主日礼拝

生きるにも死ぬにもキリスト

「生きるにも死ぬにもキリスト」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第104編31-35節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第1章18-26節
・ 讃美歌:37、513、518

 パウロは、驚くことを言います。   
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。   
また、「肉において生き続ければ、実り多い働きができる。しかし、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」。      

 「死ぬことは利益」「この世を去る方が望ましい」という言葉で、わたしたちはドキッとします。パウロは死にたがっているのでしょうか。死を求めているのでしょうか。パウロは牢獄にいます。生きて出られるかどうかは分かりません。パウロは迫害されて、そのような生死にさらされる生活に疲れて、とうとう生きることが辛くなってしまったのでしょうか。   
 わたしたちにとって生きること、死ぬことは大きな問題です。「生きたい」という思いと、「死にたい」という思いは、正反対の思いです。   
 しかし実は、パウロはそのように考えてはいません。パウロにとって人生で一番重要なことは、この地上で「生きるか」「死ぬか」の二つに一つなのではなく、ただ「キリスト」のことだけなのです。   
 「キリスト」がパウロにとって、生きることよりも、死ぬことよりも大切なことであることを覚えて、今日の聖書のパウロの手紙を読んでいきたいと思います。         

 パウロは牢獄の中から、フィリピの教会の人々に手紙を書いています。パウロは絶体絶命の大ピンチの中にいます。それこそ、牢獄から生きて出られるか分かりません。もしかすると、死刑になるかも知れません。しかしこの状況で、パウロは喜んでいます。それは、パウロが伝道したフィリピの教会の人々の信仰が、主によって守られているから。そして、キリストの福音がますます宣べ伝えられているからです。      

 パウロはキリストを宣べ伝えたことで、牢獄に入れられています。しかし、牢獄に入れられていることが、キリストご自身の力によって多くの者に知れ渡り、さらにキリストの福音が前進したと、パウロは言います。自分が捕らわれていることが、キリストの福音に役立っている。そのように、パウロは自分の身を案じるより、キリストが宣べ伝えられていることを喜んでいました。   
 18節には、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。   
 そして、19節で「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」と述べています。   
 パウロはここで、自分の救いについて語ります。「このこと」つまり、悪い状況にも関わらず、キリストが宣べ伝えられているということは、何よりパウロ自身の救いになると言っているのです。   
 伝道するのは、キリストの救いを知らない者が、キリストの救いにあずかるためです。そして、神の救いのご計画が完成するため、「すべての民を弟子にしなさい」との、キリストのご命令のためです。   
 そのためにパウロは自分が捕らわれるのも厭わずに、伝道しています。自分の命の危険も顧みず、伝道のために捧げ尽くしています。しかし福音が告げ知らされて神の国が完成することは、神のため、隣人の救いのため、というだけではなくて、パウロ自身が待ち望んでいることであり、パウロ自身が受ける恵みそのものなのです。パウロの苦しみや、困難な状況は、キリストが告げ知らされているのならば、神の御計画が進められているのならば、パウロ自身の救いになるのです。      

 しかしわたしたちは、そのように困難さえ自分の救いになると言えるほど強くない、パウロのようにはなれない、と思ってしまうかも知れません。しかしこれは、殉教も覚悟で伝道しなければ駄目だ、ということを言っているのではないのです。神のご計画においては、どのような困難も、苦難も、確かな救いの希望の中におかれているのであり、喜びが与えられるということなのです。ですからパウロは、18節で、先の見えない自分の状況にも関わらず、未来に向かって「これからも喜びます」と言うことが出来るのです。   
 平穏無事でいることや、トラブルがないことが喜びなのではありません。あらゆることが、神の御手の内で救いに繋がっている。自分もその救いに入れられている。それが喜びなのです。   
 そして神は、御自身の計画に、先に救われた者、召し出した者を、神ご自身と共に働かせて下さいます。神の救いの御業のために、教会を、そして一人一人を用いられます。そして一匹の小さな羊が見つけられた時には、天の大きな喜びに、共にあずからせて下さるのです。一人の受洗者が与えられた時、わたしたちも、天の大きな喜びに共にあずかることが出来ます。   
 そして終わりの日、神のご支配が完成するときには、自分自身も神の国にいることが約束されているのです。その希望と平安とが、そして神の救いの中にいる喜びが、キリストを信じる者にはいつもあるのです。   

