主日礼拝

永遠の命の言葉

「永遠の命の言葉」 伝導師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第59章 1節-21節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第6章 60節-71節
・ 讃美歌21; 140、408、59、聖歌隊 166-1

 
1 (悲しい結末) 
ヨハネによる福音書第6章は、大変に長い章であります。もう長い時間をかけて、この章を読んでまいりました。主イエスが五千人もの人々にパンと魚を分け与えた出来事からこの章は始まっています。そして荒れている湖の上を歩いて弟子たちの下に近づいて行かれた出来事を間に挟んで、再び、パンのことについて語られています。しかも今度はご自身が命のパンであるとお語りになったのです。五千人もの人々にパンを与えて満腹させた。いわばその出来事が指し示していることが何であるのかを、主イエスご自身がお語りになったのです。そういう意味では、主イエスは初めから一貫しています。ご自身が命のパンであり、これに与り、ご自分の命によって人が神の前で真実に生きる者となることを願われたのです。そのことだけを願って、懸命に語り続けた。実にここに至るまで、60節近くもの長きにわたって、言葉を継ぎ、言葉を継ぎして語り込んでこられた。その一連の語りかけが、最後にどのような結末を迎えたか、それが今日の箇所で明らかにされているのです。

 皆さんはただいま朗読された御言葉をお聞きになってどのような思いを抱かれたでしょうか。「なんともやるせない、重苦しい気分にさせられるなあ」、それが私の正直な思いです。主イエスがこれだけお言葉をつぎ込んで語ってこられた。それなのに最後に起こったことは、弟子たちが主イエスのもとを去っていったという出来事なのです。実に悲しいことです。うんざりすることです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。これが弟子たちの最終的な反応だったのです。実に暗い結末です。主イエスのお心の中でズキンズキンと鳴る痛みが、私たちの中にも聞こえてくるような思いがいたします。

2 (御言葉が堅いのか、私たちの心が頑ななのか?)
ある人はこの箇所について語った時、ここには「御言葉というナイフが、主イエスの話を聞いた人々の中を走り、人々を切り分けている」と言いました。ちょうどナイフがものを切り刻むように、今御言葉というナイフの先が、主のお言葉を聞いた人々の中を走り回り、これを聞いて受け入れる人とこれは「実にひどい話だ」、そう言って拒む人との間を隔て分ける、というのです。ここで「ひどい話」と訳されている言葉のもとの意味は、「固い」、「かたくなである」という意味です。木の根本の堅くなった部分のことを指して使われた言葉だとも言われます。昨日行われた神奈川地区集会の中でも話題に上りましたのは、松の木の根本から採れる油、「松根油」を採るために、根元を掘る作業が戦時中よく行われたということです。この言葉の意味から、そういう木の根っこの堅さを思い浮かべる方もあるようです。そういう堅さが主の御言葉にはある、とてもこの方のお言葉は難しくてかみ砕けない。到底理解できないようなことをおっしゃっている。それが弟子たちの非難の声であります。 弟子たちは、自分が御言葉を理解できないのは、主イエスご自身の責任だと言って、いわばその責任を主になすりつけたのです。「こんな話」というのは、主がご自身の肉を「まことの食べ物」、ご自身の血を「まことの飲み物」と呼び、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とお語りになった、これまでのお話全体を指していると思われます。そんな人食い人になるような教えを広げるとは馬鹿げている、到底受け入れられない。弟子たちはそう思ったのです。 けれども、今この時、私たちはどこに身を置いてこの主の御言葉を聴いているのだろうか。よくよく注意してみなくてはなりません。自分は主イエスと共に、去っていく人を眺めつつ、「ああ、しょうがないなあ。せっかく主があんなにお話くださったのに離れていってしまうなんて」、そう言ってあきれているだけで済む話なのか。その時自分は、そんな余裕を持って主と共に肩を並べて去っていく人々を嘆いていられるような者なのだろうか。そんなに「自分自身は大丈夫だけども、あの人たちは困るね」とでも言いたげな態度でいられるのか。深いところで問われているのではないでしょうか。

