夕礼拝

エフタの苦悩

「エフタの苦悩」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:士師記 第11章1-40節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章32-34節
・ 讃美歌:10、527

士師エフタ
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いています。本日はその第11章です。ここには、エフタという名の士師の物語が語られています。士師とは、イスラエルがまだ王国になる前、十二部族の緩やかな連合体だった時代に、国が他民族に攻められ、危機に陥った時に、主なる神によって立てられ、敵と戦って国を守った英雄たちです。その一人であるエフタのことを本日共に読むわけですが、1節に彼のことがこのように語られています。「ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである」。ギレアドという名が二度出てきますが、最初のは地名、後のは人名です。ギレアドの地に住むギレアドという人の息子がエフタだったのです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の3「カナンへの定住」を見ていただきたいと思います。真ん中をヨルダン川が南北に、キネレト湖、新約聖書においてはガリラヤ湖から塩の海、死海に向けて流れています。そのヨルダン川の東側にギレアドという地名があります。このあたりの南北に広い地域をギレアドと呼ぶようで、そのギレアドを南北に分ける境がヤボク川です。またギレアドの南の端にはアルノン川があります。この二つの川の名が本日の11章に出てきます。また、エフタが戦った敵はアンモン人ですが、それはこのギレアドの東側に位置している民族です。このアンモン人が攻めて来て、ギレアドの地をイスラエルの民から奪おうとした、それに対してエフタに率いられたイスラエルが戦ったのです。

アンモン人とイスラエル
 アンモンとイスラエルの対立ですが、12節以下に、アンモン人の主張とそれに対してエフタが答えたイスラエルの反論が語られています。アンモン人の主張は13節から分かるように、イスラエルがエジプトから出てきてこの地に住みついた時に、自分たちの国土を奪ったからそれを返せ、ということです。それに対するエフタの答えは14節以下です。彼が言っているのは、イスラエルはアンモン人の国土を奪ってはいない、ということです。このギレアドの地は、元々アモリ人の地だった、モーセに率いられたイスラエルが戦ったのはアモリ人であって、彼らとの戦いに勝って、22節にあるように「こうしてイスラエルは、アルノンからヤボクまで、荒れ野からヨルダンまでのアモリ人の全領土を占領した」のだ。そしてもうそこに三百年住んでいる。アンモン人から土地を返せと言われる筋合いはない、ということです。このイスラエルの主張において大事なのは、主なる神がこの土地を得させて下ったのだ、ということです。24節に「あなたは、あなたの神ケモシュが得させてくれた所を得、わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得たのではなかったか」とあります。それぞれの国土は、それぞれの神によって与えられたものだと言っているのです。折りあらば領土を拡大しようとしているアンモン人に対してイスラエルはこの信仰における主張をもって対抗したのです。

主が得させて下さった場所で生きる
 このような箇所を読む時に気をつけなければならないのは、ここに語られているような領土理解を、今日の国際政治問題に当てはめて考えてはならない、ということです。領土は神によって与えられている、という考え方のゆえに、パレスチナ問題は泥沼の対立が続き、いつまでたっても解決されないのです。民族間の対立や領土争いは歴史的、社会的な、つまり人間の間のいろいろな要因によって起っているもので、そこに神を持ち出して白黒つけようとするのは危険なことです。ですから旧約聖書に語られているイスラエルの領土を今日のイスラエル共和国に当てはめるべきではありません。このような箇所から私たちが読み取るべきことは、国の領土、国境線の事柄ではなくて、私たちは神が与えて下さった場、あるいは範囲の中で生きているのだ、という信仰です。私たちはそれぞれ神から、自分の生きる場、範囲を与えられています。それは物理的な住む場所というだけでなく、社会の中での立場、働きであったりします。それによって、自分の権限や影響力の及ぶ範囲が違っていたりするのです。私たちは、神が与えて下さったいろいろな意味での場所、範囲の中で生きているのです。自分に与えられている場所、範囲について私たちは不満を覚えることもあるし、その狭さを嘆くこともあるし、逆にその広さに戸惑うこともあります。大事なことは、自分の生きている場、与えられている範囲を、神がみ心によって自分に与えて下さったものとして受け止め、同時に他の人に神が与えておられる場、範囲をお互いに認め合っていくことです。神が得させて下さった場所で精一杯生きる、そのように自分の人生を受け止めることが信仰なのです。
 さらにこの24節の言葉は、間違って受け止めてしまうと、イスラエルの神である主と、ケモシュに代表される他の神々とを同列に置いて、イスラエルの担当が主なる神、他の民族の担当は別の神々というふうに、主なる神を神々の一人として相対化してしまうようなことにもなりかねません。しかしそれは聖書が語っていることではありません。聖書は、主なる神こそが天地の全てを創造し、支配しておられる唯一のまことの神であると語っています。その唯一の神がイスラエルの民を選び、契約を結んでご自分の民として下さったのです。ですから24節は、主なる神とケモシュは同列だと言っているのではなくて、「わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得た」ということ、唯一の神である主こそが自分たちをご自分の民として導いて下さっているのだ、ということを語っているのです。

