主日礼拝

聖霊によって生きる

「聖霊によって生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨエル書第3章1-5節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第12章1-11節
・ 讃美歌:341、204、406

聖霊降臨日
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。この日主イエスの弟子たちに聖霊が降り、彼らは力を受けて主イエス・キリストのことを宣べ伝え始め、この世に教会が誕生しました。この日は主イエスの復活の日、イースターから50日目でもあります。七週間前の3月27日の日曜日に私たちは主イエスの復活を祝ったのです。復活なさった主イエスはそれから四十日にわたって弟子たちにご自身を現わし、ご自分が復活して生きておられることをお示しになりました。そして40日目に、天に昇られました。地上を去って、父なる神のみもとに行かれたのです。それはまた死んでしまったということではありません。主イエスは肉体をもって復活し、永遠の命を生きておられます。その生きておられる主イエスの体の居場所が、地上から天へと移ったのが昇天です。そのために、地上を生きている私たちは今、主イエスのお姿をこの目で見ることはできないし、握手をすることもできないのです。しかし主イエスが天に昇られてから十日後のペンテコステの日に、父なる神と主イエスのもとから聖霊が降りました。この聖霊の働きによって弟子たちは力を与えられ、目に見えない主イエスがいつも共にいて下さることを信じて、主イエスの十字架と復活による救いを人々に伝えていくことができるようになったのです。そして地上にキリストを信じる者の群れである教会が誕生しました。ペンテコステに降った聖霊は、復活して天に昇られた主イエスと、地上を生きている弟子たち、教会とを結びつけて下さっているのです。私たちが主イエス・キリストを救い主と信じてその救いにあずかることも、目には見えない主イエスと共に生きていくことも、この聖霊のお働きによって与えられていることなのです。

礼拝において働く聖霊
 ペンテコステに降り、教会を誕生させた聖霊は、その後の教会の歩みにおいて常に新たに降り、働き続けて下さいました。今ここにこうして私たちの教会があり、礼拝がささげられているのも、聖霊なる神のお働きによることです。今日ここに集っている私たち一人一人を、聖霊が導いて下さって、それぞれの生活の場からこの礼拝へと呼び集めて下さったのです。そしてこの礼拝においては、二人の方々が洗礼を受けてこの群れに加えられます。これも聖霊のお働きによることです。聖霊なる神は、このお二人のそれぞれの人生に、お二人がそれと気づく前から働きかけて下さっており、守って下さっており、そして相応しい時に教会の礼拝へと導いて下さいました。そして主イエス・キリストを神の子、救い主と信じる信仰を起し、与えて下さったのです。そして本日のこの礼拝において、お二人が洗礼を受けて、生まれつきの古い自分が死んで、キリストの復活にあずかって新しく生きる者へと生まれ変わる、そのことをして下さるのも聖霊です。私たちはこの礼拝において、聖霊のお働きを目の当たりにするのです。その聖霊のお働きは、既に洗礼を受けている全ての者たちに与えられているのだし、まだ洗礼を受けておられない方々も、今日洗礼を受けるお二人がそうであったように、既に聖霊の導きの中に置かれているのです。聖霊なる神は私たちの生活の至るところで、私たちがそれと気づかなくても働きかけ、導いて下さっています。しかし、ペンテコステに聖霊が降って誕生した教会がささげる礼拝においてこそ、私たちは聖霊のお働きを最もはっきりと直接的に受け、体験することができるのです。

聖霊によって生きるとは
 ペンテコステに聖霊の働きによって誕生し、今も聖霊に導かれて礼拝しつつ歩んでいる教会において、私たちは聖霊によって新しくされていきます。それまで知らなかったことを示され、新しい思いを与えられて生き始めるのです。聖霊はそのように私たちを新しくして下さり、聖霊によって生きる者として下さいます。聖霊によって生きるとはどのような歩みなのでしょうか。聖霊を受けることによって私たちはどのように新しくされるのでしょうか。そのことを、本日の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の12章1-11節より聞きたいと思います。

