主日礼拝

使徒の自由

「使徒の自由」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第1章27節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第9章19-23節
・ 讃美歌;3、117、392

 
自由であると同時に奴隷  
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と、本日の箇所の冒頭で使徒パウロは言っています。 だれに対しても自由であり、同時にすべての人の奴隷である、それが、キリストによって立てられた使徒であるパウロの姿なのです。 自由であるということと、奴隷であるということは、まったく正反対の、矛盾することです。自由であれば奴隷ではない、奴隷であれば 自由ではない、それが常識というものです。パウロは、その常識に反することを語っているのです。それはどういうことなのでしょうか。 自由であると同時に奴隷であるということはいかにして可能なのでしょうか。
 パウロはこの、自由であると同時に奴隷であるということを、 自分のみにあてはまる特殊な事柄として語っているのではありません。9章は、8章からの、キリストを信じる信仰者は、偶像に供え られた肉を食べてもよいかどうか、という問いに対する答えの続きとして語られています。このことについてのパウロの基本的な立場は、 偶像などは神でも何でもないのだから、その前に供えられたからといって肉が汚れてしまうようなことはない、気にすることなくその肉 を食べてもよい、ということでした。そういう自由が、キリストを信じる全ての信仰者に与えられているのです。つまり、キリストを 信じる信仰によって、パウロのみでなく、全ての信仰者が、自由を与えられているのです。しかしパウロが8章において語ったことの中心 はこの自由ではありませんでした。この自由ならば、コリント教会の人々はよく分かっていたし、むしろその自由を満喫して生きていたの です。パウロが語ったのは、我々は信仰によって確かにそのような自由を得ているが、我々がその自由を行使することによって動揺させら れてしまう弱い人々がいる、具体的には、偶像に供えられた肉はどうしても気になって食べたくないと思う人がいる、そのような、まだ信 仰の弱い人、信仰による自由を十分に得ることができていない人がいるのだから、その人々のために、我々は自分の与えられている自由 の行使を差し控えるべきだ、自由だから何でも好きなようにする、というのではなくて、自由だけれども、他者のためにこれは控える、 自分の自由の行使を制限する、という生き方をするべきだ、ということです。そういう思いが、8章の最後の13節の「それだから、食 物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」という言葉 に言い表されています。「誰に対しても自由な者だが、すべての人の奴隷になる」というのは具体的にはこういうことなのです。つまり パウロは、信仰者は、自由であるけれども自分から奴隷となることができるのだと言っているのです。自由であることと奴隷となること は、自然に結びつくわけではありません。そこには、信仰者の強い意志、決意が必要です。その意志、決意のことを、私はこれまでの説 教において「心意気」と表現しました。パウロ自身はこれを「誇り」と言っています。パウロはここで私たち一人一人にも、そのような 心意気、誇りをもって生きようと語りかけているのです。

ユダヤ人に対してはユダヤ人のように
 自由であることと奴隷となることを自らの意志において結びつけて生きる、それは今も申しましたように、自由な者であるけれども自ら 進んで奴隷となる、ということです。自由な者だから奴隷にはならないのではなくて、自由な者だからこそ奴隷になることができるのです。 自らの意志で、進んで奴隷になることができる者こそ、本当に自由なのです。パウロはこのような自由に生きていました。その自由な姿が 20節以下に語られています。20節には「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配さ れている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得 るためです」とあります。「ユダヤ人」と「律法に支配されている人」は同じことです。ユダヤ人は、神様の律法を守ることによって、神に 選ばれた民であることができるという強い自負を持っていました。その結果、彼らの生き方は律法に支配されていたのです。パウロはここで、 自分はそのユダヤ人、律法に支配されている人のようになった、と言っています。ということは、彼自身はもはやユダヤ人ではない、律法に 支配されていない、律法から自由になっている、ということです。彼はもともとはユダヤ人でした。その中でも、ファリサイ派という、最も 律法に忠実に生きている人々の一人として、人一倍律法に支配された生き方をしてきたのです。ところが、主イエス・キリストと出会い、 主イエスを信じる者となったことによって、彼はその律法の支配から解放され、自由になったのです。律法に捕われなくなったのです。 信仰によってそういう自由を得たのです。だからこそ、自分から進んで、ユダヤ人のように、律法に支配されている人のようになれるの です。このパウロのように、主イエス・キリストを信じる信仰は、生れ育った環境や文化や条件によって培われた考え方、生き方、生活 様式から私たちを解放します。信仰によって私たちは、自分のそれまで持っていた考え方、生き方、生活様式を相対化することができる ようになり、自分を支配している常識から解放され、自由になるのです。私たちも、日本人なら日本人としての、またそれぞれの生まれ 育った環境や条件による様々な考え方、生き方、生活様式に支配されて生きています。しかし主イエス・キリストを信じることによって、 それらのことから解放されるのです。自分の常識にこだわり、これでなければだめだ、という思いを持たなくなるのです。そして、自分と は違う様々な考え方、生き方、生活様式を認め、受け入れることができるようになるのです。それが、信仰によって与えられる自由です。 そしてそういう自由を得た者は、パウロと同じように、ユダヤ人に伝道する時にはユダヤ人のように、日本人に伝道する時には日本人のよ うになることができるのです。それは表面的には、日本的伝統に縛られている時と同じ生き方に見えるかもしれません。しかし本質的には 全く違うことです。パウロが、自分はもうユダヤ人ではない、律法に支配されてはいない、と言っているように、私たちも、主イエス・キ リストを信じることによって、ある意味では日本人でなくなるのです。日本的な習慣や感覚や常識から自由になり、神の国の国民となるの です。そしてそうであるからこそ逆に、日本人の感覚や習慣、日本人が捕われているものへの理解と配慮をもって、キリストの福音を宣べ 伝えていくことができるのです。