 パウロは、それは、「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって」このことがわたしの救いになる、と言っています。   
 「あなたがたの祈り」。パウロは、執り成しの祈りによって支えられ、力を与えられることをよく知っている人です。パウロは祈ってもらうことを必要としているのです。   
 パウロは勇敢な伝道者ですが、自分が弱い者である、罪人の頭であると言い、自分の力に頼らず、神の力を頼みとしていました。そしてそれゆえに、執り成しの祈りを求めました。パウロは、他の箇所でも、自分のために祈ってほしいと言っている箇所がたくさんあります。   
 たとえば、ローマの信徒への手紙15:30では「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」。コリントの信徒への手紙Ⅱ1:11では「あなたがたも祈りで援助してください」と言っています。   
 1:4にあるように、パウロもいつもフィリピの教会のために祈っていましたし、フィリピの教会も、パウロのことを熱心に祈っていたでしょう。   
 最大の執り成し手であるキリストの名によって、共に神に祈るとき、祈る者たちは、互いに力を得、同じ戦いを一緒に戦うことが出来ます。そして1:7で言われていたように、「共に恵みにあずかる者」となることが出来るのです。      

 わたしたちの信仰生活は一人で歩むのではありません。必ず、共に歩む兄弟姉妹が与えられているのです。自分が弱い者であると知り、神の力を求める時、そのために一緒に祈って欲しいと言うことが出来ます。また誰でも、心にかかる人のために祈ることが出来ます。その時、祈りあう者たちは、その弱さも困難も、祈りにおいて分かち合い、その重荷を神に委ね、同じキリストに結ばれ、同じ恵みにあずかっている喜びを、一緒に味わうことが出来るのです。時々「祈ることしかできない」ということを聞きますが、「神に祈る」ということは、人が誰かのために出来る最大の援助の一つなのです。      

 そして、「イエス・キリストの霊の助けによって」と言っています。キリストの霊とは、復活の主が送って下さった「聖霊」です。福音の伝道それ自体が、主イエス・キリスト、神ご自身の御業なのです。パウロの伝道がキリストの霊に助けられているというより、キリストの業に、パウロも参加することがゆるされている、用いられている、と言った方が良いかも知れません。パウロは、キリストが送って下さった聖霊なる神の働きにあずかって、神の救いの完成のために伝道しているのです。それは神ご自身が終わりの日に完成させて下さるものです。だから、いつも神に寄り頼み、聖霊なる神様の助けを祈り求めつつ伝道していくのです。  
 執り成しの祈りと、神ご自身の働き。これによって、どんなに困難な状況でも、たとえ牢獄に入ることになったとしても、福音を宣べ伝える業が推し進められているのだから、パウロは自分の救いになる、喜んでいる、と言っているのです。   

