説 教 「主の祈り」 牧師 藤掛 順一
旧 約 列王記上第8章27-53節
新 約 マタイによる福音書第6章5-15節
主イエスが教えて下さった祈り
今私たちは礼拝において、マタイによる福音書5章から7章の、主イエスがお語りになった「山上の説教」を読み進めていますが、本日からしばらくの間、いわゆる「主の祈り」を読んでいきます。「主の祈り」は、主イエスが「こう祈りなさい」と教えて下さった、私たちの祈りの模範あるいは土台です。主の祈りは9節から始まるわけですが、9節の冒頭に、「だから、こう祈りなさい」とあります。主の祈りは、主イエスが「こう祈りなさい」と教えて下さった祈りなのです。主の祈りはもう一箇所、ルカによる福音書の第11章にも出てきますが、そこでも、弟子たちが主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのに対して主イエスが「こう言って祈りなさい」とこの祈りを教えて下さったことが語られています。いずれにおいても、主イエスが「こう祈りなさい」と教えて下さったことが語られています。だから「主の」祈りと言うわけですが、本日は、この当たり前と言えば当たり前のことを深く見つめていきたいと思います。主の祈りは主イエスが教えて下さった祈りである、ということはとても大事な意味を持っているのです。それはつまり、主の祈りは、人間が、こんなふうに祈ったらよいのではないか、このように祈ったら神は喜んで下さるのではないか、と考えたものではない、ということです。この祈りは、神の独り子であられ、ご自身が神であられる主イエスが、「こう祈りなさい」と教えて下さったものです。つまりこれは、私たちが祈る相手である神さまが私たちに求めておられる祈りなのです。
神が私たちとの間に築こうとしている関係に生きる
祈りは、私たちが神と関係、交わりを持って生きる具体的な場です。ですから、どういう祈りをしているかに、私たちが神とどういう関係をもって生きているかが現れています。何回か前の礼拝で、祈ることなしに信仰に生きることはできない、と申しました。聖書をどれだけ読んでいても、祈ることなしにただ神のこと、救いのことをあれこれ考えているだけなら、それは思想であって信仰ではありません。信仰とは、祈って神との交わりに生きることです。ですから、そもそも祈っているかどうかに、神との交わりに生きているかどうかが現れるのです。そしてさらに、どのように祈っているかに、神とどういう関係を持って生きているかが現れます。例えば、いわゆる「家内安全商売繁盛」のようなことを願い求める祈りばかりをしているとしたら、その人と神との関係は、ご利益によって結ばれている、ということです。ご利益が得られなければ、「金の切れ目が縁の切れ目」のようなことになるのです。あるいは、何か困ったことがある時だけ祈っているとしたら、その人は、困ったことがある時だけ神と交わり持っており、そうでない普通の時には神と共に生きていない、ということになります。このように、どのように祈っているかに、私たちが神とどういう関係をもって生きているかが現れるのです。そうであるならば、神が私たちに「このように祈りなさい」とお命じになったということは、一つには神が私たちと関係を持とうとしておられるということであり、それと同時に、「このように祈りなさい」と祈りの内容が教えられているということは、神が、私たちとどういう関係を結ぼうとしているのかをここでお示しになっている、ということです。ですから、主の祈りを祈りつつ生きるというのは、神が私たちとの間に築こうとしておられる関係を、私たちも神との間に築いて生きることです。それこそが、聖書の教える信仰です。信仰とは、私たちが神のことをあれこれ考え、その神とどういう関係を持つかも自分の考えによって決めて生きることではなくて、神が私たちと関係を築こうとしておられる、そのみ心を受け止めて、神が求めておられる関係を私たちも神との間に持って生きることです。主の祈りはそのために与えられているのです。この祈りを祈ることによって私たちは、自分と神との関係のあり方を自分で決めるのではなく、神が私たちとの間に築こうとしておられる関係をもって神と共に生きていくことができるのです。
異邦人の祈りと対照的な主の祈り
