夕礼拝

どうしたらよいですか

「どうしたらよいですか」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書第57章14-19節
・ 新約聖書:使徒言行録第2章37-41節
・ 讃美歌:16、521

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステです。ペンテコステは主イエスが天に上げられたあと、使徒たちに約束されていた聖霊が降った日です。
 聖霊が降った時、聖霊を受けた人々は、あらゆる国の言葉で神の偉大な業を語りはじめ、それに驚いた人々が集まってきました。
 そして、聖霊を受けた使徒のペトロが、人々に説教をしました。ペトロの説教を聞いた人々とは、五旬祭のお祭りのために、全世界から帰ってきていた、信心深いユダヤ人たちでした。

 人々は、このペトロの説教を聞いて、大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った、とあります。
 大いに心を打たれる、というのはどういう心の状態だと思いますか。「心を打つ」という言い方は、強い感動を与えるという意味です。だから人々は説教を聞いて「大変強く感動した」ということになります。
 しかし、この「大いに心を打つ」という表現では少し足りないような気がいたします。
 この言葉は、元々のギリシャ語では「刺す」とか「抉る」という意味で、不安や後悔の際に感じる激しい心の痛みを表現するときに使われる言葉です。
 人々は、心に刃物を差し込まれて、それを回して抉られるような、そんな激しい痛みを心に感じたというのです。血が流れて止まらなくなるような、そんな深い傷を負ったような痛みです。

 ペトロが語った説教とは、今日の聖書の前の箇所、2:14~36にありますが、その内容は主イエス・キリストについてです。
 ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であり、救い主であるということです。
 ペトロは人々に、「主イエスは神のご計画によって十字架で死なれた後、神が復活させられて、天に上げられた。そしてその後、約束されていた聖霊が降った。今まさにあなたがたはそのことを見聞きしている。確かに神の御業が行われたこと、主イエスが救い主であるという証を見聞きしているのだ」ということを語りました。

 このことは、人々にとって「良い知らせ」でした。
 ペトロの話を聞いていた人々はユダヤ人、つまり神が選ばれたイスラエルの民でした。そして、旧約聖書に書かれていた救い主が来られて、神がご自分の民を救うためのご計画が、成し遂げられた、という知らせだったからです。

 ところが一方で、その「良い知らせ」を聞くことによって、人々は自分の罪を知らされました。神が遣わして下さった救い主を受け入れず、神の御子を十字架につけて殺してしまったのは他でもない自分たちだったからです。
 彼らは信心深いユダヤ人だと書かれています。聖書をよく読み、心から神の救い主が来られるのを待ち望んでいた人々です。
 それなのに、神から遣わされた方、聖書に証されている方を拒み、十字架につけろと一緒に叫び、あざけり、嘲笑い、罵った。そして十字架につけて殺してしまったのです。
 最も喜んで救い主を受け入れるべき人々が、神に対してとんでもない大きな罪を犯したのです。神の前で、どうやっても、自分の命を捧げても、贖えない罪です。

 自分たちを救い出して下さる、ずっと待ち望んでいた方が、本当に来られた。
 でもその方を受け入れずに、殺してしまった…

 「わたしたちはどうしたらよいのですか。」
 人々の問いは、救い主が来られたという知らせと、そのことによって知らされた自分たちの罪によって、深く心を抉られるような激しい痛みの中で発せられた問いでした。
 聖霊を受けて語ったペトロの説教は、このように人々の心を抉り、人々を、今のままではいけない、このままではいられない、という思いに駆り立て、そのように問わせたのです。

 そして、わたしたちも、このユダヤの人々と同じなのです。
 教会で語られる「福音」は、わたしたちに救い主が与えられて、その主イエスが十字架と復活の御業によって、罪と死から解放して下さったという「良い知らせ」です。
 しかしそれは同時に、神の御子である主イエスの十字架の死によらなければ解放されないほどに、わたしたちが神に対して重い罪を犯しており、死に捕らわれていたのだ、ということを明らかにします。神が、わたしたちの罪の赦しを宣言して下さる時、それは自分が死ぬべき罪人であったと知る時なのです。
 そのようなことを知らされたわたしたちは、一体どうしたらよいのでしょうか。

 この問いに、ペトロは答えます。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 まず、悔い改めなさい。神の方を見なさい、と言います。
 「悔い改める」という言葉には、方向転換をする、向きを変える、という意味があります。神に背を向け、逆らってきた生き方をやめ、神の方へ方向転換し、神の許に立ち帰って生きる、ということが「悔い改め」です。

