主日礼拝

キリスト・イエスの僕

「キリスト・イエスの僕」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第1章1-7節
・ 讃美歌: 300、401、507

キリスト教の歴史を動かしてきた手紙

本日より主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み、み 言葉に聞いていきます。この手紙は、新約聖書に収められてい る二十七の書物の中で、キリスト教の二千年の歴史において 最も大きな影響を及ぼしてきたものであると言うことができま す。例えば、私たちプロテスタント教会の始まりであるマルティン ・ルターの宗教改革です。その開始は1517年で、再来年に は宗教改革五百周年の記念の年を迎えるわけですが、その宗教 改革が何故起ったのかというと、勿論当時のカトリック教会が陥 っていた様々な腐敗や堕落があったわけですが、根本的には、自 分はどうしたら神の前に正しい者、義なる者として立つこと ができ、救いを確信することができるのだろうかと悩んでいたル ターが、人間は自分で正しさを獲得して義となるのではなくて、 神がその独り子イエス・キリストによって罪人である自分を赦 して下さり、義として下さるのであって、キリストによるこの赦 しの恵みを信じる信仰のみによって私たちは義とされ、救われ るのだという福音を、このローマの信徒への手紙の中に見出し たことにこそ、宗教改革の原点があるのです。つまりこのローマの 信徒への手紙が、宗教改革を引き起こし、プロテスタント教会を 誕生させたと言ってもよいのです。
同じようなことが二十世紀の初めにも起りました。十九世紀のヨ ーロッパは、人間の理性が大いに発揮され、それによって育まれて来 た科学的精神によっていわゆる近代文明が飛躍的に発展した時代でし た。その中で、人間は理性を十分に発揮していくことによって、科学 や技術をますます発展させ、それによって様々な問題を次第に解決し て理想的な社会を築いていくことができる、というふうに人間の可能 性に信頼を置く楽観的な思想が主流となっていたのです。キリスト教 もそういう思想の虜になっており、神を人間の理性の中で捉えようと したり、信仰も人間の持っている宗教的感性を発揮することと考える ようになっていました。そのように人々が人間の可能性を信じて、文 明の進歩によるバラ色の未来を夢見ていたところに起ったのが第一次 世界大戦でした。昨年は第一次世界大戦が始まって百年の年だったわ けですが、丁度百年前に四年間にわたって戦われ、戦闘員だけで90 0万人、非戦闘員は1000万人と言われる死者を出したこの戦争 は、当時のヨーロッパの人々に大きなショックを与えました。科学や 技術の進歩が人間に幸せをもたらすと思っていたのに、その技術によ って大量殺戮兵器が生み出され、多くの人々が悲惨な死をとげまし た。そして理性を持っているはずの人間がこのような悲惨な戦争を止 めることができなかったのです。それは人間の理性への信頼を根底か ら揺るがすような出来事でした。そのショックの中で、キリスト教の 中にも、神を人間の理性によって理解し、信仰を人間の宗教的感性の 問題としてしまうのではなくて、そのような人間の力による営みを打 ち砕くことによって救いのみ業をなさる神の言葉を聖書から聞こうと いう新しい動きが起りました。その先駆けとなったのは、カール・バ ルトという神学者が、ローマの信徒への手紙について書いた本だった のです。バルトは、ローマの信徒への手紙を新しい目で読み直すこと によって、キリスト教の新しい時代を切り開く、新しい神の言葉を聞 いたのです。バルトの「ローマ書」と呼ばれているこの本は、キリス ト教の歴史において十九世紀から二十世紀への転換をもたらしまし た。最近もある方がこの本について「これほど大胆で、爆弾のような 本が、ほかにあるのだろうか」と語っていました。これはバルトの 「ローマ書」についての言葉ですが、ローマの信徒への手紙について の言葉として聞くこともできます。そのようにローマの信徒への手紙 は、キリスト教信仰の歴史を動かしてきた手紙です。別の言い方をす れば、キリスト教信仰が人間の思いに捕えられてしまって、その本来 の生命を失ってしまうようなことが起った時に、その人間の思いを打 ち破り、神のみ言葉の生命を回復していくような新しい動きが起 った、その原動力となったのは常にこのローマの信徒への手紙だった のです。この手紙を礼拝において読んでいくことによって、私たちの 信仰が、そしてこの群れが、神の言葉の生命と力に満たされ、それに よって新しく生かされていくことを祈り求めたいと思います。さら に、私たちが受け継いでいる信仰の伝統の元である宗教改革者カルヴ ァンは、ローマの信徒への手紙について、「この手紙を理解する者 は、全聖書を理解する扉を開く」と言いました。この手紙は私たち に、聖書に語られている信仰の中心を示してくれるのです。中心が示 されることによって、旧新約聖書全体を見通す視界が開かれていきま す。私たちの、日々聖書に親しみつつ生きる信仰の生活がより的確 な、的を射たものとなることをも期待しながらこの手紙を読んでいき たいと思います。

