主日礼拝

唯一の神

「唯一の神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第6章4-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第3章27-31節
・ 讃美歌:37、151、510

福音の中心
 先週まで三回にわたって、ローマの信徒への手紙の第3章21?26節を読んできました。この21?26節はローマの信徒への手紙の中でも大変大事な所です。パウロが宣べ伝えているイエス・キリストの福音の根本がここに語られているのです。それは23、24節に語られているように、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている私たち人間が、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる、ということです。私たちは皆、どうしようもなく罪に支配されてしまっていて、自分の力で神の前に正しい者として立つことは出来ません。その私たちの罪を、神の独り子である主イエス・キリストが全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。神はそのことによって、キリストを、私たちの罪を償う供え物として下さいました。このキリストによる罪の赦しを信じることによって、全く義ではない、正しい者ではない私たちに、神の義が与えられ、救われる、それがパウロの語っている福音の中心です。福音とは、罪人である私たちが、良い行いに励むことよってではなく、ただ神の憐れみによって、イエス・キリストによる罪の赦しを信じる信仰のみによって救われる、ということなのです。

ユダヤ人の優越感、誇り
 本日の27節以下は、21?26節に語られているこの福音、神の恵みのみによって、信仰のみによって救われる、という福音に対するユダヤ人たちからの批判を意識しつつ語られています。ユダヤ人たちがどのような思いを抱いて生きていたのかについては、既に2章17?20節に語られていました。そこをもう一度読んでみます。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」。つまりユダヤ人たちは、自分たちは神のことを知っており、そのみ心を知っている、だから神に従うために何をなすべきかが分かっている、と思っていたのです。それは彼らが十戒を中心とする律法を与えられていたからです。彼らは、神は自分たちを選んでご自分の民として下さり、律法を与えてみ心を示して下さった、だから自分たちは「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師」なのだと誇っていたのです。その盲人、闇の中にいる者、無知な者、未熟な者とは、ユダヤ人以外のいわゆる異邦人たちです。自分たちは選ばれて神の民とされており、律法によってみ心を示され、それを守ることによって救いを得ることができるが、異邦人たちは神のものとされておらず、律法を与えられていないのでみ心を知ることもできず、従って救いにあずかることができない哀れな連中だ、という優越感をユダヤ人たちは抱き、ユダヤ人であることを誇って生きていたのです。そのようなユダヤ人にとって、パウロが語っている福音は我慢のならないものでした。なぜならパウロは本日の箇所の28節にあるように、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」と言っていたからです。律法を行うことによって義なる者、正しい者となり、救いにあずかることができると思っているユダヤ人たちに向かってパウロは、人が義とされるのは律法を行うことによってではなく信仰によってだと言っているのです。その信仰とは、イエス・キリストによる贖いによって、神の恵みにより無償で義とされることを信じる信仰です。そうなると、ユダヤ人が律法を与えられ、それを一生懸命に実行していることは、救いにとって無意味になってしまいます。そしてユダヤ人と異邦人の違いがなくなってしまうのです。それでは自分たちの優越感、誇りを否定されてしまうわけで、ユダヤ人たちには我慢がならないことだったのです。
 もう一つ、ユダヤ人たちが異邦人と自分たちとの違いを意識し、誇りの拠り所としていたのは、割礼を受けているということでした。ユダヤ人の男子は皆、生後八日目に割礼を受けており、それが神に選ばれた聖なる民の一員であることの印だったのです。ところがパウロは30節で「この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」と言っています。割礼を受けている者も受けていない者も同じように信仰によって義とされる、つまり割礼のあるなしは義とされることにおいて、救いにおいて何の意味もない、義とされるのは信仰によってであって、割礼を受けているからではないということです。これもまた、ユダヤ人たちの誇りをいたく傷つけることだったのです。