 そして、パウロは、20節で「切に願い、希望している」ことがあると言います。   
 それは、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」ということです。   
 パウロの人生は、一見、すでに恥の多い人生かも知れません。なぜなら、罪人のように扱われるし、牢獄にも入れられるし、他の手紙では鞭打たれたり、石を投げられたり、裸でいたこともあった、と書かれています。しかし、パウロにとって「恥をかかない、恥を受けない」というのは、人から自分が辱めを受けない、ということではありません。   
 パウロが信じたこと、伝えたことが虚しくならない。失望に終わらない、ということです。信じた救いは本物であり、宣べ伝えたことがその通りになる、ということです。   
 そしてそれは、キリストがすべての人の前で、公然とあがめられる、ということなのです。   
 そのためにパウロは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によって」と言います。パウロが生き続けても、死ぬことになっても、どちらになっても、ただ「キリストが公然とあがめられるように」という1つのことを願っているのです。   
 初めに、パウロにとって重要なことは、「生きるか、死ぬか」ではなくて、ただ「キリスト」であると申しました。   
 パウロはキリストに罪を赦され、永遠の命の約束が与えられていること、救われていることを確信しています。そうであるならば、この地上において生きるということも、死ぬということも、キリストにあるならばどちらでも良い。ただ、自分の存在が、生きるにしても、死ぬにしても、キリストのためになるように。そして救いが成就して、キリストがすべての者にあがめられるように、礼拝されるようにと、そのことだけを切に願い、希望しているのです。   
 だからパウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言います。   
 パウロが21節のように「生きるとはキリスト」という時、それはキリストの十字架の死と、復活の命に結ばれて、罪に対して死んだ自分が、キリストと共に永遠に生きる、ということを指しています。それは地上での命を終えた後のことではなく、すでにこの地上において、キリストに結ばれた時から始まることです。パウロがすでに、キリストの命を生きている、ということです。今ここに集まっている、洗礼を受けた者たちも、今すでにキリストの復活の命にあずかり、その命を生き始めています。      

 わたしたちは、この地上においていつか死を必ず迎えます。しかしそれは、すべての終わり、滅びをもたらす死ではありません。罪のための滅びの死は、すでにキリストが代わって死んで下さいました。キリストに結ばれた者にとって、死はすでに、キリストによって、克服された死なのです。わたしたちが、キリストの救いを信じて洗礼を受ける時は、人となって地上に来て下さった神の御子、キリストの十字架の死に、あずかっているのです。   
 そして、キリストは父なる神に復活させられました。人間となられたその体をもって、死者の中から甦られました。それは、人間のわたしたちも、そのように死者の中から甦り、永遠にキリストと共に生きるようになるためです。そのようにして、今キリストに結ばれて生きていること。やがてこの地上での歩みを終えても、また終わりの日に復活し、キリストと共に永遠に生きるということ。それが、「生きるとはキリスト」ということです。   
 自分の存在は、この地上の生き死にに留まらず、わたしたちを罪から救い出して下さった、キリストの命の中にあるのだ、ということです。   
 その上で、23節でパウロは「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」と述べます。「この世を去って」というもともとの言葉は、船が錨を降ろして停留しているところから、錨を上げてその場所から離れていく、というような意味です。次のところへ行くのです。この地上の歩みを終えて、神のおられる天の家に迎えられる。天におられ、生きておられるキリストにお会いしてまみえる。パウロはその期待と喜びを仰ぎ見て、この世を去り、天におられるキリストと共にいたいと熱望しているのです。      

 それは決して死への憧れや、生きることへの諦めではありません。パウロにとって死とは、地上の歩みを離れて、天におられるキリストのもとへ、移されることです。   
 もちろん、地上の歩みにおいても、キリストは共におられます。キリストは聖霊を送って下さり、わたしたちの歩みを守り導いて下さいます。   
 その聖霊の助けが必要なのは、地上を歩むわたしたちの弱さのゆえです。生活の中には戦いがあり、キリストと共に生きることを妨げようとする力もあります。罪人のままで赦されたわたしたちは、なおも互いに罪を犯すことがあるし、弱さや誘惑と戦わなければならないことがあります。完全な信仰生活を歩むことは、中々できないのです。   
 しかしキリストがおられる天は、神がすべて支配しておられるところであり、誘惑も戦いももはやありません。そして、何より、生ける復活のキリストが座しておられるところなのです。そこでキリストと一緒にいることを、パウロは心から純粋に熱望しているのです。そのような意味で、「死ぬことは、その自分の願いが叶えられること、利益である」と言うのです。      