著者パウロ
さて、いささか前置きが長くなりましたが、いよいよこの手紙 の内容に入っていきます。その最初に確認しておかなければな らないのは、今さら言うまでもないことではあるのですが、これは 一つの手紙である、ということです。手紙は、ある人が、ある 人へ、この場合には一人ではなくてローマの教会の信徒たちへ、 ですが、その人々に宛てて、ある目的をもって書き送ったもの です。つまり手紙は広く一般の読者のために書かれたのではな くて、特定の人のために、特定の状況の中で書かれたものなので す。ですからこの手紙を理解するためには、先ず、これがどのよ うな状況の下で、何のために書かれたのかを知ることが必要です。 それについて先ずお話ししていきたいと思います。
この手紙を書いたのは、1節にあるようにパウロです。彼は初 代の教会において最も大きな働きをした伝道者でした。しか し彼は最初からイエス・キリストを信じる信仰者であり伝道者 だったわけではありません。もともとは、ユダヤ教ファリサイ派の エリートとして、神がイスラエルの民に与えて下さった律法を 守ることによってこそ、神の前に正しい者、義なる者となって救 いを得ることができる、という信仰に堅く立っていたのです。 その頃の彼にとっては、十字架につけられたイエスを救い主と 信じることによって救われると言っているキリスト教徒は赦し 難い異端者でした。そのような教えは撲滅しなければならない と考え、先頭に立って教会を迫害していたのです。その彼にあ る日、復活して生きておられる主イエスが現れ、語りかけまし た。その主イエスとの出会いによって彼は人生を百八十度転換 させられて、それまでとは反対に、イエスこそキリスト、つまり救 い主であると信じ、そのことを宣べ伝える伝道者になったので す。この手紙の最初の1節で彼は自分のことを「神の福音のた めに選び出され、召されて使徒となった」と言っていますが、 「選び出され、召されて」という言葉の背後には、主イエスと の出会いによる彼の人生の大転換の出来事があるのです。