 しかし、わたしたちは、悔い改めをしたから、その結果として罪が赦されるのではありません。わたしたちが悔い改める時、神が、「わたしの方へ向き直り、わたしの許へ帰ってきなさい」と呼んでくださる時、そこには既に、主イエスの十字架による罪の赦しが、わたしたちに差し出されているのです。
 わたしたちは福音を知らされ、神に招かれます。そして、これまで背を向けていた神の方へ向き直り、神が無償で差し出して下さっている、救いの恵みを受け取るのです。

 神の恵みに生きるということ、神に従って生きるということは、わたしたち自身を神に差し出すことです。わたしを、神のものとして下さい、ということです。
 しかし、父なる神はその前に、ご自分の御子、主イエス・キリストを、わたしたちの罪の赦しのために与えて下さいました。そして、キリストは十字架で、わたしたちの罪をすべて負い、ご自身の死によって罪を贖って下さったのです。そのことによって、わたしたちに罪の赦しが与えられます。

 ですから、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」ということは、洗礼によって、罪に捕らわれていた自分が、主イエスの十字架の死で一緒に死にあずかり、そのことによって罪を赦して頂いて、主イエスの復活の新しい命を与えられて、主と共に生きる者とされるということです。
 洗礼は、そのような、見えない神の恵みを表す、目に見えるしるしなのです。
 洗礼で水がしるしとして使われるのは、水に浸されて罪の古い自分が死ぬということ。また水が汚れを清め、また命を養うものであるように、主イエスの血で罪を潔められ、主イエスの命に養われるようになることを指し示しているからです。
 そして同時に、そのしるしを通して、罪の中にいるわたしたちがキリストの十字架と共に死に、キリストの復活の命によって新しく生まれるという出来事が、神の御業が、その時、実際に起こっているのです。

 洗礼はただの象徴的な儀式ではありません。
 このしるしには、事実が伴います。この洗礼によって、罪が赦され、キリストと一つになって、新しく生きる者となるという、事実が、起こるのです。

 ところで、だいぶ前でしたが、教会でこういう女性に出会ったことがあります。その方はずっと教会に通っているけれど、洗礼は受けなくてもいいと考えている、と言っていました。
 その方は、「わたしはしっかり心の中で神様はいると信じているし、イエス様が救って下さったと信じている。だから、わざわざ洗礼を受ける意味が分からない。そういう儀式をしなくっても、ちゃんと信じているんだから、それでいいと思っている」と言うのです。

 「わたしが心の中で信じている」ということには、どれだけの確かさがあるのでしょうか。心の状態が様変わりしたら、信じられなくなってしまうかも知れません。悪魔が誘惑する時、試練の嵐に遭う時、友人に見捨てられる時、心が引き裂かれるような時、それでも、わたしたちは自分の力で、心の中で、神の恵みを信じ続けることが出来るでしょうか。
 そして、心で信じていれば、洗礼を受けなくても、何もしなくてもよいのでしょうか。

 救いを信じるということは、自分の力で、わたしはこの神様を信じよう!と心の内に決めることではありません。
 救いを信じるということは、わたしたちにご自身を現して下さった神に信頼して、その神に自分のすべてを委ねるということです。救いは、神から来るもの、わたしたちの外から来るものなのです。

 洗礼は外的な、外からのしるしです。目に見える、確かなしるしです。
 主イエスの救いを信じる、ということは、心の中の決意ではなく、神が与えて下さる、自分の外からの恵みを受け取るということ、そして主イエスに自分をすべて委ねるということです。それが、イエス・キリストの名によって洗礼を受ける、ということに表されているのです。洗礼を受けるということは、神の恵みへの招きを受ける、ということなのです。

 その神から来る、外から与えられたしるしは、一度与えられたら、永遠に消えることはありません。
 永遠にわたしたちを恵みの内に捕らえて、離しません。

 宗教改革者のマルティン・ルターは、自身が疑いの嵐に飲まれそうになったり、また魂の試練にあう度に、自分にこう言い聞かせたと言われています。
 「静まれ、マルティン、お前は洗礼を受けているではないか。」
 神から与えられた、洗礼という消えない確かな救いのしるしが、自分に刻まれているのです。その恵みの事実は、消えないのです。
 どのような試練の時も、どんなに弱ってしまった時も、キリストを信じる者は、いつもこの洗礼の恵みに立ち帰ることが出来ます。自分が神のものであり、罪を赦された者であるということ。神のご支配以外、ほかの何者にも支配されないということに、固く立つことができるのです。