イエスは主である
 最初の1節に「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい」という言葉があります。「霊的な賜物」と訳されている言葉は、「聖霊の導きによって生きる歩み」とか「聖霊による生活」と訳すこともできます。聖霊を受け、その働きの下で生きるようになる時、私たちはどのように生きる者となるのかがここに語られているのです。その聖霊による生活について、2、3節において先ず第一に語られているのは、以前異教徒だったあなたがたは、ものの言えない偶像のもとで生きていたが、今や聖霊の導きによって、「イエスは主である」という信仰を告白しつつ生きている、ということです。聖霊なる神の導きを受け、聖霊による生活を送るようになるとは、先ず第一に、「イエスは主である」と告白して生きる者となることなのです。「イエスは主である」という一言には、イエス・キリストこそ、神がこの世に遣わして下さった独り子、救い主であられ、その主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦され、その復活によって新しい命が与えられている、という主イエスによる救いのみ業の全体が込められています。「イエスは主である」と信じ告白することにおいてこそ私たちは主イエス・キリストの救いにあずかるのです。それゆえに、洗礼を受けて教会に加えられるためには、「イエスは主である」と告白することが求められるのです。本日洗礼を受けるお二人の方々は、聖霊によってこの信仰の告白へと導かれました。「イエスは主である」という信仰を告白するところに、聖霊による生活が始まるのです。

ものの言えない偶像
 「イエスは主である」と告白して洗礼を受け、聖霊による生活を始める前の、まだ異教徒だった頃のことがここでは、「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた」と言い表されています。聖霊の働きを受けた私たちは、「ものの言えない偶像」の下から、「主であるイエス」の下で生きる者へと変えられ、新しくされているのです。それは、以前に何か目に見える像を拝んでいたかどうか、という問題ではありません。人間が、自分で自分で想像し考えた神を信じているなら、言い換えれば自分の思いや考えを神として生きているなら、目に見える像を拝んではいなくても、自分の考え、思想、信念が偶像となっているのです。そして偶像の根本的な特徴は、「ものが言えない」ということです。その意味は、偶像は私たちに語りかけて来ない、私たちは偶像の言葉によって変えられたり、ましてや打ち砕かれるようなことはない、ということです。自分の思い、考え、信念の投影されたものが偶像なのですから、偶像が語ることは全て私たち自身の言葉であり、私たちが既に知っていること、考えていることなのです。それに対して、生きておられるまことの神は、私たちに語り掛けて来る方です。しかも、私たちの知らないことを、思ってもいないことを語り掛け、私たちを当惑させ、混乱させ、打ち砕き、そして新しくするのです。それこそが、人間が造った偶像ではないまことの神です。「イエスは主である」という告白は、イエス・キリストがまことの神として自分に語り掛けて来られ、その言葉によって当惑し、混乱し、打ち砕かれ、そして新しくされることを体験する所にこそ与えられる告白なのです。私たちは主イエス・キリストと出会い、それまで全く知らなかった、考えてもみなかった、びっくりするようなみ言葉を聞くのです。つまり神の独り子であられ、まことの神としての栄光を持っておられた主イエスが、私たちと同じ人間になって下さり、私たちの全ての罪を背負って、身代わりになって十字架の死刑を受けて下さった、それによって神が私たちの罪を赦して下さった、そして神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さった、そのことによって私たちにも、肉体の死の彼方に復活と永遠の命の希望が与えられている、という救いの恵みを告げられるのです。私たちはそのみ言葉に驚き、戸惑い、しかしそこにこそ、罪人である私たちが赦されて救いにあずかることができる唯一の道が開かれていることを示されて、そのみ言葉を信じ、自分の思いや考え、思想や信条によってではなく、神が主イエスによって示し与えて下さった救いにこそ依り頼み、イエスこそ私の主である、と告白する者となるのです。そのように私たちを新しくして下さるのが聖霊のお働きなのです。
 ものの言えない偶像の下では、私たち自身が語るしかありません。それゆえに偶像の下には人間の言葉のみが満ちていくのです。人間の論理、可能性のみが語られ、人間の計画性や実行力が測られ、それらによって事が進められていくのです。それに対して、聖霊によって「イエスは主である」という告白を与えられて生きる所では、私たちは沈黙します。人間の言葉ではなく、主であるイエス・キリストのお言葉を聞き、それに聞き従うことこそがなされていくのです。「イエスは主である」とは、私たちは主ではない、ということであり、先ず語るべきは、そしてその言葉が聞かれるべきなのは主イエスであり、私たちはそのみ前に沈黙してそのみ言葉を聞くべきである、ということです。聖霊の導きによって洗礼を受けた者は、自分の言葉を語ることをやめて、沈黙して先ず主イエスの言葉を聞く者となり、そのみ言葉に従って生きる者となるのです。そこにこそ、この世に満ちあふれ、私たちの生活を縛りつけている様々な人間の言葉、人間の支配、人間のしがらみからの解放、自由が与えられていくのです。