パウロの壮大な伝道の計画
そのようにしてイエス・キリストによる救いを伝道する者とな ったパウロは、数度にわたって大伝道旅行に出かけ、いわゆる小 アジア、現在のトルコや、ギリシャの各地に教会を生み出して いきました。聖書の後ろの付録に、「パウロの伝道旅行」の地図 があります。それを見ていただければ、彼が徒歩で、あるいは船 で行き巡った地域は、今日飛行機で行き来しても結構大変な 広さであることが分かります。そしてこのローマの信徒への手紙 は、そういう彼の伝道の生涯の終わり近くに書かれたもので す。具体的には、第三回伝道旅行の途上でこの手紙は書かれたと 考えられています。そのことがこの手紙の中で語られているのは、 15章22節以下ですので、そこを読んでみたいと思います。
「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いな がら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場 所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたい と切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思いま す。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなた がたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り 出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるた めにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、 エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに 喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそ うする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあ ずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果 を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに 行きます。」
ここからいくつかのことが分かります。パウロは今、26節にあ るように、マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖 なる者たち、つまり信者たちを援助するためにささげた募金を 携えてエルサレムに行き、それを手渡そうとしているのです。マ ケドニア州とアカイア州というのは、今のギリシャの北部と南 部です。パウロがこの手紙を書いているのは、南部のアカイア州 の中心であるコリントにおいてだと思われます。そこから先ずは 東に向かい、エルサレムの教会の人々に募金を手渡した後、 今度は西に向かい、あなたがたのところつまりローマへ行こう と思っていると彼は言っています。22節にあるように、彼は以 前からローマを訪れたいと願っていました。これまで彼が伝道 旅行に行ったのは今のトルコやギリシャなど地中海の東側の地 域のみで、ローマにまでは足を伸ばすことができなかったのです。 しかし23節には「今は、もうこの地方に働く場所がなく」と あります。地中海の東側での働きはこれで一段落ついた、これか らはもっと西の方にまで足を伸ばして伝道したい、と彼は願 っているのです。そのために先ず、ローマ帝国の首都であり、東 と西の中心にあるローマを訪れたいと彼は願っています。しか しそれはイスパニアに行く途中でのことです。24節では、自分 を「イスパニアに向けて送り出してもらいたい」と言っていま す。イスパニアとは今のスペインであり、地中海の西の果てです。 パウロにとってローマは最終目的地ではなくて、そこを拠点にし てイスパニア伝道をしようとしているのです。ローマの教会の人 々がこの計画を理解し、支えてくれることを願って、彼はこの手 紙を書いているのです。それにしても、コリントから一旦エルサ レムに行き、そこからローマへ、そしてイスパニアにまで行こうと している彼の計画は、今日の目で見てもまことの壮大なものです。

自己紹介のために
しかし、パウロがこの手紙の中で、今後の伝道の計画について語 っているのは、今読んだ15章の一部のみです。その他の大部分に語 られているのは、パウロが宣べ伝えている福音とはどのようなもの か、キリストによって与えられる救いとは何か、ということです。つ まりパウロはこの手紙において、自分が何を信じ、宣べ伝えているの かをまとめて語っているのです。今後の伝道の計画への協力を求め、 その拠点となってほしいと依頼するこの手紙が、このような内容をも って書かれたことの根本的な理由は、先程読んだ15章22節にあ ったように、彼はこれまでローマを訪れたことがない、ということで す。つまりパウロはまだローマの教会の人々と会ったことがないので す。16章にある挨拶には何人かの人々の名前があげられていて、そ の人々とは面識があったようですが、彼ら以外にはローマの教会の人 たちを知らないのです。つまりこの手紙は、まだ会ったことのない信 徒たちに向けて書かれています。そこに、彼が書いた他の多くの手紙 との大きな違いがあります。パウロの書いた手紙が新約聖書にはいく つもありますが、それらの多くは、彼自身の伝道によって誕生した教 会に宛てて書かれたものであって、彼はその教会の人々をも、また教 会の事情をもよく知っているのです。しかしこのローマの信徒への手 紙は、まだ行ったことのない教会への手紙です。よく知っている人 々に書くなら、「まもなくあなたがたの所を訪ね、それからさらにイ スパニアに伝道に行きたいから、その節はよろしく協力願いたい」だ けですんだでしょう。しかしローマの教会に対してはそういうわけに はいかないのであって、先ず、これから訪ねようとしている自分のこ とを知ってもらう必要があったのです。つまりこの手紙は、初めて訪 問しようとしている教会の人々に向けて、前もって自己紹介をするた めに書かれたのです。パウロの自己紹介の手紙、それがローマの信徒 への手紙なのです。

