主日礼拝

蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ

「蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ミカ書 第6章13-16節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章31-38節
・ 讃美歌:8、327、403

<刈り入れ>
 作物を収穫する「刈り入れ」は、喜びの時です。種を蒔き、畑を耕し、世話をして、時をまって、実が豊かに実る。それをとうとう収穫するのです。収穫は、これまで汗水流して働いた労苦の実りを刈り取る時であり、労働の成果を目に見えるかたちで手にする時です。
 
 わたしは小学生の時に、農業体験というのがあって、お米の苗を植えるところと、最後に稲を刈り取るところだけ体験させてもらったことがあります。6月くらいに、すでに耕されて水がはってある田んぼに入り、泥んこ遊びを楽しむように手で苗を植えます。次は、9月ごろに再び訪れて、すでにたわわに実った稲穂を鎌で刈らせてもらうのです。それはただただ、とっても楽しい作業でした。でもその間に、苗を育て、耕し、肥料をやったり、草を取り除いたりする、手間暇をかけた作業を、農家の方がすべてして下さっていたのは、言うまでもありません。でも、小学生はそんなことは耳で聞くだけで、苦労せずに、一番楽しくてやりがいのあるところだけ、体験させてもらったのです。

 今日、ヨハネ福音書で主イエスが弟子たちに語っておられたことは、「たとえ」ですが、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」、「『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる」と言っておられます。
 ある人が種を蒔き、労苦して実らせたものを、別の人が収穫する。そして、蒔いた人も、刈り入れて収穫した人も、一緒に喜ぶのだ、というのです。
 そして、主イエスは弟子たちに、自分で労苦しなかったものを刈り入れるために、あなたたちを遣わす、と仰っています。
 弟子たちは、他の人が一所懸命種を蒔き、働いて、労苦して、やっと育てた作物を、ただ刈り入れる。一番楽しくて嬉しいところだけ、美味しいところ取りする、ということです。

 そして、主イエスの弟子たちとは、今教会に集って、主イエスの御言葉を聞いているわたしたちのことでもあります。わたしたちは、他の人が種を蒔いて労苦した実りを刈り取るために、主イエスに遣わされている。そして、一緒に喜ぶのだ、と言われているのです。
 それはどういうことで、どういう喜びなのでしょうか。また、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」というのは、どういう意味なのでしょうか。

<裁きの預言>
 主イエスが言っておられるこの「ことわざ」は、本日読んだ旧約聖書のミカ書6:15に書かれている御言葉です。その前後を合わせて、もう一度読んでみたいと思います。ミカ書の6:13~16をお読みします。

 「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく」という所が、主イエスが引用された箇所です。お気付きになったかと思いますが、ミカ書において語られていることは、主イエスが言っておられるような喜びのことではありません。13節に「わたしも、お前を撃って病気にかからせ/罪のゆえに滅ぼす」と言われているように、ミカ書では、神に対して逆らい背く、罪の中にあるイスラエルを神が告発しておられ、その報いを与える、ということを語っておられるところなのです。

 神は、イスラエルの民を選び、エジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖って下さいました。イスラエルの民が優秀だったからとか、強い民だったからとか、素直な民だったから、そうして下さった、という訳ではありません。選ばれる理由はないのに、ただ神が一方的に、恵みによって、イスラエルの民を選んで下さったのです。神は、そうしてイスラエルを愛し、憐れみ、契約を結んでご自分の民となさいました。神は、この契約に忠実な方です。ご自分の民を救うためなら、何でもして下さる方です。

 一方で、イスラエルの民は、契約の関係にあるからと言って、神に対して対等に何かをしてあげる、などということは一切出来ません。ただ、神の恵みを受けて、感謝して生きるのみです。
 神がイスラエルの民に望んでおられるのは、ミカ書6:8にあるように「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」と言われています。
 正義を行ない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと。これだけが、神がイスラエルの民に求めておられることなのです。

