夕礼拝

聖なる者となりなさい

「聖なる者となりなさい」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第11章1―47節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章13―21節
・ 讃美歌 : 122、525

清い動物と汚れた動物
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書のレビ記を読み進めています。本日はその第11章よりみ言葉に聞きたいと思います。ここには、主なる神様がイスラエルの民に、これこれの動物は清いものだから食べてもよい、これこれのものは汚れたものだから食べてはいけない、という細かい規定をお与えになったことが語られています。1~8節は地上の動物についてのことで、ひづめが分かれており、反すうするものものは食べてもよい、と言われています。「反すう」とは、一度飲み込んだ食物をもう一度口の中に戻して噛むという、牛などの消化の仕方です。反すうすることと、ひづめが分かれていることが、食べてもよい、清い動物の印なのです。9~12節は水の中に住む動物についてです。ひれとうろこのあるものは食べてもよい、と言われています。13~23節は空を飛ぶ動物についてです。先ず、鳥の中でいくつかのものが、食べてはいけないものとして挙げられています。その基準ははっきりしませんが、いわゆる猛禽やふくろうのたぐい、また、こうのとりや青鷺、やつがしら鳥、こうもりなどが汚れたものとされています。また、昆虫の中で四本の足で動き、群れをなすものは汚れている、しかし後ろ足で跳ねるもの、つまりイナゴなどの類は食べてよいと言われています。24節からは今度は、動物の死骸に触れると人も衣服や器も汚れるからしかるべき処理をして清めなければならない、ということが語られています。食べてよい動物であっても、病気その他で自然に死んだ時には、その死骸に触れる者は汚れる、とも言われています。それらの汚れは、水で洗って落とさなければならないのです。その汚れは夕方まで続くと語られています。ユダヤの暦では日没から新しい日が始まりますから、夕方までということは、その日の内は汚れているということです。また29節以下には、爬虫類は汚れたものだということがずいぶんしつこく語られています。ユダヤ人はどうも爬虫類が嫌いなようです。このようにこの11章には、清いものと汚れているもの、食べてよいものといけないもの、触れると汚れるものについての規定が延々と語られているのです。聖書を通読していて、こういう章になると退屈していやになります。こんなことにいったいどんな意味があるのか、昔のイスラエルの人々にとっては大事なことだったかもしれないが、私たちの生活とは何の関係もないではないか、と思うのです。その問いはいちおう保留にしておいて、先ずは、これまで教会がこの箇所をどのように読んできたかを見ていきたいと思います。

合理的説明はない
 これらの、食べてもよいものといけないものについての掟を論理的に説明しようとする様々な説が立てられてきました。それはつまり、時代も生活様式も全く違う中を歩んでいる自分たちにも意味のある教えをこれらの掟から読み取ろうとする努力がなされてきた、ということです。例えば、ここで汚れたものとされている動物たちは、イスラエル以外の民族において、神々を祭る祭儀において使われていた犠牲の動物だった、という説があります。それらを「汚れたもの」とすることで、イスラエルの人々が他の神々の祭と関わらないようにすることがこの掟の目的だ、という考え方です。しかし実際には、イスラエルにおいて食用にされていた動物たちの中心である牛や羊や山羊は他の神々の祭においても一般的に用いられていました。他の神々の祭との関わりを避けるというなら、牛や羊をこそ「汚れたもの」としなければならなくなるのです。また、ここで食べてはいけないと言われている動物は、衛生的な面で食べない方がよいものだ、という説もあります。健康上よくないものが宗教的に汚れたものとされたのだ、というのです。しかしこれも、あまりに近代的な、人間中心の考え方を聖書に読み込もうとしている説明です。事実、ここで食べてはいけないとされている動物たちの中には、十分に食用になるものが含まれていますし、逆に食べてもよいと言われているものの中にも、あまり相応しくないものもあります。そういう観点からこの掟を説明してしまうことはできないのです。さらに、清いとされている動物たちは象徴的に信仰のあり方を示している、という象徴的解釈もあります。例えば、「反すう」するものが清いとされているのは、神様のみ言葉を繰り返しよく噛んで味わうという信仰の姿勢を表している、というようなことです。しかしここに語られている全ての掟をそのように象徴的に解釈することは無理です。それはもう勝手なこじつけにしかならないでしょう。このように、これらの掟における清いものと汚れたもの、食べてもよいものといけないものについて、合理的な意味を見出そうとする試みはどれも、帯に短し襷に長しで、納得できる説明にはなっていません。つまり、これらの掟を人間の論理で説明してしまうことはできないのです。清い動物と汚れた動物、食べてもよいものといけないものとの区別は、人間の考えにおいて、なるほどこれは清い、これは汚れている、と納得することのできるようなものではないのです。それでは、この区別はいったい何を表しているのでしょうか。

