主日礼拝

神の業が現われるために

「神の業が現われるために」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第29章17-24節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第9章1-12節
・ 讃美歌 ; 7、55、441

 
主イエスの眼差し
「さて、イエスは通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられた」。祭りが行われている神殿を後にした時のことでした。主イエスは、道端にいた「生まれつき目の見えない人」に目を注がれたのです。今日お読みした箇所の直前、8章の59節には次のようにあります。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」。主イエスは神殿でご自身に対して憎しみを抱いている人々と論争をしたのです。その結果、人々の心の中にある、主イエスに対する殺意が石を投げるという形になって現れたのでした。そこで、主イエスは人ごみに身を隠して神殿を後にしたのです。神殿を離れられた所に生まれつき目の見えない人がいたのです。おそらく、この人は、祭りで賑わう神殿の傍で道端に座って物乞いをしていたのでしょう。当時の社会ではありふれた光景です。しかし、主イエスは、この人に目を留めるのです。弟子達が目を留めたのではありません。主イエスが真っ先に目を留められたのです。しかも、偶然目に入ってきたというのではなく、自らの歩みを止めて、じっと見つめられたのです。このことは、主イエスが誰よりも、この人の闇を深く理解されたということです。

原因を問う
主イエスが目を注がれるのにつられて、周りにいた弟子たちも目を留めます。そして、主イエスに問いかけるのです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。「どうして」この人は目が見えないのか、しかも生まれつき目が見えないというのはどういうことなのか。弟子たちは目が見えないとういことの「原因」を聞きました。この時、弟子たちが思い描いたことは当時の考え方に即したものです。本人が罪を犯したせいなのか、それとも両親が罪を犯したからなのか。「生まれつき目が見えない」というのは、説明の出来ない不幸です。そのような不幸を罪と結び付けたのです。目が見えないということの原因は、おそらくその人の犯した罪のためであるだろうし、それが「生まれつき」のものであるならば、両親の罪のためなのだろうと考えたのです。
この時の弟子達が発した問い、「原因」を問う問いは時代を超えた私たちの問いでもあります。私たちは、日々の生活の中で、自分に不幸が降りかかる時に原因を問います。そして、「罪」とまでは言わないにしても、日々の行いを顧みて「罰が当たったのだ」等と言ったりするのです。様々な新興宗教の法外な価格の商品が売れるのは、人々が、でっち上げられた不幸の原因を信じ込まされて、その原因を取り除くことによって直面している不幸から逃れることが出来ると思うからです。又、私たちは、あまりに不条理だと思わざるを得ない出来事に直面した時にも、この問いを発します。「どうして、ここまで凄惨な事件が起こるのであろうか」。「どうして世界は戦争と破壊にうめいているのだろうか」。「どうして、神が創られた世界であるにも関わらず、悪が栄え、正義が滅びているのだろうか」。私たちは、誰しも、この時の弟子たちと同じように、「どうして」という問いに支配されて歩んでいるのです。