 しかし、イスラエルの民は、神からたくさんの愛と恵みを受けていながら、それを忘れ、神と共に歩もうとしません。他の偶像の神を拝んだり、別のものを神として頼ったりする。不正を行ない、偽りを語って歩んでいる。神は共に歩むことを望んでおられるのに、民は、神から離れて歩んでいるのです。
 神は、そのことをお許しになりません。神から離れることは、命の源である神の恵みから自ら離れようとすることです。神は、その御力をもって民を生かしておられるのに、民は自分で死へ、滅びへと向かっていきます。ですから神は、選び、愛し、生かした民が、ご自分から離れることを、激しく怒り、厳しく裁かれるのです。

 神から離れた罪の報いは、イスラエルにとって絶望的な状況を語ります。ミカ書6:15「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく/オリーブの実を踏んでも/その油を身に塗ることはない。新しいぶどうを搾っても/その酒を飲むことはない。」
 ミカ書において、「種を蒔いた」のはイスラエルの民です。しかし、彼らが種を蒔いても、汗水流して働き、育て、実らせても、それを自分で刈り入れることができない。彼らが実らせたものを、他の者が目の前で刈り取り、奪っていく、ということが語られています。ここには虐げられ、苦しめられるイスラエルの姿が描かれているのです。
 彼らは、自分たちでどんなに努力をしても、労苦しても、何も得ることは出来ません。それは、彼らを守り、養い、命を与えて下さっていたのは神であったのに、その神から離れたからです。ここで「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく」と語られているのは、神に背いたイスラエルの民に告げられている、裁きの言葉なのです。

 しかし、主イエスはこの箇所を、そのような意味では用いられませんでした。この裁きを宣言する御言葉を、喜びの御言葉として語って下さったのです。
 主イエスは、ミカ書に語られている言葉の上辺だけ取って、上手く引用したのでしょうか。ミカ書において語られている意味を無視したのでしょうか。そうではありません。

 なぜ、主イエスは新しい意味をお語りになることが出来るのか。この裁きの御言葉が、喜びの御言葉に変わると言って下さるのか。
 それは、イスラエルの民、そしてすべての人の、神に背いた罪に対する、すべての裁き、すべての怒りを、神の御子である主イエス・キリストがすべて代わりに引き受けて下さるからです。主イエスご自身の上に、民の罪に対する裁きは実現したのです。

<主イエスの食べ物>
 そのことを覚えて、今日の新約聖書のヨハネによる福音書の箇所をもう一度見てみましょう。今日の箇所が書かれている4章以下は、有名な「サマリアの女」の話の部分です。サマリア人とは、ユダヤ人と異邦人との混血が進み、純粋な民ではないといって、ユダヤ人が軽蔑し、排除していた人びとです。

 主イエスと弟子たちは、そのようなサマリアの町に入りました。弟子たちは食べ物を買いに行っており、主イエスはお一人で井戸のそばに座っておられました。そこにサマリアの女の人が水を汲みにきたので、「水を飲ませてください」と頼まれたのです。
 ユダヤ人であるイエスさまがサマリアの女に声をかけるということは、当時のユダヤ人とサマリア人の関係からすれば、常識では考えられないようなことでした。
 しかも、主イエスはこのサマリアの女との会話の中で、ご自分こそ、渇くことがない水、永遠の命にいたる水を与えてくださる、救い主であることをお語りになったのです。
 サマリアの女はそのことを聞いて、4:28にあるように、町に行って人々に「もしかしたら、この方がメシアかも知れません」と言い広めました。それを聞いたサマリアの町の人々は、そのことを聞いて、主イエスのもとへ、ぞくぞくとやって来たのです。

 主イエスがサマリアの女と話しておられるところに、弟子たちは食べ物を手に入れて帰ってきました。そこからが今日の箇所ですが、主イエスとの会話が終わって、女が町へ立ち去ると、弟子たちは「ラビ、食事をどうぞ」と勧めました。わざわざ町まで行って食べ物を買ってきたのです。しかし、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。そして、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行ない、その業を成し遂げることである」と仰ったのです。