聖なる者となりなさい
 この区別の意味を読み取るために鍵となるのは、この章の最後のまとめの所、44節と45節です。そこをもう一度読んでみます。「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。主なる神は聖なる者であられる、それゆえに神の民であるユダヤ人も聖なる者とならなければならない、これが、この11章全体を、いやレビ記全体を貫いている基本的な信仰なのです。レビ記にはこういう言葉が繰り返し語られています。19章の始めの1、2節にも「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあります。20章の7節にも「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである」とあり、同じ20章の26節にも「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである」とあります。このように、主なる神様が聖なる方であられるから、その民であるイスラエルも聖なる者とならなければならない、というのがレビ記の教えなのです。本日の11章の、清いものと汚れたものの区別もそこから来ているのです。つまりこの区別は、人間の生活の都合や事情によって生じるものではなくて、神様の清さ、神様が聖なる方であられることから来ているのです。それゆえにこの区別は、人間にとってこれらの動物がどういう意味を持っているかとか、これらの動物自体がどういうものであるか、とくことを見つめていても分からないのです。主なる神様が聖なる方であられることを見つめることによってこそ、この区別の意味を正しく知ることができるのです。

「聖なる」とは
 主なる神様は聖なる方であられる、その「聖なる」とはどういうことなのでしょうか。聖書において「聖」という言葉はその根本に「分離」という意味を持っています。通常のものから分離されている、ということが、「聖なる」ということの根本的な性格なのです。ですから神様が聖なる方であられるというのは、神様はこの世の全てのもの、人間たちを超えた、分離された方であられる、ということです。それを難しい言葉で「神の超越」と言います。主なる神様はこの世界と人間の全てをお造りになった方であり、この世界は神様の被造物です。造った方である神様は被造物であるこの世界の一部となってしまうことはありません。創造主であられる神様は被造物であるこの世界や人間を超越しておられるのです。「神様は聖なる方であられる」というのは、この「神の超越」を語っているのです。ですから神様が聖なる方であられるというのは、光輝いているとか、神々しいとか、後光がさしている、というようなことではありません。それらのことは神の超越の一つの現れであって、「聖なる」の根本的な意味とは関係がないのです。