見えるもの
もちろん原因を問うことそれ自体が悪いのではありません。この世の現象の原因を探ることから自然科学は発展しました。又、日常生活において、自らの行いによって生じた結果を反省する時、原因を遡ることは不可欠です。生じた結果の原因を遡って考えることは大切なことです。私たちの世界の出来事は確かに原因があり、結果があります。ですから原因を問い、考えるということは、私たちが生きる時に欠かせない姿勢でもあるのです。原因を知ることによって、事実を把握し、そのことの本質を見ようとするのです。原因が分からない不条理に遭遇すると、私たちはそれを恐れ、自分なりに原因を探し出すのです。そして、それが分かると安心するのです。
しかし、この世の出来事はすべて、因果関係で捉えられると考えて原因を問う歩みの中に、私たち人間の罪が潜んでいることも確かなのです。私はかつて、突然の病に襲われて闘病生活を送ったことがあります。一年近くの間、病院のベッドの上で過ごさなければなりませんでした。そのような中で何もすることがなく、ただベッドの上で過ごしているといろいろなことを考えます。病気の苦しみを覚える時に、何より、私の思いを支配したのは、「どうして、自分はこのようなことになってしまったのか」という思いです。病気の「原因」を問う問いです。医者が言うには、はっきりした原因は分からないとのことでした。そのような中で、自分自身の歩みを振り返って、いろいろと思い巡らしつつ「原因」を探します。自分の人生の中での様々な出来事や、自分が行ってきた選択に「原因」を帰してみたりします。時には、自分が置かれた環境のせいにしたり、両親、家族のせいにしたりするのです。そこから生まれてくるものは、裁く思いでしかありませんでした。時には、自分で自分を裁きました。ある時は両親や周囲の人々を裁きました。又時には、神を裁くこともありました。原因を問う問いの背後には、世の出来事を自分が知りうるものと考え、見えるものとなろうとする態度があります。そして、そのような中で、自分が人生の主となって、神や隣人を裁くという罪に陥ることがあるのです。弟子達が、目の見えない人を見て、その原因を罪に結びつけた時、自分達は見えるものでありたいと願いつつ、この人を心の中で裁いていたのです。しかし、すべてのことが因果関係によって知りうるわけではありません。原因を問いつつ歩む時、自分は見えようとしていながら、実は見えていないことがあるのです。

主イエスの答え
「生まれつき目の見えない人」を見て弟子達は原因を問いました。しかし、「原因」を聞く弟子たちに対して、主イエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。「生まれつき目の見えない」という事実、人間の目から見たら不条理としか移らないような状況を前にして、主イエスは弟子たちと全く異なったことを問題にされました。主イエスはここで「神の業がこの人に現れるため」という「目的」を語られたのです。弟子たちが「目が見えない」ということの「原因」「どうして」を見たのに対して、主イエスはそのことの「目的」「ために」を見られたのです。生まれつき目が見えないという、私たちが「どうして」と言ってしまいたくなるような状況、しかしそこには「目的」があるというのです。主イエスは、原因を問い続ける人々の歩みの中に「神の業が現れる」という目的を示されるのです。主イエスを信じるということは、主イエスの眼差しと共に、目的を見るものとされるということです。
主なる神は世界を目的を持って作られました。世界や人間は決して無目的に存在するのではありません。すべてのことに目的があるのです。私たちは、普段この神の目的を問うことをなそうとしません。そのような時、私たちは原因にのみ目を向け、人間の常識で世の出来事を判断します。神の目的が見えていないのです。「どうして」を問う歩み、原因を問う歩みは、私たちの過去に目を向けることです。そこでは弟子達がそうであったように、人間の罪が問題になります。そして、それに原因を帰し、自分が見えるものであるかのようにして振舞い、自分で自分の罪を裁き、又隣人の罪を裁いて歩むのです。しかし、目的を問う歩みは将来に目を向ける歩みです。それがどのような原因があるのか知ることは出来ない、けれども、そこには目的があることを信じて、神の御業が現されることを待ち望むのです。そして、それこそキリスト者の歩みなのです。
しかし、ここで、世に起こる出来事に原因ではなく目的を見出す歩みというのは、何の根拠もなく、苦難に遭遇した時、「ポジティブな思考で生きて行こう」とか「明日があるさ」というようなメッセージを語っているのではありません。ここで言われている目的は、「神の業が現れる」という主イエスが見ておられる目的です。そして、そのことをに目を開かれて歩むことが語られているのです。