律法からの自由
 パウロは自由に生きている自らのことを21節ではこのように言い表しています。「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです」。 「律法を持たない人」とは、ユダヤ人ではない、いわゆる異邦人のことです。ユダヤ人は異邦人のことを、「律法を持たない者」と呼んで軽蔑して いました。ユダヤ人にとっては、律法を持たないということは神様を持たない、神様の救いと無縁だということだったのです。以前にも紹介しま したが、昨年全15巻が完結した、塩野七生の「ローマ人の物語」というシリーズがあります。その中に、ユダヤ人とローマ人の、「法」に関す る考え方の違いが指摘されており、なるほどと思わせられました。ユダヤ人にとっては、法というのは神様の律法、神様が人間に与えた掟なのです。 しかしローマ人は、法を人間の間の取り決め、人間が作ったものと考えました。神様の掟ならば、人間が勝手に変えることはできません。命をか けてもそれに従うべきものとなります。しかし人間が取り決めたことならば、人間の事情が変われば、それに合わせていくらでも変更が可能なの です。ローマが大帝国を築くことができたことの一つの鍵は、この法に対する融通無碍な考え方にあったのです。それは法に対する考え方がいい かげんだったということでは決してありません。ローマは歴史上初めて、いわゆる法治国家を築きました。人間の取り決めである法を大切にし、 その法によって国を、社会を動かす、そしてその法を、人間の、国の実情に合わせて変えていく、そういう統治をしたのです。それによって、 様々な民族や宗教が混ざり合う大帝国を維持していくことができたのです。そういうことは、ユダヤ人のような法の理解によっては絶対に不可 能なことです。ローマ人が法を人間に合わせようとするのに対して、ユダヤ人は、人間を法に合わせようとするのです。それでは、様々な違い を持った諸民族をまとめあげることはできません。つまりユダヤ人は、どんなに優秀な民族であっても、またたとえどんなに強大な軍事力を持っ たとしても、世界帝国を築くことは不可能だったということです。
 話は脱線したように思われるかもしれませんが、しかしパウロが、キリストを信じる信仰によって、律法から自由になり、律法を持たない人 に対しては律法を持たない人のようになることができたというのは、今述べたユダヤ人の法理解からある意味で解放されたということです。主イ エス・キリストによる救いの出来事によって、旧約聖書の律法が、一字一句そのまま神様の絶対的な法であって、人間は無条件でそれに従わなけ ればならない、というものではなくなったのです。言い替えるならば、律法を守ることが救いの条件ではなくなったのです。だから、律法を持た ずに生きている人々も救いにあずかる神様の民となることができるようになったのです。この律法からの自由によってパウロは異邦人にも伝道を し、彼の働きによって各地に異邦人の教会が生まれていったのです。しかしそれは、パウロが、ローマ人と同じように、法は人間の間の取り決め に過ぎないから人間の事情に合わせていくらでも変えられる、と思うようになったということではありません。「わたしは神の律法を持っていな いわけではなく、キリストの律法に従っているのですが」と言っています。つまり彼は、律法からは自由になりましたが、人間のご都合主義や放 縦に陥るのではなくて、その自由の中でなお神様に従って生きる道を見出したのです。主イエス・キリストを信じる信仰はこのように、律法から 自由でありつつ、キリストに従う神様の僕として生きることを可能にするのです。パウロが見出したこの信仰にこそ、キリスト教がユダヤ人のみ の民族宗教で終わるのではなく、様々な民族を包含する世界宗教となってローマ帝国全域に広がり、後にはローマの国教にまでなり、さらには、 ローマ帝国が滅びた後も、世界中の人々を結び合わせつつ今日にまで至った要因があるのです。