聖別
 さてそのようにもともと本来的にこの世を超えた聖なる方であられるのは主なる神だけですが、その神のものとなり、用いられていくことによって、本来は聖でない、清くない、この世の様々なものも「聖なるもの」、つまり神様のものとして一般のものから分離されたものとなるのです。それを「聖別する」と言います。例えば神殿の祭壇で用いられる器などは、神様を礼拝するために用いられるために聖別されて「聖なるもの」となるのです。このように、この世のものは、聖なる方であられる神様との関係によって聖なるものとなるのです。たとえどんなに立派な、高価な、美しいものでも、それ自体で聖なるものであることはできません。神殿の器は、それが立派で高価だから聖なるものなのではなくて、神様に属するもの、神様を礼拝するために用いられるものとして聖別されて聖なるものとなったのです。44節に「あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ」とありますが、この「聖別」もそういう意味です。つまりこれは、あなたたちは清く正しい者として生きることによって聖なる人間になれ、ということではなくて、自分が主なる神様に属するもの、主なる神様のご用に用いられる者とされていることをしっかり自覚して、他の者たちから自分を区別して歩め、ということです。聖なる方である神様との関係なしに人間が聖なる人間になることなどあり得ません。神様との関係にしっかり生きることによってこそ、もともと聖ではない人間が聖なる者となることができるのです。ですから、「聖なる者となれ」という命令の根拠は、聖なる方である神様が、彼らイスラエルを多くの民族の中からご自分の民として選んで下さったことにあります。そのことを語っているのが45節です。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である」。主なる神様はイスラエルの民を、奴隷とされ苦しめられていたエジプトから救い出し、解放して下さったのです。それはご自分が「あなたたちの神になるため」だったと言っておられます。主がイスラエルの神となり、イスラエルは主の民となる、それが、シナイ山で主がイスラエルの民と結んで下さった契約です。この契約によってイスラエルは聖別されて聖なる神の民とされたのです。先ほど読んだ20章26節の続きの所にそのことがさらにはっきりと語られています。「わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである」。主なる神様のこのみ業こそが、イスラエルが聖なる者であることの根拠なのです。「わたしが聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」というみ言葉は、この神様の恵みの事実にしっかり立って、それに相応しく生きなさい、ということです。つまりイスラエルが聖なる者となることの前提には、主なる神が彼らを選んで救い出し、ご自分のものとして下さった、つまり聖別して下さったという恵みがあるのであって、その神の選びと救いのみ業を抜きにしたら、彼らがどんなに努力しても、聖なる者となることはできないのです。

神様のみ言葉に従う
 それでは、イスラエルの民は聖なる者として生きるために何をしたらよいのでしょうか。それはただひたすら、神様に属する者、神様のご用のために用いられる者となって生きること以外にはあり得ません。自分が勝手に、「こういうことをすれば聖なる者となれる」と決めてしまうことはできないのです。今見てきたように、聖なる者であるかどうかは、自分がどれだけ良いことをしているか、どれだけ悪いことから遠ざかっているか、ということでは決まりません。自分の倫理的道徳的な生き方を自分で判断して、「まあいい線行ってるんじゃないか」と思ったらそれが「聖なる者」として生きている、ということには決してならないのです。聖なる者として生きるための唯一の道は、主なる神の民として、主の下で生きることです。イスラエルの民がそういう生活を日々の具体的な歩みの中でしていくために与えられたのが、この11章の食物に関する掟なのです。何を食べて生活するかということは、人間の生活の最も基本的なそして具体的な事柄です。そこにおいて、自分の判断でこれは食べられる、これは食べられないと決めるのではなくて、神様のみ言葉に従うのです。それこそが、主なる神の民として、主の下で生きることの最も具体的な現れです。そこにおいては、何故これを食べてもよいのか、何故これは食べてはいけないのか、という説明は問題ではありません。そういう合理的な説明によって納得しなければ気がすまないというのは、主の民として、主の下で生きようとしているのではなくて、自分が主人となって、自分の思い、考え、判断によって生きようとしていることの現れです。主なる神様の民として生きるなら、主のみ言葉に従って歩むのが当然です。そのみ言葉にどんな合理的な意味があるか、ということは、考えてもよいことですが、それによって従うか従わないかを決める、というものであってはならないのです。そのようなみ言葉への服従においてのみ、私たちは「聖なる者」として生きることができるのです。