人の誇りは取り除かれた
 パウロはこのように、神の恵みのみによる救い、信仰によって与えられる義を語ることによって、ユダヤ人たちの、律法と割礼を神から与えられたという誇りと優越感を徹底的に打ち砕いています。本日の箇所の最初の27節の「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」というのはそのことを語っています。「人の誇り」と言われているのは、ユダヤ人が異邦人に対して抱いている誇りです。そのユダヤ人の誇りが、イエス・キリストによる救いの前では徹底的に取り除かれる、そこではユダヤ人と異邦人の違いはもはや意味を持たない、と言っているのです。
 信仰による義においては、ユダヤ人と異邦人の違いはもはや意味を持たない、そのことをパウロはこれまでにも繰り返し語ってきました。1章16節には「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」とありました。ギリシア人は異邦人の代表です。福音はそれを信じる者に救いをもたらす、そこにおいてユダヤ人と異邦人の違いはないのです。3章9節は同じことを裏返してこう語られています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。つまりユダヤ人も異邦人も皆罪の下にあって、自分の力で義となることができない、救いを獲得することができないのは同じなのです。罪人であるという点においてユダヤ人と異邦人の違いはない、それゆえに、信仰によって救われることにおいても違いはないのです。そのことは3章22節では、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」と語られています。イエス・キリストを信じることにより神の義を与えられることにおいて、ユダヤ人と異邦人の間に何の差別もないのです。それを受けて27節では「人の誇りは取り除かれた」と語られているのです。

誇りと差別
 ここから私たちは一つの大切な事を知ることができます。それは、「誇ること」と、「人に対して優越感を抱き、人を差別すること」とは結びついているのだということです。ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれ、律法や割礼を与えられたことを誇っていました。その誇りは、異邦人たちに対する優越感と差別を生んでいたのです。逆に言えば、優越感を抱き人を差別することによって私たちは自分の誇りを満足させようとするのです。そういうことは私たちの日常の生活においていくらでも見られます。私たちは自分を誇ろうとする中で、人と自分との間に線を引き、自分は彼らとは違うんだと思いたがるのです。世の中にいろいろな形で存在する差別は、人に対して誇ろうとする思いから生まれて来るのです。自分を誇るために、自分よりも低い者、劣った者を見出して、あるいは作り出して優越感を満たそうとする、そこに差別が生じるのです。私たちの中に必ずある誇りの思いこそが、人と人との間を引き裂き、差別を生んでいるのです。そういう意味で27節の「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」という言葉は、ユダヤ人だけの問題ではありません。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという救いの前では、あなたがたの誇りの思いは取り除かれる、もはや誇りや優越感を満たして生きることはできなくなる、とパウロは私たちにも語りかけているのです。27節の後半には、「どんな法則によってか、行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」とあります。「行いの法則」とは、良い行いをすることによって自分の力で救いを獲得できるということであり、「信仰の法則」とは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、神の恵みによって義とされ、救われるということです。自分の良い行いによって救いを獲得しようとしている間は、私たちは誇りから抜け出すことができません。自分の行いと人の行いを比べて、誇ったり、その裏返しとしての劣等感を抱いたりということがそこにはつきまとうのです。そしてそこには人を差別したり差別されたりすることが生じて、人間関係が引き裂かれていくのです。しかし自分の良い行いによってではなく、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって赦され、救われることを信じるなら、そこには自分を誇り、人を見下すようなことは起り得ません。社会的には勿論いろいろな違いがあり、地位のある人もいればない人もいますが、神の前では、自分の力ではどうしようもない罪を主イエスによって赦された者どうしの対等な関係を築いて行く土台がそこには与えられているのです。

唯一の神を信じる
 このように主イエス・キリストを信じる信仰によって神の義を与えられて生きる中で私たちは、誇りを取り除かれ、優越感や劣等感から解放された新しい関係を築いていきます。その新しい関係の土台となることが29節に語られています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります」。ユダヤ人たちのように自分たちと異邦人との間に線を引き、自分たちだけが神の民であると誇るなら、神はユダヤ人だけの神であることになってしまいます。しかしそうではないはずです。神はこの世界の全てを創造なさった、それが聖書の語る信仰です。ユダヤ人だけが神に造られたのではなくて、異邦人も含めて全ての人々が神によって造られ、導かれ、神のご支配の下にいるのです。そのことが次の30節の「実に、神は唯一だからです」にも言い表されています。神はただお一人であり、ユダヤ人も異邦人も、日本人も中国人も韓国人も、全ての民を導いておられ、支配しておられるのです。それがユダヤ人たちの信仰の根本だったはずです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第6章4、5節は、ユダヤ人たちが誰でも諳んじており、毎日口にしている信仰の言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽して、あなたの神、主を愛しなさい」。「実に、神は唯一だからです」というパウロの言葉は、ユダヤ人なら誰でも知っているこの言葉を意識させようとしています。私たちユダヤ人は唯一の主を信じているのではないか、この唯一の主がユダヤ人の神であり、同時に異邦人の神でもあるはずだ、この唯一の主を信じるなら、ユダヤ人と異邦人の間の線引きは絶対的なものではなくなる、異邦人に対して誇りや優越感を抱くことは、唯一の主を信じる私たちの信仰と矛盾するのだ、とパウロは言っているのです。