弱い人に対しては、弱い人のように  
 22節には「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」とあります。これはユダヤ人と異邦人という民族的な相違 に関することではなくて、教会の中における信仰の強い者と弱い者との関係の問題です。それは具体的には先程申しましたように、偶像に供えられ た肉を気にせず食べることができる人と、どうしても気になって食べる気がしないという人との問題ですが、私たちはこれを今日の私たちの教会の いろいろな状況に当てはめて考えることができます。例えば一つの例として、毎週の礼拝にどれだけきちんと出席しているか、という問題にこれを 当てはめることができるでしょう。私たちの信仰の基本は神様を礼拝することです。そういう意味で毎週の主の日の礼拝は信仰者、教会員としての 基本的な義務でもあるし、義務と言うよりむしろ三度三度の食事をとるようなものです。ちゃんと食事を摂らなければ健康を維持できないように、 私たちの信仰も、礼拝を欠かしたらば霊的な健康を維持することができないのです。しかし、それぞれの様々な事情の中で、必ずしも毎週礼拝を守 ることができないことが起ってきます。気持ちはあるけれども、健康や、物理的な事情でどうしても出席できないことは勿論あります。しかしそれ だけでなくて、信仰の弱さのために、礼拝を生活の中心に据えることができていない、礼拝から礼拝へという一週間の生活のリズムを作ることがで きていない、そのために欠席がちである人もいるのです。それでもよい、と言っているのではありません。しかし、毎週礼拝を守っている、そうい う意味では信仰の強い人が、まだ信仰の弱いそれらの人々のことを、「信仰者として相応しくない」と言って裁いたり批判したりするならば、それ はコリント教会で起っていた「高ぶり」と、それによって弱い人々を傷つけることが私たちにおいても起っていることになります。毎週礼拝を守る ことができる信仰を与えられ、様々な条件においてもそれを許されているのは、喜ぶべきこと、感謝すべきことであって、人に対して誇るようなこ とではありません、まして、それによって人を裁くべきことではありません。例えばこの問題において、信仰の弱い人々が、裁かれるのではなくて 受け入れられ、教会の交わりの中で、礼拝の喜びに生きる信仰を教えられ、育てられ、次第に強くされていくために配慮する、それがパウロの言っ ている「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」ということなのです。そしてこのように、信仰の強い人が、その強さを自分の誇りや高ぶ りのために行使するのではなくて、むしろ信仰の弱い兄弟たちへの愛と配慮に生きることにこそ、パウロが語っている、本当に自由にされた者の生 き方があるのです。主イエス・キリストによって私たちは、そのように生きる自由を与えられているはずなのです。

買い取られた者  自由な者であるがゆえに、その自由を自ら放棄して、奴隷となって生きるというパウロの信仰の姿は、このような広がりを持ち、私たちに様々な ことを考えさせてくれます。そしてこれらのことの中心においてパウロが見つめているのは、この自由がどのようにして与えられたのか、というこ とです。そのことはこの手紙の7章22、23節に語られていました。そこにはこのようにありました。「というのは、主によって召された奴隷は、 主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払 って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」。身代金を払って買い取られた、この身代金は、奴隷や捕虜になっている者が解放され、 自由になるために支払われるお金です。あなたがたのためにその身代金が支払われ、それによってあなたがたは解放され、自由になったのだ、その 身代金が主イヱス・キリストの十字架の死だったのだとパウロは言っているのです。これが、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる 自由です。つまり私たちは、もともとは自由ではなく、奴隷だったのです。捕われの身だったとのです。もともと奴隷だった者が、主イエス・キリ ストによって、その十字架の死という身代金を支払ってもらって解放され、自由になった、それが、キリストを信じる信仰者なのです。ここで見落 としてならない大事なことは、身代金によって買い取られた者は、それを支払って下さった方のものになる、ということです。主イエス・キリスト が、十字架の死という身代金を支払って私たちを買い取って下さったことによって私たちは、主イエス・キリストのものとなったのです。今読んだ 22節には「キリストの奴隷」とありました。キリストを信じてその救いにあずかることによって、私たちはキリストの奴隷となっているのです。