神が私たちとどのような関係を持とうとしておられるのかが、主の祈りに示されている、そのことは、「だから、こう祈りなさい」の「だから」という言葉からも分かります。この言葉によって、主の祈りは、その前の所の、主イエスの祈りについての教えと結びつけられているのです。5節以下の祈りについての教えは、「偽善者のように祈るな」、「異邦人のように祈るな」という二つの部分から成っていました。それらについて既に見てきたわけですが、主の祈りとのつながりにおいて、7節以下の「異邦人のように祈るな」という教えをもう一度振り返って見たいと思います。主イエスは、異邦人のようにくどくどと祈るな、彼らは、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる、と言われました。くどくどと言葉数多く祈るのでなく、簡潔に、短く祈れ、と主イエスはおっしゃり、そして主の祈りがを教えて下さったのです。ですから主の祈りは、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと対照的な、短い簡潔な祈りです。
言葉数多く祈るのは何故か
しかしそれは、祈りの長さや、言葉数が多いか少いかの問題ではありません。異邦人は何故くどくどと言葉数多く祈るのでしょうか。その思いは、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」ということに示されています。それは逆に言えば、言葉数が少ないと聞き入れられないと思っている、ということです。つまり神は私たちの祈りや願いを簡単には聞いて下さらない、何度も何度も繰り返し、沢山の言葉を費やしてお願いして初めて聞いてもらえる、というのが異邦人の感覚なのです。先日も申しましたように、日本にも「お百度を踏む」という言葉があります。神仏に願いを聞いてもらうためには、百度ぐらい繰り返してお参りをする必要がある、という思いです。こういう感覚がしみついているので、私たちも、神に何かを祈り願う時には、何度も何度も繰り返し祈らなければならないと思っています。つまり、神に祈りを聞いていただくためには、私たちの側においてもそれなりの努力が必要だ、というのが、洋の東西を問わず、人間が自然に考えていることなのです。くどくどと言葉数多く祈ることはそういう思いから生じているのです。
神を知らない異邦人と神の民とされている者の違い
主イエスは、あなたがたはそのような祈りをするな、と言われました。その理由が8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。これが、くどくどと言葉数多く祈らなくてもよい理由です。つまり、くどくどと祈らなくても、神は私たちの必要をちゃんとご存じであり、必要なものを必要な時に与えて下さるのです。ですから、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと、主の祈りとの違いは、長さや言葉の数にあるのではなくて、祈る相手である神と祈る私たちとの関係の違い、神が私たちにとってどのような方であるか、の違いなのです。なかなか祈りを聞いてくれない、聞いてもらうためにはそれなりの努力が必要である神に祈っているのか、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、与えて下さる神に祈っているのか、その違いです。それが、神を知らない異邦人と、神の民とされている者の違いなのです。主イエスは、主の祈りを教えて下さることによって私たちを、神を知らない異邦人としてではなく、神の民とされている者として生かそうとしておられるのです。
あなたがたの父
その、神の民とされている者の神との関係を表しているのが、「あなたがたの父」という言葉です。あなたがたが祈る相手である神は、あなたがたの父であられる、あなたがたは、神の子として、父である神に祈ることができるのだ、と主イエスは言っておられるのです。神は私たちとの間に、父と子という関係を結んで下さり、父が子を愛するように、私たちを愛して下さっているのです。「願う前から必要なものをご存じ」であるというのはそういうことです。子どもを愛している父は、子どものために本当に必要なものを、子供が願ったらではなくて、願う前に与えるのです。子供にとって必要でない、むしろ良くないものなら、子供がどんなに願っても与えないのです。人間の父や母である私たちは、その判断を間違えてしまうことがよくあります。子供に本当に必要なものを与えずに、むしろ不必要な、害になるものを与えてしまうことがあるのです。私たちはそのような問題だらけの父や母ですけれども、神はまことの父として、子である私たちに、本当に必要なものを、必要な時に、必要なだけ与えて下さるのです。神はあなたがたの父となって下さり、あなたがたを子として愛して下さっている、だからあなたがたはもはや異邦人ではない、それが「異邦人のように祈るな」という主イエスの教えの根拠です。この教えを受けて、「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えられているのです。「だから」という言葉によって、神が私たちとどのような関係を持とうとしておられるのかが分かる、と言ったのはそういうことです。主の祈りによって私たちは、神が私たちとの間に「父と子」という関係を築こうとして下さっていることを知らされるのです。