福音を語ることこそ自己紹介
パウロはどのような自己紹介をしているのでしょうか。言い換 えれば、パウロは自分自身をどのような者であると考えているの でしょうか。そのことを私たちはこの手紙の全体から読んでい くわけですが、先ず言えることは、彼はこの手紙で、「自分はこの ような出身と生い立ちであり、こんな活動をしてきた」という ことを殆ど語っていないということです。彼がこの手紙において 精魂込めて語っているのは、先ほども申しましたように、「私が宣 べ伝えている福音とはこういうものだ」ということです。その「福 音」の内容をこれからじっくり見ていくわけですが、一言で言え ば、神が独り子イエス・キリストによって与えて下さった救い の知らせ、それが福音です。その福音を語ることによって、パ ウロは自己紹介をしようとしているのです。
福音を語ることこそが自己紹介である、というパウロの思いは、 この手紙の冒頭にはっきりと現れています。「キリスト・イエス の僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウ ロから」と1節にあります。冒頭に「誰々から」と先ず差出人の 名 を 記 し 、 次 に 宛 先 の 名 を 記 す の が 当 時 の 手 紙 の 一 般 的 な 書き方でした。翻訳ではパウロの名前は1節の最後に来ていま すが、原文においてはそれは冒頭にあります。差出人であるパウロ の名前が先ず語られ、それに続いて、そのパウロとは「神の福 音のために選び出され、召されて使徒となった」者だと語られ ているのです。2節以下はそれを受けて、「この福音は」と福音 の内容を語っていきます。このように彼は差出人の名前を語 る冒頭において既に福音の内容を語り始め、それが6節まで 続いています。7節に至ってようやく、「神に愛され、召されて 聖なる者となったローマの人たち一同へ」と、宛先が語られて いるのです。この冒頭は最も簡単に済まそうとするなら、「パウ ロから、ローマの人たち一同へ」だけでもよいところです。それ がこれだけ引き延ばされ、その大部分は「福音」についての説明 となっているわけで、ここにまさに、福音を語ることこそ自己紹介 だというパウロの思いが現れているのです。

奴隷であるパウロ
差出人パウロの名が記されている1節にさらに注目したいと 思います。パウロの名前が一番最初にあることは今申しましたが、 この1節を原文の語順に即して言葉を並べるとこうなります。 「パウロ、僕、キリスト・イエスの、召されて使徒となった、選び 出された、神の福音のために」。パウロの名前の次にあるのは「僕」 という言葉です。「パウロ、僕、キリスト・イエスの」、ここに、 パウロが自分を何者だと思っているかが最も端的に示されてい るのです。パウロは自分が「キリスト・イエスの僕」であると言 っています。その「僕」という言葉は「奴隷」という意味です。 パウロは自分のことを先ず第一に「キリスト・イエスの奴隷で ある」と言っているのです。まだ会ったことのないローマの教会 の人々に自己紹介をするために彼が真っ先に語ったのは、「私 は奴隷である」ということだったのです。それは奴隷のように卑 しい、取るに足りない者だ、という謙遜のための比喩ではありま せん。彼は文字通り、心底、自分は僕、奴隷だと思っているので す。奴隷であるというのは、主人に完全に所有されている、とい うことです。自分の全ては、自分の人生は、もはや自分自身のも のではない、自分を所有している主人のものだ、ということです。 その主人こそキリスト・イエスなのです。

召されて使命を与えられた
この「僕、奴隷」に続いて語られているのは「召されて使徒と なった」という言葉です。「使徒」というのは、ある使命を与え られて遣わされた人という意味です。彼は神に召され、使命を 与えられて遣わされているのです。その次にあるのは「選び出さ れ」です。それは「召されて」と同じことを言っています。「選 び出され」も「召されて」も、いずれも神のみ心によることで あって、パウロが自分の意志で、自分の思いによって生きている のではないことを示しています。神がパウロを選び、召して、使 命をお与えになったのです。その召しに従い、使命に生きてい るのが、「僕、奴隷」であるということです。そしてその使命とは何 かを語っているのが、1節の最後にある「神の福音のために」で す。「福音」とは「良い知らせ」という意味であり、それは先ほ ど申しましたように「キリストによる救いの知らせ」ですが、こ の言葉は「福音を告げ知らせる」という動詞が名詞になったも ので、「福音を告げ知らせること」とでも訳したらよい、動きの ある言葉です。ですから「神の福音のために」とは、「神の福音 を告げ知らせるために」ということです。つまりパウロはこの1節 で、自分は神の福音、つまり神による救いの喜ばしい知らせを 告げるという使命のために選ばれ、召され、遣わされた、キリス ト・イエスの僕、奴隷であると言っているのです。

