主日礼拝

イエスは涙を流された

「イエスは涙を流された」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第39編1-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章28-37節
・ 讃美歌:327、394

ラザロの復活―私たちの願い
 今私たちは、ヨハネによる福音書第11章からみ言葉を聞いています。11章はいわゆる「ラザロの復活」の話ですが、先ず語られているのはラザロの病気と死のこと、それによってラザロの姉妹マルタとマリアが深い嘆き悲しみに陥ったことです。そこに主イエス・キリストが来て下さり、ラザロは復活して新しい命を生き始め、マルタとマリアも悲しみから解き放たれて新しく生き始めたのです。
 この話を読みつつ歩んでいる私たちは今、新型コロナウイルスの感染者が何人出て、何人が亡くなった、というニュースを毎日聞かされています。先週は私と同い年の岡江久美子さんが亡くなりました。あのような有名人だと、遺族の悲しみの様子が報道されますが、勿論亡くなった方々一人ひとりに、悲しんでいる遺族がいます。そして岡江さんの場合もそうでしたが、遺族が遺体と対面することがほとんどできず、ちゃんとお別れができないので悲しみを受け止めきれないという現実があります。また医療の現場では、身を護るために必要なマスクすらも不足していて、医師や看護師たちが、自分が感染することと患者に感染させることの二つの恐怖の中で疲労困憊しつつ懸命に治療に当っていて、もう限界だ、という声があります。ベッド数が足りなくなるより前に、医療崩壊はもう始まっているとも言われています。そして経済活動が制限される中、その日の生活にも困る人たちが増えてきています。様々な面で、恐れと不安、絶望が今私たちに迫ってきている。兄弟ラザロの死によってマルタとマリアが体験した悲しみ、絶望と似た思いを今私たちも抱いているのです。ヨハネ福音書11章は、その悲しみ、絶望の中にいる者たちのところに主イエス・キリストが来て下さって、恐れ、不安、絶望から解放して下さり、新しく生かして下さった、ということを語っています。それと同じことが私たちにも起ることを今私たちは切に願っているのです。

今教会が語るべきこと
 マルタとマリアはラザロの二人の姉妹でしたが、この二人の違いが20節にこう語られていました。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」。二人共兄弟の死による深い悲しみ嘆きの中にいましたが、マルタはそこから気丈に立ち上がり、主イエスを迎えて、悲しみの思いを訴えたのに対して、マリアは悲しみにうちひしがれて立ち上がることもできずにいたのです。そのマリアにマルタが語りかけたところから本日の場面が始まります。28節の冒頭に「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び」とあります。「こう言ってから」とは何のことでしょうか。それは27節の「はい、主よ。あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」という彼女の信仰告白のことです。前回のところで主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は生きる。あなたはこのことを信じるか」とマルタに語りかけ、問いかけました。それに対してマルタは、「あなたこそ神の子、救い主であると信じています」と言ったのです。その信仰を告白したマルタが家に帰り、悲しみの中にうずくまっているマリアに語りかけたのです。主イエスを救い主と信じる信仰を告白した者が、悲しみ、嘆き、不安、絶望の中でうずくまっている人に語りかける、という構図がここにはあります。それは、主イエスによる救いを信じている信仰者である私たちが、教会が、今ウイルスの不安、恐れ、悲しみ、絶望の中にいる世の人々に語りかけ、伝道することと重なります。今私たちが、教会が、世の人々に対して語るべきこと、語り得ることは何かがここに示されていると言えるのです。

今私たちが語り合うべきこと
 マルタはマリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちしました。これこそが、今私たちが、教会が、世の人々に対して語るべきこと、語り得ることです。世の人々に、というだけではありません。マリアは既に主イエスを信じており、愛しており、主イエスによって愛されている人です。つまり信仰の仲間の一人なのです。しかし彼女は今兄弟の死の悲しみにうちのめされ、立ち上がることができずにいる。主イエスを信じ、愛している信仰者である私たち自身も今、マリアと同じように、ウイルスへの不安や恐れに押し潰されそうになっているのです。だからこのマルタの言葉は、教会が世の人々に対して語るべき言葉であると同時に、私たち信仰者がお互いどうしの間で語るべき言葉、語ることができる言葉でもあります。マルタは、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と言いました。主イエスが来て下さっている。そしてあなたを呼んでおられる、あなたと出会おうとしておられる。今教会が世の人々に告げるべきであり告げることができるのはこのことです。そして私たち信仰者がお互いの間で語り合うべきであり語り合うことができるのも、「主イエスが私たちのところに来て下さっており、出会おうとして下さっている」ということなのです。