様々な賜物
 このように私たちは、聖霊によって「イエスは主である」という信仰告白を与えられ、主であるイエス・キリストの下で新しく生きる者とされます。洗礼を受けた信仰者は皆、イエス・キリストという一人の主人の下で生きる者とされているのです。しかしそれは、私たちが画一化された、誰もが皆同じような人間になるということではありません。本日の箇所の4節以下がそのことを語っています。4節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」とあります。この「賜物」は聖霊によって与えられる賜物、つまり聖霊の導きによって生きる歩み、聖霊による生活のことです。それには「いろいろある」と語られています。つまり、人によっていろいろな違いがある、ということです。しかしそのいろいろな異なった賜物を与えるのは、「同じ霊」つまり聖霊なのです。「イエスは主である」という同じ信仰の告白を全ての者に与えて下さる聖霊によって、一人一人に、それぞれ違った賜物が与えられるのです。
 このことは5、6節においても「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」と言い換えられています。様々な違った賜物、務め、働きが、同じ霊によって、同じ主によって、同じ神によって与えられるのです。そしてこの「賜物、務め、働き」として具体的に見つめられていることが8節以下に語られています。そこには「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力」という様々な賜物が並べられています。これらは全て、信仰者たちに与えられていた賜物、能力です。三つ目に「信仰」とあるので、他のものは信仰と関係のない賜物なのか、と思ってしまうかもしれませんがそうではありません。ここに並べられているのは全て、信仰において、聖霊の働きによって与えられる賜物です。その中に「信仰」という賜物が挙げられているのは、何か特別に大きな働きのために用いられる信仰というような意味なのだと思います。とにかくここで大事なのは、同じ聖霊の働きを受け、「イエスは主である」という信仰告白を与えられている者たちが、だからといって皆同じ、画一化された生き方をするわけではなくて、人それぞれいろいろに異なった賜物や務めを与えられて、異なった生活をしていくのだ、ということです。最後の11節には「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」とあります。日々の生活やその中で負っている働きはそれぞれに様々に異なっていても、それは全て同じ唯一の聖霊がみ心のままに分け与えて下さっている賜物の違いなのです。聖霊を受けることによって私たちに与えられる新しい生活とは、このように、「イエスは主である」という信仰告白において一つであり、しかし具体的な生活のあり方、負っている働き、務めなどにおいてはまことに豊かなバラエティに富んだものとなるのです。

聖霊による一致
 このことは、先程の、もの言わぬ偶像の下でではなく、「イエスは主である」という告白の下で生きる者となることと結びついています。もの言わぬ偶像の下では、人間の言葉、人間の思いが氾濫していきます。そこでは、それぞれの思い、考え、意見の食い違い、好みの違いがそれぞれに主張されて、人と人とがバラバラになっていくのです。それを一つにまとめようとするとそこには、誰かが主導権を握って、その人の思いに皆が従うということが必要になります。そこには、ある人の思いによって支配され、画一化された集団が生まれるのです。しかし聖霊の働きの下にある教会は、「イエスは主である」という信仰告白においてこそ一つとされています。その下で、各自が、聖霊がみ心のままにそれぞれにお与えになる賜物をいただいて、様々に違った生き方をしていくのです。そこには、人間が思い描く一致はないかもしれません。人間が思い描く一致は、良く言えば統一の取れた秩序のある、悪く言えば画一的な個性を殺す一致です。しかし聖霊によって与えられる新しい一致は、「イエスは主である」という告白に共に立ち、十字架と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命を約束して下さった主イエス・キリストに聞き従うことによる一致であって、それぞれに聖霊なる神が与えて下さっている様々な異なった賜物がそこでは生かされ、大切にされていくのです。本日洗礼を受けてこの群れに加えられる方々と、その方々をお迎えする、先に洗礼を受けた者たちとが共に、今日新たに聖霊のお働きを受けて、「イエスは主である」という信仰を共に告白し、人間の言葉によって支配されていた古い自分を打ち砕かれ、聖霊の導きの下でこそ与えられるまことの一致を与えられていきたいと切に願います。そして聖霊なる神は、まだ洗礼を受けておられない方々にも既に働いておられます。聖霊は皆さんを、「イエスは主である」という信仰の告白の下で、それぞれの異なった賜物、個性が豊かに生かされて行く、キリストの体である共同体へと招いておられるのです。

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