 しかし一方で、パウロは22節で「けれども、肉において生き続ければ、実りの多い働きができる」と言っています。肉において生きるというのは、この地上で生きていくということです。パウロがこれからもキリストの救いを宣べ伝える働きを続ければ、それによってまた救われる者が与えられ、福音の前進のため、神の国の完成のために、キリストの役に立つことが出来ます。   
 また24節で、「肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」と言っており、フィリピの教会の人々のために、パウロは生きなければならない、この地上で生きることが必要だと決意しているのです。   
 パウロは、本気でキリストと共にいたいがために、死ぬことは利益であると言い、この世を去って、とにかくキリストと共にいたいと熱望していました。「肉において生き続けることと、この世を去ること、どちらを選ぶべきか分からない」と言い、「板挟みだ」と言いながら、とにかくそれはパウロにとって「生きるか、死ぬか」の板挟みというよりは、「キリストの役に立つために働きを続けるか、自分の希望であるキリストと共にいることを選ぶか」という、キリストとキリストの板挟みだったのです。   
 しかし、パウロは自分の強い願いよりも、地上でキリストのために実り多い働きをするために、そしてフィリピの教会の人々の必要のために、生き続けること選びます。それが神の御心であると受け止めたのです。それは、神が定められた時に、天に召して下さるまで、神に仕え、隣人に仕えていく地上の歩みです。      

 25節では、パウロが生きることがフィリピの人々に必要だと確信しているから、「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」と語っています。   
 「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらす」という文章は、「信仰を深めて」というのが意訳になっており、直訳すると、「あなたがたの信仰の前進と喜びのために」となります。信仰とは、前進していくものなのです。信仰を与えられて、それで終わるのではありません。信仰は前に進んでいくのです。パウロは1:12で「福音の前進」と言っていますが、神の救いの御業が前進していくその中で、わたしたちが与えられた信仰も共に前進していきます。そしてそれは、喜びをもたらすのです。信仰が前進して、神への信頼がますます確かにされ、ますます神を愛し、隣人を愛するようになるのです。そしてそのためには、共に信仰を歩んでいく兄弟姉妹が必要です。信仰者は隣人の助けを必要とするし、また隣人を助けていくことが出来ます。   
 パウロが19節で「あなたがたの祈り」と、キリストの霊の助けとによって、わたしの救いになる、言っていたように、パウロもフィリピの教会に祈られ、助けられているし、またパウロ自身もフィリピの教会の信仰のために、あなたがたと一緒にいる、と言っています。   
 信仰の共同体である教会は、このように兄弟姉妹が互いのために執り成しの祈りをし、兄弟を助け、また自分も助けられて、共に信仰を前進させ、共に神の恵みの中を喜んで歩んでいくことが出来るのです。そうしてキリストの体である教会は、ますます成長していきます。   
 それが神の御心であったのです。      

 パウロは、フィリピの教会の人々に再び会った時に、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わる、と言っています。   
 「キリストに結ばれているという誇り」。これが、信仰者が持つべき誇りです。わたしたちは、そのことを誇っているでしょうか。この「誇り」という言葉は、「信頼」や「喜び」の意味も持つ言葉です。キリストに結ばれた者は、キリストを誇りとし、信頼し、喜びとします。わたしたちも誇りを持って、「生きることはキリスト」と言うことが出来ます。キリストは、もうわたしたちと共におられて、わたしたちはキリストの復活の命を生きることが、赦されているからです。この世で生きるにも、そして死ぬにも、わたしたちは永遠にキリストと共に生きるのであり、キリストを誇りとします。   
 そして、この誇り、喜びは、共にキリストに結ばれた兄弟姉妹によって、増し加わっていくのです。共に同じキリストの命の中に生きる教会の兄弟姉妹がいます。わたしたちは一緒にいて、互いに祈りあうことが出来ます。助けられ、また助けることが出来ます。   
 そうして、わたしたちの信仰は、ますます前進します。良い時も、悪い時も、神の救いにおいて、喜び続けることが出来ます。すべてはわたしたちの救いのためになると知っているからです。   
 わたしたちは、生きるにも死ぬにも、キリストの命に生き、キリストに結ばれた兄弟姉妹と共に、神の国の完成に向かって、喜んで歩んでいくことが出来るのです。

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