 主イエスが、御自分をお遣わしになった、天の父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げられる。そのことが、人の命を生かす、主イエスの食べ物である、と言われました。
 その神の御心は、ヨハネ福音書の6:38~40にはっきりと書かれています。
 「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 主イエスが、この永遠の命にいたる食べ物を用意して下さいます。そのために、父なる神の御心を行って下さる。救いの御業を成し遂げて下さるのです。
 4:34に、「その業を成し遂げることである」と書かれていますが、主イエスはまさに、十字架の上で、「成し遂げられた」と語られました。主イエスが、父なる神の御心を成し遂げられたのは、まさにこの十字架によるご自分の死であったのです。
 ヨハネ福音書の19:28~30には、こうあります。
 「この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 このようにして主イエスは、十字架の死によって神の御心を成し遂げられ、人の罪を赦し、人が永遠の命を得ることができるように、その食べ物を用意されたのです。
 それは、罪によって命の源である神から離れ、渇く人々を潤すための「永遠の命の水」です。また、枯れて滅びゆく人々に実らせる、「永遠の命に至る実」です。
 主イエスが十字架の上で「渇く」と言い、「成し遂げられた」と叫ばれた。まさにその御業において、主イエスを信じる人に、わたしたちに、永遠の命と復活を与えて下さるのです。
 主イエスは、このご自分の成そうとしておられる業を、この時すでに見つめておられたのでしょう。

 ミカ書において、神は裁きを告げられましたが、それでも御自分に逆らった民が滅びることを良しとされませんでした。神は、民と結んだ契約をお忘れになりません。この民を救うため、そして、この民を通して、地上のすべての人々を祝福するという約束を実現するために、神は御子イエスを、この地上に遣わして下さったのです。
 そのために主イエスは、罪がないお方であるのに、十字架に架かって死なれます。ミカ書で告げられた、民の罪に対する裁きの苦しみを受けられたのは、撃たれたのは、渇きと空腹を味わわれ、殺されたのは、このお方でした。
 主イエスは、そのようにご自分の命によって、逆らった民と、また神から離れて歩んでしまうわたしたちすべての罪を贖い、神の赦しを得させて下さいます。そして、父なる神は、主イエスを死者の中から復活させられ、主イエスの罪の赦しを信じた者に、この方の復活の命をも与えて下さる。滅びを免れさせ、永遠の命を与えて下さるのです。

 主イエスがこのようなお方であり、父なる神の救いのご計画、憐れみの御心を、ご自身の御業において実現して下さる方であるからこそ、主イエスはミカ書の裁きの言葉を、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」という、喜びを告げる御言葉として、語って下さったのです。

<あなたがたを遣わす>
 しかし弟子たちは、まだ主イエスの成そうとしておられること、神の御心を分かっていません。肉の糧の食べ物のことを考え、目の前のことだけを見つめ、不平を言ったり、つぶやいたりしています。本日の箇所の4:35で「あなたがたは『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか」と主イエスが言われているのは、そのことです。
 わたしたちも、救いにあずかった後、教会において伝道という業に仕えながら、日本では中々伝道が進まない。洗礼を受ける人が少なくなり、クリスチャンの人数が全然増えない。そんな風に言って、目の前の現実に暗くなったり、不平不満を言ったり、落ち込んだり、無力感を感じたりしているかも知れません。

 しかし、教会が世の人々に伝えようとしていることは、この主イエス・キリストという方が、すでに十字架と復活によって、成し遂げて下さった「救い」です。
 わたしたちが、人を救ったり、罪を赦したりするのではありません。救いは、御子が父なる神の御心に従って、成し遂げて下さいました。種を蒔き、すべての人々の内に「永遠の命に至る実」を実らせて下さるのは、主イエスです。それを、あなたたちが刈り取って集めてきなさい、教会へと招き、この群れに加えていきなさい、と言われているのです。