主なる神への誓いによって
 さてアンモン人がこのようにギレアドの地を攻め取ろうと攻撃を仕掛けて来た中で、ギレアドの長老たちはエフタをイスラエルの指揮官として立てようとしました。そのエフタは1節にあったようにギレアドの息子でしたが、「遊女の子」、つまり正妻の子ではない私生児だったのです。そのために、正妻の子どもたちから差別され、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言われて追い出されてしまいました。それでエフタは3節にあるようにトブの地に身を落ち着けましたが、彼のもとには「ならず者」が集まって来ました。エフタはごろつき集団の頭になったのです。兄弟たちから遊女の子と差別され、蔑まれて育ったエフタは、人々や社会に対する不満、憎しみを抱くようになり、同じような不満を持った者たちが彼の周りに集まったのです。彼らはおそらく、荒れ野を行く隊商を襲って略奪をすることによって生活していたのでしょう。要するにエフタは強盗集団の頭目だったのです。
 ところが、アンモン人に攻められて危機が迫ると、ギレアドの長老たちは、このエフタに自分たちの指揮官になってもらおうとします。戦いにおけるエフタの力や勇敢さは有名になっていたのでしょう。アンモン人と戦えるのはこの男しかいない、この際背に腹は替えられない、毒をもって毒を制すだ、と考えたのです。エフタはその求めに対して、「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか」と断りましたが、長老たちは「わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の頭になっていただきます」と言いました。エフタはその申し出を受けるわけですが、その時「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭になるというのですね」と確認しています。長老たちは「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と答えました。これは主なる神の前での、主を証人としての誓い、約束です。主なる神の前で語られた約束によって、エフタはイスラエルの指揮官となったのです。主なる神の前での誓いは必ず果たされなければなりません。このことは、この後の話への伏線となっています。

エフタの誓い
 先程見たアンモン人とのやり取りを経て、いよいよ戦いが始まる29節に「主の霊がエフタに臨んだ」と語られていることが大事です。これによって、エフタがただ人間の思惑によってこの戦いに臨んだのではなくて、そこには主なる神のみ心があり、主の霊に導かれて彼は戦ったのだ、ということが示されています。つまりエフタは士師として立てられたのです。強盗集団の頭だったエフタが、主によって士師として立てられ、神の民イスラエルの指導者とされたのです。その戦いに臨むに際してエフタは、主なる神に一つの誓いを立てました。30、31節です。「エフタは主に誓いを立てて言った。『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします』」。これは一種の願掛けのようなものです。しかし彼はこれを主なる神への誓いとして語りました。彼が誓ったことは、自分が凱旋した時、家の戸口から最初に迎えに出て来る者を、焼き尽くす献げ物とする、つまりその者を殺して焼いて神に献げる、ということでした。これは要するに、人を殺して犠牲として献げるということです。自分に勝利を授けてくださるなら、人一人の命を神に献げます、と言ったのです。これは主なる神が求めたことではありません。主はむしろ、このようなことを忌み嫌っておられるのです。主は、動物をいけにえとして献げることをお命じになりました。それが旧約聖書の時代の礼拝の中心だったのですが、それは、人間をいけにえとしてはならない、という主のみ心の現れでした。例えば、罪を犯した者がその贖い、罪の赦しを得るために動物の犠牲を献げるべきことが律法で定められています。それは、自分自身の命をもって償いをすることの代わりとしてです。本来は、罪を犯した者自身が自分の命によって償いをしなければならないのです。しかし主は、その人の代わりに牛や羊などが献げられ、それによってその人の罪が赦され、生きることができるようになることを望んでおられるのです。それが主なる神のみ心です。それゆえにイスラエルにおいては、人間をいけにえとすることは固く禁じられていました。そのようないわゆる人身御供の風習は、イスラエルの周囲の他の民族においてはけっこうなされていて、イスラエルの人々もそれに影響されてそのようなことをしてしまうことがありました。それで、聖書のあちこちに、イスラエルにおいてはそういうことは絶対にあってはならない、それは忌むべき異教の風習である、ということが繰り返し語られているのです。エフタは、そのように主なる神が最も忌み嫌っておられることを誓ってしまったのです。