主イエスが来て、あなたを呼んでおられる
 29節に「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」とあります。悲しみにうちひしがれてうずくまっていたマリアが、マルタのこの言葉を聞いて立ち上がったのです。この「立ち上がる」という言葉は「復活する」という意味でもあります。悲しみにうちひしがれていたマリアが、復活して新しく生き始めた、少なくともそこに向けて歩み始めたのです。マリアが立ち上がることができたのは、マルタが、「イエス様こそ神の子、救い主です。私はそう信じています。あなたも信じれば救われます」と教えを垂れたことによってではありません。マルタが語ったのは、「主イエスが来て、あなたを呼んでおられる」ということだけです。「あなたはこうすれば不安や恐れから抜け出すことができる」という教えではなくて、悲しみ、不安、絶望に捕えられているあなたのところに来て下さっている方がいる。その方があなたを呼んでおられ、あなたと出会おうとしておられる、ということを告げたのです。そうしたら、絶望して身動きできなくなっている人が動き始めたのです。新しい出来事が起り始めたのです。今この状況の中で、私たちが、教会が世の人々に告げるべきなのは、告げることができるのはこのことであり、このことのみです。そして実は伝道というのは常にそういうことです。伝道とは、「あなたはこうすれば救われる」と教えることではなくて、「主イエスがあなたのところに来て、あなたを呼んでおられる」と告げることなのです。

伝道の原点に立ち帰ろう
 マルタはマリアにこのことを「耳打ち」しました。それは「密かに言った」という言葉です。大きな声で多くの人々に告げたのではなくて、個人的に、私とあなたという関係の中で語ったのです。「主イエスが来て、あなたを呼んでおられる」という知らせはこのように個人的な関係の中で、耳打ちされるように伝わって行きます。伝道の基本は「一人から一人へ」です。このことは特に今、大きな意味を持っています。教会は現在、礼拝堂に多くの人々を集めて礼拝や集会を持つことができません。指路教会の教会堂やパイプオルガンは多くの人々を集めるための有効なツールだったわけですが、今はそれらを用いることができないのです。しかしだからといって伝道ができないということはありません。私たち一人ひとりが、それぞれの人間関係の中で、恐れと不安、絶望に捕えられている隣人に、「主イエスが来て、あなたを呼んでおられる」と耳打ちし、そっと語りかけることができるのです。それが伝道の基本であり、信仰はそのようにして伝えられてきたのです。今私たちはこの事態の中で、一人が一人に語りかける、という伝道の原点に立ち帰る機会を与えられていると言えるのです。

信仰者の悲しみ
 マルタの言葉を聞いて立ち上がり、主イエスのもとに来たマリアは、その足もとにひれ伏して「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタも21節で全く同じことを言ったことを前回読みました。彼女らは、主イエスが病を癒す力を持っておられる神の子、救い主であられることを信じているのです。しかしそれでも、いやだからこそ、主イエスが間に合うように来て下さらずにラザロが死んでしまったことへの嘆きも深いのです。主イエスを信じている者にも苦しみ悲しみはあるし、恐れと不安に支配されてしまうことはあります。いや、主イエスを救い主と信じている信仰者だからこそ、このような苦しみの現実の中で主イエスによる救いが見えないことによる嘆きや悲しみはかえって深い、とも言えます。そういう私たちの現実がここに描かれていると言えるでしょう。その嘆き悲しみによってマリアは泣いていました。一緒に来たユダヤ人たちも泣いていました。彼らはマルタとマリアを慰めるために来ていたわけですが、愛する者の死の悲しみの中にいる人を本当に慰めることなど誰にも出来ません。出来ることは一緒に泣くことだけなのです。

主イエスは見て、憤り
 33節に、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」とあります。この「見て」は大事な言葉です。嘆き悲しみ、不安と恐れの中にいる私たちのところに主イエスが来て下さり、私たちが苦しみ悲しみ泣いているのを「見て」下さるのです。私たちの嘆き悲しみ、不安と恐れに主イエスのまなざしが注がれるのです。そこから、主イエスによる救いのみ業が始まるのです。彼女らが泣いているのを見た主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮して」とあります。ここは新しい聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」となっています。私たちの嘆き悲しみ、不安と恐れをご覧になった主イエスは心を騒がせておられるのです。主イエスの心に激しい「憤り」が起っているのです。何に対する憤りか。それは一つには、復活であり命である神の独り子主イエスが目の前にいるのに、なお人々が、しかも主イエスを愛し主イエスに愛されている信仰者までもが、死の悲しみによって希望を失い、不安と恐れに捕えられている、その不信仰に対してでしょう。しかし主イエスの憤りは、不信仰な私たち人間に対して向けられているのではありません。主イエスがこの憤りによって戦っていく相手は、ラザロを捕え、マルタとマリアとを悲しみ、絶望の中に閉じ込めている死の力です。その死の力が今、新型コロナウイルスを用いて私たちを脅かしており、私たちを不安と恐れ、絶望の内に閉じ込めています。主イエスの憤りは、そのように私たちをも捕えている死の力にこそ向けられており、主イエスはこの憤りをもって死の力に戦いを挑んでいかれるのです。