「天にましますわれらの父よ」という呼びかけの恵み
ですから、この祈りの最初の呼びかけの言葉である「天におられるわたしたちの父よ」、私たちがいつも唱えている言葉で言えば「天にましますわれらの父よ」、この一言がとてつもなく大事なのです。この一言に、私たちと神との関係の根本が示されています。この一言があるから、私たちは異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈らなくてもよいのです。この一言があるから、神が私たちを父として愛して下さっており、私たちが願う前から必要なものをご存じであり、それを与えて下さると信じることができるのです。つまり主の祈りを祈ることの最も大きな意味、最も大きな恵みは、この最初の呼びかけの言葉にあると言うことができます。「天にましますわれらの父よ」と祈ることができる、それこそが、何物にもまさる恵みなのです。乱暴な言い方をすれば、この最初の呼びかけを心から祈ることができれば、もう後は何も祈らなくてもよいくらいなのです。後は、願う前から私たちに必要なものをご存じであられる神に全てをお任せして生きることができるからです。
天の父である神を知らない私たち
そうすると問題は、この最初の呼びかけを、私たちが心から祈ることができるかどうかです。「天にましますわれらの父よ」という主の祈りの最初の言葉は、あるいは私たちが「天の父なる神さま」と言って祈り始める、その呼びかけの言葉は、これから祈ります、という単なる合図ではありません。その後祈る事柄よりも、この呼びかけこそが大事なのです。私たちは本当に心から、「天にましますわれらの父よ」と神に呼びかけて祈っているでしょうか。神が私たちの天の父であられ、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、与えて下さる方だということを心から信じて祈っているでしょうか。そうではないことが多いのではないでしょうか。生まれつきの私たちは、願う前から私たちに必要なものを全てご存じであられ、それを与えて下さる天の父である神など知らないのです。私たちが自然に思い描く神は、先程申しましたように、そう簡単には祈りを聞いてくれない神です。聞いてもらうためには何度も必死に祈り願わなければならない。私たちはそのような、遠いところにいる、疎遠な神しか知らないのです。だから私たちの祈りは、放っておけば必ず、異邦人のような、くどくどと言葉数の多い祈りになるのです。なんとかして神に祈りを聞いてもらおうと必死にならざるを得ないのです。主イエス・キリストはそのような私たちに、「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えて下さったのです。この主イエスの導きによって初めて私たちは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることができるのです。
主イエスによる救いのおかげで
主イエスご自身は神に向かって「アッバ」と呼びかけて祈っておられました。それは小さい子供が父親を親しく呼ぶ言葉です。私たちで言えば「お父ちゃん」というような言葉です。当時のユダヤ人たちの間でも、祈りにおいて神に「父よ」と呼びかけることがなかったわけではないようです。けれどもこの「アッバ」という言葉で、神に「お父ちゃん」と呼びかけることは、主イエスのみがなさった、まことに大胆なことだったのです。主イエスは、そう呼びかけることのできるただ一人の方でした。主イエスは神の独り子、神の生みたもうたただ一人の子であられたからです。それゆえに主イエスが父なる神に「アッバ」と呼びかけて祈るのは自然なことだったのです。その主イエスが、「私がアッバと呼びかけている方は、あなたがたの天の父でもある。あなたがたも、この神に、『天におられるわたしたちの父よ』と呼びかけて祈りなさい、あなたがたもそのように祈ってよいのだ」、と言って下さったのです。主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのはこのためでした。私たち人間は元々神の子ではなくて、神によって造られたもの、被造物です。しかも造り主である神に背き逆らい、敵対している罪人です。私たちにとって神が、祈り願いがなかなか届かない疎遠な存在であるのは、この罪のためでもあります。