夕礼拝

安息日の主

「安息日の主」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:サムエル記上 第21章1-7節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第2章23-28節
・ 讃美歌:2、203

<安息日の恵み>
 礼拝を守る日曜日のことを、教会では「安息日」ということがあります。安息というのは、日本語の辞書を調べると「やすらかに休むこと」とあります。ですから安息日は、やすらかに休む日、ということです。
 これはユダヤ人たちが守っていた、ユダヤ教の安息日に由来していますが、元のヘブライ語では、安息日はシャッバートといって、「やめる、止める」という言葉です。つまり、仕事をやめて休む日、という意味です。ユダヤ人の間では、安息日を守りなさい、大切にしなさい、ということが律法で定められています。日常の働き、仕事、営みをその日はやめて、民が集まって神さまの御前に出る。神さまを礼拝する。これが安息日です。その意味はキリスト教の教会でも、根本的には変わっていません。

 わたしが働いていた時、わたしがクリスチャンで日曜日は教会へ行っている、ということを知ると、友人や知人は、「せっかくの休みなのに、毎週教会に行かないといけないの?」とか、「お休みの日がなくなっちゃうんだね、大変だね」と、言いました。
 確かに、安息日の意味を知らなければ、せっかく休みの日曜日が教会に行くことで潰れてしまう、余計な労力を取られてしまう、と思うのかも知れません。でも、本当にそうなのでしょうか。日曜日に教会に来ることで、休みがなくなってしまってるんでしょうか。平日働いて、疲れて、さらに日曜日に教会に行かなければならなくて、さらに疲れるだけなのでしょうか。それなら、そもそも教会には誰も来ないと思います。

 毎週多くの方々が日曜日に教会に集い、神を礼拝しているのは、この日が安息日、「やすらかな休みの日」と言われているように、教会に来て、神さまを礼拝することで、むしろ安らぎを得るからです。心も魂も休むことができる。神によって、癒しを与えられ、慰めを与えられ、新しい力をいただくことができるのです。
 だから、むしろこの日を待ち望んで一週間を過ごし、喜んで神のもとに集ってきます。そしてまた力を得て、教会から出発してそれぞれの持ち場につくのです。だから却って、日曜日の礼拝なしに、一週間を走り通すことの方が大変なはずなのです。

 安息日はそのように、わたしたちが癒され、新しくされ、力と平安を与えるために、神が備えて下さった日です。しかし、その神の恵みによって与えられた日だということを忘れてしまうと、人はそれを窮屈で疲れるものに変えてしまいます。本当は、礼拝は喜んで、自ら来たくて、進んでやって来るはずのものなのに、クリスチャンになったら日曜日は絶対に礼拝に来なくてはならないのだ、とか、日曜日に仕事を休まないのはダメなことだ、奉仕をしなくてはならないのだ、など、人を縛り付ける規則のようにしてしまって、本来の安息日の恵みを見失わせてしまうのです。
 今日、聖書でお読みしたところでも、24節に出て来るファリサイ派という律法学者たちによって、律法の安息日はガチガチの規則になり、本来の意味が見失われていました。主イエスはそこで、安息日の本当の恵み、律法の根底にある神の御心を教えて下さったのです。また、このことを通して、ご自分がどなたか、ということをもお示しになったのです。

 <安息日の目的は?>
 事のはじまりは、23節です。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。それを見たファリサイ派の人々が、主イエスに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言いました。
 人の麦畑で穂を摘むこと自体は、律法で許されていることです。弟子たちはお腹がすいていたのでしょう。空腹を少しでも満たそうと、麦の穂を摘んで、食べていたのです。ファリサイ派の人々が咎めているのは、その麦の穂を摘む行為を「安息日」に行なった、ということです。

 安息日は、最初にお話をしたように、仕事を休む日です。これは、イスラエルの神の民が守るべき律法である、モーセの「十戒」の第四戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあり、その後に、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書かれています。
 これは、単に「仕事をしてはならない」という掟ではありません。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。「聖別」というのは、特別に取り分ける、という意味で、普段の一週間の日常生活の中から、この一日、この安息日を、特別に神のものとして取り分け、神に捧げるということです。この日すべてを神のものとするために、仕事を休むのです。

