主日礼拝

途方に暮れても失望せず

「途方に暮れても失望せず」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第4章7-15節
・ 讃美歌:310、469

2023年度の年間聖句
 本日は、2023年度最初の主の日です。それと共に、本日はいわゆる「棕櫚の主日」、今週は受難週です。今週私たちは主イエス・キリストの最後の一週間を覚えます。木曜日がいわゆる「最後の晩餐」の日であり、金曜日が主イエスが十字架につけられて死んだ日、いわゆる「受難日」です。この受難週から、私たちは2023年度を歩み始めるのです。
 本日の礼拝で読む聖書の箇所を、コリントの信徒への手紙二の第4章7節以下としました。その8節に「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」とあります。これが、2023年度の私たちの教会の年間聖句です。今年度最初の礼拝である本日、この年間聖句をご一緒に読み、み言葉に聞こうと思ったのです。そしてこの箇所は、受難週を歩んでいくこの時に読むのにも相応しい箇所です。そのことはだんだんに見ていくとして、先ずはこの年間聖句に注目したいと思います。

四方から苦しめられて途方に暮れている私たち
 この箇所を今年の年間聖句としたのは、四方から苦しめられて途方に暮れている、というのがまさに私たちの今の姿だと思うからです。今私たちは、四方から苦しみに取り囲まれています。新型コロナウイルスの感染は大分収まってきて、世の中の経済活動はほぼ元通りになってきていますが、しかしこのウイルスの不安が無くなったわけではありません。高齢の方々も多く、家族に重症化する危険の高い人が多くいる教会においては、慎重に事を進めなければなりません。なおしばらくは、礼拝を二回に分けて行うことを続けざるを得ないと思っています。しかしそのことによって、いろいろな集会が出来なくなっており、教会員どうしの交わりが損なわれています。それは私たちにとって大きな苦しみであり、教会にとってダメージです。私たちの群れはなお、新型コロナウイルスによる苦しみの中にいるのです。
 コロナ禍と並んで今、世界全体が、ロシアのウクライナ侵攻による戦争の影響を大きく受けています。一年以上経っても、この戦争が終わる気配はなく、ますます激しくなっています。戦闘によって多くの人の命が失われ、傷つき、街が破壊され、多くの難民が生じているという直接の苦しみだけでなく、核兵器が使われることや、原発事故が起こることへの懸念も高まっており、食糧やエネルギーの危機、物価の高騰は私たちの日々の生活を直撃しています。このことによって国々の間の対立、緊張も深まっていて、多くの国が自国中心主義になりつつあることを感じます。そういう中で、基本的な人権、人々の自由が損なわれている地域も多くなっています。さらには、金融不安も起り、世界の経済の先行きも不安です。これらのことは全て複雑に絡み合っていて、まさに私たちを四方から取り囲む苦しみとなっています。トルコ・シリアにおける大地震によって非常に多くの被災者が生じています。そういう地震の心配はこの国にもあり、南海トラフ大地震や首都直下型地震が起ったらどうなるのか、不安です。気候変動、温暖化は地球全体の緊急の問題であり、世界中がそれを食い止めるために動かなければならないのに、国々が対立し、戦争も起る中で、対策は進んでいません。まさに私たちの前途は不安だらけ、苦しみの予感ばかりです。希望が見えず、まさに「途方に暮れている」のです。

驚くべき言葉
 そのような私たちにとって、年間聖句である8節は驚くべき言葉です。この手紙を書いたパウロは、私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらない、途方に暮れても失望しない、そして9節においては、虐げられても見捨てられない、打ち倒されても滅ぼされない、と言っているのです。自分たちには苦しみなどない、と言っているのではありません。四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されるという現実はあるのです。数々の苦しみ、迫害を受けつつ伝道したパウロの生涯を思えばそのことは明らかです。しかし彼はそういう大きな苦しみの中でも、行き詰まらない、失望しない、見捨てられない、滅ぼされない、と言っているのです。どうしてそのように言うことができたのでしょうか。

主イエスと共に苦しみ、死ぬ
 10、11節で彼はこう言っています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。自分たちは、イエスの死を体にまとっている、イエスのために死にさらされている、と言っているのです。「イエスの死を体にまとっている」というのは不思議な言葉ですが、「イエスの死を体で持ち運んでいる」と訳すこともできます。自分たちは苦しみにおいて主イエスの死を自分の体で持ち運んでいるのだ、というのです。また「イエスのために死にさらされている」というのも、「イエスを通して死に引き渡されている」と訳すことができます。聖書には、主イエスは十字架の死へと引き渡された、という言い方が繰り返しなされています。その主イエスと共に、自分たちも死に引き渡されている、それが自分たちの受けている苦しみだ、ということです。つまりこれらのことによってパウロは、自分たちの苦しみを、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死と重ね合わせ、私たちは主イエスの死にあずかり、主イエスと共に苦しんでいるのだと言っているのです。