主への誓いの重さ
 その結果、彼自身が大きな苦しみを負うことになりました。アンモン人との戦いは、32節にあるように、主が彼らをエフタの手にお渡しになったので、大勝利となりました。エフタが意気揚々と自分の家に帰って来た時、彼のただ一人の子である最愛の娘が真っ先に迎えに出たのです。35節にこのようにあります。「彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。『ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない』」。彼はあの誓いを立てた時、こんなことになるとは夢にも思っていませんでした。自分を迎えに出るのは召し使いか奴隷の誰かだろう、そいつを犠牲にしよう、ぐらいに考えていたのでしょう。ところが迎えに出たのは最愛の娘だった。彼は自分の誓いに縛られて、最愛の娘を殺して焼き尽くす献げ物としなければならなくなってしまったのです。
 ここに語られていることの一つは、主なる神の前で誓うことの重さです。主に対して誓った以上、それはたとえ最愛の娘を犠牲にすることでも果たさなければならないのです。主なる神の前で誓うとはそういうことなのです。私たちも、主なる神の前で誓いを立てます。洗礼を受ける時に、主なる神とその独り子イエス・キリストによる救いを信じ、教会の一員となって生涯を歩むという誓いを主に対して立てるのです。あるいは牧師が教会に就任する時に、牧師も、迎える教会員も、それぞれに務めをしっかりと果たすことを主の前で誓うのです。長老、執事への任職の時もそうです。あるいは教会における結婚式においても、夫婦として生きることを主の前で誓うのです。主なる神の御前でのこれらの誓いの重さを私たちはしっかり受け止めなければなりません。それはまさに命がけで守るべき誓いなのであって、自分の気持ちや事情や都合で「やっぱりやめた」などということは許されないものなのです。
 このことを最も誠実に受け止めたのはエフタの娘でした。彼女は36節でこう言っています。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから」。この言葉に私たちは驚きます。彼女は大いに嘆き悲しみつつ、しかし父が主に対して立てた誓いを守るために死んでいったのです。主に対する誓い、しかも自分が立てたのではなくて父が立てた誓いを重く受け止め、そのために自らの死を受け入れようとしているこの娘の姿は何とも哀れであり、健気です。イスラエルの娘たちが毎年四日間、彼女の死を悼むようになったと最後のところに語られているのはよく分かることです。

なぜあのような誓いを?
 私たちはそのようにこの娘の健気さに一方で感動しつつ、しかしもう一方では、これはひどい話だと憤慨をも覚えるのではないでしょうか。主なる神に誓ったからといってどうしてこんなことが起らなければならないのか、このようなことを求める神はあまりにもひどいではないか、と思うのです。しかしそこで冷静になって考えなければならないのは、主なる神はあのような誓いをエフタに求めたこともなければ、娘をいけにえとして献げよと命じたこともない、ということです。この悲劇は、エフタが、主のみ心に反してあのような誓いを立てたことによって起ったのです。彼は何故あのような罪つくりな、自分をも娘をも苦しめる誓いを立ててしまったのか、そのことを私たちはよく考えなければなりません。彼は、一世一代の大きな戦いに臨もうとしていたのです。それは、主なる神が共にいて下さらなければとうてい勝利することのできない困難な戦いでした。そういう困難を目前にして彼は、主なる神による確かな支えが欲しかったのでしょう。そのためにあのような誓いを立てたのです。そこには、神の確かな支え、守りを得るためには、自分も何か特別なものを神に献げなければならない、犠牲を払わなければならない、という思いがありました。それで、凱旋した自分を最初に迎えに出た者を献げる、という誓いを立てたのでしょう。それが最愛の娘になるとは夢にも思わずに、です。このエフタの思いは私たちにもよく分かるのではないでしょうか。苦しみや悲しみや人生の危機、あるいは大きな転機に直面する時、私たちは今こそ神さまから特別な恵み、守り、支えをいただきたい、と切に思います。そしてそのためには、何か特別なものを神にお献げしなければ、犠牲を払わなければ、と思うのです。こちらが何もせずに、ただ恵みだけをいただくことはできないだろう、恵みをいただくには、自分もそれなりの犠牲を払わなければならない、そういう思いはある意味自然です。しかしその根本にあるのは、神と取引をしようという思いです。こちらがこれだけのことをするから、神さまもこうして下さい、という思いです。私たちの信仰はともすればそのように、神と取引をするような感覚に陥ることがあります。エフタの悲劇はまさにそこから始まっているのです。彼は神に特別なものを献げることによって恵みを勝ち取ろうとしたのです。その結果、最愛の娘を殺さなければならない苦しみに陥ったのです。このことは、人間が神と取引をしようとすることの愚かさを示しています。神と取引をして恵みを得ようとするなら、私たちは、最も大事な、かけがえのない、命より大切なものを差し出さなければならなくなるのです。
 しかし主なる神は、取引によって恵みをお与えになる方ではありません。私たちがどれだけのものを献げたかによって、それに応じて恵みをあたえるようなことはなさいません。神はエフタがこのような誓いを立てなくても、共にいて彼の戦いを導き、勝利を与えて下さったのです。「主の霊がエフタに臨んだ」のは、彼があのような誓いを立てたからではありません。神はご自分の民イスラエルを愛しておられ、そのイスラエルを救うためにエフタを士師として選び、立てて下さるのです。そのためにご自分の霊を彼に注ぎ、力を与えて下さるのです。エフタは、この神の愛と恵みを信じて戦いに臨めばよかったのです。あのような誓いを立てたのは、彼が神の愛と恵みを完全に信頼することができずに、神と取引をしようとしたということです。そのためにこの悲劇は起ったのです。