 それでは、なんのために、安息日を神のものとして取り分けるのでしょうか。この戒めが書かれているモーセの十戒は、旧約聖書の出エジプト記と、申命記に出てきますが、それぞれに安息日を聖別せよ、と言われている理由が書かれています。
 出エジプト記では、20:8~11にこの安息日の戒めがあります。そこには、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言った後で、それは、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」からだと告げています。
 つまり、神が六日の間働かれ、すべてを創造され、それを見て良しとされた。そして、七日目に安息なさって、この日を喜び、祝福されたのです。だから、造られたわたしたちも、この神の創造の御業を覚えて、神と共に安息にあずかり、祝福を受ける日とされているのです。
 もう一つは申命記の5:12~15に語られています。ここでは、安息日を守る理由は、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」となっています。つまり、神の救いのみ業を思い起こす日として、安息日が定められているのです。
 だから、安息日の目的は、仕事をしないことではなくて、神にこの一日を捧げ、神の安息に共にあずかり、祝福を受け、神の救いのみ業に感謝することが目的なのです。そのようにして、人が神と共に喜んで生きることを、神は望んでおられるのであり、そのために安息日が定められ、人はその日は仕事をやめて、神の御前に集まるのです。

 <律法は何のために?>
 ところが、この「安息日を守ること」を大事にするあまり、この日は絶対に仕事をしてはならない、となりました。そして、一日の活動のどこまでの範囲が「仕事」となってしまうのか、どこまでだったら許され、何をしたら許されないのか、そういったことで人々が悩むようになりました。
 そこで、律法を研究する人たちは、この「第四戒」の安息日の律法を守るために、安息日にしてはならない39の仕事や労働を定めました。そして、その39の仕事の一つ一つを更に6つに分類し、39×6=234の禁止事項を定めたと言います。このどれか一つを破ると、安息日の律法を破った、ということになるのです。

 弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたのは、麦の収穫、刈り入れの仕事をしていた、と見なされました。刈り入れは、安息日にしてはならない39の仕事の中に含まれています。だから、弟子たちは第四戒の安息日の掟を破っているのです。警告をしてもなお従わないようなら、律法違反となり、石打ちの刑になります。それで、律法を厳格に守ることを重んじたファリサイ派の人々は、「あなたの弟子たちが大変なことをしていますよ」と、主イエスにこのことを指摘したのです。

 このことに対して、主イエスは旧約聖書のダビデの話をお語りになりました。25~26節です。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
 これは先ほどお読みした、旧約聖書のサムエル記上21:1~7に語られていたことです。祭司の名前が、マルコではアビアタル、サムエル記ではアヒメレクとなっていますが、これはおそらくアヒメレクが正しいのだと思います。
 ダビデが、サウル王から逃げていた時、ダビデは祭司アヒメレクのところへ行き、自分と従者のためにパンを求めました。ところが、そこには聖別されたパンしかありませんでした。この聖別されたパンというのは、安息日ごとに神に供えられた十二個のパンのことです。数はイスラエルの十二部族を表し、これらの民がいつも神の恵みの内にあることを覚えて、神のもとに供えられました。そして、この聖別されたパンは、祭司だけが食べることを許されていました。
 だから、規則に従えば、ダビデと従者にこの聖別されたパンを与えることは、律法違反なのです。しかし祭司は、その時普通のパンがなかったので、ダビデと従者が聖い状態であることを確認して、聖別されたパンを与えました。祭司は、決められた規則を杓子定規に守ることよりも、ダビデと従者を憐れみ、生かすことを優先したのです。

 この出来事で主イエスが示されたのは、神が人に対して求めておられることは、決められた規則を単純に守ることではなく、その規則や律法の根底にある、神の御心に従うことだ、ということです。その御心とは、人が、神の恵みと憐れみによって生きることなのです。
 聖別されたパンを食べることで、ダビデは律法を破ったかも知れません。しかし、神がイスラエルを守って下さる恵みを覚えて供えられたパンによって、ダビデと従者は生かされ、命を支えられたのです。

 このことを通して主イエスは、ファリサイ派の人々が神の本来の御心を忘れ、人を神の恵みの中で生かすために与えられている律法を、形式的なものにして、人を裁くものにしている。むしろ人を殺すものにしている。そのことを非難しておられるのです。律法は本来、人が神の御心に従って、神と共に歩み、神の恵みの中で豊かに生かされる、そのために与えられているものなのです。

 主イエスは、マルコによる福音書の初めの方から、安息日に悪霊を追い出したり、また病の人を癒したりなさいましたし、次の聖書箇所においては、安息日に手の萎えた人を癒されます。その御業は、律法や規則に従えば、してはいけない仕事、労働になってしまいます。しかし、神の御子であり、神の御心を最もよくご存知である主イエスは、形式的に律法を守るのではなく、神の御心を自由に、豊かに行なわれました。安息日には、本来神が望んでおられることを実現するため、人を憐れみ、恵みを注ぎ、神の御子であるご自身との交わりによって、人を生かして下さったのです。