キリストの奴隷であることこそ唯一の慰め
キリスト・イエスの奴隷であることはパウロにとってつらいこと や苦しいことではなくて喜びです。むしろそのことこそ、彼が告 げ知らせている福音、喜ばしい救いの知らせの中心なのです。キ リスト・イエスの僕、奴隷となって生きることこそ私たちの救い であり喜びである、ということをこの手紙は語っているのです。 この信仰を明確に語っているのが、主日礼拝前の求道者会で学 んでいる「ハイデルベルク信仰問答」の問1の答えです。この「ハ イデルベルク信仰問答」はローマの信徒への手紙の構造に基づ いて書かれていると言われるのですが、その問1は「生きるにも 死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」であり、その 答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きる にも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの であることです」となっています。「私がもはや私自身のものではな く、イエス・キリストのものである」、それはパウロが「私はキリス トの奴隷である」と言っているのと同じことです。その事実こそ が、生きるにも死ぬにも、つまり人生のいかなる時にも、そして 肉体の死によって人生が終り、全てが失われる時にすらも、私 を本当に慰め、支え、恵みの内に生かすのです。

人生は誰のものか
私たちは普通、自分の人生は自分のものだと思って生きています。 自分のものである人生において、自分のものである体や能力を用いて いかに有意義に、楽しく、自分らしさを発揮することができるか、今 流行の言い方をすれば、ありのままの自分であることができるか、を 追い求めています。その結果、自分は自分の人生を本当に自分のもの として、自分らしく、ありのままに生きることができているだろう か、という不安を覚え、むしろ自分らしくない人生を強いられてい る、という焦りを覚えています。周囲を見回して、「あの人はあんな に人生を自分のものとして、自分らしく生きているのに」と他の人を 羨んだり、妬んだりしています。そして自分の人生これではだめだ、 と落ち込むこともしばしばです。自分の人生は自分のものだと思い、 またそうでなければならないと思っているために、そのような不安や 焦りや劣等感にいつも苦しんでいるのが現実ではないでしょうか。そ してその自分のものである人生の全てを私たちから奪い去ろうとして 襲って来る圧倒的な力が死です。自分の人生を自分のものとして生き ている限り、私たちは死を恐れることから解放されることはありませ ん。死とは、人生が、命が、自分のものでなくなってしまうことだか らです。そのように自分が自分の主人であることによる不安や焦りや 劣等感、そして死への恐れの中にいる私たちに、主イエス・キリスト が告げて下さっている救いの知らせ、福音とは、主イエスこそが私た ちの主人となって下さっている、という知らせです。主イエスは私た ちに、あなたがたの人生はもはやあなたがたのものではなく私のもの だ。私があなたがたの歩みの全てを導き、支え、救いの計画を実現す る。あなたがたの人生の終りである死も、私の意志の中にある。それ は終りでも滅びでもない。私が死者の中から復活して永遠の命を生き ているように、あなたがたも、私と共に復活の命、永遠の命を生きる 者とされるのだ、と宣言して下さっているのです。
パウロはローマの教会の人々にこの手紙を書き送ることによ って、彼らも自分と共に神に選ばれ召された者であり、キリス ト・イエスの僕、奴隷とされている、その福音、喜びの知らせを、 そこにある真実の慰めを共有しようとしています。私たちがこの 手紙を読んでいく目的もそこにあります。神が恵みによって私 たちを選び出し、召して下さって、キリスト・イエスの僕として 下さっている、そこにこそ私たちの救いがあります。生きている 時も死ぬ時も、私たちを支える真実の慰めを、この手紙を読 むことによって見出していきたいのです。

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