ここ数週間、いろいろな集会や個人的な対話の中で、私たちが信仰について理解しようとする時の姿勢がたびたび話題に上ってきたように思います。そこで繰り返し考えさせられましたことは、どうも私たちは信仰の事柄を理解できるようになるためには、相当に知識を積み上げ、勉強を重ねていかなくてはならない、という強迫観念のようなものを持っているのではないか、ということでした。信仰というようなものは、一種の悟りの境地のようなもので、そこにまで到達するためには相当の修練が必要なのではないか。よほど勉強をして知識を積み上げて、訓練をしなければ得られないようなものなのではないか。私たちはそう考えがちなのです。

けれども主は今おっしゃるのです。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。私たちが自分の理性、自分の知識、自分の力を十分に伸ばし広げていったその先で、ついに神をとらえ、神を知るようになる。信仰に到達すると考えるならば、それもまた、肉の力に頼ることになるのではないか、そういう問いかけがここには含まれているのです。自分の理解力に頼って進んでいった弟子たちは、まさにそれゆえに、ここで挫折して主の下から離れ去っていってしまったのです。肉と血についての主の御言葉でさえ理解できないとしたら、主がもといた所、つまり天の父なる神のもとへと上るのを見るならば、あなたがたがそれを理解できないのはなおさらのことだろう、とお語りになる。そうではない。「わたしの言葉は肉の言葉ではなく、霊の言葉だ。わたしからあなたがたの中に橋をかけ、あなたがたの中にわたしの言葉を受け入れる心を造り出す。わたしが霊を吹き込み、あなたがたの中にまことの命を脈打ち始 めさせる。この霊の言葉を注ぎ込み、この命を造り出すわたしの働きに、どうか身を委ねてほしい」、これが主イエスの願いであります。招きであります。呼びかけです。主イエスの御言葉が堅くて飲み込めないのではない。むしろ生まれながらに持っているわたしたちの心の頑なさ、神の恵みに背を向けて、心を閉ざしてしまう魂の堅さ、神に身を委ねるよりは、自分の知識を積み上げていけば、いつしか信仰に到達できると踏んでいるその傲慢さ、それこそがここで打ち砕かれねばならないのです。自分の力の延長線上で神と出会えると前提するのは、自由な神を自分のコントロールの中に置き、自分の伸ばした手の中にとらえることができると思っていることになる。主はその高ぶりを今御言葉のナイフで切り取ってくださろうとしているのです。

3 (離反は教会の中で!)
私たち人間が自分の力で神に行き着くことはできない。だとしたら神の側から私たちの方に出会ってくださらなければ、私たちは神とお会いすることはできないということになります。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)。ということは主イエスのもとに行くことができるのは、父なる神があらかじめお許しくださった者だけだ、ということになります。このことは私たちに深刻な不安を引き起こすかもしれません。私たちが自分で努力すれば、いつかはその労苦が実って神とお会いできると思っていた、そのうちはまだ幸せだったかもしれない、そう思うかもしれません。まだ自分の努力次第で事態はいかようにも変えられる、と思えたからです。ところが、すべては神がお定めになっておられるかどうかにかかっているのだ、と言われると、私たちは困ってしまう。だとしたら、この私は神に選ばれているのだろうか、神からの橋が、この私には果たしてかけられているのだろうか。不安になります。躓いてしまいます。実際、福音書は伝えているのです。 「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはや主イエスと共に歩まなくなった」(66節)と。  