 だから、もしわたしたちも、日曜日に教会に行かなくてはいけない、奉仕しなくてはならない、決して休んではならない、と、安息日を守るべき規則のように思っているなら、それは本来の恵み、喜びを見失うことになるかも知れません。
 また、そのような動機で一所懸命教会に行っていると、他の人がどれだけ奉仕をしているかとか、まじめに教会に来ているか、ということを比べるようになり、優越感や劣等感や、そういったもので安息どころではなくなってしまいます。それは安息日に、神の憐れみの眼差しの前に進み出るのではなく、人の裁きの目を気にして、人の前に出ているのです。
 しかし本当は、そういったことから最も自由にされ、神の祝福を受け、人々も一つになって共に喜ぶのが、安息日のはずなのです。

 <安息日の主>
 だから、主イエスは27節でこう言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
 安息日は、神が人のために定めて下さった日です。神の祝福に与り、救いのみ業を思い起こし、神が共におられ、神がわたしたちを養い、生かして下さっていることを覚え、そのすべての恵みを受け取るために、安息日があるのです。だから、人を縛り付けたり、裁いたり、殺したりするために安息日があるのではありません。

 そして主イエスは28節で「だから、人の子は安息日の主でもある」と言われました。「人の子」と言う言葉は、「メシア、救い主」を表す言葉です。
 主イエスは、神に遣わされた神の御子であり、神の御心を知る方であり、この安息日をも支配しておられる方なのです。主イエスは、神の国、つまり神が王として治められる、神のご支配を実現するために、神に遣わされて、世に来られた方です。その神の力、神の主権によって、この安息日をも支配なさるのです。

 主イエスが、ダビデの話を例にあげられたのは、ダビデが油を注がれて、次の王として神に選ばれている者であることと、救い主である主イエスが「ダビデの子」と呼ばれる王なる方であることが、深く関係しているでしょう。マルコでも何度か主イエスを「ダビデの子」という呼び方が出てきます。
 サムエル記においてはこの後、ダビデはイスラエルの王となります。そして、そのダビデ王の子孫として、主イエスはこの世に来られ、「ダビデの子」と呼ばれるのです。それは、ダビデの裔から永遠の王が現れる、救い主が現れるという、神の約束の実現であり、この救い主イエスが、罪も死も悪にも勝利して、すべてを支配し、まことの王となられるのです。

 ですから、王となるダビデがパンを得て従者たちの命を支えたことは、まことの王となられる主イエスと弟子たちのことを、前もって示したものだと捉えることができます。
 「弟子たち」とは、十二使徒だけでなく、今のわたしたちも含めて、主イエスに従い、教会に連なるすべての者たちのことを指します。そして、主イエスはわたしたちの王として、ご自分の弟子たちを養い、その命を支えて下さる方なのです。
 そのパンとは、今わたしたちが聖餐であずかるパンということが出来るでしょう。それは主イエスの命を与えるまことのパン、わたしたちの罪の赦しのために十字架で裂かれた体の「しるし」のパンです。主イエスは十字架で死なれ、御自分自身を、弟子たちのために、弟子たちが罪から解放され、死ぬ者から生きる者となるために、与えて下さるのです。

 ですからこの方のもとに憩うこと、「安息日の主でもある」主イエスの御許に来ることこそ、わたしたちのまことの癒しと平安であり、主イエスというお方のまことのパンをいただいて、命を生かされることなのです。罪の苦しみから自由にして下さり、不安や絶望から解放し、疲れを癒し、飢えを満たし、くたびれたわたしたちを、神の力によって新しくして下さるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」わたしたちの日曜日、安息日は、こう言って招いて下さる主イエスのもとに行って、やすらかに休ませていただき、命を養っていただく。そのような日です。

 わたしたちの安息日は、そのようなまことの安らかな休みの日です。わたしたちは、せっかくの日曜日、休みがつぶれて、疲れて、大変な思いをして教会に来るのではありません。むしろこの礼拝で、罪を赦され、自由にされ、生かされるのです。そして、聖霊が働いて下さるこの礼拝で、すべての王となられた方、今も生きておられる天の主イエスのもとへと心を高く引き上げられて、神と交わり、神の喜びと祝福にたっぷりと与り、その中で慰められ、癒され、満たされて、またそれぞれの歩みへと送り出されていくのです。

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