主日礼拝

後から来られる方

「後から来られる方」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: マラキ書 第3章1節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章1-8節
・ 讃美歌: 193、281、237

福音の初め
 福音書はいずれもイエス・キリストについて証しをしています。マタイによる福音書とルカによる福音書は二つとも、主イエス・キリストの誕生の物語から始まっています。他の福音書とは少し趣の異なるヨハネによる福音書は「初めに言があった。」と語り始め、その言葉が肉となったと語ることによって、やはり主イエスがこの世に来られたことを述べています。これらの三つの福音書はいずれも、救い主イエス・キリストが私たちのところへ来て下さったという喜びの出来事をまず語ろうとしているのです。それに対してマルコによる福音書は主イエス・キリストについての物語から始めるのではなく、洗礼者ヨハネの物語から始めております。それでもなお、マルコによる福音書の冒頭には「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。神の子イエス・キリストの福音の初めには、洗礼者ヨハネについて記す必要があったのです。

洗礼者ヨハネ
 洗礼者ヨハネは荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えておりました。そして、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのです。ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を勧めておりました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授ける」と人々に洗礼を授けておりました。ヨハネは水で洗礼を授ける、水によって全ての汚れから洗い清める、と勧めたのです。ヨルダン川付近にはヨハネ以外にも多くの不思議な力を持った宗教家が現れ、また様々な集団がありました。その背後には水によって清められる、「水の洗礼」について言及した預言者たちの預言があったからです。

預言者たちの預言
 預言者エレミヤもこのように預言をしております。「エルサレムよ あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸に よこしまな思いを宿しているのか。」(4:14)エレミヤは腐敗した人々の心の悪を、水で洗い清めなさいと、預言しております。また、エゼキエル書36章「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。」(36:25)とあります。預言者エゼキエルも、終わりの日には水によって全ての汚れから清められる。そのような清い水が神から与えられると預言しているのであります。

洗い流すことの出来ない罪
 けれども水によって全身を清くしたとしても、なお水で洗い流すことのできないものがあります。それは人間の「罪」であります。人間の罪深さであります。洗礼という行為は、ヨハネが初めて行なった行為ではありません。けれどもヨハネは洗礼によって、新しく生きることを勧めました。洗礼者ヨハネは荒れ野に現れて、罪の赦しを得て、新しく生きるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、「洗礼運動」を始めたのです。多くの人、ユダヤの全地方とエルサレムの住民はヨハネの元に集まり、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのです。そして、大きな集団を形成しつつあったのであります。その当時において、ヨハネは偉大な影響力を持った人でありました。ヨハネは「罪の赦しを得て、新しく生きるために悔い改めの洗礼」を宣べ伝えました。「悔い改める」とはどういうことでしょうか。私たちは日常生活を振り返っても自分が悔い改めの必要のある人間であるということは分かることであります。自分にはこのような悪い点がある、短所があるとすぐ思いつくでしょう。けれども、聖書が教える罪というのは、人間にはこういう悪いところ、欠点があるというのではなくて、人間は根本的に神に背いていると言うことです。つまり、「悔い改める」と言うのは、単に悪事や過失を悔いて善の方向に向かうことではありません。個々の罪を悔いるというよりも、全体として「向きを変えて帰る」という意味です。どこに帰るのか、神様のもとへとです。そこにヨハネの洗礼の意味がありました。けれども、ヨハネが人々に授けていた水の洗礼はあくまでも、救い主の到来への備えだったのです。7節においてヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言っています。自分の役割、自分の使命というものをヨハネは知っておりました。ヨハネは自分が授ける水の洗礼は、救い主の到来への備えであることを知っていたのです。「後から来る、自分より優れた方」、それは主イエス・キリストです。

後から来られる方
 ヨハネは自分は救い主としての業を行なうのではないということを知っておりました。自分は後から来るキリストを証しするために来たのであると信じておりました。そして、自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない、と言ったのです。そして、ヨハネは自分が指し示す、自分が証しする方は主イエス・キリストは「聖霊によって洗礼を授ける」方である、と言っております。そして、主イエス・キリストは聖霊によって洗礼を授ける方である。ヨハネは「水によって洗礼を授けました。けれども主イエスは聖霊によって洗礼を授けるのであります。両方とも、「罪の赦しを得させるための洗礼」には違いはありません。相違点は「水」と「聖霊」でありますが、その相違は絶対的に大きいのです。

聖霊によって洗礼を授ける方
 主イエスもまた、ヨハネから洗礼を受けました。罪なき方であり、悔い改める必要のない方が、悔い改めの洗礼を受けたのです。それは、神のひとり子であり、悔い改める必要のない主イエス・キリストが、悔い改めて罪を赦していただかなければならない私たち罪人のところに来て下さり、私たちの罪を引き受けて下さったことを意味します。そして主イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けて水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように降ったのです。そのようにして主イエス・キリストは聖霊を受けられたのです。そのことによって、私たちがあずかる洗礼、主イエスの救いにあずかる教会の洗礼は、水によってなされる洗礼でありながら、同時に聖霊による洗礼となったのです。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエス・キリストは私たちの罪を引き受けて十字架への道を歩まれました。誰よりも苦しみの極みを歩まれた、誰よりも荒れ野を歩まれたのです。それは私たちを罪から救うためでした。私たちはどんなに努力しても、自分で自分を罪から救い出すことはできないのです。私たちは根本的に罪人であり、荒野のような存在であり、荒野を歩むしかない存在だからです。主イエス・キリストはそのような私たちに代わって、私たちが歩むべき死への道、荒野を歩んで下さいました。そして十字架においてその命をささげて下さいました。主イエス・キリストは命を懸けて私たちに罪の赦しをお与え下さったのです。罪のゆえに荒野を歩むしかなかった私たちが、主イエス・キリストの出来事によって、赦しを与えられ、荒れ野の中に整えられ、真っ直ぐにされた道を歩むことができるようになった。のです。けれども、私たちは弱さのゆえに容易にその道を踏み外しまう者であり、私たちの心は容易に神様から背いてしまいます。主イエス・キリストはそのような世界に救い主として来られました。私たちはその方の名による洗礼を授けられると言うことです。その洗礼において主イエスは私たちにも聖霊を注いでくださり、私たちの罪を赦し、神様の恵みのもとを生きる者へと新しくして下さるのです。このキリストを受け入れ、洗礼において聖霊の働きを受け、主イエスの十字架の死による罪の赦しを与えられるならば、私たちは日常のただ中で、新しい神様との関係をもつことができ、新しい人間へと変えられるのです。どんなに水で体を洗ったとしても、罪はなお残ります。けれども主イエス・キリストは、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を根本的に引き受けて下さり、赦して下さいました。この主イエス・キリストを信じ、主イエスの名による洗礼を受け、従っていくことの中で、私たちは、悔い改めることができるのです。神様のもとに向きを変えて帰ることができるのです。そして私たちは神様とも、隣人とも、新しい関係を与えられ、新しい自分に生まれ変わることができるのであります。

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