事柄は深刻です。この時離れ去っていったのは教会の外の人たちではない。弟子たちであります。つまり教会の中にいる人たちの中に亀裂が走ったのです。主イエスの側につき続けるのか、それとも「こんなばかばかしいことはもうご免被る。きっと私なんか神様に選ばれてなんかいないんだ」、半ばそうふてくされて主イエスのもとから去っていくのか、どちらの道を行くかで、教会が分裂したのです。実はこの福音書が書かれた当時、紀元1世紀末の頃のヨハネがいた教会の状況が、この主イエスの時代に重ね合わされてここで描かれている、という考え方があります。つまり、1世紀末のヨハネの教会は、この主イエスにつくのか、それともそのもとから去っていくのかが、厳しく問われた時代であったというのです。紀元70年にエルサレムの神殿がローマ帝国によって破壊された後、ユダヤ教は新しい形で出発しなくてはなりませんでした。もはや神殿で犠牲を捧げるという形で神を拝むことはできない。そこで私たちの言うところの旧約聖書を、彼らの聖書として、そこに記された律法 、神の御言葉を聴いて神を拝む生活を新たに形づくろうとしていたのです。同じ神を拝みつつ歩む民として、その中にキリスト者たちもいました。初めはどちらとも、お互いがもはや異なる存在であるとは思っていなかったのです。同じ神を礼拝していると思っていたのです。ところが、キリスト教会は主イエスを神と言い表した。神以外のお方を神と呼ぶ。これはとんでもないことだ。だんだんユダヤ教との違いがはっきりしてきた。そこでユダヤ教も自分たちの結束を固め、キリスト教会を迫害し始めたのです。もしイエス・キリストを救い主として、神として告白するのなら、もはやあなたたちと一緒にやっていくことはできない。袂を分かつぞ。そう言い渡されたのです。キリスト者一人一人が、本当に主イエスにつくのか、それともユダヤ教の方に帰っていくのか、どちらの道を歩むのか、厳しく問われた時代であったというのです。そこで同じ教会の中に、主に従う人と、信じない者、裏切る者たちとが分かれて現れたのです。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。主イエスの弟子 たちへの問いは、教会に生きる私たち一人一人への問いかけです。もちろん主イエスはここで、「わたしの下に留まって生きてほしい、ここにしかあなたがたの生きる道はない。ここにしかあなたたちの命はないのだから」、そう語りかけ、また願っておられます。主イエスから離れていったところで、私たちの生きる道はないのです。

4 (選ばれているかどうかでなく、選ばれている事実にどうお応えするか)
こうした教会の状況を思い巡らしてみる時に、わたしは思うのです。ここで問われていることは、私たち一人一人が神によって選ばれているかどうか悩んだり、そのことで躓いたりする、そういう話では実はないんじゃないか。むしろすでに神に選ばれ、神の恵みの選びの中に既に置かれているはずの人たち、それが私たちなのではないでしょうか。教会員であるなしがここで問題となっているのではありません。ここに今日集っている私たちすべてが神に選ばれ、招かれているのです。私たち一人一人が選ばれているかどうかが問題なのではない。むしろ私たちは既に選ばれ、招待状は私たちのところに今届いているのです。問題なのは、その神の選びに対して、私たち一人一人がどう答えるか、その選びをどう受け止めるのか、そこにかかっているのです。去っていったあの弟子たちは選ばれていなかったのではない。むしろ選ばれていたのに、その招きを拒んだのです。心を頑なにし、誰がこんな話を聞いていられようか、と言って去っていったのです。  先ほど読まれた旧約聖書、イザヤ書59章はこう語っていました。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1-2節)。さらに12節以下、「御前に、わたしたちの背きの罪は重く わたしたち自身の罪が不利な証言をする。 背きの罪はわたしたちと共にあり わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き わたしたちの神から離れ去り 虐げと裏切りを謀り 偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき 正しいことは通ることもできない」。