キリストの奴隷となることによって
 それでは少しも自由ではないではないか、ただ主人が変わっただけで、奴隷であることは変わらないではないか、 と思うかもしれません。しかしそれは違うのです。イエス・キリストのもの、キリストの奴隷となる時に、私たちは本当の自由を得ることができるのです。 それまで自分を縛りつけていた一切のものから解放されるのです。ユダヤ教ファリサイ派のエリートとして誰よりも律法に支配されて生きていたパウロが、 そこから解放され、もはや自分は律法に支配されていない、と言うことができたのは、彼が主イエス・キリストのもの、キリストの奴隷となったからです。 律法に疑問を感じて自分でそこから抜け出して来たのではないのです。律法からの解放は、主イエス・キリストのものとされたことによって、はるかに 大きな神様の恵みの中に置かれたがゆえに、もう律法はいらなくなった、それにこだわる必要はなくなった、ということなのです。この自由によって こそ彼は、なお律法に支配されている人に対しては、その人のようになって共に歩みつつキリストを宣べ伝えることができたのです。
 また彼が、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のようになり、その人々を迎え入れつつ、なおそこでキリストの律法に従っていく信仰者の 群れを築くことができたのも、彼が主イエス・キリストのもの、キリストの奴隷となることによって与えられる自由に生きていたからです。律法からの 解放、自由は、それだけでは、先ほども申しましたように人間のご都合主義と放縦を生みます。そうならずにすむのは、この解放、自由が、キリストの もの、キリストの奴隷として、キリストに従って生きるところにこそ与えられるものであることをしっかりとわきまえることによってなのです。
 「弱い人に対しては弱い人のようになる」ことも、同じように、キリストのもの、キリストの奴隷となることの中でこそできることです。強い人が、 その強さを自分の誇りや高ぶりのために行使するのではなくて、むしろ弱い兄弟たちへの愛と配慮に生きるというのは、自分よりも弱い人のことを慈しみ、 やさしくしてあげようという憐れみや同情から出来ることではありません。自分はキリストのもの、キリストのご命令に従う奴隷である、ということから こそ、自分の権利を放棄する自由、奴隷となって生きる自由が生まれるのです。何故ならば、主人である主イエス・キリストご自身が、まさに私たちのた めにそうして下さったからです。主イエスは、弱く罪深い私たちのところに来て下さり、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を受けて下さったのです。 つまり、弱い人を得るために、弱い人のようになって下さったのは主イエスなのです。その主イエスによって、弱い私たちが、神様の恵み、祝福へと 獲得されました。誰に対しても自由な者だが、すべての人の奴隷になって、すべての人を得て下さったのは、実は主イエス・キリストなのです。主イ エスのご支配は、私たちの奴隷となって仕えて下さることによって、私たちを救いへと獲得して下さるというご支配なのです。私たちはこの主イエス のものとなることによって、私たちを縛りつけている様々なこの世の力から解放され、自由になるのです。そしてその自由を、主イエス・キリストが なさったように、すべての人の奴隷になるという仕方で用いていくのです。相手の状況や生活様式や考え方に応じて、仕える者となっていくのです。

神にかたどって
 そのように私たちが、キリストのものとなって、キリストが示して下さったまことの自由に生きる者となる時に、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、 創世記1章27節の、「神は御自分にかたどって人を創造された」というみ言葉が実現するのです。人間は、神様にかたどって創造された。神様のお姿を 映し出している。それは姿形の問題ではなくて、人間は神様の自由を映し出して真実に自由に生きる者として造られている、ということです。その神様の 自由とは、主イエス・キリストにおいて示された、神の子が自らすべての者の奴隷となって下さったという自由です。私たちは、キリストを信じ、キリスト と結び合うことによって、その神様の自由を映し出しつつ、真実の自由に生きる者となるのです。

福音に共にあずかるために
 自由な神の子がすべての者の奴隷となって下さることによって、すべての者を救いへと獲得して下さった、これが、パウロが宣べ伝えている福音、 喜びの知らせ、救いの知らせです。パウロは、本日の箇所の最後の23節で「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが 福音に共にあずかる者となるためです」と言っています。この福音を宣べ伝えるためにはどんなことでもする、それは、自分も福音に共にあずかる ためだ、という言葉に注目しなければなりません。パウロは、自分はこの福音を既に持っているから、それを人々に伝えるために努力する、とは 言っていないのです。福音は、パウロにしても私たちにしても、自分の持ち物として所有して、それを誰かに教えてあげたり分けてあげることがで きるものではありません。福音は、主イエス・キリストにおいて示された神の自由にあずかって私たちも自由な者として生きることの中でこそ私た ちのものとなるのです。つまり、誰に対しても自由な者である主イエスが、その自由によって私たちの奴隷となって仕えて下さり、十字架の苦し みと死を引き受けて下さったことによって私たちを解放し、自由を与えて下さった、その自由を私たちも、自分の誇りや高ぶりのために用いるので はなくて、弱い兄弟への愛と配慮のためにこそ用いていく、自由であるからこそ仕える者となっていく、そのことの中でこそ、私たちも、キリストの 福音に共にあずかることができるのです。

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