目が開かれる
主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」とおっしゃり、目の見えない人の目に、唾でこねた土を塗り、「シロアム」の池で洗うように言われます。その人は、言われた通りにすると、目が見えるようになります。主イエスが言う神の業が現れるということは、確かに目が見えない人の目が開かれるということです。しかし、注意をしたいことは、この「目が開かれる」というのは、ただ主イエスの奇跡によって、肉体的に目が開かれたということ、視力が回復したということだけが問題ではないということです。
私たちは時に、自分の願望から神を求めてしまいます。癒されない病を、神の力によって直してほしい。努力しても叶えられない自分の願望を叶えてほしい。そのような思いで、神を求める。自分の力が及ばないことを神の力によって解決しようとする。そこには、「奇跡」を求める人間の思いがあります。超自然的な現象に限られるのではなく、人間が自分の願望を叶えるために、神に目を向ける時に求めているのが奇跡です。しかし、奇跡によって人間の願望に応えることが、聖書が語る、神の目的ではないのです。ここで目が見えない人にとって見えるようになることは心からの願いであることに違いありません。しかし、この物語は目が見えなかった人の目が開かれるということでは終わっていないことに注目したいと思います。ヨハネによる福音書9章は全体で一つの物語です。その最初の部分だけを今日はお読みしたのです。ですから、この物語は、主イエスの奇跡によって肉体的に目が見えるようになった、めでたし、めでたしということを語っているのではないのです。

主イエスへの告白
近所の人々や、物乞いであったのを前に見ていた人々は、彼が本当に、かつて物乞いをしていた人かどうかを論じ合います。そうだと分かると、「お前の目はどのようにして開いたのか」とたずねます。周囲の人々の心にあったのは、見えるようになった人と共に喜ぶことではありませんでした。やはりそこで問われたことは「目的」ではなく「原因」でした。そして「イエスという方」によって目が開かれたことを知るとイエスはどこにいるのかと問い詰めるのです。その人は「知りません」と答えます。彼は、主イエスに言われるままに、シロアムの池に行って洗ったのです。ですから、主イエスを見てはいないのです。当然、主イエスがどこにいるのかも分からなかったのです。この後、彼とファリサイ派の人々との間に主イエスが誰であるかということについて議論が起こり、その結果、彼は会堂から追い出されます。そのことを聞いた主イエスは、再び彼に会われるのです。そこでは次のようなやり取りがなされます。
「あなたは人の子を信じるか」
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ。」
「主よ、信じます」
彼は跪いて、告白します。原因を問う人々が集まる会堂から外に出て、この人は主イエスと出会ったのです。そして、主イエスとのこのような出会いが与えられることこそ、ここで聖書が語っている「目が開かれる」ということなのです。
「生まれつき目が見えない」というのは、生まれた時から闇の中にいることを意味します。生まれてから光を見たことがなく、闇しか知らないのです。この人について、ある神学者は、「光を見ようにも光が欠如している」と語りました。光がない世界に生きている人なのです。そして、ヨハネによる福音書は、罪に支配された世を闇として現します。ですから、「生まれつき目の見えない人」の姿というのは、罪の中にいる人間の姿を現しているのです。そして、「わたしは世にいる間、世の光である」と言われているように、主イエスは、そのような闇に輝く光として、ご自身を示されたのです。この世に来られた光である主イエスを見出し、自らの主と告白することこそ、聖書が語ろうとしている「目が開かれる」ということなのです。それは、真の光を知らされ、その方の下で物事を見るようになることです。主イエスと共に、そこに、神の目的を見出すことです。光なる主イエスを見出す中で、私たちが罪からの救いに与ることこそ、神の業が現されるという主イエスの語られる目的なのです。