独り子の命を犠牲にして下さる神
 主なる神は、人間の命をいけにえとして献げることなど求めてはおられません。むしろそのようなことをお嫌いになっているのです。いやそれだけではありません。私たちは新約聖書によって、主なる神が、ご自分の独り子主イエス・キリストの命を、私たち罪人の救いのために犠牲にして下さったことを知らされています。神の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。神の独り子のこの犠牲によって私たちは罪を赦され、新しく生かされ、神の子として生かされているのです。この救いの恵みは、私たちが神に何か特別なものを献げたことの見返りとして与えられたものではありません。私たちはこの恵みを受けるために何もしてはいないのです。何もしていない私たちに、主なる神がただ恵みによってこの救いを与えて下さっているのです。エフタは、神と取引をして恵みを得ようとしたために、最愛の独り子である娘の命を犠牲にするはめに陥りました。しかし主なる神は、恵みのみ心によって、最愛の独り子の命を私たちのために犠牲にして下さったのです。エフタとその娘が味わった苦しみ、嘆き、絶望、それは実は主なる神が私たちのために、私たちへの愛のゆえに、ご自分の身に引き受けて下さった苦しみ、嘆き、絶望なのです。

エフタの苦悩
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第11章32節以下には、信仰によって生きた多くの人々の名前が挙げられており、その中にエフタの名前もあります。しかしエフタは果して信仰によって生きた人と言えるのでしょうか。エフタの姿は、信仰者の模範とはとても言えないものです。そのエフタが士師の一人とされ、ヘブライ人への手紙において信仰者の代表とされているのは、彼が味わった苦悩のゆえであると言えるでしょう。最愛の独り娘を自らの手で犠牲にしなければならない苦悩、それは、主なる神が、私たちのために独り子の命を犠牲にして下さった苦悩を指し示しているのです。エフタとその娘の苦悩は、神ご自身が犠牲を払い、苦しみを引き受けて、私たちに救いを与えて下さったことを証ししているのです。
 先程見たように、主なる神に対して誓うことの重さもこの話において示されています。しかしここに語られているのは、主の前で誓ったことはどんな犠牲を払っても守れ、そうすれば救いにあずかることができる、という教訓ではありません。それだったらやはり神と取引をするようなことになってしまいます。主なる神は、私たちが誓約を守ることの見返りとしてではなくて、ご自身が独り子の命を犠牲にする苦しみを背負って私たち罪人の救いを実現して下さったのです。主がそのように命がけで与えて下さった救いの恵みに誓約をもってあずかる、それが洗礼を受けることです。そしてこの主の救いにあずかって主と共に生きる中で、私たちは他にもいろいろな誓約をするのです。その私たちの誓約は、主ご自身の命がけのみ業によって支えられています。それゆえにそれは重いことです。その重さは、私たちの弱さや罪を背負って下さる、主の恵みの重さなのです。

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