だから私たちは、神の民ではない異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈らざるを得ないのです。その私たちが、神の独り子である主イエスと共に、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるようになるために、主イエスは人となり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。そのようにして、まことの神の子である主イエスが、罪人である私たちを赦して下さり、私の父である神はあなたがたの天の父でもあられる、あなたがたも、「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさい、と言って下さったのです。つまり私たちが「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した救いのおかげなのです。
主イエスによる救いにあずかった者の祈り
ですから主の祈りは、主イエスによる救いにあずかった者こそが祈ることができる祈りだと言うことができます。そういう意味ではそれは聖餐にあずかることと似ているとも言えます。洗礼によって主イエスの救いにあずかり、主イエスの体の一部とされた者が、主イエスの体であるパンと、主イエスの血である杯にあずかることによって、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して実現して下さった救いの恵みを味わい、それによって養われるのが聖餐です。古代の教会においては、この聖餐と同じように、洗礼を受けて教会のメンバーになった者にのみ主の祈りが教えられた、という時代もありました。しかし今はそうではなくて、初めて教会に来られた方にも、共に主の祈りを祈ることをお勧めしています。それは、まだ神を信じていない人も、この祈りによって、神に「天の父よ」と呼びかけて生きる信仰へと神が招いて下さっていることを体験することができるからです。そこに聖餐との違いがあります。聖餐は、信仰なしにあずかったのでは主イエスによる救いの恵みを体験することはできません。むしろ「このパンやぶどう液には何かご利益でもあるのかな」という間違った捉え方を与えることになります。しかし主の祈りは、信仰なしに祈ったとしても、神に向かって「天の父よ」と呼びかけてみる、という恵みの体験となるのです。だから、初めて教会に来られた方にも主の祈りを一緒に祈ることをお勧めするのです。しかし、「天にましますわれらの父よ」と神に呼びかけて祈ることの本当の恵み、喜びは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じることによってこそ本当に分かる、ということも事実です。
主の祈りを土台として
私たちは、教会において、またそれぞれの生活において、この主の祈りを祈りつつ歩みます。この祈りを土台として、そこに様々な自分の思いや願いを加え、時には神さまへの愚痴や文句を語ることもあります。こんなことは祈ってはいけない、ということは私たちの信仰にはありません。なぜなら、神は私たちの天の父となって下さったからです。子供が父に遠慮する必要はないのです。まことの父であられる神は、私たちがどんな我儘なことを言っても、私たちを見捨てて、お前はもう子ではない、と放り出してしまうような方ではないのです。勝手な我儘は通りません。しかし天の父は、子として下さった私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。
主の祈りを祈る幸い
本日共に読まれた旧約聖書の個所、列王記上第8章27節以下は、ソロモン王が神殿を建設して主なる神に捧げた時の祈りです。ソロモンがはっきり言っているように、神殿は、神の住まいではありません。神を天から引き降ろして人間が造った神殿に住まわせるようなことはできないのです。神殿は祈りの場です。人々がここで祈る時に、神がその祈りを聞いて下さり、その祈りに答えて下さるように、とソロモンは願い求めています。私たちが主の祈りを与えられているのも、この神殿を与えられていることと似ています。主の祈りは、神を私たちのところに引きずり降ろして思い通りにコントロールするためのものではありません。そんなことは出来ないのです。しかし、私たちがこの祈りを祈る時に、神は私たちのまことの父として、その祈りに耳を傾け、私たちに必要なものを与えて下さる、そういう父と子の交わりを与えて下さるのです。「主の祈り」を祈りつつ生きることの幸いを、これから一つひとつ味わい、かみしめていきたいと思います。