苦しみを信仰において受け止める鍵
 自分の体験している苦しみを、主イエス・キリストの十字架の死の苦しみと重ね合わせ、主イエスの苦しみにあずかっている、主イエスの苦しみを共に味わい、体験している、と受け止めるということが、パウロの信仰の根本であり、聖書が語っている信仰の根本でもあります。そこに、苦しみを信仰の中に位置づけ、意味あるものとして受け止める道が開かれているのです。主イエス・キリストを信じる信仰、キリスト教信仰の中心的なシンボルが十字架であることはそのことを表しています。十字架こそが私たちの信仰の最も大切なしるしです。それは、主イエスの十字架の死によって私たちの救いが実現したからですが、それは同時に、私たちが、苦しみに満ちたこの世の人生を、神の救いの恵みの中で受け止め、それに支えられて歩んでいくための決定的な鍵がそこにこそある、ということでもあるのです。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」とか、「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています」という言葉は、私たちが、自分の苦しみを、その最たるものが死ですが、それを信仰において受け止めていくための鍵となる、とても大切な言葉なのです。

イエスの命が現れる
 パウロは、自分の苦しみを、主イエスの十字架の死の苦しみと重ね合わせ、主イエスの苦しみにあずかることとして受け止めました。そこに、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」という驚くべき言葉を語ることができた理由があったのです。なぜなら、イエスの死を体にまとうならば、そこにはイエスの命がこの体に現れるからです。イエスのために死にさらされているなら、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるからです。それは主イエス・キリストの復活のゆえです。十字架にかけられ、苦しんで死なれた主イエスは、三日目に復活したのです。父なる神が、死の力とその支配を打ち滅ぼして、主イエスに新しい命を与え、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったのです。主イエスの十字架の死の苦しみは、苦しみの中で死んでしまってそれで終わり、ではありませんでした。その苦しみと死は、父なる神が与えて下さる復活と永遠の命へと繋がっていたのです。主イエスの苦しみを体にまとって歩み、主イエスと共に死に引き渡されることを通して、私たちも、主イエスに与えられた復活と永遠の命にあずかる者とされるのです。「イエスの命がこの体に現れる」とか「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」というのはそういうことです。その「イエスの命」とは、復活した主イエスの命です。自分の苦しみと死を、主イエスの苦しみと十字架の死と重ね合わせ、主イエスと共に苦しみ、死ぬこととして受け止めることによって、私たちの苦しみと死は、苦しみの中で死んでそれで終わり、ではなくて、父なる神が与えて下さる復活と永遠の命へと繋がるものとなるのです。苦しみと死を信仰において受け止めるようになるとはそういうことです。それによって私たちは、苦しみに満ちたこの世の人生を、神の救いの恵みの中で受け止め、それに支えられて歩んでいくことができるようになるのです。その時私たちもパウロと共に、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という驚くべき言葉を語ることができるようになるのです。それは私たちが何らかの力を得て、どんな苦しみにも負けずにそれを乗り越えることが出来る者になる、ということではありません。私たちの力で何とかしようといくら頑張っても、四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望し、虐げられて見捨てられ、打ち倒されて滅ぼされることにしかなりません。しかし、主イエス・キリストと結び合わされるならば、具体的には、主イエスを信じて洗礼を受け、キリストの体である教会に加えられるならば、私たちは自分の苦しみを、主イエスの十字架の死の苦しみにあずかることとして受け止めることができるようになります。そして、主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる者として下さった父なる神が、私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さることを信じて、そこに希望を置いて生きることができるようになるのです。14節にそのことが語られています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。この希望を与えられているがゆえに、私たちは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言うことができるのです。

主イエスの受難と復活を覚えて
 このみ言葉は、受難週を歩んでいくこの時に読むのに相応しいと最初に申しましたことの理由は既に明らかです。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」と言うことができるのは、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめ、そこに私たちの苦しみを重ね合わせることによってなのです。そこに、主イエスの復活にあずかって新しく生かされる希望が与えられるのです。主イエスの十字架の苦しみと死とを覚えて歩むこの受難週、私たちは、金曜日の主イエスの十字架の死を覚えると共に、来週の主の日のイースターを覚えてそれに備えていきます。受難週は、目前に迫ったイースターを待ち望み、それに備える週でもあるのです。主イエスの苦しみと死とを覚える時に私たちは、主イエスの復活をも共に覚えるのです。復活抜きに主イエスの苦しみと死だけを覚えるのではありません。また逆に復活を喜び祝う時にも、主イエスの苦しみと死を共に覚えるのです。十字架の死だけで復活を見つめないなら、そこには救いはありません。また十字架の苦しみと死を抜きにして復活だけを見つめるなら、その復活は私たちと関係のない他人事だし、何バカなこと言ってるのか、と一笑に付されることでしかありません。主イエスの十字架の苦しみと死は、その復活と分かち難く結びついているのだし、主イエスの復活は、私たちのための十字架の苦しみと死の帰結なのです。この両者が結びついていることにこそ私たちの救いがあるのです。そしてその主イエスの苦しみに自分自身を重ね合わせて、主イエスと共に苦しむことによって、私たちは、みすぼらしく壊れやすい土の器であるこの自分の中に、神が素晴らしい宝を納めて下さっていることを知らされるのです。その宝は私たちから出たものではありません。並外れて偉大な神の力によるものです。神はその並外れて偉大な力によって、独り子主イエス・キリストを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。その復活と永遠の命という宝を、私たちにも与えて下さるのです。そのことが実現するのは、私たちがイエスの死を体にまとうことによって、つまり自分がこの人生において味わっている様々な苦しみを、主イエス・キリストの十字架の死にあずかる苦しみとして受け止めることによってです。自分の苦しみが主イエスの苦しみと繋がっていることを覚えることによって、父なる神がその並外れて偉大な力によって主イエスに与えて下さった復活と永遠の命が、私たちの土の器にも注ぎ与えられるのです。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」という驚くべき恵みはそこに実現するのです。