 主イエスは、目を上げてごらん、と仰る。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。もう収穫できるほどの実りが、目の前にあるではないか。そうおっしゃるのです。
 弟子たちが食べ物を用意している間にも、主イエスから永遠の命が流れ出し、異邦人であるサマリアの女がその恵みに捕らえられた。またその女が町の人々にそのことを伝え広めて、今、サマリアの町から多くの人々が主イエスのもとに集まってきている。主イエスの永遠の命が、町の人々へも行き渡ろうとしている。
 神に選ばれたイスラエルから始まり、サマリア人にも、すべての異邦人にも、世界のすべての人々にも注がれていく恵みです。主イエスはそれを見ておられる。こうして主イエスの御業によって、新しい神の民が興されているのです。
 弟子たちはまだそのことを見つめていませんが、主イエスの目の前では、確かに、神の御心が実現しはじめているのであり、大きな天の喜びが溢れ出そうとしているのです。それを見なさい、と仰る。

 人びとを永遠の命を実らせるために、種を蒔き、労苦をなさったのは、そして、御業を成し遂げられたのは、主イエスご自身です。主イエスは御自分の労苦によるこの実りを、心から喜んでおられます。
 そして、先に主のもとに集められた弟子たちに、教会に連なるわたしたちに言われます。この収穫の喜びに、あなたたちも与りなさい。あなたたちを、この既に豊かに実っている、色づいて刈り入れを待っている畑に送り出すから、あなたたちが刈り入れ、集めてきなさい。そして、わたしと共に喜ぼう。そのように言って下さるのです。主イエスの御業を手伝うことを許して下さる。一番恵みを実感する、喜びの頂点の部分を、弟子たちに、わたしたち教会に、委ねて下さるのです。
 そして、この「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざが、喜びの御言葉となり、真実となるのです。

 だからわたしたちは、教会は、主イエス・キリストの福音、成し遂げて下さった救いの御業を宣べ伝え、人々を教会へと招きます。一人でも多くの人が、主イエスがすでに成し遂げて与えて下さった、罪の赦しと、永遠の命を、信じ、受け入れるように祈るのです。
 主イエスは「目を上げて畑を見るがよい」と言われる。わたしたちの周りを見てみましょう。苦しみの中にいる知人も、それぞれの職場の人も、友人も、家族のためにも、主イエスはすでに、救いの御業を行って下さっています。そして今も聖霊によって語りかけ、招いておられます。
 わたしたちは、刈り入れのために、実を集めるために、その人たちのもとに、主イエスによって遣わされています。強引でなくても、日々その人々のために祈り、執り成すこと。神がその人を愛しておられることを、わたしたちが愛することで伝えること。敵対する者にも、主イエスがまさに神に敵対するわたしたちを赦すために、十字架に架かって下さったのですから、その主イエスに依り頼んで祈りに覚えていくのです。
 その教会の業、そしてわたしたちの祈りの業を用いて、神が実りを与え、信仰を与え、刈り入れの時を備えて下さり、その人々が、教会の群れに加えられていくことを、信じていきたいのです。

<共に喜ぶ>
 主イエスは、4:39で、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」と語られました。
 ここで「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と訳されているところは、直訳すると「他の人々が労苦し、あなたがたは彼らのその働きの中へと入っている」となっています。主イエスは、弟子たちを、そしてわたしたちを、神の働き、神の御業の中へと招いて下さいます。
 一人の人が、罪を赦され、永遠の命を得る。これは神の業であり、わたしたちには出来ないことです。しかし、この御業の中に、神がわたしたちを引き込んで下さる。共に喜ぶために、わたしたちを遣わし、用いて下さるのです。

 「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」。ミカ書の、神に背いたわたしたちへの裁きの御言葉は、主イエスによって、神と共に喜ぶ恵みを告げるものとなりました。
 本当は労苦したものを奪われ、飢え渇き、踏み躙られるのは、神の恵みを忘れて背いたわたしたちであったのに、主イエスが、御業を成し遂げて下さることによって、神の御心によって、罪を赦され、永遠の命を与えられ、神の畑の刈り入れに喜んで参加する者とされているのです。

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