高くされるにまったく値しない者であることに気づくとき、私たちは真実にへりくだる者とされ、低くされるのです。その私たちを神様は高めてくださいます。私たちは自分の力で自分を高めることはできません。ただ神様が高めてくださる。しかも私たちがなにか条件を満たしたからではなく、なんの条件もなしに、なにも持っていない私たちを高めてくださるのです。
 私たちは低くされたところで高きにいます神様を仰ぎ見ます。同時に私たちは、私たちの傍らに低きに降ってくださった神様の独り子、イエス・キリストが共にいてくださることに気づかされます。低くされた私たちの傍らに主イエスが共にいてくださり、私たちが主イエスの恵みの内に生かされていることが、高くされるにまったく値しない私たちが高められることにほかなりません。私たちが高められるとは、ほかの人と比べて自分の位置が上になることではなく、主イエスの最も近くにいるようになることなのです。私たちの救いのために人となり十字架で死んでくださった主イエスの恵みの中で、その中でのみ私たちは高められ、神様からの誉れを与えられるのです。

ほかの人と比べることからの解放
 神様のみ前に低くされ、主イエスの恵みの中で高められることによって、私たちは絶えず自分とほかの人を比べて自分の位置を気にすることから解放されます。自分の位置にふさわしい評価や、人からの誉れを求め、それが得られないと不満や妬みを抱くことから解放されるのです。もう自分を低く見せ、謙虚に振る舞って、人からの誉れを得ようとしなくてよい。自分とほかの人を比べて、自分の位置を気にするのではなく、低くされた私たちの傍らに主イエスが共にいてくださり、私たちが救いの恵みの内に生かされていることに心を向けるのです。私たちが主イエスの恵みの中で高められ、神様からの誉れを与えられているから、私たちはもう人からの誉れを求めてあくせくしなくてよいのです。私たちは自分の信仰とほかの人の信仰を比べて不満を抱くことからも自由になります。なぜ神様はあの人が人生の勝ち組になることをお許しになり、自分には人生の負け組でいることを強いるのかという思いからも自由にされるのです。たとえこの地上の歩みにおいては人生の負け組であるかのように思え、報われない人生のように思えたとしても、世の終わりに、神様から復活と永遠の命という大いなる報いが必ず与えられる、と約束されているからです。

神からの誉れと報い
 これから私たちは聖餐に与ります。この聖餐の食卓に席次はありません。洗礼を受け、主イエスによる救いに与ったすべての人が、主イエスの恵みに近づき、主イエス・キリストの体と血とに与るよう招かれています。今日、聖餐に与ることができない、まだ洗礼を受けておられない方も、主イエスの恵みに近づくよう招かれていることに変わりはありません。この招きに応えて、悔い改めて洗礼を受けることを、教会は祈り願っていますし、なによりも神様が願っておられるのです。
 この聖餐において私たちは、神のみ前に低くされた私たちの傍らに主イエスが共にいてくださることを実感し、この食卓が世の終わりの祝宴に連なっていることへの確信を与えられます。私たちが主イエスによる救いの恵みの中で高められ、神様からの誉れを与えられていることに気づかされるのです。だから私たちは、人からの誉れや報いを求めて、自分とほかの人を比べて生きることから解放されて、世の終わりに神様が与えてくださる復活と永遠の命という大きな報いに信頼して生きていくことができるのです。

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