十字架で示される目的
私たちは、ここで、目を開かれた主イエスご自身が、神の目的に生きられた方であることを示されたいと思います。この時、主イエスに対して石を投げつけようとする人々がいたと述べました。それは、主イエスが神の目的のために歩まれたからです。主イエスが神の目的のために歩まれる時、人々の憤りと憎しみと躓きが起こりました。主イエスは、自ら見えるものとして振舞い、隣人をも神をも裁きつつ歩んでいる人間の罪によって苦しめられ続けたのです。そのような中で主イエスは十字架へと赴かれました。
マタイ、マルコ、ルカの福音書において、主イエスは十字架で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれたことが記されています。そこにおいて、主イエスは「どうして」という原因を問う問いを発しておられます。神の子が神から見捨てられる。これ以上の不条理があるでしょうか。ここに真の「どうして」があります。しかし、ヨハネによる福音書において、十字架の上での主イエスの言葉は他の福音書とは異なっています。十字架の上の主イエスはただ一言「成し遂げられた」と言われるのです。恥辱に満ちた、十字架の死、その苦しみに満ちた歩みすべてが「神の業が現れるため」であり、神に栄光を帰するためであったのです。人間的に見るならば「どうして」としか言いようのない、十字架において、神の業が「成し遂げられた」と言われるのです。この十字架において神の業がなされている。人間を、闇の力、罪から救おうとされることこそ神の目的だからです。主イエスご自身が、十字架において、闇の中に身をおかれることによって、私たちを罪から救ってくださっているのです。
私たちは、世の不幸に目を向ける時に、自ら見ようとして「どうして」と原因を問いつつ、歩みます。そのような中で、弟子達のように罪に原因を帰したりします。しかし、私たちが、苦しみの原因として見出している罪というのは、主イエスが十字架によって負って下さっている闇なのです。本当に私たちの闇を見つめておられ、そこに身をおいてくださるのは、主イエスなのです。「生まれつき目の見えない者」として歩む私たちに、私たちが主イエスを見出す前から、目を留めてくださり、その闇を深く知って下さるのです。主イエスが十字架において「どうして」と苦しみの叫びをあげて、死なれることによって、その闇を理解してご自身の身に負って下さっているのです。このようにして神の業をなして下さるからこそ、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない、神の業が現れるためである」と語られるのです。

神の業のために働く
世の光としてこられた主イエスの下で、私たちは見えるものとさせられます。そのことは、人間を救おうとされる神の業を知らされることを意味しています。そのことを知らされる時、原因を問いつつ歩む私たちの歩みが、「神の業が現れるため」という神の目的に生きるものとさせられるのです。神は、計画に従って、この世で救いの歴史を行われています。すべての人を、主の十字架によって示された救いの業に招くことによって、ご自身の民とするという目的です。そして、この働きに教会は仕えているのです。主イエスは私たちの闇に身を置かれました。それによって、もはや闇は私たちを支配しなくなるのです。私たちは、主イエスが現された神の業を現すものとされるのです。主イエスが、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言われています。わたしをお遣わしになった方とは、父なる神です。主イエスが神の業を行わなければならないと語られたのです。しかし、この言葉の主語が「わたし」ではなく「わたしたち」となっているのです。ヨハネによる福音書において、主イエスの語られた言葉の主語が「わたしたち」となっていることがあります。これは、ヨハネによる福音書が書かれた当時の教会の群れを表しているとされています。この福音書を記した人々は、主イエスの歩みと自分たちの歩みを重ねるようにして福音書を記したのです。主イエスによって目を開かれたものは、主イエスと共に、お遣わしになった方の業をなすものとされるのです。共に、神の目的を問いつつ歩むものとされるのです。
神殿の外で物乞いをしていた、生まれつき目が見えない人は、闇の中で、苦しみつつ歩んでいたことでしょう。日々、「どうして」と問い続けていたかもしれません。しかし、その闇に目を留め、この人よりも深くその闇を理解して下さる主イエスと出会った今、「どうして」と問う問いから自由にされたことでしょう。そして、そこに神の業によって、真の意味で「見えるもの」とさせられて、目的を問う生き方をなすようになったのではないでしょうか。
「シロアム」遣わされたものという意味であると記されています。父なる神の下から光として遣わされた主イエスを示しているのだと考えられます。又、同時に、主イエスによって見えるようにされたものを示しているとも取ることが出来ます。主イエスと出会い、主イエスによって目を開かれて、この方の下から世に遣わされていくのです。私たちも、真の神の目的が成就する終わりの時まで、主イエスの十字架において示されている神の目的をこそ見つめて歩むものとされていきたいと思います。

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