来て、御覧ください
 「どこに葬ったのか」という問いがその戦いの始まりです。これは普通に読めば「ラザロの墓の場所はどこか」という問いですが、そこには深い意味、含蓄があります。葬るとは、その人が死んだという事実を認め、その人はもはや死の支配下にあり、誰も彼をそこから解放することはできないことを確認する、ということを意味しています。主イエスは憤りをもってそのことに疑問を投げかけておられるのです。あなたがたは、ラザロは死に支配された、もう彼を救うことができる者はいないと思っているが、本当にそうなのか?と問うておられるのです。
 この問いに人々は「主よ、来て、御覧ください」と答えました。そう答えるしかないのです。「だって、ラザロは現に死んで墓に葬られています。その墓が確かにここにあります。どうぞ見て下さい」。それが私たちの目に見えている現実、動かしようのない事実です。しかしこのことによって大事なことが起ったのです。主イエスがラザロの葬られている墓に来て、それを御覧になったのです。主イエスがラザロの墓に「来て」、それを「見た」。33節までのところには、主イエスがマリアのところに「来て」彼女たちが泣いているのを「見た」ことが語られていました。34節では、ラザロが葬られた場所に主イエスが「来て」、「見た」のです。先程も申しましたように、このことから、つまり主イエスが、死に支配され、苦しみ悲しみに、不安や恐れに捕えられている私たちのところに来て下さり、私たちの苦しみ悲しみの現実を見て下さることから、新しい出来事が、主イエスによる救いのみ業が始まるのです。

イエスは涙を流された
 その新しい出来事、救いのみ業の始まりが35節の「イエスは涙を流された」です。ラザロが死に支配され、遺族たちが泣いている、その現実を見て主イエスは涙を流されたのです。ウイルスによって愛する者を失った人々の深い悲しみ、嘆き、絶望、医療の現場で忙しさと恐怖とによって体も心もすり減らされつつ治療に当って人々の苦しい戦い、収入を失って生活の困窮に陥っている人々の苦しみや不安、そしてそのようなこの世の現実に恐れを抱きながら、何もできずに家にいるしかない私たちの焦りや不安を御覧になって、主イエスは激しく心を動かし、涙を流しておられるのです。私たちと共に泣いて下さっているのです。それは私たちが愛する者の死の悲しみの中にある人の前で、慰めの言葉もなく、ただ共に泣くしかないという同情の涙と同じものではありません。主イエスの涙は、私たちを捕えて支配し、苦しみ悲しみを与え、希望を失わせようとしている死の力との戦いの始まりです。その戦いにおいて主イエスはさらに涙を流し、私たちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。そしてこの戦いは、父なる神が主イエスを復活させて下さったことによって終わりました。神の恵みが、死の力に勝利したのです。死の支配は神の恵みによって打ち破られ、死からの解放と新しい命が打ち立てられたのです。主イエスの復活において実現したこの救いの先取りとして、ラザロの復活がこの後起ったのです。

イエスの愛をもってしても
 しかしそれはまだ次の所に語られることであって、本日の箇所の最後の36、37節には、主イエスが涙を流されたのを見たユダヤ人たちが、「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言い、しかし「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言った人もいた、ということが語られています。つまり、主イエスの涙は、ラザロへの深い愛のしるしではあるが、そのイエスの愛をもってしても、ラザロを死の支配から救い出すことはできなかった。死の支配の下では主イエスも我々も涙を流すことしかできないのだ、と人々は思ったのです。私たちも今まさにそういう事態の中にあります。ウイルスの力はますます猛威を振るい、私たちの恐れ、不安、悲しみ、嘆きは募るばかりです。その現実の中で私たちは涙を流すことしかできない。主イエスはその私たちに同情して共に涙を流して下さっているのかもしれないが、しかしそれによって何か現実が変わるわけではない、事態が改善されるわけではない。主イエスの涙は私たちにとってある慰めにはなるかもしれないが、結局は気休めに過ぎない、私たちもそう思わずにはおれないのです。

主イエスの涙から新しい救いの出来事が始まる
 しかしヨハネ福音書はその私たちに大切なことを告げています。主イエス・キリストが私たちのところに来て下さり、私たちと出会って下さり、私たちが陥っている不安や恐れ、苦しみ悲しみの現実を見て下さり、心を動かされ、私たちと共に涙を流して下さっている、それほどまでに私たちのことを愛して下さっている、その主イエスの愛による涙から、新しいことが始まったのだ、ということです。神の独り子であられる主イエスが、憤りをもって、涙を流しつつ死の力と戦って下さり、ご自分の命を私たちのために与えて下さった、その主イエスを父なる神が復活させて下さった、それによって、死の支配からの解放が実現し、その救いの約束が私たちに与えられているのです。新型コロナウイルスは、人間がその英知を集め、時間をかければ、治療や予防の方法を確立することができるでしょう。そのことを私たちは願い、期待しています。しかしこのウイルスによって私たちを脅かしている根本的な力である死の力の前では私たちは、人間は全く無力です。死を滅ぼしてその支配から人を解放することができる者はいません。しかし神は、独り子主イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活とによって、つまり主イエスご自身が受けて下さった苦しみと悲しみそして死によって、主イエスが流して下さった涙によって、死の支配を打ち砕き、私たちに復活の命、もはや死に支配されることのない永遠の命を約束して下さったのです。この福音書の3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られていた通りです。「イエスは涙を流された」。そこに私たちは、独り子をすら与えて下さった神の愛を見ることができます。その愛による涙から、神の救いの出来事が新たに起っていく、そのことを私たちは信じて歩むことができるのです。

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