 ペトロは、悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼を受け、罪を赦していただくことを勧めた後、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と述べます。
 天に上げられた主イエスが、聖霊を御父から受けて、一人一人に注いで下さいます。
 そのようにして、死から甦られ、天に上げられた主イエスと、わたしたちは、聖霊によって結ばれます。聖霊によって、わたしたちはいつも主イエスの体に繋がれており、天におられて生きておられる主イエスが、わたしたちと共にいて下さるのです。
 また聖霊はわたしたちの助け主、慰め主、と言われるように、信仰を守り導いて下さいます。わたしたちに主イエスが救い主であるということを悟らせ、信仰を告白させ、主イエスを証させ、主イエスの命を生きるようにさせて下さるのは、聖霊が働いてくださるからです。この聖霊を、賜物として受けさせて下さるのです。

 そして、ペトロは「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と語りました。
 ペトロが聖書の中で語っている相手は、エルサレムに集まっていたユダヤ人たち、旧約聖書に書かれている、神に選ばれたイスラエルの民でした。
 しかし、今や、この洗礼の恵みと聖霊の約束は、「神である主が招いてくださる者ならだれにでも与えられる」というのです。世界中から神が選び、招かれる、新しいイスラエルの民に与えられる約束なのです。
 わたしたちも、その主に招かれたのです。エルサレムから遠く離れた日本で、異教の世界におり、主イエスがおられた時から2000年も経った今、まさにわたしたちは「遠くにいるすべての人」にあたります。
 しかし、主は、そのわたしたちにも、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」と、わたしたちを選び、恵みへと招いてくださっているのです。

 ペトロはほかにも色々話をして力強く証をし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めた、とあります。ペトロは強く人々に洗礼を勧めました。
 ペトロの言葉は、このペンテコステの日に、主イエスから聖霊を受け、主イエスを証するために、力を与えられた言葉です。聖霊の働きによって、ペトロの言葉は人々の心に突き刺さり、聖霊の力が、神の恵みを受けるように人々を導いたのです。
 そして、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった、と聖書は伝えています。大変な数です。
 「どうしたらよいのですか」と問うた人々は、神の恵みへの招きを、受け入れ、応えたのです。洗礼を受けたのです。生きる方向を神の方に向き直り、自分が死ぬべき罪を代わりに負って下さった、主イエスの十字架の死に、古い罪の自分も死んで、主イエスの復活の新しい命を与えられて、神と共に生きる者とされたのです。

 洗礼を受けた人々はみな、聖霊を受け、天におられるお一人の主イエス・キリストに結ばれて、一つの共同体となります。洗礼を受けるということは、この信仰の共同体に加えられるということ、キリストの体なる教会の一員となる、ということなのです。
 そして教会は、天におられる主イエスがまた来て下さる時まで、終わりの日まで、聖霊なる神に信仰を守られ、導かれながら、共に神を礼拝し、主イエスを証し、福音を宣べ伝え、神のご支配が完成する時を待ち望んでいるのです。

 今日は、二人の姉妹が洗礼を受けて、この教会に加えられました。洗礼において、二人の姉妹の罪の体が主の十字架によって死んで、復活の主の体に結ばれて生きる、新しい二人の姉妹が誕生しました。これは神の救いの御業です。罪が赦され、主イエスの復活の新しい命を生きる人が誕生する、わたしたちからすれば奇跡でしかない出来事です。その救いの出来事が、今日ここで起こったのです。
 神の計り知れない、恵みと、ご計画が、わたしたちの上にあり、わたしたちが神と共に生きる者とされていることを、心から感謝したいと思います。

 洗礼をすでに受けた方は、この救いの恵みを受けました。
 どのような試練の時も、また心が神から離れてしまいそうになる時も、未だ自分が罪の中に捕らわれているように感じてしまう時も、天におられる救い主が聖霊によっていつも共におられます。洗礼という、決して取り消されることのない、神の永遠の恵みのしるし、救いの確かな保証が与えられています。自分自身がどれだけぐらついても、ルターが言ったように、いつだって神に立ち帰る確かな原点があるのです。
 「静まれ、お前は洗礼を受けているではないか」。
 神の恵みがわたしたちを離さないのですから、どのような嵐の時も、また穏やかな凪の時にも、この外からの神の恵みに立ち帰り、主の十字架によって罪を赦された者であること、新しくされて生きる者であることを思い起こしましょう。常に悔い改め、神に従う者であることを祈り求めたいと思います。

 洗礼をまだ受けていない方は、どうぞ、主の救いの招きに応えてください。差し出された恵みを、受け入れてください。主イエスの命に結ばれてください。
 神の方を向き、救いのためにご計画の御業を成し遂げて下さった、父なる神と、主イエス・キリストと、聖霊の名によって洗礼を受け、罪を赦して頂いてください。そして、賜物として、聖霊を受けてください。
 この約束は、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものだからです。

 ここにいるわたしたちはみな、神ご自身に選ばれて、このキリストの体なる教会へと招かれているのです。

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