傲慢、独善と宗教的寛容
 これは大変面白い、また大事なことです。神は唯一である、という信仰に立つなら、自分たちだけが選ばれた民だ、救いにあずかるのは自分たちだけだと誇り、人を差別するようなことはあり得ない、とパウロは言っているのです。私たちは普通逆に考えていることが多いのではないでしょうか。つまり、「神は唯一である」といういわゆる一神教は、自分たちだけが神を知っており、他の信仰を持っている者たちは間違っているという傲慢さと、他の人を受け入れない不寛容さとを生む。それに対して日本のような多神教の世界では、沢山の神々が共存しており、お互いを認め合う寛容な精神があるのだ、などということがまことしやかに語られたりします。しかしそれは全く間違った認識です。日本が多神教だから宗教的に寛容だなどという事実はありません。宗教的寛容というのは、自分の信仰を大切にしつつ、他の人が自分とは違う信仰を持つことを認め、受け入れ、人の信仰を尊重することです。日本の社会を覆っているのはそのような寛容ではなくて、むしろ個人を全体に従わせようとする同調圧力です。だから戦前のように天皇を神として国をまとめようという力が強くなると、その他の信仰は非国民として迫害されるようになるのです。そのようなことを許さない社会になって初めて、宗教的に寛容であると言うことができるのです。そのような宗教的寛容の精神は、むしろキリスト教がベースにある西洋の社会においてこそ育ってきたものです。そこに至るまでには多くの血が流されましたが、そういうことを通して人は寛容の精神を学んできたのです。それはともかく、もっと大事なことは、「神は唯一である」と信じることが、傲慢な、他の人を受け入れない不寛容さを生むということは、本日の箇所でパウロが語っていることからしても間違いだということです。パウロは、神は唯一であるという信仰から、神はユダヤ人だけの神なのではなく異邦人の神でもある、という認識が生まれる、つまり神は唯一であるという信仰によって私たちは傲慢で独善的な誇りの思いから自由になれるのだし、全ての人を同じ神の下にある隣人として見つめることができるようになるのだ、と言っているのです。

主イエスによる罪の赦しによってこそ
 けれどもそのことは、唯一である神が、独り子イエス・キリストによって罪人を救って下さることを信じるところでこそ実現します。ユダヤ人たちは、神は唯一であると信じることによって、あのような誇りに陥り、異邦人を差別していたのです。そういう意味では確かに、彼らの一神教は、傲慢で独善的な、不寛容な精神を生んでいたのです。パウロ自身も、もともとはこの傲慢で独善的な思いに生きていました。自分がユダヤ人であることを誇り、律法を守ることで神の前に義となることが出来ると信じ、律法や割礼を持たない異邦人を救われない連中として差別していたのです。それゆえに、律法を守ることによってではなく、イエスを救い主キリストと信じる信仰によって救われると教えているキリスト教会を激しく憎み、それを撲滅しようとしていたのです。その彼が、復活して生きておられる主イエス・キリストとの出会いによって大きく変えられたのです。主イエスが彼に現れ、語りかけて下さったことによって彼は、自分がこれまで神の独り子である主イエスに敵対し、主イエスを信じる人々を殺すという赦され難い罪を犯していたこと、しかし主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによってその罪を既に赦して下さっていること、そしてこの主イエスによる救いの福音を宣べ伝える使命を神が自分に与えようとしておられることを示されたのです。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しが自分に与えられていることを知らされた彼は、自分たちだけが神を知っていると誇り、他の人を見下すような傲慢な誇りの思いから解放されて、神の救いの恵みが、人間的なあらゆる違い、線引きを超えて信じる者全てに与えられることを信じ、全ての人を同じ神の救いの恵みへと招かれている隣人として見つめることができるようになったのです。つまり神がただお一人であられることは、その神が独り子イエス・キリストによって罪人である私たちを救って下さったという救いのみ業と共に見つめられ、信じられることによってのみ、様々な違いを乗り越えて人を結び合わせる絆となるのです。独り子イエス・キリストによる罪の赦しの恵み抜きに唯一の神を信じようとするとそこには、傲慢で独善的な不寛容な思いが生まれます。なぜならそこでは唯一の神は人間の誇りの手段になってしまうからです。