イザヤ書第53章
 私たちがこの恵みにあずかって生きる者となるのは、いつもイエスの死を体にまとい、絶えずイエスのために死にさらされている者となることによってです。つまり、主イエス・キリストの苦しみと死とに自分を重ね合わせ、主イエスの苦しみと死にあずかり、主イエスと共に苦しむ者となることによってです。しかしどうしたらそうなれるのでしょうか。自分の苦しみを主イエスの苦しみと重ね合わせるとか、主イエスの苦しみにあずかるとか、主イエスと共に苦しむ者となるとか言われても、どうしたらよいのだろうか、と思います。そこで、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章に目を向けたいと思います。ここは、旧約聖書の中でも、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死のことを最もはっきりと語っている箇所です。イザヤはここで、自らの罪のゆえではなく、人々の罪を背負って苦しみを受け、死んだ人のことを語っています。3節に「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの人の痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」とあります。この人は、人々に軽蔑され、見捨てられ、無視されて死んだのです。私たち自身も彼を軽蔑し、無視していた、つまり、彼の苦しみと死は、自分には何の関係もない、何か悪いことでもしたので、バチが当たったのだろうぐらいに思っていたのです。しかしそうではありませんでした。4節にこうあります。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」。彼の苦しみと死は、私たちの病や痛みを背負っての苦しみであり死だったのです。さらに5節には「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けたこらしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。この人は、私たちが神に背き逆らっている、その罪のために苦しみを受け、私たちが受けなければならないはずのこらしめを代って受けてくれたのです。そのことによって私たちに平和が与えられ、癒しが与えられた、つまりこの人が私たちの罪を背負って苦しみを受け、死んでくれたことによって、私たちは赦されて、神との平和な関係を回復されたのです。8節にもこうあります。「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」。この人は私たちの背きを自分の身に背負って、私たちに代って神の裁きを受け、死んだのです。11節の後半にそのことがはっきりと語られています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」。私たちの罪をみずから背負ってこの人が死んでくれたことによって、私たちは神の前に正しい者とされたのです。12節の最後にも「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」とあります。私たち罪人のために神に執り成し、救いを実現するために、私たちの罪を全て担って死んで下さったこの人、それは主イエス・キリストです。主イエスの十字架の苦しみと死の意味が、このイザヤ書53章にはっきりと示されているのです。

主イエスは既に私たちの苦しみを背負って下さっている
 そしてここで注目したいのは、この人、つまり主イエスが、私たちの苦しみや痛み、罪を背負い、担い、引き受けて、苦しみを受け、死んで下さった、ということです。私たちが自分の苦しみを主イエスの苦しみに重ね合わせ、主イエスの苦しみにあずかって主イエスと共に苦しむ者となるために何かをする前に、主イエスが、既に、私たちの苦しみをご自分の苦しみとして背負い、担って下さっているのです。外から私たちに降りかかって来た苦しみだけではありません。私たちの罪を背負って下さったということは、私たちの罪の結果として生じている苦しみ、自分に原因がある、自業自得の苦しみをも、主イエスはご自分の苦しみとして担って、十字架にかかって死んで下さることによって、その罪の赦しを実現して下さったのです。だから私たちは、自分の苦しみを主イエスの苦しみに重ね合わせるために何かをする必要はありません。主イエスの方が、私たちの罪と苦しみの全てを、既にご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちはこの受難週にそのことを覚えて歩むのです。そして父なる神は、その主イエスを復活させて下さいました。神の恵みが、私たちの罪と、それによってもたらされている苦しみに既に勝利したのです。私たちはイースターにそのことを喜び祝うのです。主イエスの十字架の死と復活によって既に実現しているこの救いによって、私たちは、いつもイエスの死を体にまとって生きる者となり、そしてイエスの命がこの体に現れる者となります。そこに、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、という神の恵みが実現していくのです。

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