主イエスによる救いによって
 レビ記11章に語られている食物に関する掟は、主イエス・キリストが来られたことによって廃止されました。主イエスは、例えばマルコによる福音書第7章18、19節においてこのようにおっしゃいました。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。ここに語られているように、主イエスは、食物によって人が汚れた者となることはない、とおっしゃったのです。それゆえに私たちは今、食事をする時に、このレビ記11章を気にする必要はありません。しかし、ここに語られている基本的な信仰のあり方、つまり、主なる神様が聖なる方であられるから、その救いを受け、神様の民とされている信仰者も、聖なる者でなければならない、ということは決して廃止されてはいません。このことを、新約聖書においてはっきりと教えているのが、本日共に読まれた、ペトロの手紙一の第1章13節以下なのです。その15、16節に、レビ記の言葉が引用されて、同じ趣旨のことが語られています。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」。私たちも、イスラエルの民と同じように、聖なる方であられる神様によって召し出され、神様の民とされています。その召しは、神様がその独り子イエス・キリストを私たちの救い主として遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦して下さったことによって与えられました。このことによって主イエスの父なる神様は、私たちの父なる神ともなって下さり、主イエスと共に私たちをも、神の子として下さったのです.つまり私たちを聖別し、神様に属する者、神の民として下さったのです。それが、主イエスによって実現した新しい契約です。私たちは、新しい契約によって新しく神の子、神の民として聖別された者として、聖なる者となって生きるのです。

救いの完成を待ち望みつつ
 私たちが聖なる者となって生きていくとは何をすることでしょうか。先ほども申しましたように、私たちは、「これが聖なる生活だ」ということを自分で勝手に決めてしまってはならないのです。神様に属する者として生きるのが聖なる生活ですから、神様のみ言葉に聞き従わなければなりません。神様のみ言葉は私たちに何を告げ、どのような生き方を教えているのでしょうか。そのことが、このペトロの手紙一の1章13節以下に語られているのです。先ず13節に、「だから、いつも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と言われています。心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを待っている、それが聖なる者として生きることです。「イエス・キリストが現れるとき」とは、主イエス・キリストがもう一度この世に来られ、主イエスによる救いが完成する時です。その時に、今のこの世は終るのです。ですからこれは、世の終わりに与えられる恵みを待ち望むことです。それを「ひたすら待ち望」んでいる、これこそが、神様のみ言葉に従って生きている、聖なる者の姿です。聖なる者というのは、人々が尊敬するような立派な行いをする者というよりも、神様が、世の終わりにおける救いの完成を約束して下さった、その約束を神様のみ言葉であるがゆえに固く信じて、それをひたすら待ち望みつつ生きる者なのです。14節には「従順な子となり」とあります。神様が独り子主イエスによって私たちを子として下さった、だから子として父なる神に従順であろうとする、それが聖なる者です。従順であろうとするとは、17節にあるようなことです。「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」。私たちの父となって下さった神様は、人を公平に裁く方です。子供だからといって我が儘を許すのではなくて、子供をも他の人と同じく公平にお裁きになるのです。そういう父の下で、畏れの心を持って生きる、それは怖がってビクビクすることではなくて、父の愛による導きを信じて歩み、自分が間違った道に進んでしまう時には、この父が厳しい、しかし愛の鞭によって正してくれることを忘れずに生きることです。そのように、神様の前で、畏れかしこむ思いをもって生きることこそ、従順な子としての、聖なる者としての生活なのです。

信仰と希望に生きる
 18~20節には、主イエス・キリストによってどのような救いが与えられたかが語られています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」。先祖伝来のむなしい生活、それは、まことの神を知らずに、神に属することなく、自分が主人となって生きていた生活です。それはむなしい、本当の充実と喜びのない生活でした。私たちはそのむなしい生活から、主イエス・キリストの尊い血によって、つまり主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって贖い出されたのです。主イエスの十字架の死によって私たちは罪を赦され、神様に属する者、神の子とされたのです。さらに21節には「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」とあります。父なる神様は主イエスを死者の中から復活させて下さいました。そこに、私たちの真実の希望があります。私たちを神の子として下さった神様の恵みは、肉体の死によっても失われてしまうことはないのです。主イエスに与えられた復活の命が、私たちにも約束されていることを、私たちは信じて生きることができます。それこそが、聖なる者として生きることなのです。
 神様は独り子イエス・キリストによって、ご自分が聖なる方であられることを示して下さいました。この聖なる神様によって選ばれ、信仰を与えられ、救いの恵みにあずかっている私たちは、聖なる者として生きることができます。「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」、この神にかかっている信仰と希望に生きることこそが、聖なる者として生きることです。食べ物を選ぶことによってではなくて、主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは聖なる者として生きるのです。

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