福音は律法を確立する
 ユダヤ人たちはまさにそういう間違いに陥っていました。彼らは唯一の神を、またその神から与えられた律法や割礼をも、自分たちの誇りの手段としてしまっていたのです。パウロの語る福音がその誇りを否定しているので彼らは激しく反発しました。それで彼らは、パウロの教えは神が与えて下さった律法を無にするものだ、パウロは律法を守る必要はないと言っている、それでは、善いことをしようとする人間の努力が無意味なものとなってしまって、倫理や道徳が崩壊する、と批判したのです。律法の行いによらず、つまり良い行いによってでなく、ただ信仰のみによって救われるという教えに対しては必ずそのような批判がなされます。その批判に応えてパウロが語っているのが31節です。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」。律法を行うことによってではなく信仰のみによって義とされる、という教えによって、私たちは律法を無にするのではなく、むしろそれを確立するのだとパウロは言っています。ユダヤ人たちのように、律法を行うことによってユダヤ人と異邦人とを区別し、誇りや優越感を覚えるのでは、律法は人間の誇りの手段となっています。しかし神がイスラエルの民に律法をお与えになったのはそのようなことのためではなかったはずです。十戒を中心とする律法が与えられたのは、神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、救いを与えて下さった後でした。つまり律法は、それを守ることによって自分の力で救いを獲得するためではなくて、神によって救いを与えられた民が、その恵みに感謝して、神の民として神に従って生きていくために与えられたのです。神の救いは、彼らが律法を守るより前に、恵みと憐れみによって既に与えられていたのです。神の恵みによって救いを与えられた民に、感謝の生活を送るための導き手として、十戒を中心とする律法が与えられたのです。これが律法の正しい位置づけです。それを自分たちの誇りの手段とし、異邦人に対する優越感を満足させるものとしてしまうのは全くの間違いなのです。パウロは、主イエス・キリストによる罪の赦しの福音を信じる信仰のみによって義とされるという福音の中に律法を位置づけようとしています。主イエスを信じる信仰によって罪を赦され、義とされた者が、その救いの恵みに感謝して、神の民として生きていく、そこにおいてこそ、十戒を中心とする律法はその本来の役割を回復されるのです。そこでは、律法はもはや誇りや優越感や独善的な思いを生むものではあり得ません。ユダヤ人も異邦人も、つまり全ての人が、人間的な様々な違いを持ちつつ、主イエス・キリストによる罪の赦しの福音を信じて義とされ、救われることへと招かれているのです。主イエスを信じてその救いにあずかった者たちは、喜びと感謝をもって神と共に歩み、神のみ心を尋ね求め、それに従って生きようとするのです。つまり主イエスによる救いを与えられた生きる人は、やはり善い行いに励むのです。そのための大切な指針、道しるべが十戒を中心とする律法です。それが、「私たちは信仰によって律法を無にするのではなく、むしろ律法を確立するのだ」ということの意味です。そこでは律法は誇りや優越感によって人を分け隔てするためのものではなく、唯一の神のもとに様々な違いのある多くの人々が共に集い、神の恵みによって無償で与えられる救いを喜んで生きるためのものとなります。善いことをしようとする私たちの努力は、自分を誇り、人との間で優越感を持とうとする思いと結びつくと、差別や傲慢を生むものとなります。主イエス・キリストの福音によってこそそれは誇りから解放されて、人との間に良い交わりを築くものとされていくのです。

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