 このことは、十二人の弟子たちに語りかけられた主のお言葉からも分かります。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」(70節)。ユダ以外の11人を選んだが、ユダは初めから選ばれていなかったという話ではないのです。ユダも弟子の中に数え入れられ、間違いなく主イエスによって選ばれていたのです。「裏切り」というのは、この神の選びを拒むところにこそ起こるものです。選ばれていなければ、裏切りも何もありえないのですから。ということは、主はご自分をやがて裏切り、十字架へと引き渡すようなとんでもない者をも弟子として数え入れ、選んでくださっていたのです。自分を裏切る者であることが分かっていたにもかかわらずです。私たち一人一人もまた、このユダのように、主を裏切りかねない種を宿している存在です。心を頑なにし、たびたび御言葉に聴く耳を閉ざしてしまいます。永遠の命の言葉が差し出され、主に選ばれ愛されていることが告げられているのに、なおもその選びを拒みます。神からかけられている橋があるのに、自らその橋を壊して自分から切り離してしまおうとする。

 それでも主イエスは私たちを選んでおられることに変わりはないのです。「わたしは度重なる裏切りにもかかわらずあなたを選んだ。どうか滅びの道を突き進まずに、わたしの下に留まってほしい。留まり続けてほしい。わたしが今あなたに橋を架け、わたしからあなたに出会いに行こうとしているから、どうかこの永遠の命の言葉を魂に刻み込みながら待っていてほしい。わたしが最後まで愛し抜く決意であなたを選んだのだ。十字架に架かってあなたの代わりに死ぬほどまでに、あなたを愛している。あなたの存在を重く感じている。わたしがあなたを重んじている、その重さを感じ取ってほしい。それほどまでに重んじられている自分を、あなた自身もそのように受け止め、重んじてほしいのだ」、これが主の語りかけであり、招きであり、決意であります。

5 (選びの教理は躓きではなく恵み)
 教会で語られる「選び」の教えは、私たちを「自分は救われているのだろうか」、と不安にさせるための教えでは決してありません。そうではなく、私たちの救いが、自らの力によってもってかかっているのではない、ただ神の憐れみと恵みによるものであることを教えているのです。裏切りの種さえ宿している私たちさえも敢えてお選びになり、愛し抜こうとされている、それゆえになんとかこの招きに答えてほしい、と訴え呼びかけ続ける、ほとばしるような主の愛を伝えるのが「選び」なのです。「選び」の教えは、すでに救いに与っている私たちが振り返ってみた時に、「ああ、すべては神の憐れみと恵みによる導きだった。今もこれからも、主はこの選びに基づいて私の救いを支え、完成に導いてくださるに違いない」、感謝とともにこのことを思い、この恵みに応え、この恵みの中に留まり続ける思いを新たにさせる教えなのです。  救いは私たちの努力で勝ち取るものでもない。私たちの意識や気分の上がり下がりでどうこうなるような不確かなものでもない。神が選び、責任を持って担い、導き、完成させてくださる、この恵みのご支配に信頼して歩む日々を、今主はここに切り開いてくださいました。イザヤが預言したようにです。「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる」(21節)。私たちはこの主の選びと招きに応え続けるのです。シモン・ペトロと共にこう告白するのです。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(69節)と!

祈り 
主イエス・キリストの父なる神様、裏切りの種さえ宿し、繰り返し心を頑なにし続ける私共であります。選ばれている恵みの前にさえ、心を閉ざし、あなたの御許から離れ去っていっても自らの歩む道はなおほかに見いだせると、虚しい錯覚にとらわれてしまう私共であります。どうか御霊を注いでください。肉の心ではなく、新しく確かな霊をもって私共の心の目を開き、あなたが私共を選び、招き、この恵みの中に留まりなさい、と語りかけてくださる、その御声に応え続ける者とならせてください。あなたが永遠の命の言葉を今日もくださり、私共を生かしてくださいます。あなたが十字架の上で私共の身代わりになるまでにこの世を愛し抜かれた、それだけ重んじてくださっている私共自身の存在を、同じ重さでもってあなたから受け取り直すことができますように。 永遠の命の言葉である御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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